せめてそれだけは許されるだろうかと


「聞いたとおりだわ。レンスターは本当に、正義の国なのね」

 ベッドに背を預けたラケシスは、ぽつりとつぶやいた。まだ起き上がることはできず、瞳もどこか夢を見ているようにぼんやりとしている。
 彼女の世話を任されたセルフィナは、曖昧にうなずきながら続きを聞いた。

「はるか遠くの、しかも数年も前に滅びた国の王族をかくまったところで、利用価値などないでしょうに。こんなふうによくしてくれるんだもの。国柄というものかしらね。わたしの国では、考えられないことだわ」
「……はい」
「ふふ。あなたには少し、退屈な話だったかしら?」
「えっ、……いえ。そんなことはありません」

 直視できないほどの美しい微笑みにたじろぎ、セルフィナは頬を染めてうつむいた。

(フィンはこんなにきれいな方を好きになったのね……私だってどきどきしてしまう)

 ラケシスが目覚めて二日目のことである。今日の午前中には、カルフ王が自ら赴き、ドリアスとともに見舞ってくれた。それが遠回しの取り調べであったことに気づくには、セルフィナは幼すぎた。彼女が本物のラケシス姫であることは、フィンの証言ではっきりしている。だが、シグルドとともにいた彼女がなぜレンスターにまで来たのか、事情をはっきりさせておく必要があったのだ。
 そんな思惑をどこまで理解していたのだろうか。ラケシスは、自分に起きたことを包み隠さず、淡々と話したのだった。

 シグルドの軍とはぐれたところ、夫とともに敵に襲われ、夫が食い止めている隙にイード砂漠に飛びこんだこと。
 兄嫁の生家を頼るために、身分を隠して見知らぬレンスターをさまよったこと。
 その途中、ひとりで子供を産み、ナンナと名付けたこと。
 ようやく発見した生家は盗賊に荒らされ、廃墟になっていたこと。
 なんとか行方を探そうと賊を追っていたところ、逆に目をつけられて追われたこと。

 カルフ王は、素直にラケシスに同情を寄せた。そして、身体が回復するまでここに留まり、その後は静養地で娘とひっそり暮らすなりすれば良いと伝えたのだった。

 ドリアスはあまり良い顔をしていなかったが、セルフィナの気持ちは王と一緒だった。こんな歳で夫を失い、頼る先も失って、一人で子供を抱いて異国をさまよったなんて。聞くだけで、涙が滲んでしまった。
 自分で力になれることがあれば、なんでもしてあげたいと思う。

「あ…………」

 つと、セルフィナを見ていたラケシスの長い睫毛が震えた。その目線が、自分の先を捉えているのだと気づいたセルフィナは、振り向き、はっとした。

 フィンが立っていた。
 今日は温かいから、風通しがよくなるようにと、部屋の戸を開けておいたのである。偶然通りがかったのだろう、フィンもわずかに驚きの表情を浮かべていた。
 セルフィナは突然のことに慌て、腰を浮かせた。

「そ、そういえば、フィンのことはご存知でしたよね。もしご希望でしたら、呼び――」

 だが、フィンが動くほうが早かった。彼はこちらに向き直ると、胸に手をあてて一礼し、また向きを戻して歩み去ってしまったのであった。
 騎士としては、うっとりするほど完璧な動きだった。しかし、それがなによりはっきりとした拒絶であることは、セルフィナにもわかった。
 ラケシスは傷ついたように目を見開き、そして顔をそむけた。
 目眩のするような沈黙が、落ちた。

「……当然の報いね」

 ぽつりと、つぶやきがこぼれる。自分には見通せないほど深く悲しい響きに、セルフィナは眉をさげた。

「フィンはきっと恥ずかしがっているだけです。すこし時間をおけば、きっと来ますよ」

 ラケシスは目を閉じて、首を横にふる。――と、横で寝ていたナンナがぐずりはじめた。自分の胸の上に乗せてあやしながら、ラケシスは自嘲の笑みを浮かべた。

「わたしはね、一度、彼の思いを踏みにじったの。あのころのわたしがどれだけ無知で、世間知らずで、身勝手だったか。ひとりで旅をして、心から思い知ったわ……。だからこれは、当たり前のことなのよ」
「ラケシス様、そんな……」

