暗路


 ドリアスと落ち合うために決められていた場所には、フリージ家の手の者がレンスター騎士に扮して待ち構えていた。捕らえられた者から、情報が漏れたのだろう。
 フィンが遠くから一目で正体を見破ったため、まともに遭遇する危難からは逃れたが、ラケシスたちは一切の行く当てを失ってしまった。

「……ねえ、フィン。セル姉は? ドリアスは?」

 身を隠した茂みの中で、リーフが泣きそうな声で問うてくる。人の手の入らない森は暗く、時折吹き込む風が、怨霊じみた音を奏でていた。
 目を伏せているフィンの代わりに、ラケシスが膝をついてリーフの肩に手を置いた。

「しばらく会えないのよ。あなたが危ない目にあわないように、みんなで戦っているの。だから、会えなくても、少しだけ我慢して」
「かあさま、わたし、かえりたい……」
「ナンナも、わがまま言わないのよ。おうちには帰れなくなってしまったの。次のおうちを、これからフィンと一緒に探しにいくのよ。きっとすぐに見つかるわ」
「いや。ここ、こわい……おふとんで寝たい……」

 くたびれきった顔をしたナンナが、ぽろぽろと涙をこぼす。それを見たリーフが、不安げにぽつりと漏らした。

「……ぼくが、『おうじ』だから、帰れなくなったの?」

 心臓が跳ねた。5歳の子供が、そこまで己の立場を理解しかけているという事実は、想定外であった。
 縫い止められたように停止するラケシスに、リーフが気色ばんだ。続く言葉に、ラケシスはさらに凍りついた。

「なら、ぼく、『おうじ』なんかじゃなくていいよ。みんなが一緒にいられるなら――」

 と、リーフの声が止まる。その次に訪れたのは、静けさだった。
 暗い赤銅色の瞳が、引き絞られた。崩れ落ちるように膝をついたフィンが、リーフの背をかき抱いていた。
 彼の指がリーフの服に強く食い込んでいる。硬直したリーフは、口をわずかに開けたまま、すぐ傍にある青い髪を瞳に映した。

「いけません」

 身体が震えているにも関わらず、フィンの声ははっきりとしていた。

「あなたのその一言が、我々の――私の希望を、かき消すのです」

 祈るような、それでいて相手の呼気すら止めるような囁き。意味より先に、言葉のまとう重みが幼い心に届いたのかもしれない。――リーフはくしゃりと顔をゆがめた。

「フィンは…………ぼくがそう言うのが、悲しいの?」
「はい」
「……ごめんなさい。もう言わない」

 謝罪するリーフから、フィンがそっと身体を離すと、ようやくラケシスの時も流れだした。肺腑に溜まった熱い息を、口腔から吐き出す。そして、ようやく胸に痛覚が戻るのを感じた。
 抱いてくれる腕を必要としているのは、フィン自身なのだ。だが、いま、フィンの心は、リーフにしか救えない。その心の崩壊を止められるのは、リーフの言葉だけなのだ。
 見ていることしかできない己の無力が、ラケシスは悲しかった。リーフが優しい少年であることだけが、わずかな救いだった。

 リーフは泣いているナンナに近づくと、掌を差し出した。

「ナンナ。手、つなご」
「…………?」
「今日はいっしょに寝てあげる。手も、つないでてあげるから」
「…………」

 ナンナはべそをかきながらも、コクリとうなずいてリーフの手をとった。
 背を向けたフィンに、ラケシスは小声で言い難い問いを投げかけた。

「これから、どうするの?」
「アルスターの領地から離れましょう。ターラのほうはまだ商人の出入りが多いと聞いています。我々も身を隠しやすいかと」
「ターラ……西ね」

 いまは、事務的なこと以外を話す気にはなれなかった。ただ、フィンが平静を失っていないところを見て、ほっとした。
 陽の方向を確認すると、フィンとラケシスは子供たちを促して、出発した。その日、4人の間に会話はほとんどなかった。
 しかし、二日が経ち、三日が経っても、追っ手が近づく気配はなかった。このことから、ラケシスはわずかなりとも楽観的な未来を描くことができた。
 ――その後、ラケシスは自らの認識の誤ちと、フリージ家の真の恐ろしさを心底思い知らされることになる。



