楽園の崩壊


 穏やかな生活が3年に及ぶと、レンスターの生き残りとアルスターの関係は、次第に不協和音を奏でるようになっていった。

 第一の理由は、庇護の対象が増えすぎたことである。この3年、ドリアスがアルスターに潜伏していると知ったランスリッターの敗残兵が、こぞってアルスターを目指してきたのだ。彼ら全員を離宮で匿うことは不可能であった。自然と彼らはアルスターの都市内に腰を据えるようになり、他国との関係を案ずるアルスター王の神経を多分に刺激することとなった。

 第二の理由は、アルスターの消極的な姿勢である。3年前から、グランベル帝国は破竹の勢いで北上するトラキア王国を牽制せんと、本格的なトラキア半島への侵攻を開始していた。大将を任されたフリージ家の当主ブルームは、騎士国の長にふさわしく野心家でやり手の男だった。彼はフリージの魔道士部隊を動員し、メルゲン谷でトラキア軍を撃破。レンスターを含む北トラキアを手中に収めたのであった。フリージ連合王国のはじまりである。

 このとき、アルスターは真っ先に帝国に恭順を誓い、庇護を求めたのである。王妃エスニャがフリージ家の人間であったとはいえ、王の弱気な対応は、レンスターの騎士たちの苛立ちと嘲笑の的となった。

 ゆえに、グラン歴765年に起きた事件が、アルスター上層部が邪魔なレンスター残存兵の排斥のために仕組んだものか、それとも単に祖国の再興を夢見る一部の騎士たちが暴走したものか、真相は定かではない。

 ただし、事実だけを言うなら――。

 グラン歴765年5月、アルスターに視察に来ていたブルーム王の暗殺未遂事件が起きた。
 首謀者は、アルスターに潜伏していたレンスターの若い騎士であった。実行犯は彼に共鳴した数名の騎士で、全員が暗殺失敗時にブルーム自身の手で処刑された。

 亡国の狼藉に激怒したブルーム王は、アルスター内での兎狩りを厳命した。
 兎とは、むろん、すべての元レンスター民であった。


 すでに街門が封鎖されたという話を聞いて、ラケシスは全身から血の気が引くのを感じた。
 若きブルーム王を戴くフリージ連合王国のやり方は、残酷かつ苛烈を極める。そう聞いてはいたが、まさかここまで素早く手が回されるとは思っていなかったのである。

「街ではすでにレンスター民の捕囚が始まっている。奴らは、身分を問わずレンスターの民を根絶やしにするつもりだ。おそらく、時をおかずこの離宮にまで手が伸びるだろう」

 街の様子を見てきたドリアスは、額に脂汗を浮かせながら、集まった面々に告げた。離宮の一室には、ドリアスが信頼する騎士だけが集められており、彼らの横でフィンがリーフと手を繋いでいる。5歳になったリーフは、ただらなぬ気配を察してか、黙ってうつむいていた。

「我々が行うべきは、第一にリーフ王子を脱出させること。そして第二に、街のレンスター民を救出し、ともにアルスターを出ることである」

 もはや、発端となった事件の真相を突き止める時間は残されていなかった。ドリアスはフィンに向き直った。

「リーフ王子にはフィンとともに、アルスターを脱出していただく。――フィン、やってくれるな」
「――はい。この命を、レンスターの未来に捧げます」

 騎士たちの思いつめた目線を一手に引き受け、しかしフィンはたじろぐことなく答えた。彼は三年間、平穏を信じずに暮らしてきた。その瞳は、強烈な意思と異様な凄みを湛えていた。

 ドリアスは険しい顔でうなずくと、脱出作戦の説明を話し始めた。


「エスニャ様。お世話になりました。ご恩はいつまでも忘れません」
「こちらこそ、豊かな時間をありがとうございました。なにもしてあげられなくて、ごめんなさいね」

 夜の見送りに出てきてくれたエスニャが、すまなさそうに言う。だが、リーフたちを守るために必死で気を回してくれていたことは、彼女の疲れた表情がよく語っていた。
 とうとうこの日が来てしまったと、ラケシスは思った。悲劇はいつだって唐突で、残酷だ。あの穏やかな午後にはもう戻れないのだと思うと、息が苦しくなる。
 だが、現実は待ってくれない。ラケシスはナンナと荷物を馬に乗せ、後ろに自分もまたがった。すこし先では、先に騎乗していたフィンが、リーフになにかを語りかけているようだった。

「かあさま、ねむい……」
「ごめんねナンナ。すこしの間、我慢してちょうだい。わたしにしっかり捕まって、目を閉じているのよ」

 娘の耳元に囁くと、ラケシスは背筋を伸ばした。手探りで、手元の武器を確認していく。同時に、心に戦士としての炎を灯していく。

 と、遠くのほうで狼煙があがった。フィンがなにも言わずに馬を走らせ始める。ついに時間がきたのだ。ラケシスも馬の腹を蹴り、後に続いた。
 エスニャに内心で謝りながら美しい中庭を全速で突っ切り、市街地に出る。フリージ家による人間狩りが行われていると知った人々が家に篭ってくれたのは幸いだった。人っ子一人いない道を通って西の街門へと向かう。
 大通りでは、レンスター兵とフリージ兵の激しい市街戦が繰り広げられていた。魔道士の扱う雷鳴が夜空に木霊し、破壊された家の建材や木々の欠片が舞い上がる。レンスター側が苦戦していることは、傍目にも明らかだった。

