どれだけ近くとも


 翌朝からは、ひどい土砂降りだった。重く垂れ込めた灰色の雲は、まるでレンスターで散った者が無念を叫ぶかのように、大粒の雨を振らせ続けていた。

 ぬかるむ道を、ラケシスは苦心して歩く。アルスターの街門が近づいてくると、フィンが小声で話しかけてきた。

「ラケシス様。ここでは、私たちは夫婦と名乗るのが得策でしょう。お嫌でしょうが、ご辛抱ください」

 ラケシスは、ちらりとフードの下からフィンの顔を伺った。目の下に隈を浮かせたフィンは、ラケシスを直接見ようとはせず、灰色に滲む街門を睨んでいる。ラケシスは、少しだけむっとして答えた。

「……嫌ではないわ。ただ、わたしに敬称をつけては怪しまれるわよ」

 フィンは、わずかに視線を動かした。

「わかりました……。では、今だけはご無礼を承知で、ラケシス、と」

 進む爪先が、無意識に力む。耳が熱くなるような響きだというのに、心に走ったのは、怒りに近い気持ちだった。

 アルスターの街門で、フィンは持参した通行証を提示した。二人はレンスターの田舎からアルスターの親戚を訪れた家族連れ、という名目になっている。じろりと番兵に顔を見られたときは心拍数があがったが、番兵は思いがけないことを言った。

「昨晩はレンスターの方角が燃えていただろう。あんたたち、なにがあったか知ってるかい?」

 アルスターの一般兵にはまだ、レンスター落城の報が伝わっていないらしい。フィンは首を横に振った。

「いや。火の手が見えてからは、恐ろしさに妻子とともに逃げるので精一杯だった。詳しくはわからない……」
「そうか……。あんたたち、こっちに逃げてきて正解だよ。レンスターが落ちても、うちは不介入の立場にあるからな、ここにいれば安全だ」

 雨と悪路のせいで顔や髪が汚れていたのが幸いしたらしく、兵はすっかり信じてくれたようだ。
 だが、ラケシスはフィンが唇を噛みしめていることに気づいた。兵の言うとおり、日和見の態度をとったことで、アルスターはこうして安全な場所になりえたのだろう。しかし、そのためにレンスターは、ろくな支援を得られずに敗北したのだ。

 アルスターが自分たちを匿ってくれるのか。それは、五分五分の賭けだった。アルフィオナの親書は持ってきているが、彼らは平然と自分たちをトラキア軍に恭順の証として引き渡すかもしれない。ドリアスからも、その点は十分注意するようにと繰り返し言われている。

 だが、言われた手順で内密に上層部と連絡をとる内に、思いがけぬ女性がラケシスたちを慈悲の心で保護してくれたのだった。
 彼女の名はアルスター王妃エスニャ。フリージ家の娘であり、ティルテュの妹であった。



「熱い湯と新しい服を用意させました。いまは、ゆっくりと体をお休めください」

 アルスター郊外にある離宮で、エスニャは優しく言った。色白で、折れそうなほどに細く、儚げな茶髪の女性だった。しかしそんな彼女が行動力を発揮して、リーフの保護を渋るアルスター王を説得し、病弱な自身のために作られた離宮に匿ってくれたのだ。
 身繕いをして空腹を満たすと、ようやくラケシスはほっとすることができた。

「ありがとうございます。お心遣いに感謝します、エスニャ様」

 ベオウルフと別れてから、――いいや。生まれてきてからずっと、自分は人の優しさに救われてばかりだ。眉を下げるラケシスに、エスニャは自嘲気味に笑ってみせた。

「いいのです。これは、フリージ家の駒にすぎないわたしの、ささやかな反抗ですから……」

 長椅子の上では、リーフとナンナが疲れきった様子で眠っている。寒いのだろうか、身を寄せ合うふたりを見たエスニャは、毛布をそっと肩まで引き上げてやった。その仕草で、ラケシスはこの人は信頼できると直感した。

 レンスターを出立したときには、底辺の生活をも覚悟していたが、エスニャとの出会いは思わぬ僥倖であった。フリージ家の娘である彼女は、グランベルの様子もよく教えてくれた。そして、ティルテュがつい最近に病死したということも。

