王妃の依頼


 レンスターの騎士団には、大陸に名を響かせるランスリッターの他に、数は少ないが弓隊がいる。槍騎士の突撃の前に敵の数を減らすという地味ながら重要な役目を担う一団である。

 そして、いま。弓隊の騎士たちは、ひとりの女性に夢中であった。

「はっ!」

 鋭い掛け声とともに、馬蹄が強く大地を踏み鳴らす。
 疾駆する馬の背には、目にもまばゆい金髪をなびかせる娘が、はしばみ色の瞳を細めて弓を引き絞っている。
 続けざまに放たれた三本の矢が次々に的に当たると、騎士たちの間に歓声があがった。「なんと神々しい」「女神だ」「あれで子持ちかよ嘘だろ信じられん」「俺も射抜かれたい」「いいやあの足で踏んでいただきたい」等々。騎士たちはすっかり色めき立っている。

「もう、あの人たちときたら、自分の練習をさぼってばっかりで」

 そう頬を膨らませるのは、同じく弓を携えたセルフィナである。
 ラケシスは体調が回復すると、セルフィナに弓の扱いを教えてくれるようになった。女騎士が珍しいレンスターにあっては、願ってもみないことだった。それに、兄弟も母もいないセルフィナにとっては、姉ができたようで嬉しかった。

 ――が、稽古場の端を借りているうちに、他の騎士まで集まってくるようになったのだ。これだけ美しい女騎士がいるなら、当然のことであったが。
 さらにラケシスの弓の腕前はかなりのもので、イザーク式の剣術もなかなかであった。他に魔法や治療の杖も扱うことができるのだから、レンスターの騎士たちが放っておくわけがない。
 すっかりラケシスはレンスターの人気者であった。

 ただ、当の本人は別段、迷惑そうではない。特別扱いされることに慣れているのだろう。しかも、割と気が強いところがあり、時折、騎士たちと腕の競い合いまではじめたりする。
 そんな様子を見ていると、セルフィナは、騎士たちにラケシスが取られてしまうような気がして、少しだけ唇をとがらせるのだった。

 しかし、だからといって騎士たちを怒鳴ろうとは思わない。
 前線の状況は、悪化の一途を辿っていた。カルフ王は半年前に自ら出陣したが、同盟国との足並みが揃わず、苦戦を強いられているという。なんとかトラキア大河まで兵を集結させつつあるというが――。

 レンスター騎士団の精鋭は残らず戦場に駆りだされ、城に残っているのは新米と見習い騎士、あとは怪我人だけだ。セルフィナは、彼らが不安の中で必死で明るく振る舞おうとしていることを薄々察している。だから、少しくらいラケシスに熱をあげようと黙っているのだ。教官も黙認していることからして、セルフィナと同じ気持ちなのだろう。

 そんなとりとめもないことを考えていると、小姓が駆け寄ってきて、セルフィナに耳打ちをしてきた。
 セルフィナはうなずいて礼を言うと、ラケシスに近づいていく。

「ラケシス様、王妃さまがお呼びです。ご自分の部屋で、お話がされたいと」
「あら……わかったわ。すぐに参ります」

 ラケシスは豊かな金髪をあでやかにかきあげると、手綱を操って馬留のほうに向かった。彼女の乗ってきた馬は死んでしまったため、いまはレンスターの馬に乗っている。彼女は愛馬の死を知ったとき、いたく悲しんだものだった。その死を看取った騎士の名は、セルフィナもラケシスも知らなかったが。

 しかし、王妃は一体彼女になんの用だろう。しかも、王座の間ではなく、自室でなど。
 なんとなく嫌な感じを覚えつつ、セルフィナはラケシスの背を見送った。


 奥殿に入ったラケシスは、一瞬、息を詰めた。椅子に座った王妃アルフィオナの目は涙に濡れ、赤く腫れていた。
 まさか、と思ったとき、その先は王妃自身の唇から紡がれた。

