遺書 ――おまえもランスリッターのはしくれだろうが。 ――キュアン様が自ら槍を下賜された相手は、あなただけなのよ。 耳の中で、ぼんやりと知った声が木霊している。 けれど。本当に自分が立派な騎士であれば。キュアンはきっと、自分を連れていってくれたはずだ。 なのに自分は置いていかれてしまった。 自分の価値を認め、居場所を作ってくれた人は、もういない。 はじめて声をかけてもらったときから追いかけ続けた影は、もういない。 あの人の後ろでしか生きていくことのできない自分に、力は残されていない。 いま考えれば、すべてが虚しい。 あの人の期待に応えるのが、自分の役割だと思っていた。そのために、胸に抱いた仄かな気持ちさえ捨てた。その結果、欲しかったものが得られなくても、涙とともに押し込めた。そして、自分には、レンスターの騎士としての道があると信じた。その道を進めば、きっとあの人は喜んでくれると思った。信頼し、価値を認めてくれると。こんなに弱い自分でも、生きていて良いのだと。彼だけがそれを許してくれると、信じていた。 快活な笑顔が、闇の向こうで瞬いている。その横には、童女のように微笑むあの人の妻が。 お願いです。 私を導いてください。 あなたのいる草原へ、連れていってください。 涙が伝う。嗚咽が漏れた。身体が冷たい。なのに、頭の芯だけが、焼けつくように熱かった。 そのとき、呼び声が耳朶を叩いた。 「フィン」 耳に染む懐かしい声。あの人が、自分を呼ぶときの声。 「――っ」 心が沸き立つ。 迎えにきてくれた。あの人が。 それだけで全身が歓喜に震え、フィンは声のほうに向き直った。身体にうまく力が入らない。立つことができない。それでも、手を床について身を起こす。 「キュアン様……」 戸から入ってくる主君の姿。唇を震わせながら、フィンはその顔を仰ぎ見る。 そして、それが焦がれた主君ではなかったことに、ようやく気づいた。 白髪の混じった栗色の髪。口元にたくわえられた髭。武人らしい精悍な眉と目元は、彼にそっくりであったが……。 「――カルフ王」 レンスター王国の頂点に座す壮年の国王を、フィンはただただ見上げることしかできなかった。 カルフ王の後ろには宰相のドリアスが控え、さらに奥ではセルフィナが両手を胸に当て、思いつめた顔でこちらを見つめている。 そしてカルフ王の腕の中には、生まれたばかりの赤子が、静かに眠っていた。 なぜ兵舎に王と宰相がいるのか。なぜ大切な王子が連れだされているのか。鈍重な思考は、ろくな答えを返さない。 呆然としていると、カルフ王が痛ましげに眉を寄せた。 「息子の件で、そこまで泣いてくれるか。あれも天上で喜んでいよう」 まともに言葉を賜るのは、叙勲式以来であった。キュアンによく似た声だ。それが悲しくて、フィンは、喋ることができない。 横からドリアスが咎めるように言った。 「フィン、王の御前だぞ。それがものを聞く態度か」 「………………は」 床にへたりこんでいたフィンは、緩慢な動きで片膝を立て、手を胸にあて、臣下の礼をとる。なにが起きているのか、いまだに理解できなかった。 するとドリアスは、厳かな口調で言った。 「おまえに王からの辞令だ。謹んで拝命せよ」 「…………は」 過去にもそうしたとおり、フィンは短く応える。混乱に顔を伏せていると、カルフ王はよく通る声でフィンの名を呼び、こう告げた。 「本日をもって、おまえのランスリッターの任を解く」 「…………」 頭の奥がぼうっとして、しばらくは思考ができなかった。だが、じわりとその言葉は、フィンの心に染みていった。 一体あれから何日が経ったのだろう。それまでの間、出仕を拒否していたのだ。任の剥奪は、当然の罰ともいえた。 そうか。これは、弱い自分への当然の報いなのだ。 