流浪の貴人


 髪を整え、襟元を上まできっちりと閉める。マントの留め金をつけ、ひだに注意しながら後ろに流す。最後に白手袋をはめる。
 ゆるりと目を開いたフィンは、紛れもなく騎士の顔をしていた。

 身なりを整えると、まずはリーフ王子の寝所へ。近衛長を命じられたフィンの寝室は王子の隣室に移され、いつでも駆けつけられるようになっていた。

 部屋に入ると、ちょうど授乳を終えた乳母が、リーフを抱いて奥から戻ってきたところだった。

「フィンさま、おはようございます。めっきり寒くなりましたねぇ」
「おはようございます」

 礼儀正しく腰を折ったフィンは、柵のあるベッドに寝かされたリーフの顔を覗きこんだ。

「おはようございます、リーフ様」
「あー……あー……」

 リーフはフィンを見上げ、四肢をじたばたさせる。黒目がちの大きな瞳は、父親そっくりの暗い赤銅色。面立ちがはっきりしているからか、こちらに興味を持っている様子なのがよくわかる。
 柵越しに手を入れると、リーフはフィンの指を握ってきゃっきゃと喜んだ。

「本当にリーフさまはフィンさまがお好きなんですねぇ」

 暖炉に薪を足しながら、乳母が頬を緩ませた。フィンは「ええ……」と曖昧に返した。昔は笑顔を返せたはずなのだが、いまは、うまく笑うことができない。

 隙あらばフィンの白手袋を奪おうとするリーフから手を離し、立てかけておいた槍をとると、フィンは一礼して部屋を辞した。

「見回りに行ってまいります」


 バーハラの悲劇から、半年が経っていた。いまだにレンスター王国はグランベルと緊張状態が続いており、トラキアとは激しい戦の最中にあった。

 バーハラの悲劇について聞いたとき、フィンの脳裏に金髪の少女の姿が過ぎらなかったといえば嘘になる。
 心はうずいた。彼女は無事だろうか。あの男は彼女を守ってくれただろうか。自分の権限を使って調べさせようかとも思った。

 だが、心に刻まれた亡き主君の言葉が、彼に短絡的な行動をためらわせた。


 ――よく聞け、フィン。心に思いを宿すのは構わない。守りたいものを守るのは構わない。それは人として大切なことだ。
 ――ただ、心を乱し、自分がもっとも大切にするべきことを見失ったら、おまえはだれひとりとして守れないぞ。


 自分がもっとも大切にすべきこと。それはリーフの存在にほかならない。
 簡単に心を乱すようでは、リーフの守役に指名してくれた主君に顔向けができないではないか。

 ――はい、わかりました。キュアン様。

 フィンは自身の中にいる主君に向けて答えると、そっと心のざわめきに蓋をしたのである。


 王族の寝所の周辺を警備していると、グレイドがやってきた。彼は対トラキア戦で目覚ましい戦果をあげて部隊長にまで昇進し、セルフィナとの婚約をドリアスから許されたところだった。

「グレイド、戻ってきていたのか」
「ああ。だが、明後日には再出撃だ。――あのハイエナどもめ、追い払っても次から次へと沸いてくる」

 眼に憎悪を込めて、グレイドは言った。その眼差しが、王子夫妻と姫を惨殺し亡骸を辱めたトラキア軍に対するレンスターの感情を如実にあらわしていた。
 ところが、グレイドは戦いの話はそこそこに、こんな依頼をしてきたのである。

「それより、おまえに会ってほしい人がいるんだ。行き倒れの貴人を拾ったんだよ」

 フィンは、怪訝そうにグレイドを見返した。

「行き倒れの、貴人?」
「アルスターとの国境近くで、山賊たちに狙われているところを私の部隊が助けたんだ。赤ん坊を連れた異国の若い女だったんだが、身分の高そうな顔をしていてな。持ち物にも貴金属が入っていた。明らかに庶民ではない」
「……トラキアの間者である可能性は?」

 声を潜めたフィンに、グレイドは静かに首を横に振ってみせた。

「可能性は低い。容姿を見るに明らかにトラキア人ではないし、密入国したにしてもぼろぼろすぎる。憔悴して、いまだ意識を取り戻さないんだ。だが――その判断が正しいか、おまえにも見てもらいたい。いま、城下の屋敷でセルフィナが看病している」
「わかった」

 フィンは承諾すると、グレイドにリーフの部屋番を代わってもらい、すぐに城下へと赴いた。トラキアの間者であれば始末しなければならないし、本物の貴人であれば、相応の対応をしなければいらぬ火種となる。

 ドリアスの所持する屋敷のひとつに着くと、フィンはすぐに最上階の部屋に通された。廊下に、赤子の泣き声が響いている。

「あ、フィン……きてくれて、ありがとう」

 出迎えたセルフィナは、抱いた赤子をうまくあやせないようで、四苦八苦していた。フィンはつと眉をあげる。リーフやアルテナを見ていたからわかることだったが、その赤子は生まれてから一ヶ月ほどしか経過していなかった。

「女の子なの。さっき、お乳のでる人にきてもらって、飲ませてあげたんだけど。お母さまが目覚めないから、不安なのね」
「母君は」
「こっちよ。顔を拭いてあげたら、お人形さんみたいにきれいな人でびっくりしたわ」

 続きの間に案内される。豪奢な天幕のかかったベッドに、金髪の娘が寝かされている。

 がつん、と後頭部に殴られたような衝撃が走った。

「ね。美しい方でしょう。どこかの身分の高い方に間違いないと思うんだけど」
「……」

 拳を固く握る。足の裏に意識を集中し、自らの立つ位置を見誤らないようにする。眼を固く閉じ、開く。
 フィンは、無言で踵を返した。

「えっ、ちょっとフィン。もっとちゃんと見たほうがいいわ。きれいな方だから、気が引けるのはわかるけど――」
「すぐにドリアス伯を呼んで、対応を協議してもらってくれ」
「え?」

 追いすがるセルフィナを突き放すように、フィンは言った。

「彼女はノディオン王国の姫、ラケシス様だ」
「――――」

 ラケシス。セルフィナの唇が動く。彼女の記憶がキュアンとの会話を呼び起こし、凝然とフィンを見上げさせる。
 だがフィンは、すでに彼女の顔を見ていなかった。赤子の鳴き声を背中に受けながら、早足に屋敷を出ていく。

 馬を駆って城に戻る途中、フィンは自らの胸に手を当てた。心臓は、壊れたように早鐘を打っていた。一回りも小さくなったように見えるラケシスの憔悴した顔が、眼に焼き付いて離れなかった。あの男は、なにをしていたのだ。そんな憤怒が、ちりちりと心を焦がす。

 だが――。フィンは、自らを落ち着けるために、祈るように口にする。

「心に思いを宿すのは構わない。守りたいものを守るのは構わない……。それは人として大切なことだ」

 深く息を吐き出し、荒れる気持ちを押さえつけていく。

「ただ、心を乱し、自分がもっとも大切にするべきことを見失ったら、だれひとりとして守れない……」

 胸を強く掴み、フィンは自らの意思を確かめた。

「私が守るべきは、リーフ様だ」

 もう心を乱すものか。自分の命を捧げる先を、見誤るものか。
 瞳を開いて前を向いたフィンは、腹を決めると、心の中に息づく少女に、無言で背を向けた。


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