 その年は、夏が近づいてもまったく暖かくならなかった。夜になれば、骨身に染みる冷気が風とともに吹き付けてくる。
 子供の体調を考えれば、危険を冒してでも焚き火をたかなければならなかった。ふたりでひとつの毛布にくるまるリーフとナンナに、フィンは夕食のパンと干し肉を渡した。自身とラケシスの分も布の上に出す。
 そのとき、パンを手にしたリーフが悲しげにつぶやいた。

「これだけ?」
「……」

 アルスターにいたころに比べれば、涙が出そうなほどの粗食であったことには違いない。
 フィンはしばらく考えると、布の上に出したパンをひとつとって、リーフに差し出した。

「ナンナと半分ずつ食べてください」
「フィンのは?」
「私のものは、別にあります」

 よどみなく答えるフィンに、リーフは「やった」と顔を輝かせて受け取った。食糧をけちるフィンが奮発してくれたものと思ったのだろう。
 だが、実際に日を追うごとに食糧事情は逼迫していた。アルスターから持ってきた分が底をつきかけている一方、人通りを避けて歩いているから、ろくに補給することもできない。余分な食べ物など、あるはずがないのだ。

「少し周りを見まわってきます。ラケシス様も、食事を済ませておいてください」

 ラケシスの咎めるような眼差しを無視し、フィンは槍を手に闇の中に消えていった。



 焚き火が、ゆっくりと小さくなっていく。ナンナはリーフにもたれて寝息を立てており、ラケシスもうつらうつらと船を漕いでいる。連日の旅で、全員がひどく疲弊していた。それはリーフも例外ではない。疲れすぎて、目が霞んでいる。
 なのに、妙に心臓がどきどきして眠れなかった。なんでだろう、とリーフは目をこする。

 フィンは長いこと戻ってこない。ラケシスは食事を半分だけ食べて、あとは大事そうに布に包んでいた。食欲がないんだろうか。残すくらいならくれればいいのに、とリーフは無邪気に考える。
 それにしても、フィンはまだだろうか。帰ってきたら昔話をせがもうとリーフは思った。フィンが語るレンスターという国の話や、もう死んだという父母の話が、リーフは好きだった。内容が好きというより、それを語るときのフィンの顔が好きだった。

 早くフィンの話を聞きながら眠りたい――臣下の姿を求めて辺りを見回したとき、リーフはつと眉を潜めた。
 なにかが、闇のなかに、いる。

「フィン……?」

 口の中でつぶやいて、ちがう、とリーフは直感した。なにかもっと、禍々しいものが近くにいる。樹の枝を踏みしだきながら、こちらに近づいてくる。

 大声をあげてラケシスを起こさなければと思った。なのに、舌が動かなかった。後頭部が熱く焼けたようになり、思考が空回りする。
 引き攣れるほどの緊張の中でリーフの脳裏に浮かんだのは、ナンナを守らなくては、という一点だった。

 ナンナを守るには、武器が必要だ。武器。そうだ、荷物の中に剣がひとつあったはず。フィンがその剣について、なにか言っていた。なんだっけ――思い出している暇はない。左手を動かして、すぐ横の荷物袋に入れる。手探りで中を探る。勝手に中を漁るとラケシスにひどく怒られるのだが、ナンナを守るためだ。怒られるのくらい、我慢できる。だから早く、早く――。

 ようやく剣の柄らしいものを掴んだそのとき、ばきりと枝の折れる音がした。ラケシスが、はっと顔をあげる。木々の向こうから、鎧を着た兵士が現れた。手には月夜に輝く巨大な槍。だが、リーフの剣は、重くて荷物の中から引っ張り出すことさえできない。

 そのとき、ラケシスが腕を広げ、リーフとナンナに飛びかかってきた。抱かれた身体が、すさまじい速度で飛ぶ。勢いで、握った剣も荷物袋から引っぱり出される。
 あとはもう、なにがどうなったのか、まったくわからなかった。


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