レンスター夫妻の午後


「エスリン! 春だ! 春が来たぞぉーーッ!!」

 勇ましく扉を開けて現れたキュアンに、花瓶の水を取り替えていたエスリンはキョトンと目を瞬いた。

「えっと、キュアン。いまは春じゃなくて、夏の終わりよ?」
「そうじゃない! フィンだ! フィンに、春が来たんだよ!」

 テーブルに両手をついて訴えるキュアンの顔は、悪戯を自慢する子供のように輝いている。
 エスリンは首をかしげつつ、しばらく夫の話を聞くことになった。

「――つまり、フィンがラケシス様と話していたというの?」

 夫に紅茶のカップを差し出しながら、エスリンは興味津々に問うた。

「そうだ! アーダンが見たらしいんだよ、毎日のように早朝、厩で親しげに話してるらしい!」
「まあ、あのフィンが……」
「そうだよ、あの生ける朴念仁、いかなる美女を見せても反応なし、女という女に全く興味を示さなかったフィンが! よその女と会話してるんだぞ! これは記念すべきことだッ!」
「まったくね。ほんとうにフィンは真面目すぎるというか、奥手だから……」

 夫婦は顔を見合わせると、共犯者の笑みを浮かべてうなずきあった。

「シグルドの馬鹿もそうだったが、あいつ、16歳にもなって女の経験がないってのがおかしかったんだ。おまえが16の頃なんて、もう俺んとこに嫁にきて、そりゃあ熱烈な――ボッ」
「そういうことを言うんじゃありません! もうっ!」

 ミトンをキュアンの顔に投げつけたエスリンは、赤面しながらも手を頬に添えた。

「それより、わたし、彼に別の趣味があるんじゃないかって心配しちゃったわ……ううん、でもこれはこれでちょっと残念なような……そんなような……」
「そうだ、持ってきたワインがまだ一本残ってたよな? 今晩にでも開けよう! 祝杯だ!」

 明後日なことを考え始めるエスリンをおいて、キュアンは喜々として提案した。
 この頃は、グランベルとアグストリアの関係が緊張化しており、和平の提案に向かったエルトシャンの行方もいまだ不明だ。ノディオン城に陣取ったシグルドたちには、安心できない日々が続いていた。
 そんな中で、珍しく明るい話題が入ってきたのである。キュアンの喜びようも当然であった。

「でも、大丈夫かしら……」
「なにがだ?」

 エスリンは、紅茶のカップを両手で持ち、不安げに言った。

「よりによってお相手がラケシス様だなんて。フィンにとって、傷つく結果にならないかしら」
「…………」

 考えこんだキュアンは、自分の髪をかき回した。
 若い見習い騎士と、一国の姫君。まるで戯曲のような取り合わせだ。しかも、悲劇によくでてくるパターンである。
 これまで特に目をかけてきた配下を慮りつつ、小さな声で彼は返した。

「……ま、可哀想だが、成就はしないだろうな。立場的なまずさはあいつもわかっているだろう。エルトシャンの妹も、結婚しないって自分で宣言してるらしいしな」

 するとエスリンは、恥ずかしそうに上目遣いでキュアンを見つめる。

「でも、恋は盲目っていうでしょう。私だって、もしあなたとの結婚に反対されていたら、……その。どうしていたかわからないわ」
「あーっ! エスリン、おまえは本当にかわいいな!? キスしていいか!?」
「そういう話じゃないの! もうっ、私、本気で心配してるのよ!」

 飛びかからんばかりの夫の熱い抱擁を、細身に似合わぬ怪力で押しとどめながら、エスリンはさらなる疑念を告げた。

「そもそも、フィンはただラケシス様とお話をしているだけなのでしょう。気持ちとしては、どのくらい好きなのかしら……」
「言われてみれば、それは確かめる必要があるな」

 妻へのアタックを諦めて席に座り直したキュアンは、顎に手を当てて唸った。

「一番うれしいのは、あいつがまだ自分の恋を自覚してなくて、相応の女にそれを発揮してもらうことなんだが……まあ、そんなのは他人の身勝手な願いだな」
「恋だと決めつけるのもよくないわ。ほら、ラケシス様はおきれいだけど、男勝りなところもあるでしょう。そういうところが話しやすかっただけかもしれないわ」