「カルフ王が戦死されました」

 泣いていても、口調はしっかりしていた。騎士国の王妃らしく美しく気高いアルフィオナは、ラケシスに椅子を勧めると、簡単に状況を説明してくれた。コノートの裏切りによって王はトラキア大河で壮絶な死を遂げ、レンスター軍は城に向かって敗走中。その後方からは、トラキア軍が怒涛のように押し寄せている。あと四日もしない内に、敵の軍は城下にまで至るだろうという話だった。

「あなたはレンスターとは直接関係のない方です。今のうちに、お嬢さんを連れてお逃げなさい。アルスターなら、まだトラキアの刃も届いていないでしょう。こちらからは、なにもしてあげられないのが辛いけれど……」

 王妃の申し出に、ラケシスは膝の上で固く拳を握った。

「王妃さま。わたしは……」
「ええ。あなたの偽りのない気持ちを聞かせて」

 目を開いたラケシスは、もう、ひとりではなにもできない少女ではなかった。イード砂漠を越え、レンスターをさまよった彼女は、自らの意思をはっきりと口にできるようになっていた。

 ――アイラ。あなたの言ったことは、本当だったわ。

 今はもう生死もわからぬ友人の顔を思い浮かべながら、ラケシスは告げた。

「そのお心遣いは、ありがたく思います。わたしは、娘を守れと、亡き夫に言われています。ですから、わたしは一番に、娘を守る道をとろうと思います。でも……」

 ラケシスは、目を伏せた。

「この国で、わたしは慈悲と恩を受けました。それらのお返しをすることなく逃げ出すのは、あまりに申し訳なくて。なにか、わたしにできることがあれば良いのですが……」

 といっても、ナンナがいる以上、騎士団とともに戦うことはできない。娘を最後に守れるのは、自分だけなのだ。アイラの言葉は、どこまでも正しかった。
 すると、アルフィオナは、ラケシスを見定めるように、じっと見つめてきた。唇が、ためらいに動く。そうして、意を決したように、アルフィオナは言った。

「ラケシス姫。もしもあなたがこの国に恩義を感じているのなら――わたくしの、個人的なお願いを聞いてくださるかしら」

 一段と声を落とされて語られた内容を聞いていくうちに、ラケシスの肌が粟だった。

「王妃さま。わたしに、フィンとリーフ王子とともに落ち延びろと……そうおっしゃるのですか?」
「ええ、そうよ」

 首筋が冷えた理由は、自分でもよくわからなかった。ただ、フィンと一緒にはいられない。それだけは本心だった。ラケシスは首を横に振った。必死で理由を探して並べる。

「わたしがついていっては逆に足手まといです。ナンナもいますし。フィンひとりのほうが、王子を守りやすいのではありませんか」
「わたくしがこの提案をする理由は、ふたつあります」

 凛と背を伸ばしたまま、アルフィオナは続けた。

「ひとつは、女性であるあなたがいることで、追手の目を眩ませられるからです。逆に、騎士風の男と幼児のふたりでは、狙ってくれと言っているようなものですから」

 一分の隙もない正論だった。しかし、それなら自分以外の女でもいいではないか。
 するとアルフィオナは、つと目線をやわらげた。

「そしてもうひとつの理由。それは、……あなたに、フィンを守っていただきたいのです」
「え……?」

 相手が王妃であることを忘れ、ラケシスは聞き返した。王妃は、悲しげに目蓋を伏せた。

「フィンは哀れな子です。キュアンは、あの子を縛りすぎた。彼の頭には、いまは、キュアンに託された使命を守ることしかありません」
「それは……わかりますが」

 聡明な王妃は、でも、と言った。

「でも、それだけでは、人の心は壊れてしまう」


 同じ時刻。レンスター城の庭園で、リーフとナンナが遊んでいた。

 日の当たる場所でリーフは駆けまわり、まだ立てないナンナは這って追う。ふたりとも、無邪気な笑い声をあげている。
 彼らのすぐ傍にはフィンが、じっと立ちつくしている。その目は、子供たちを見ているようで見ていない。
 王の戦死の報は、さきほどドリアスから耳打ちされていた。そして、例の計画を実行する、とも。
 例の計画――リーフを城から脱出させる手はずは、この度の戦における最後の手段として前々から打ち合わせが重ねられていた。
 それが、ついに実行に移されるのである。

