喪失の後に


「おい、フィン、いるんだろ。開けろ! 開けるんだ!! ――んのっ!!」

 鍵のかかった戸を無理矢理に蹴破り、グレイドは中に押し入った。
 レンスターでは、騎士団の独身者には兵舎に個人の部屋が与えられている。空気のこもった狭い室内は夜のように暗く、足の先から闇が這い上がってくるようにさえ思えた。
 グレイドは顔をしかめながら、戸から差しこむ明かりを頼りに、辺りを確かめる。テーブルの上のものは床に散乱し、割れたガラスが飛び散っている。壁に立てかけられていた槍は無残に倒れている。ベッドの上は無人。だが、その影で、膝を抱えてうずくまるフィンの姿があった。

「……フィン! おい、大丈夫か!」

 ぴくりともしない親友の姿に、こめかみが冷たく痺れる。まさか死んでいるのではないだろうか。
 肩を揺さぶると、フィンの身体が人形のように揺れた。だが、目蓋が震え、開く。――生きている。
 それだけで胸がほっとして、グレイドは再び眉を吊り上げた。

「しっかりしろ。こんなときだからこそ、私たちが毅然とした態度でいつづけるべきだろう」

 フィンは答えない。垂れた前髪の下で薄く開いた瞳は灰色に淀み、なにも映していなかった。やつれた頬には涙が伝った痕。しわになった服を着た身体は弛緩したまま、冷たくなっている。放っておけば、このまま暗がりに溶けてしまいそうであった。

 イード砂漠の悲劇の一報は、レンスター城を悲しみの底に叩き落とした。キュアンとエスリンの首は持ち去られており、身につけていた武具や金目のものはすべて略奪され、酷い有様であった。残った遺体の服と古傷の痕から、ようやく本人であることが確認されたほどだ。王女アルテナは、亡骸すら見つからなかった。
 喪に服す城内で、フィンが出仕していないことに気づいたグレイドは、慌てて彼の部屋に駆けつけたのである。

「辛いのはおまえだけじゃないんだぞ。私だって泣きたいさ。だが、泣いて何になる。我々には、残された国を守る使命があるんだぞ! おい、フィン! 聞いているのか!」
「――――」
「しっかりしろ! おまえもランスリッターのはしくれだろうが!!」
「――、――」

 グレイドは、フィンの青ざめた唇が、かすかに動いていることに気づいた。顔を寄せて、耳を澄ませると、消え入りそうな声が聞こえてくる。

「…………私は、なぜ、命令を違えてもお供につかなかったのだろう」

 全身の血液が、沸騰した。ぎり、と歯を食いしばり、グレイドはフィンの胸ぐらを掴んだ。

「思い上がるな!! 砂漠で足がとられたところを狙われたんだぞ。 おまえひとりが行って、なにが変わった!? なにもできず死んでいたに決まっている! キュアン様率いる、ランスリッターの精鋭とともにな!」
「…………それで、いい。キュアン様とともに、死にたかった」
「――ッ」

 グレイドは拳を振り上げると、思い切りフィンの頬に叩きつけた。鈍い音。フィンの身体が受け身もなく床に倒れる。手入れを忘れられた青い髪が散らばる。練習試合では地に転がってもすぐに目に光を戻して起き上がってきたのに。青空の下で、いつも背筋を伸ばしていたのに。フィンは頬に手をやるどころか、身じろぎすらしない。殴った己の拳だけが、熱くて、痛い。

「っかやろ……馬鹿野郎、馬鹿野郎!」

 目から熱いものを零しながら、グレイドは叫んだ。そんな自分の姿が惨めで、親友の姿をもう見ていたくなくて、踵を返して部屋を飛び出す。

「っ、グレイド!?」

 部屋を出たところで、盆を手にしたセルフィナとすれ違う。しかし、今だけは顔をあわせられなかった。

 走り去るグレイドを呆然と見送ると、セルフィナはフィンの部屋に入っていった。本来なら騎士団の兵舎に女性が入ることは許されていなかったが、無理を言って入れてもらったのだ。盆には、焼きたてのパンと、湯気をたてるスープの器が乗っている。

「フィン……」

 横倒しになったフィンを見て、セルフィナは足を止めた。あまりの痛々しさに、涙が一滴、こぼれ落ちる。悲報を聞いたとき、もう一生分泣いたと思ったのに。
 だが、セルフィナは気丈な娘だった。唇をきゅっと噛み締め、盆をテーブルに置くと、フィンの元に寄って、身体を起こす。

「しっかりなさい、フィン。ちゃんと自分で立つの」

 反応がなくても、無理矢理彼を床に座らせた。手早く散らばったものを片付け、倒れた槍も、重さに顔をしかめながらも元に戻す。と、最後の一本に、手がとまる。

「……これ、キュアン様からいただいた槍じゃない……」

 眉を潜めたセルフィナは、それも丁寧に埃を払って元に戻すと、フィンの前に座り、目線を合わせた。

「フィン。よく聞いて。レンスター軍はキュアン様と、主力の半分を失ったわ。トラキアはここぞとばかりに南から押し寄せてきているの。国王さまも、王妃さまも、お父様も、グレイドも、騎士団のみんなも、寝ずに働いているわ。キュアン様が愛したレンスターを、守るために」

 拳を固く握りしめ、セルフィナは語りかけた。

「だってこの国には最後の希望が――リーフ様がいらっしゃるのよ」

 それでもフィンに反応はない。セルフィナは床に手をついて、身を乗り出す。

「ねえ、知ってる? キュアン様が自ら槍を下賜された相手は、あなただけなのよ。あなたはそれだけ期待されていたの。そして、生き延びたあなたには、期待に答える義務があるのよ! だから立ってよ。ねえ、フィン、なんとか言って! お願い……っ」

 悲痛に叫んでも、身をよじって泣いても、彼の心には届かない。

「私、これ以上、大切な人を失いたくないの……。お願いよ、フィン……」

 空気は虚しく冷えていく。閉塞感が、セルフィナの心を支配する。もう、誰の声も届かないのだろうか。
 駄目。セルフィナは首を振る。レンスターの女は、最後まで希望を捨ててはならないと死んだ母に教わった。
 すっくと立ち上がったセルフィナは、涙を袖で乱暴に拭うと、おさげを踊らせながら、フィンの部屋を出て走りだした。


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