「姉さまは、フリージ家に殺されたようなものです。あんなに元気で明るかったのに……。でも、わたしに復讐するだけの力はありません。だから、せめて、自分の意思であなた方を守るだけのことはさせてくださいね」

 エスニャと一通りの話が終わるころになっても、見回りに行ったフィンは帰ってこなかった。エスニャに何度も礼を言って、ラケシスはフィンを探しに出た。

 長雨の止む気配はなく、今日も外は匂い立つような湿気が立ちこめていた。
 あちこちを見回しながら進んでいくと、池のある庭園の一角に槍を手にしたフィンの姿があった。彼はこちらの気配に気づくと、庇の下までやってきて、フードをとった。ぽたぽたと、水が地面に滴る。

「ラケシス様、御用ですか」

 ここ数日のように呼び捨てにしてくれないことに、突き放されたような気分になった。だが、それも詮ない気持ちだと捨ておいて、ラケシスは逆に問う。

「あなたこそ、こんな場所でいったいなにを?」
「見回りを行っておりました。あと、脱出時の経路の算段と、不審者の確認も」
「不審者?」

 フィンは静かにうなずき、わずかに咎めるような眼差しになった。

「ラケシス様も、どうかリーフ様とナンナから目を離されませんようお願いします。アルスターには、いつ裏切られるかわかりません」
「待って、フィン。まさか、あなた、エスニャ様を信用されないというの?」
「…………」

 フィンは答えない。だが、否定もしなかった。ラケシスは彼の眼差しの暗さに、背筋が寒くなる思いがした。

「駄目よ。そんなことでは片時だって心が休まらないじゃない。時には肚をくくって休むことだって必要だわ」
「ここはもう、レンスターではないのです」

 決然とした、それでいて仄暗い声だった。そこに帰る場所を失った彼の、悲鳴のような響きさえ覚えて、ラケシスは目眩を感じた。
 滴り落ちる水滴が、庇の下に水たまりを作っていく。

「どうかお戻りになり、リーフ様の元についていてください」
「……いやよ」
「では、私が参ります」
「待ちなさいよ!」

 すれ違おうとするフィンの外衣を掴む。立ち止まったフィンは、しばらく黙っていた。手だけが、冷たく濡れていく。

「ねえ、フィン……お願い、お願いだから……」

 このままでは、彼はひとりで遠い場所に行ってしまう。ラケシスはもう一度、指に力をこめた。そこから伝わる冷たさに、頬を歪めながら。

「わたしの目を見て話して。ひとりで抱え込まないで」
「…………」

 フィンの息遣いが、わずかに乱れた。俯いた彼の頬を、気遣うように前髪が覆う。
 永遠のような沈黙の後に、彼は小さく口を開いた。

「ずっと、あなたの目を見て話すことが夢でした」
「っ……」

 こぼれおちた声の弱々しさに、ラケシスは怯んだ。むき出しの心が、すぐそこにあった。

「しかし、あなたの優しさにおぼれてしまっては、きっと、私は、あの方のご遺志を守れない」

 足元が、揺らぐ。一歩、二歩。
 それは、二人の間に秘められ、二人して目を背けた過去の傷に直接触れる言葉だった。
 今にも泣き出しそうな声で、フィンは告げた。

「私にはもう、リーフ様しかいないのです……」

 重く心に穿たれる言葉。ラケシスは、腕から力が抜けていくのを感じた。出口のない迷夢に、何時の間に足を踏み入れてしまったのだろう。もう、時を遡ることはできない。

 そのときだった。水たまりの跳ねる音に、フィンとラケシスは同時に振り向いた。フィンが素早く槍を構え、ラケシスも懐剣に手を伸ばす。
 だが、立ち尽くしていた二人のうちひとりが雨にも関わらずフードをとると、ラケシスたちは驚いて刃を収めた。

「ラケシス様、フィン……」

 ずぶ濡れになったセルフィナが、目から大粒の涙をこぼしながら、ラケシスの胸に飛びこんできたのだった。


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