霞む目に光は映れど


「そっちに行ったぞ! 追え!」
「亡国のドブネズミが! さっさと首を差し出していれば、苦しまずに済んだものを!」

 宵闇の中、複雑に起伏する森の斜面を、フィンは転がるように下っていった。こう植物が密集した地帯では、槍が自由に振るえないためだ。突き出た枝が容赦なく服を破り頬を傷つけるが、気にしている場合ではなかった。
 下の山道に降りると、後ろを伺いながら走りだす。夜目がきくように産んでくれた親を、このときだけは感謝した。

 後方からは、剣や槍を手にしたフリージ兵が、追いかけてくる。上り坂の道を選んだため、彼らの隊列は乱れ、ほぼ縦一列になっていた。フィンの目が夜闇に光った。

「なっ!?」

 踊るように反転したフィンは、一気に坂を駆け下りて、勢いのままに兵士の喉元を突き刺した。即座に死体を横に払い、槍を回転させ、柄で次の兵を横手の斜面にふり落とす。そのまま石突で続く兵の鳩尾を刺突。吹き飛ばされた兵によって、将棋倒しが起きる。

 それらを見届ける間もなく、フィンは後方に飛び退った。一秒遅れて、矢が地面に突き刺さる。
 素早く身を翻し、フィンは山道をひた走った。

 見回り中に運悪くフリージ兵と鉢合わせになった。現状をそう理解したフィンは、残してきたラケシスたちから離れるようにフリージ兵を引きつけていった。主力はあらかた削いだため、もはやこれ以上追ってくることはあるまい。あとは夜闇に身を隠し、迂回しながらラケシスたちに合流すればいい。状況は、終息に向かっているように思えた。

 だが、現実は彼の想像をはるかに越えていた。ブルーム王の命令――アルスターから落ち延びたレンスター騎士をひとり残らず撃滅せよという指示を達せんがために、フリージの将軍は多数の兵を動員し、大規模な山狩りを行っていたのである。

 ラケシスの待つ場所の近くで兵士の足跡を見つけた瞬間、フィンの全身が総毛立った。
 藪をかき分けて焚き火の元に至ると、だれの姿もなかった。焚き火は仄かに赤い熾火になっており、荷物は口が開いたまま放置されていた。

 なぜ別働隊の存在を予想しなかったのか――。頭の中心でちりちり燃える後悔を、頬を自分で思いきり叩いて振り払う。フィンは周囲をもう一度確認した。死体がないということは、逃げたか捕縛されたかのどちらかだ。どこかに足取りを掴む手がかりがあるはずだった。

 そのとき、はるか上方の山腹で、炎の柱が吹き上がった。雷の魔道を尊ぶフリージ家に、炎使いは珍しい。しかも、火事の危険性を押して山中で炎を放つなど、よほどの緊急事態に違いない。使い手は、ひとりしか思い浮かばなかった。

「ラケシス様……!」

 フィンは口の中で叫び、夜の底に落ちる森の中へと飛びこんでいった。


 自分ごときの魔力で、敵を屠るほどの炎を出すことはできない。
 ラケシスがファイアーの魔道書を使ったのは、迫る敵の目を眩ませるためだった。宵闇の中で、まともに炎を見た兵たちは、一時的に光を失ってくれる。その隙に、地面に下ろしたリーフとナンナをもう一度抱き、山道を駆ける。
 だが、とっておきの魔法の行使は、結果的に裏目にでた。他のフリージ兵の部隊にも、居場所を知らしめることになってしまったのである。

 曲道の向こうから騎士がひとりと兵が二人、目の前に立ちはだかる。月明かりのもと、騎士は、意外そうに眉をあげた。

「レンスターに女騎士はいないと聞いていたが……まあ、いい。話を聞く時間は、たっぷりある」

 その目元に好色が踊るのが見えて、嫌悪感が背筋を這いまわった。ラケシスは覚悟を決め、騎士を睨んだままリーフとナンナを下ろすと、懐の短剣の柄に手をかけた。

「やめておけ。そのような幼子を連れて、どう戦う? その美しい顔に傷でもついては勿体ない。なに、大人しくしておけば、命だけは――」

「兄様。お守りください」

 ぼそりと、低くつぶやいた瞬間だった。わずかに見えた刀身が、血のような真紅に輝きだした。抜きざまに切っ先を騎士の顔に向けると、紅い閃光が細く走る。
 悲鳴をあげて、騎士がのけぞった。突き刺さった光に、みるみる生命力を奪われていくのだ。

「まっ、魔法剣か! 小癪な!」
「――っ!」

 ラケシスは大地の剣を左手に持ち帰ると、右手で細剣を抜いて鋭く地を蹴った。身を低くし、足音を立てず疾風のように相手に切り込むイザーク流の剣術。アイラ、どうか力を貸して。一人目を肩から袈裟斬りにし、馬上の騎士の太ももに剣を突き立てる。
 こらえきれずに落馬する騎士に止めをさし、回りこんできた兵士の喉笛を振り向きざまに切り裂いた。いつの間にか敵の刃がかすめていたらしく、腕にぬるつく感触と熱さがあった。だが、痛みを感じている余裕はなかった。
 間髪いれず、馬の手綱を掴んで引きながら、ラケシスは叫んだ。