目眩の中で考えていると、カルフ王はさらに続けた。 「ならびに、本日をもって、おまえをリーフ王子の近衛長に任命する」 耳を疑った。 「…………え?」 そもそも、レンスター王国軍に、近衛団は存在しない。 王は自らゲイボルグを手にランスリッターを率いるべし。兵に守られて後方で座す王など、王ではない。それが先祖であるノヴァの教えであったのだ。 カルフ王は、低い声で詳細を告げていく。 「おまえの使命は、ひとつ。すべての任務、すべての状況に優先し、リーフ王子を守護するのだ。この命は、リーフ王子が成人する日まで効力をもつものとする」 キュアンと同じ響きをもつ言葉が、ひとつひとつ、心に響き渡る。 フィンは、王の抱く赤子を瞳に映した。稚い寝息をたてて、赤子は眠っていた。 ――レンスターに残された、最後の希望。セルフィナの言葉が耳に蘇る。 突然のことにどうしていいかわからず、面をあげると――カルフ王は、にんまりと不敵に笑ってみせた。 「おまえ。いま、息子を失った私がやけくそで命じたと思っただろう?」 「……え、あ」 喉は干からびていて、うまく言葉がでてこない。カルフ王は笑みを消すと、真摯な眼差しで続けた。 「みなの総意で決定したことだ。ただし近衛長といっても、配下はない。おまえはひとり、片時も離れずリーフを守るのだ。やってくれるな?」 「…………」 意識がうまく操れず、視界が明滅する。手が冷えていて、感覚がなかった。必死に、一言だけフィンは押し出した。 「……なぜ、私に……?」 「フィン、おまえは王の決定に異を唱えるつもりか」 「良い、ドリアス。訊かれずとも、これを見せるつもりだった」 カルフ王は懐から、小さな巻物を取り、フィンに差し出した。 「これはキュアンの遺書だ。最後の部分を、読むがいい」 遺書の存在は、驚くべきことではなかった。日頃から死の危険と隣合わせにあるレンスターの騎士は、日常にあっても遺書を作っておく義務があった。フィンも、自分の遺書を部屋の決められた位置に置いている。家族がないため、ろくなことを書いていないが。 だが、いざキュアンの遺書を前にすると、指が震えた。息を呑み、恐る恐る紐をといて開くと、懐かしい筆跡が目に飛びこんでくる。 中には、びっしりと自身の死後の指示が書いてあった。大雑把なように見えて、人のことをよく見ていたキュアンである。混乱が起きないようにと、内容からは、細やかな心遣いが感じられた。 カルフ王に言われたとおり、フィンは最後の段に目を移した。 そこには、リーフ王子の処遇について、思いがけないほど短く書いてあった。 『私の亡き後は、リーフの守護を騎士フィンに一任する』 はじめは、字の上を目が滑った。 ようやく心に理解が訪れると、言葉の雫が波紋を呼び、身体の隅々まで広がっていった。 そうしてフィンは、続く内容を目にする。 『リーフが彼のように強く立派な騎士に育つことを、心から願うものである』 「――――」 そのとき、温かく優しい気配が、自分の肩をいつものように叩いたような気がした。 フィン、頼むぞ。 置いていく理由は、おまえを一番に信用しているからだよ。 そんな顔をするな。 「…………っぁ」 フィンは反射的に巻物を身体から離した。そうでなければ、涙が主の言葉を汚してしまう。 だがそれ以上はできなかった。全身が頼りなく震え、頭が真っ白になり、意識は暴走した。涙が、流れ続けた。 「キュアン様、キュアンさま、ぅぁあ、あああぁっ…………」 恥も外聞もなく泣く若い騎士を、国王がそっと気遣って膝をつき、背を叩いてくれる。 王の腕の中では、いまだなにも知らずに眠りつづける希望の象徴が、わずかに声をあげた。 もう泣かないで、とつぶやくかのように。 続きの話 戻る |