 だが、レンスターの騎士たちの目から光は消えなかった。リーフ王子の脱出の可否は、自分たちの働きにかかっている。それは、レンスターの再興をも左右することを意味していた。致命傷を負ってもひとりでも多くの敵兵を屠ろうとする姿に、勇猛で知られるフリージ兵の間に、恐怖が伝播していった。

「開いたわ!」

 ラケシスは叫ぶと同時に大通りに躍り出て、馬を加速させる。ついに街門の開閉装置付近を制圧したレンスター兵によって、門が開かれたのである。
 しかし、あと三馬程度の距離に至った瞬間、開閉装置を動かしていた兵に雷が落ちた。騎士たちの間をすり抜けてきたのだろう、フリージの魔道士が装置に駆け寄り、手をかける。門が、閉まり始める。

 間に合わない。ラケシスが最後の手段として手持ちの魔道書に手をかけたそのとき、門の向こうから光が走った。

 すさまじい勢いで飛んできた手槍が、魔道士の胸板を貫く。間一髪、門の間をすり抜けたラケシスとフィンは、そこに思いがけない人物を見た。

「グレイド!」

 フィンが名を呼ぶ。グレイドは、トラキア大河での敗戦から行方不明で、騎士団の中ではすでに死んだものとして扱われていた。

「やはりフィンか! 無事でよかった。これは、どういうことだ!?」

 ぼろぼろの身なりをしていたが、声は元気そうだった。十名ほどの配下を連れ、並走しながら問うてくる。ようやくアルスターに辿り着いたところ、この事件に行き会ったのだろう。
 フィンは素早くマントを開いて、中に隠されていたリーフを見せた。月明かりの下で、グレイドが事情を察し、息を呑む。

「そうか……よくぞ、よくぞご無事で……」
「私たちはこのまま行く。反対の門からドリアス卿が脱出中だ。そちらの援護を頼めるか」
「わかった。私の隊から4機おいていく。くれぐれもその方をお守りしてくれ――頼むぞ」
「ああ」

 互いの無事を喜び合う間もなく、グレイドは離脱していった。残された4機が、ラケシスの後ろについてくる。腕の中を見ると、ナンナが気絶していた。相当怖かったのだろう。ごめんね、とラケシスはやわらかい髪をそっと撫でてやる。
 陣形の確認のために後ろに首を向けていたフィンが、不意に鋭く叫んだ。

「追っ手がかかった。速度をあげるぞ!」
「はっ!」

 ラケシスも慌てて後方へ目をこらしたが、敵の姿を捉えることはできなかった。だが、フィンの言ったとおり、すぐに魔道の力の気配が伝わってくる。

「ぐああっ!!」

 雷電が走った瞬間、最後尾の一機の騎士が投げ出された。まずい、とラケシスは唇を噛む。馬にまたがり魔導を扱う魔導戦士は、フリージ兵の中でも精鋭にあたる。果たして逃げきれるだろうか――。
 そのとき、悲痛なリーフの声が響き渡った。

「フィン!! たすけてあげて!!」

 グレイドと対面したときから、マントが開かれたままだったのだろう。この状況で気を失わなかったのは、年齢を考えれば見事というべきだった。

「もどって!! ねえ、フィン、だめ、たすけなきゃ!」

 切迫する舌っ足らずの叫び。だが、フィンは主の懇願を無視して走り続けた。続いて、再び閃光。次の騎士が馬とともに横倒しになる。

「フィン、いやだ――んんっ!!」

 口を塞がれたのだろう。悲鳴が、くぐもった音になる。顔は見えなかったが、気性の優しいリーフがどんな顔をしているか、ラケシスには痛いほどにわかった。そして、仲間を見捨てるフィンの気持ちも。しかしいまは、走り続けるしかない。

「このままでは追いつかれます! 我々が食い止めますゆえ、先に行ってください!」
「我らの希望の光よ、どうかご無事でいらしてください! レンスターに栄光あれ!」

 残った二機はそう残すと、反転して素早く雷をよけながら後方に散っていった。

「ああっ…………」

 思わず、声が漏れる。フリージの魔導戦士相手に、槍騎士二人では無謀もいいところだ。なのに、彼らの最後の言葉は晴れやかで、誇らしげでもあった。受け取る側には、あまりに重たい。リーフは、まだ暴れているようだ。
 吐き気すら覚えながら、ひたすらに馬を駆る。
 命の灯火を吹き消す雷霆の音が、遠くで響いている。

 数刻ほどひたすらに街道を走らせると、馬が潰れてしまった。突然の事態で、長距離の馳駆に慣れた馬が手配できなかったのだ。

「仕方ありません。歩きましょう」

 フィンは短く告げると、馬の傍でへたりこんでいるリーフを抱き上げるために、身を屈めた。
 すると、リーフの幼い手が振り上がり、フィンの頬を打った。

 ぱちん、と。悲しいほど小さな音が、夜闇に吸いこまれていく。

「どうして…………」

 リーフはしゃくりあげながらつぶやいた。続きはうまく言葉にできないのだろう。だがそれは、大人でも簡単に言葉にできるものではない。
 フィンはなにも言わなかった。腕を伸ばし、リーフを抱き上げた。リーフは身体をこわばらせたものの、それ以外に縋る先を知らずに、フィンの肩に顔を埋めて泣きじゃくる。リーフにとっては、物心がついてからはじめて見る人の死であった。それでいて、これからいくらでも見るであろう人の死であった。

 夜風が身体から熱を奪っていく。空は高く広く、残酷に地上を見下ろしている。
 楽園が壊れてしまうのは、一瞬のことだ。
 これからリーフと自分たちを襲うであろう未来を予期したラケシスは、暗澹とした気持ちに襲われた。


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