「リーフ王子! ナンナを連れてこちらへ!!」

 凄惨な戦いを呆然と見つめていたリーフが、はっと我に返った。腕には、自身の身の丈ほどもある光の剣を抱いている。リーフは、真っ青になって震えているナンナの手を掴み、引きずるようにして駆けてくる。
 馬上から二人を力任せに抱き上げたラケシスは、山道を駆けはじめた。馬の背には、フリージ兵の弓矢がくくりつけられていた。僥倖とみて弓をとると、前方に次の敵影と松明の灯が見えた。二十名ほどだろうか。狭い山道は、大部隊での行動に適さないのだ。しかも、明かりを焚いていないと、同士討ちの危険が発生する。

 ラケシスが暗がりから次々と矢を放つと、敵の間に動揺が走るのが見てとれた。構わず蹴散らすつもりで、ど真ん中に飛びこみ、そのまま後方に抜ける。お願い、急いで、と、馬に加速の指示を出し続ける。

 追撃状況を見ようと背後を振り返ったラケシスは、息を呑んだ。
 混乱する敵の一隊の中央で、青い髪の騎士が槍を振るっているのが見えた。

「フィン……!」


 ラケシスが敵から奪ったのであろう馬にリーフとナンナが乗っているところは、この目で確かめた。もはや、フィンの心に迷いはなかった。己の使命はひとつ、彼らを無事に逃がすことのみ。混乱の只中にあるフリージ兵の一隊に飛びこみ、攻撃距離の長い弓兵から狙い撃ちにする。
 首筋に悪寒を感じ、槍を上に掲げた。馬上からの痛烈な一撃。身体が吹っ飛び、立木に背中から叩きつけられた。かはりと、乾いた咳が漏れる。

 しかし、フィンの頬が動き、笑みに似た形を作った。足から着地し、起き上がる勢いを使って槍の柄で馬の足を叩く。骨の砕ける鈍い音。止めを刺そうとしていた騎士が、体勢を崩す。フィンの突き出す槍が容赦なく、その胸の鎧を貫いて串刺しにする。

 口内に溜まった血を吐き出し、殺到する兵の中にフィンは自ら突撃した。右の肋骨にひびが入り、左足の筋を痛めている。頭は冷静に己の状況を判断していくが、それ以上の情動は沸き起こらなかった。身も心も、戦うことしか考えていなかった。

 脇腹をなにかが刺し貫く。額から流れる血で、片目が塞がれる。構わず腕を振るう。視界が暗い。増援の姿が見えた。血を払って迎え撃つ。痛みに鈍る身体を奮い立たせるために、何度も喉から気合を放つ。めまぐるしい動きで地を蹴り、宙を飛び、矢を払い落として敵を貫く。

 気がついたとき、フィンは、もう動かない敵の死体を、何度も槍でえぐっていた。

 身体が、ぐらりと揺れる。槍を杖代わりにして、なんとか踏みとどまった。荒い呼気が、他人のもののようだ。耳鳴りがひどく、落ちた松明と闇のコントラストがいやに眩しい。足を動かすと、がぽりと水のようなものが鳴った。敵の流した血が、河のようになっていた。

 震える足を酷使して、槍をつきながら、フィンは光を求めるように歩き出した。心に浮かぶのは、なぜか、いままで会ったひとたちの輝くような笑顔ばかりだった。

 そのとき、ぴちゃりと血溜まりを踏む音がした。

「これはまさしく、修羅の男だの」

 振り向くと、黒いローブに身を包んだ魔道士風の男が、兵とともに立っていた。独特の禍々しい文様が刻まれた服装は、ヴェルダンで見たことがあった。ロプト教団の、暗黒魔道士が着るものだ。
 フィンは緩慢な動きで槍を構える。状況が詰んでいることは、明白だった。だが、諦める気はなかった。いいや。諦めてはならなかった。なにがあっても。いまはもういない人に、そう誓ったのだ。
 そんなフィンの様子を、魔道士は愉しげに嘲笑う。

「ベルド司祭。この男は危険です、どうかお下がりを……」
「構わぬ。しかしおぬし、殺しに殺したものよ。その様は、まるで悪鬼。暗黒神の時代にふさわしき姿であるな」

 逃げる機会を伺っていたフィンの身体が、ぴくりと強張る。血と泥に塗れ、死体の山の上に立つ自分を、ようやくフィンは自覚した。死体はみな、恐怖の顔を浮かべている。やりたくてやったんじゃない。これが戦争だからだ。これが騎士の使命だからだ。自分だって辛かった。痛かった。吐き気をこらえながら、言い訳をする。
 囁くように魔道士は続けた。

「楽しかったろう、人を殺すのは。あと何人殺したいのだ? おぬしは、そのちっぽけな誇りを守るために、死ぬまでにあと何人、手にかけるのだ……?」

 魔道士が手にした書物から、闇よりも濃い色をした黒い蛇がじわりと伸びた。逃げる隙もなかった。無数に分かたれた蛇の頭が、フィンの四肢を捕らえ、宙でひねりあげる。

「…………っ」
「ほう、それでも得物は離さず悲鳴もあげぬか。大したものよ。トラキア半島に来て早々、よき生け贄が手に入ったわ」

 じわじわと、万力のように締め上げられる。同時に、傷口から蛇が体内に入り、全身を駆け巡るのを感じた。髪の先までが汚物にまみれるような嫌悪感と死の予感が、思考を染め上げた。
 キュアン様。朝焼けを背景に笑う主君の姿を、フィンは霞んでいく視界の先に見た。身体も、手も、血にまみれていた。楽園は遠い。あまりにも遠い。

 瞬間、美しい夜明けの夢想をかき消すような巨大な炎が、眼を灼いた。


 続きの話
 戻る