あなたなんて、大嫌い


 その見透かすような軽薄な眼差しも。
 片頬だけ吊り上がる皮肉げな笑い方も。
 固くて無骨なのに、驚くほど優しい大きな手も。

 みんなみんな、大嫌い。


「なぜイザークに行かなかった」

 ベオウルフは本気で怒るとき、怒鳴ったりはしない。ラケシスに二度と手首を切るなと言ったときと同じように、静かに、それでいて肚に響く声で怒りを顕にする。
 イザークへの道中から引き返してきたラケシスはたじろぎつつも、馬上から答えた。

「デルムッドは予定通りイザークに向かわせました。わたしは、残って戦います」
「戦う? あんたになにができるっていうんだ」
「……なんだってできるわ」

 彼女の腰には、細剣と大地の剣。反対側にはリライブの杖。背には弓。馬には手槍がくくられ、そして腰帯のポケットからはサンダーの魔道書が覗いている。

「あのなあ、なんでもチビチビ習いやがって、武器をいくつも持ってるからって強くなったと思ったら大間違いだぞ!」
「そうね」

 宝石をはめ込んだような瞳に、痛烈な眼光を湛え、ラケシスはベオウルフを睨みつけた。

「わたしは剣ではアイラに勝てない。弓ではブリギッドに敵わない。魔法はなんとか初級の魔道書が使えるだけ」
「わかってるじゃねぇか」

 ベオウルフは酷薄に笑う。だが、その額に脂汗が浮いていることは、ラケシスも気づいていた。
 実際は、どれも一流とはいえずとも、人並み以上にこなすことができるのだ。シレジアの内戦を少ない手勢で乗り切ることができたのは、彼女の活躍が大きかった。戦場で白馬を駆り、手数の多さを武器に勇猛に敵に向かう美しい姫騎士の姿は、ともすれば劣勢に挫けそうになる兵を大きく勇気づける結果をもたらしたのだ。
 そして、もっとも大きく変わったのは、顔つきである。わざと高飛車に振る舞うことで自分を保っていた危うい少女は、今や決然たる意思を胸に、ベオウルフを前から見据えている。

「言ったでしょう、もう決めたの。わたしは強くなる。シグルド様の身の潔白を証明して、アグストリアを取り戻す。そして、デルムッドが安心して暮らせる世を作るの!」
「…………」

 ベオウルフは苦虫を噛み潰したような顔で答えた。

「その脳みそお花畑なところだけは、変わんねえよな」
「お黙りなさい、傭兵。さっさとシグルド様のところへ連れていって。時間がないのでしょう」
「……ったく」

 ベオウルフは不機嫌そうに舌打ちをすると、手綱をとって元の道を引き返し始めた。
 左手を見れば、草原はすぐそこで途切れており、その先に広大なイード砂漠が横たわっている。
 草原伝いに進めば、シグルドの軍に合流できるだろう。

「ドズル家との戦いで多くの犠牲が出たのは知ってるだろう」
「ええ」
「次の相手はトールハンマーだ。まともに戦えば、うちの軍は間違いなく全滅だぞ。あんたはそれがわかっているのか」
「ならどうして、あなたは残っているの?」
「俺は傭兵だ。払ってもらった金の分は働くさ」
「おかしいわね。あなたは自分の命が一番だって、いつも言っていたのに」

 言葉に詰まったベオウルフは、しばしの沈黙の後、ハッと笑った。

「成長したもんだな、お姫さん。――もう、俺の助けはいらないか?」
「っ」

 今度はラケシスの目に動揺が走った。見上げるベオウルフの横顔は、皮肉げな笑みを湛えている。
 何度も甘えてしまったその顔に、ラケシスは激しい胸の痛みを覚える。

「あ、……あなたには、その。……感謝、しています」

 もっと他に言いたいことがあるのに、ぶっきらぼうな言い方しかでてこなかった。するとベオウルフは、唇を歪めて言った。

「いい加減に素直になれよ」
「え?」
「俺のことは、好いていなかったんだろう」

 思考が停止した。ラケシスは、呆然とベオウルフを見返した。

「別に構いやしねえよ。俺だってあんたを利用したようなもんだ。エルトシャンとの約束にかこつけて、あんたの心につけ入った」
「…………やめて」
「やめるもなにも、本当のことだ。身体目当てだったと思ってくれたって構わな――」
「あなたは優しくしてくれました!!」

