片思い


 セルフィナとドリアスがレンスター城から生還できたのは、幸運が重なった結果であった。

 炎上する城内で自ら剣を手に指揮をとったドリアスは、最後まで生き残った配下に城内にある隠し通路を通って逃げるように命令した。ただし、彼らにはフィンたちが使ったものとは別の通路を使わせた。
 血眼でリーフを探すトラキア軍は、きっと隠し通路の存在を疑うに違いない。ゆえに、わざと異なる通路を使うことで、彼らを勘違いさせたのだ。ドリアス自身も、アルフィオナの命令で、セルフィナとともに隠し通路のひとつに飛びこんだ。アルフィオナは、城と運命を共にしたという。

 ドリアスたちは途中で敵に追いつかれたが、数が少数であったため、セルフィナの善戦で撃退することができた。そのまま運良くレンスターの難民の群れにまじることができ、アルスターまで来たのだという。
 雨に打たれ続けた二人は高熱を出しており、エスニャやラケシスの看病で、ようやく元気を取り戻したのだった。


 貴族としてはささやかだが、心遣いの行き届いた朝食の席で、ラケシスはフィンの様子を伺った。彼はリーフの食べるものを毒味すると言ってきかず、少量を自分の口に含んでから隣のリーフの前に置く――の、だが。

「あっ、フィン!」

 先日の気まずさを忘れ、ラケシスが声をあげた。リーフが、ソースでべとべとになった手でフィンの袖を掴んだのだ。
 ぐちゃり。
 形容しがたい音をたてて、フィンの袖が茶色に染まった。凍りつくフィンの横で、リーフの進撃は続く。右手のフォークで皿の上の肉玉を突き刺し、口に持っていく……が、大きすぎて中々入らない。左右からぼたぼたと欠片が落ちる。口の周りが大変なことになる。それを、問答無用でフィンの袖をつかって拭き取る。真っ白になるフィンに、満面の笑みを見せてフォークを掲げてみせる。

「だー! いしー!」
「…………おいしいのですか、リーフ様」
「だーー!」
「…………あの、私の袖は、布巾では、ないのですが」
「りーー!」
「あらあら、やっぱり男の子ですねぇ」

 エスニャがにこにこ笑いながら感想を漏らす。反対側に座ったセルフィナは、フィンを哀れみの眼差しで見やりながら、慣れた手つきでリーフの顔面を拭っていった。服に壊滅的被害を被ったフィンは、リーフに食糧をせっつかれ、虚ろな目で食事を再開する。食欲旺盛なリーフは、大人一人分を平らげることもしばしばであった。

「きっと将来は大きゅうなられるでしょうなぁ。比べてナンナ様は、なんとも可愛らしい食べ方で。やはり女の子ですな」

 頬を緩ませたドリアスが、ラケシスの隣で一生懸命にコップを口につけようとするナンナに目を移す。ナンナは、全員に見られたことに気づいて、恥ずかしそうにもぞもぞと身体を揺らせた。滑り落ちかけたコップを、ラケシスがさりげなく押さえてやる。

「子供がいると、こうも場が明るくなるのですね。今度、夫に頼んで、ミランダを連れてきますわ」
「だーー!」
「はいはい、ちゃんとみんな、あなたのことを見ていますよ、リーフ様」

 自己主張の激しいリーフに、エスニャが優しく告げる。その言葉は、事実であった。3歳になったリーフは、愛と優しさに囲まれて育っていた。


 離宮には、ひとまずの平穏が訪れている。だが、いつ壊れるとも知れない平穏だった。トラキアとグランベルに挟まれる形になったアルスターも、微妙な立場が続いている。ラケシスは、一秒でも長く平和が続いてほしいと思う。

 先ほどまで思い切り遊んでいたリーフとナンナは、ラケシスの膝元で昼寝をしている。起きればまたお祭りのような賑やかさだろう。
 フィンは朝食後からドリアスと長いこと話していたが、今は庭園の広場で槍を振っていた。離宮に来てから、彼が訓練を怠った日を、ラケシスは見たことがなかった。

 彼の槍さばきをぼんやりと眺めていたラケシスは、つとリーフの稚い寝顔に視線を落とした。

「わたし、フィンに振られてしまったわ」
「えっ?」

 隣で針仕事をしていたセルフィナが、聞き返してくる。ラケシスは自嘲気味の笑い声をあげて、リーフの頭を撫でた。

「あのときのフィンの気持ちが、いまになってわかったような気がするの。人はいつも、好きな人の一番になっていたいんだわ」

 これまでの自分の、どれほど幸せだったことだろう。自分は兄にとって一番の存在だった。そして、きっとベオウルフにとっても。
 だが、とうとう運命の女神にそっぽを向かれてしまった。それが、こんなに心の痛いことなのだと、ラケシスは初めて知ったのだった。雨の振る中で聞いた彼の声が、狂おしく思い出される。

「ラケシス様は、フィンのことがお好きなのですか?」
「きっとね」

 冗談めかしてラケシスは笑う。同じことを訊かれて何度も平静を失うほど、彼女は繊細ではなかった。

「でもね、いまの彼には、わたしでは届かないでしょう」
「そんな。あの、実は、フィンはむかし、その、ラケシス様のことが好きだったのですよ」
「あら。知っているわよ」
「えっ」

 慌てるセルフィナが愛らしくて、ラケシスは苦笑してしまう。
 知っているからこそ。あんなに頼りなく震えている彼を見てしまったからこそ。ラケシスは、手を伸ばすことができないのだ。

「どうやっても時は流れていってしまう。いまのわたしにできることは、あの人にもらったものを返すことだけなんだわ」

 いくつも年下のセルフィナには、よくわからなかったようだった。でも、だけど、と俯きながらつぶやいている。
 しかし、だれよりそう否定したいのが自分自身であることを自覚して、ラケシスは見えないところでため息をついた。

 そのとき、膝元でリーフがもぞりと動く。薄目を開いて起き上がり、しばしぼんやりと辺りを見回す。

「うー……」

 ラケシスとセルフィナを交互に見上げたリーフは、なにかが足りないというように首を回した。
 そして、庭先で槍を振る騎士を見つけ、ぱっと顔を輝かせる。

「ふぃーーん!!」

 セルフィナの瞳が弾けた。ラケシスもまた、驚いたまま、フィンのもとへ走っていくリーフの後ろ姿を見送る。

「リーフ様、いまフィンの名前を……?」

 最近特に成長が早いと思っていたが、人の名を口にしたのは初めてだった。フィンは槍を止め、駆け寄るリーフを迎えている。彼がどんな顔をしているか、ここからではわからない。
 夕暮れの近づいた庭園で、幼子が騎士の若者にじゃれついている。若者は膝をつき、目線を合わせて幼子の相手をしている。

 胸にわずかな痺れを覚え、ラケシスはだれにともなくつぶやいた。

「……妬けちゃうわね、こんなの」


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