 そんな会話をしていると、ちょうど、部屋がノックされ、紙束を手にしたフィンが入ってきた。

「失礼します。キュアン様、来月のレンスター軍への食糧と物資配分の内容が決まったので、ご承認をいただきたいのです、が……?」

 フィンの最後のほうの言葉が消えていく。入った途端、キュアンとエスリンに穴があくほど凝視されたためである。

「あ、あの、なにか」
「フィン、ちょっと座れ」

 トントン、とキュアンはテーブルを指で叩いた。

「えっ、しかし、すぐに承認をいただいてシグルド様のところに持っていかないと」
「あのバカは待たせておけばいい。座れ」
「ですが」
「す わ れ」
「…………はい」

 キュアンの眼光に押され、フィンは恐る恐る席についた。几帳面に書類を整えてテーブルに置き、ちらりと主君の顔色を横目で伺う。
 だが、緊張しているのはキュアンも同じだった。
 押し出すように、そっと言う。

「おまえ、エルトシャンの妹と仲がいいらしいじゃないか」

 フィンの反応は、鮮やかであった。

「えっ……」

 言葉を詰まらせたかと思えば、面白いほどに頬を紅潮させる。膝の上で拳を彷徨わせ、せわしなく肩を揺らし始める。助けを乞うように視線を泳がせ、なにかを言いかけて口を閉じ、そしてこちらの息が詰まりそうな弱々しい声で。

「いっ、いえ、別に、その。偶然、お会いすることがあったので、す、すこし、お話させていただいただけで、けけ決して、私のような者が仲が良いなどということはっ!」

((……わかりやすい))

 キュアンとエスリンは同時に同じことを考え、さりげなく視線を通わせて双方の意見の一致を確認した。

 恋しちゃってる。
 それはもう、完璧に。ぞっこんに。

「も、申し訳ありません! 身にそぐわぬこととはわかっております。キュアン様がおっしゃるなら、もう二度とお話はいたしません!」

 どうするの、と目で問いかけてくるエスリンであったが、キュアンは鼻からひとつ息を抜いてフィンの言葉を止めた。

「おいおい。そんなに焦るな。べつに怒ってるわけじゃないんだ」
「え……?」

 フィンが顔をあげる。エスリンも、怪訝そうにこちらを見ている。
 キュアンは、頬杖をついて手をはらはらと振った。

「単におまえが他人ときちんと話せるようになったのが嬉しいだけだよ。おまえ、これまで他国の連中と馴れ合おうとしなかっただろう」
「あ……それは」
「わかってる。見習い騎士の身分で声をかけるのに気が引けてたんだろ。だが俺は、もう少し自然に話せるようになってほしいと思ってたんだよ」
「……はい」

 主君の目的が叱責ではないと気づいたフィンは、ようやく平静を取り戻したようだった。しかも、主の思いやりに感じ入ったように、神妙にうなずいている。

「その調子で、他の奴らとも話してみるといい。他国の文化や風習を知り、見識を広めておけば、騎士になってからも役に立つぞ」
「はい!」

 ようやく笑顔を見せたフィンに、キュアンは目を細めてうなずいてみせた。

「それだけだ。じゃあ、書類を見せろ」
「はい、わかりました。キュアン様」

 キュアンが手早く書類を確認してサインをすると、フィンは胸に手をやって礼をし、部屋を出ていった。


「……キュアン。あれでいいの?」

 扉が閉まり、足音が遠ざかると、エスリンが心配そうに聞いてくる。

「ああなった以上、止めたら逆効果だろうからな」

 憮然とした顔でキュアンは紅茶を飲み干し、目を眇めた。

「まあ、いずれ自制するだろう。それだけの理性は持ってるやつだ」
「……そうね。でも、傷が大きくならないように、きちんと見ておいてあげないと」

 彼が出て行った扉を気遣わしげに見つめているエスリンに、キュアンは軽く笑ってみせる。

「知らなかったか? あいつは俺が育てたようなものだ。あいつのことは、俺が一番見ているし、わかってるよ」

 目を閉じれば、先ほどのフィンの無垢に返答する姿が思い出される。

 昔からフィンはそうだった。真面目で、純粋で、まっすぐで、そして優しい。
 兄弟のいなかったキュアンにとっては、目の離せない弟のような存在であった。
 だが、傷つき、苦しむこともまた成長には必要だ。
 だからこそ、キュアンは彼を見守ってやろうと思う。

「まあ、あの年頃はなんでも勉強だ」

 エスリンが無言の同意を伝えるように、紅茶のおかわりを入れてくれる。
 キュアンは微笑を浮かべ、書類を手にとった。

 ――彼のその判断が正しかったのか、誤っていたのか。
 ――どちらにせよ、運命の歯車は、このとき、静かに回り始めていた。


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