 悲鳴のような声でかき消す。ラケシスは瞳に涙をためて、ベオウルフを強く睨んだ。

「あなたがいなければ、わたしは死んでいました。あなたがいなければ、わたしは生きる気力も失っていた。あなたがいなければ……っ、う、げほっ……」

 口を押さえ、肩を丸めて咳きこむ。
 すると、ベオウルフが馬を寄せて覗きこんできた。

「大丈夫か」

 ほら。そうやって、すぐ優しくするんだから。

「すこし、目眩がしただけ……。すぐによくなるわ」

 ベオウルフは、不意になにかに気づいたように目を瞬いた。そして、自分の馬から水の革袋をとって渡してくる。

「飲んでおけ。ったく、体調管理は戦士の基本だろうが。やっぱり、いつまでたっても世話がやけるな」
「う、うるさいわよ」

 革袋を渡す手だって、優しい。他の人には適当に投げてよこす癖に。

 だから、わたしは、あなたのことを。
 でも、わたしは、あなたのことを。

 どちらなのだろう?
 わたしは――。

「ラケシス」
「なによ」
「あそこの岩場に差し掛かるところで左側に進んで、道なりに行けば、イード砂漠の中にオアシスがある。そこから道しるべをたどっていけば、レンスターに着く」

 彼が何を言っているのか、よくわからなかった。

「あんたはひとりで行け。俺のことは忘れろ。レンスターにはエルトシャンの嫁と息子がいるはずだから、そっちを頼れ。いまのあんたなら、なんとかやっていけるはずだ」

 手が震えだす。自分の気持ちの正体もわからずに、ラケシスは反射的に言っていた。

「……なにを言ってるの、あなた。わたしに逃げろというの? シグルド様のところに案内してくれるんでしょ」
「気が変わった。いいから行け」
「いやよ」
「行け!」
「いや!」

 嫌な予感がしていた。いま別れたら、彼と一生会えないような気がした。
 いいじゃないの、と心の一部分がささやく。だって、大嫌いだったもの。いなくなるならせいせいする。
 違う。そう心の別の部分が叫ぶ。彼の手が好きだ。大きくて、なんでも覆ってくれる彼の手が。だから、ずっと一緒にいたい。

「大体、おかしいじゃない!? まるで残れば死ぬみたいに言うんだから。わたしはあなたのそういう悲観的なところが、大嫌いよ!」
「ところがどっこい、それは本当だ」
「え?」

 ベオウルフは、いつもと変わらぬ手つきで馬を反転させた。ラケシスも、ようやく気づく。自分たちが来た方向から、土煙があがっている。

「なっ、敵なの!? どうして後ろから!」
「北の砦にこもってた連中だろう。シグルド公子がフィノーラ城に進軍した隙を狙って、挟み撃ちにするつもりだ」
「知ってたのなら先に言いなさい! 全速力で逃げるわよ!」
「冗談言うな。俺は元からここで、あんたがイザークに行くところを眺めながら戦うつもりだったんだ」
「え……?」

 そういえば、とラケシスは思う。なぜベオウルフは、単騎でこんなところまで来ていたのだろう。挟み撃ちにされると、知っていたのに。
 いや、知っていたからこそ――?

