紅蓮の空に雨はなく


 燃えるような夕暮れが差し掛かる頃、レンスター城の執務室のひとつに、少数の者が集まっていた。王妃アルフィオナ。宰相ドリアス。リーフの乳母。そしてリーフとナンナをそれぞれ抱いたフィンとラケシス。
 王子の脱出計画を知っているのは、この面々だけである。あとの人間には、リーフは王妃の部屋の奥の間におり、フィンが付き添っている、と知らされている。

 彼らの間に、余計な言葉は必要なかった。決められていたとおりに、ドリアスは奥の敷物をとり、木板を外した。そこに、地下へ続く階段が現れる。通路は、レンスター城から遠く離れた山間まで続いているという。

 無言の内にドリアスが頷くと、フィンは一礼をした。あらかじめ眠りの香を嗅がされたリーフは、彼の腕の中で安らかな寝息をたてている。ナンナも同様だった。ラケシスは王妃アルフィオナに頭を下げる。城に残るアルフィオナを待つ運命は、薄々わかっていた。そのことを考えると、息が詰まる思いだった。アルフィオナは、微笑みを浮かべてふたりを見守っている。

 ラケシスが同伴することは先に知らされていたようで、フィンに動揺した様子はなかった。フィンは短い別れを済ませると、荷物を肩に背負い、ランタンを手に地下へと降りていく。ラケシスも、後に続いた。
 階段を降りると、すぐに扉が閉められ、一気に視界が闇に沈んだ。

 湿っぽい暗闇の中を、フィンとラケシスは早足に進んでいった。
 会話はない。狭い通路で、ラケシスに見えるのは平民服を着たフィンの後ろ姿だけだった。
 時折、上方から僅かな揺れが伝わってくる。落ち延びた騎士たちの馬の音か、あるいはもう敵が来てしまったのか。ここからではわからなかった。今は、歩みを進めるしかない。

 残った人間はどうしているだろうと、ラケシスは考えていた。
 計画の漏れを防ぐため、ラケシスはセルフィナにすら別れの挨拶が言えなかった。ドリアスのことであるから、娘だけは脱出させるだろうが。城でよくしてくれた騎士たちのことも、気がかりだった。

 だが、もう後戻りはできない。前に進むしか道はない。
 アルフィオナの願いを受け取ったからこそ、自分はここにいるのだ。

 フィンはなにを考えているのだろう。ラケシスは、いまいちど、前を歩くフィンを見つめた。
 彼が別れを言うべき相手はみな、前線に送られている。生死も定かではないだろう。しかし、彼の足に迷いはない。
 それほどまでにフィンは彼らとの再会を信じているのだろうか。それとも……。

 ――私は本来なら、落ちぶれた貴族の末弟として、惨めな生活を送るはずでした。
 ――しかしキュアン様のお触れのおかげで、身分に関係なく騎士考試を受けることができたのです。

 何年も前、厩で語るフィンの姿が思い出される。

 ――その間に、親兄弟はレンスターの屋敷を売って、他国に移りました。
 ――もともと仲がよくなかったので、いまは連絡もとっていません。
 ――でも、私にはキュアン様がいてくださるので。寂しいと思ったことはありません。

 主君を語るフィンの顔は誇らしげで、幸福に溢れていた。
 だが、王妃の言葉がそこに影をさしかける。キュアンは、フィンを縛りすぎた――。

 レンスター城で避けていたとはいえ――いいや。避けていたからこそ、ラケシスはフィンの様子に敏感だった。彼が執務以外で人と話していたところは、ほとんど見たことがない。騎士グレイドや、セルフィナがよく気にかけていたが、自分から積極的に話している様子はまったくなかった。

 彼にとって、キュアンは人生のすべてだったのだろう。だが、彼が独り立ちするより前にキュアンは砂漠に潰えた。
 フィンの中で、主君の存在は、永遠となってしまったのかもしれない。
 もしもそうなら、なんと哀れな男だろう。

 休みなく半日以上歩き続けて、ようやく通路の終点に行き会った。辺りは夜も更け、虫の音が聞こえてくる。人の気配はなかった。
 外に出ると、フィンは出口の近くの出っ張った石を、力を込めて抜いた。すると、仕掛けが作動して出口付近が崩落する。これで、万が一地下道が発見されて敵が追いかけてきても時間が稼げるだろう。