 泣きそうになると、ラケシスは鈴のような笑い声を漏らした。

「あなたは優しい子ね、セルフィナ。――ねえ、しばらく、話し相手になってくれるかしら。あなたになら、いろんなことが話せそうだわ……」

 目の前で微笑む彼女は、とてもきれいな人。でも、その有り様は悲しげで。いま触れたら消えてしまいそう。
 どうしようもなく胸が苦しくなって、セルフィナは、はい、と返事をした。


 一方、フィンは、厩のほうが騒がしくなっていることに気づいた。
 何事かと思い外に出てみると、馬丁や見習い騎士たちが縄をかけられた一頭の馬を無理矢理引いている。茶色く汚れ、全身に怪我を負った馬は、目を血走らせ、狂ったように鳴いて足を踏ん張り、彼らに反抗していた。
 見習い騎士のひとりを捕まえて事情を聞くと、こんな答えが返ってきた。

「先日保護された貴人の馬なんですが、気性が荒くて手のつけようがなくて。いまも塀を壊して逃げたんです。ようやく捕まえましたけど……もう、どうしたらいいのやら」

 胸に痺れが走り、フィンは馬をもう一度見た。
 あまりにぼろぼろなので気付かなかったが、よく見れば、それは彼女が世話をしていた白馬だった。

 ――この子はね、わたし以外に触られるのが大嫌いなのよ。

「…………」
「あっ、フィン様! 近づくと危ないです、もう何人も怪我人がでてるんですよ!」

 制止を無視して、フィンは馬の斜め前から、足音を立てて近づいていった。
 その音が届いたのか――馬は、不意に硬直した。首を下ろし、フィンを瞳に映して、鼻を鳴らし、ゆっくりと耳を後ろに倒していく。
 フィンはしばらく馬と視線を通わせると、変わり果てた色をした首筋に、そっと手で触れた。

「な……?」

 辺りが、驚きに包まれた。この隙に縄を引っ張ろうとする者を手で制し、フィンはゆっくりと首筋から頬、鼻面を撫でていく。
 だれかが、あっと声をあげた。馬の身体が傾ぎ、どうと音をたててその場に横倒しになったのだ。
 フィンは膝をついて馬の頬を撫でながら、素早く傷の状況を調べた。
 しかし――手遅れであることは、すぐにわかった。切り傷に矢傷、擦り傷。いままで生きていたのが不思議なほど、深い傷をあちこちに負っている。気力だけで、立っていたのだろう。自らの主を、守るために。フィンは、目を伏せる。

「さすがフィン様だ。あの暴れ馬をこうも簡単に鎮めるなんて……」
「当然だ、あの方はキュアン王子の馬番でもあったんだぞ。御せない馬がいるわけがない」

 ざわめく周囲に向け、フィンは静かに言った。

「――残念だが、助からない。水を持ってきてくれ。最後に飲ませてやりたい」
「はっ」

 すぐに見習い騎士たちが桶に水を汲んでくる。
 フィンは、馬の頭を膝に乗せ、桶を近づけて水を飲ませてやった。他の者たちはいまだに恐れているようで、遠巻きに様子を伺っている。
 弱々しい鳴き声をあげる馬のたてがみを梳いてやりながら、フィンはそっと顔を寄せた。
 それだけは言うことを許されるだろうかと。

「あの方を守ってくれて、ありがとう」

 だれにも聞こえぬように。だれにも悟られぬように。

「私の大切な方を守ってくれて、ありがとう……」

 彼と同じ相手に恋をした馬は、仔馬のように高く鳴いた。
 その身体が完全に動かなくなるまで、フィンは汚れた毛並みを撫で続けた。


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