「わけのわからないことを言わないで。わたしたち二人で立ち向かえる数じゃないわ!」
「だから行けと言っただろうが。ここは俺が守る。レンスターに向かえ。砂漠に入れば、やつらも追ってはこれないだろう」
「いやよ! あなたが戦うなら、わたしも戦うわ!」
「身重の女が、生意気を言うな!!」

 ラケシスは、その場に立ちつくした。妊娠については、まだだれひとりとして打ち明けていなかったのだ。
 するとベオウルフは、じろりとラケシスを睨んだ。

「俺の目を甘く見るな。てめぇの女のことすらわかってないんじゃあ、男がすたる」
「で、でも」
「あんたが死ねば腹の子も死ぬ。あんたは自分の都合で、罪のない子を殺す気か!」
「――っ」

 色を失うラケシスを見て、ベオウルフはふいに笑った。

「レンスターでエルトシャンの親戚が頼れなかったら、王宮を頼れ。あの小僧に会えれば、必ず守ってくれる」

 あの小僧。それだけで、二人の間には通じた。ラケシスは、瞳を揺らす。

「どうして、彼のことを……」
「俺はあんたより、観察眼が鋭いからな。行け、ラケシス。絶対に振り向くんじゃない。生き延びるんだ。生き延びて、子供を守れ」
「ベオウルフ……」
「行け! 間に合わなくなるぞ!」

 鋭い叫び声。遠くからは絶望を告げる鬨の声。頭の中ががんがんする。いけない。行ってはいけない。だって、行ってしまったら――。

「ベオウルフ!」
「なんだ、行けと言っているのが聞こえないのか!?」

 あなたなんて大嫌い。身勝手に死のうとするあなたなんて、世界で一番大嫌い。

 ラケシスはそう言おうとした。
 なのに、唇から零れ出たのは、別の言葉だった。

「死なないで…………」

 ベオウルフの太い眉が動く。無骨な双眸が、ラケシスをじっと見つめる。
 そして、彼は、軽薄に笑ってみせた。

「その言葉で、俺は十分だ」

 今度こそベオウルフは、剣の肌でラケシスの馬の尻を叩いた。
 嘶きをあげた白馬が、走りだす。ラケシスは進路を――左にとる。一気に坂道を下り、岩場を飛ぶように駆けて、荒野を進む。

 恐ろしい叫び声と剣戟が、後ろから聞こえてきた。
 ラケシスは背後を振り仰ぐ。崖の上で、たったひとりの傭兵が、百に及ぼうとする騎士団を止めている。
 その姿は、あっという間に煙の中に消えていった。次々と周囲に刈り取られた馬と人間の死体の破片が投げ出される。
 化物。そんな叫び声が聞こえた。呼吸も瞬きも忘れて、ラケシスは見続ける。

 大嫌い、あなたなんて。
 大嫌い。

 敵の半分以上が屠られたそのとき、騎士たちの間に大きな歓声があがった。
 立ち込めていた土煙が晴れていく。

 なによ、かっこつけて。
 そんなあなたが、わたしは、世界で一番嫌いだった。

 ラケシスは、大きな瞳に戦いの結果を映した。
 騎士風の男が、首を取って掲げ、雄叫びをあげている。何度も触れた金髪が、遠くからでも見て取れた。

「あ…………」

 涙は出なかった。喉がからからに乾いて、声ですら出なかった。白馬はラケシスを乗せて、荒野を進む。砂漠は、もうすぐそばに近づいてきている。

「あぁ…………」

 ラケシスは、呆然と前を向いた。
 彼の言ったとおり、行く先にオアシスが見えてきている。彼女の行く手は、そこに続いている。
 生き延びろ、と言ってくれた人の手によって。

 ゆるりと、目を閉じる。

 ねえ、お願い。
 もう一度、目の前にでてきて。
 そうして、今度こそ言わせて。

「大っ嫌いよ……」

 キッとラケシスは両眼を開いた。

「あなたなんて、大っ嫌いよ!!」

 手綱を大きく振るう。馬が更に速度をあげる。
 後方から、何機かの騎士が追いかけてくる気配がある。だが、追いつかれるわけにはいかない。彼の意思を、守らなければならない。
 鼻がつんとして、泣きそうになった。だが、泣くものか。もう、絶対に泣くものか。

 わたしは、生き延びる。
 生き延びて、子供を守る。

 歯を食いしばり、瞳を爛々と輝かせて。ラケシスはイード砂漠へ突入した。


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