 フィンの濁った瞳は、リーフの顔の先に、亡き主君の姿を映していた。そして、つい先日この世を去った王の姿も。
 心を預けた相手は、次々と消えていく。黒い未来が、手を広げてやってくる。終わりのない悪夢の形をして、フィンを包み込もうとしている。

 ――しかし、それでも。

「わかっています、キュアン様」

 口の中でつぶやいて、フィンは形見の槍を固く握りしめた。


 王妃の部屋では、ラケシスが苦しげに首を振っていた。

「わたしには……できません。あの人も、もう、わたしと共にいることを望まないでしょう。お願いですから、別の女性を選んでください」

 フィンのことになると、彼女の心はいとも簡単に揺れた。だからこの一年近く、彼女は彼に可能な限り近づかなかった。すれ違っても、目も合わせないようにした。すべては過去のことだと、忘れようとした。
 そう。あの早朝の厩の穏やかなひとときは、もう戻ってこないのだ。

「あなたは、フィンを好いているのでしょう」
「っ…………!? そ、そんなことはっ」

 自分の顔色が変わったことを自覚して、ラケシスはなすすべもなく動揺した。そんな自分を恥じて唇を噛みしめると、王妃はほんの僅かに、いたずらっぽい笑みを見せた。

「これでもわたくしは、あなたの倍以上の時間を生きているのですよ。その程度のことはわかります」
「で、でも」

 これだけは言わなくてはならないと、ラケシスは言葉を押し出した。

「わたしは一度、彼に酷い仕打ちをしました。もう、フィンはわたしを、許してくれないでしょう……」
「許せていないのは、あなた自身ではないの?」
「っ」

 王妃はゆっくりと立ち上がると、ラケシスに近づき、上気した頬に触れた。

「ラケシス姫。細工物のようにきれいなノディオンの姫。あなたは、知らずに重ねた罪を悔いるあまり、自らを失っています」

 息が詰まる。セルフィナに聞いてもらった懺悔の数々が、耳の中に木霊する。彼女にすべてを語ったのは、自らの罪を確かめるためでもあった。そして、その罪を背負い、自分は生きていかなければいけないと思っていた。

「ですが、姫。贖罪だけに生きる人間に、だれかを幸せにすることはできません。贖罪は、自分のためにすることだからです」

 王妃の断言に、魂すら貫かれた気がした。

「大切な人のために、自分がどうあるべきかお考えなさい。なにができるかとお考えなさい。そして、その生き様を以って自分だけの大輪の花を咲かせなさい。――あなたは、こうして生きているのですからね」

 王妃さま。つぶやいて立ち上がったラケシスを、アルフィオナは優しく抱きしめた。

「ふふ。まるでエスリンを抱きしめているようだわ……」

 夢見心地で囁いた王妃は、ラケシスの髪を手で梳いた。母の愛を知らずに育ったラケシスに、落ちた涙の温もりが染みていく。

「あなたは強い子ですよ。だからお願い。フィンが倒れてしまいそうになったときは、あなたが支えてあげて――」
「…………」

 胸の苦しさに、ラケシスは頬をゆがめた。まだ答えはでない。乱れた心の整理はできていない。
 しかし、道は確かに開けた。優しい王妃が、扉を開いてくれた。そう思えた。
 ラケシスは心からの感謝とともに、告げた。

「……はい。そのご意思、確かに受け取りました…………かあさま……」

 無意識のつぶやきを、王妃は咎めたりはしなかった。代わりにもう一度、しっかりとラケシスを抱きしめた。


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