 フィンは無言で山道に足を入れた。ラケシスも、金髪が光らないように外衣のフードをかぶり、後に続いた。


 夜明け近くに少し休んでから、山道の旅はさらに続いた。トラキア軍は王族の脱出を防ぐため、街道を封鎖し、空を哨戒しながらやってくるに違いない。彼らの目をかいくぐるには、このような悪路を進むしかなかった。
 騎士団の練習に参加して身体を動かしておいてよかったと、ラケシスは内心で思った。そうでなければ、フィンの足にはとてもついていけなかった。
 だが、獣道に入ると途端に辛くなった。容赦なく蔓に足をとられたり、藪に肌を傷つけられる。食事のときはなにを話せばいいだろうと思っていたが、あまりの疲労に言葉がでなかった。リーフが昼ごろにようやく起きだしたが、まだ頭がぼうっとするのか、さして騒ぐこともなくフィンに抱かれていた。その位置が一番安心できると、本能で気づいていたのかもしれない。

 夕方を過ぎても、なかなか陽は落ちなかった。あまりに遅いので怪訝に思って振り向いたラケシスは、ぞっとした。藪の向こうの西の空――レンスターの方角が明るい。異常なほどに。

「フィン、あれを見て」

 とっさに、話しかけていた。フィンが振り向いて空を仰ぎ、かすかに表情を揺らす。

「……もうすぐ山頂に出ます。そこからなら、状況がわかるかもしれません」

 足は棒のようだったが、自然と早足になっていた。目を覚ましたナンナが泣き出す。大丈夫よ、と声をかけながら、坂を登っていく。
 気がつけば、フィンは随分先に行っていた。もしかすると、今までラケシスの足にあわせてくれていたのかもしれない。
 息を切らせて進むと、見晴らしの良い崖の上に出た。フードをおろしたフィンは、呆然と立ち尽くしていた。

 ラケシスも、ついにその光景を目にした。

 遠いレンスター城が、激しい炎を噴きあげて燃えていた。すさまじい量の煙が、空に昇っていく。届かないはずなのに、血と木や油の燃える嫌な臭いが漂い、顔を熱い風がなぶったように感じられた。
 紅蓮に染まった夜空には、何機ものドラゴンナイトの影が舞っている。レンスターの滅亡を歓喜するかのように、翼をはためかせて。

 ドリアスの判断は正しかった。トラキアの侵攻の速さを恐れた彼は、すぐにでもとリーフを脱出させたのである。あと一日でも出立が遅ければ、巻き込まれていたかもしれなかった。

 同時に――ここまで簡単に、レンスターは国土を蹂躙され、滅びてしまったのだ。傷ついたラケシスを優しく迎えてくれた、この国が。
 王宮に残った者たちのことを考えて、ラケシスは思わず膝をつき、ナンナを抱きしめた。ぐずっていたナンナが、再び大声で泣き出す。

「こんな……こんなことって……」

 隣を見上げると、フィンに抱かれたリーフは泣いていなかった。いまだ状況を理解できていないのだろうか。黒目がちの瞳に炎を映し、じっと落城するレンスター城を見つめている。
 ただ、代わりに泣いている者があった。

「フィン……」

 彼の横顔は、ぼろぼろに傷ついた心の成れの果てを描いていた。
 自身の涙にも気づいていない様子で、彼はレンスター城に眼差しを注いでいる。
 いまにも崩れ落ちてしまいそうな弱々しい佇まい。それはまるで、暗闇に投げ出された幼子のようでもあった。

「…………」

 ラケシスは、涙を拭った。彼女の心は、いま、決まった。
 その目に、生来の激しい気性がもたらす決意を込めて、ラケシスはフィンに告げた。

「行きましょう。ここも、じきに追っ手がくるわ」

 ぴくりとフィンの肩が揺れる。すると、リーフがフィンの顔を見上げた。わずかに悲しげな顔になったリーフは、フィンに手を伸ばした。

「うー…………ふぃー……」
「…………」

 フィンはしばらくリーフの顔を見つめると、流れる涙を拭うこともせず、踵を返して歩き始めた。

「こちらです」
「わかったわ」

 ナンナを抱き直し、ラケシスは後に続く。その双眸には、静謐に輝く意思が波打っていた。
 ――わたしがこのひとを守るのだ、と。


 続きの話
 戻る