立ち上がらなくては


 シレジアの夏は、短い。緑陽祭が終わると、途端に薄物だけでは肌寒く感じられるようになる。
 淡い緑の木々が茂る丘の上からは、草原が最後の輝きを放つかのようにそよいでいるのが一望できた。
 だが、ラケシスはそんな景色を楽しもうともせず、肩掛けを胸元で握り、じっと下を向いている。
 そして背後から足音が聞こえてくると、思いつめた顔で、ゆっくりと振り向いた。

「ごめんなさい。突然呼び出してしまって」
「いや。それは構わないが……」

 吹き抜ける風になびく髪を手で押さえながら現れたのは、アイラだった。

「驚いたぞ。おまえに呼び出されるなど。いったい、なんの話だ?」
「…………それは……」

 ラケシスは予め用意しておいた問いを口にしようとした。だが、声がでなかった。
 アイラの鋼を思わせる涼やかな眼差しが、こちらを捉えている。その瞳に、自分の醜い部分までが暴かれるようで。覚悟を決めてきたというのに、ラケシスは苦しげに顔を伏せた。
 すると、アイラはなにかに気づいたように眉をあげ、明るい声をあげながら近くの岩に腰掛けた。

「それにしても、ここは寒いな。砂漠育ちには、けっこうこたえる。その点、ノディオンは気候がよかったな」

 話しやすいようにわざと世間話を振ってくれたのだと、ラケシスにはすぐにわかった。
 影で感謝しながら、ラケシスは微笑んで返した。

「そうね。暮らしやすいところだったわ。あなたの国は、冬も暖かいの?」
「うむ。年中が夏のようだからな。ああ、あの灼熱の太陽が恋しい。早く帰りたいものだ」

 ラケシスは今度こそ、意を決して言った。

「……あなたの、恋人を連れて?」
「ん? ああ、やつか。当然だろう、あれは私の獲物だ。嫌だと言っても、ふん縛って持って帰るつもりだが?」

 あっけらかんとした答えに、笑ってしまう。同時に、わずかに胸が痛んだ。
 ラケシスは、アイラの隣に膝を揃えて腰掛けた。

「あなたは、彼のことが本当に好きなのね」
「好き……か。うむ、好きだな。笑った顔も、怒った顔も、私に小言を言う顔も、私に殴られた顔も、みんな好きだ」
「……相手の顔を好きと思えば、それが好きだということなの?」
「…………?」

 アイラは怪訝そうにラケシスを見やった。そして、そういう話か、と言わんばかりに鼻から息を抜く。

「おまえは、ベオウルフのことが好きではないのか?」
「…………嫌いよ、あんな人。下品で、馴れ馴れしくて、意地悪で、乱暴なんだから」
「子供まで産んでおいてか?」
「――――」

 ラケシスは、つま先で地面に円をかいた。
 ベオウルフとの間にできた男児は、名前をデルムッドと名付けた。古の戦士の名をと言い出したのは、ベオウルフのほうであった。いまはアイラの双子の子供と一緒に、離宮内の乳母に預けている。
 だからだろうか。いまだにラケシスには、自分に子供がいるという事実に現実感がもてない。そして――。

 生まなければよかった。そう口にしてしまいそうな自分が、恐ろしかった。

「よくわからんが、ベオウルフはおまえのことを大切にしているぞ。山賊討伐に行っても、やつは必ずおまえに会う前に血を洗い流して着替えていく。私などは、面倒なのでそのまま帰って仰天されるのだがな」
「ええ……」
「それに、やつは剣の腕がいいから街の女によくもてる。なのに贈り物のひとつももらおうとせん。この意味が、わかるか?」
「……ええ、わかっています」

 うなずいたラケシスは、でも、と肩掛けを強く握りしめた。

「でも、わたしは……。あの人の優しさにただ甘えているだけで……。あの人のことが好きなのか、よくわからないの」

 言うと同時に酷い自己嫌悪感に襲われて、ラケシスは自らの肩を抱く。
 兄がいたころは、兄だけを好きでいればよかった。兄だけを追いかけていればよかった。
 なのに、兄がいなくなった世界は、茫漠としていて、寒すぎる。
 身体はただ慰めと温もりを求めていて、手を伸ばした先にあったのが、ベオウルフの掌だった。

「ひどい女でしょう。人の気持ちをないがしろにして、でも愛されたくて、可哀想な子を演じて……最低なの、わたし。なのに、もう、自分の気持ちがよくわからないの……」

 泣くまいと思っていたのに、瞳の端に涙が滲んできた。
 泣く権利は自分にはない。そうわかっているのに。
 もう死んでしまいたいとさえ思ったとき、アイラは不思議そうに言った。

「おまえの言うことは、私にはよくわからんが……」

 続く言葉を聞いて、ラケシスは硬直した。

「おまえはもしかすると、他に好きな男がいるのか?」


 なぜだろう。
 そのとき、目蓋の裏で瞬いた光景は。

 抜けるような青い空の下。風の吹きすさぶ荒野に、ぽつりとひとり。
 泣きながら微笑んでみせた、青い髪の青年の姿だった。

 ――どうか、お幸せに。


「……わからない」

 厩で待っていてくれた、穏やかな立ち方が。なにを言っても静かにうなずいてくれた聞き方が。からかったときの、はにかむような笑い方が。次々と懐かしく思い出された。そしてそれが、彼なりの不器用な愛しかたであったのだと気づかなかった、残酷な自分の姿も。

 あの日に戻りたい。なにも知らなかった頃に。いいや。このままでもいい。彼に、この悲しみと苦しみを聞いてもらいたい。
 ひどく傲慢な思いを、ラケシスは自覚し、唇を噛み締めた。

「わからないわ……」

 胸がしめつけられるような息苦しさに、頭の奥が熱くなる。

「だって、いまさら戻れないもの。考えても、わたしがどんどん嫌な女になっていくだけ。どうしよう、アイラ、わたし、どうしたら……」

 行き場を失った熱が涙となってこぼれて、ラケシスは顔を手で覆った。
 アイラはラケシスの肩を抱いて寄せると、こつんと額をあわせてくれた。

「そうか。辛いな……」

 アイラの髪からは、胸がすっとするような花の香りがした。その涼しげな優しさに甘える自分を呪いながら、ラケシスはしばらく泣いた。
 だが、アイラはラケシスがひとしきり泣き終わると、はっきりと言った。

「ラケシス。苦しいのはわかるが、もはや過去も現在も変えられん。私たちに変えられるのは、未来だけだ」

 突き放すように身体を離し、アイラは曇りのない瞳でラケシスを見据える。

「なにより、子供のことを考えろ。私たちはすでに母なのだ。あの子たちを守るのは、私たちの役目だぞ」
「……守る……?」

 初めて聞く単語のように、ラケシスは尋ねる。アイラは力強く頷き返した。

「そうだ。いつまでも誰かに守られていてはいけない。必要あらばその手に武器を持ち、無力な者を守るのだ。そうすれば、誰に好かれようと、誰に裏切られようと、前に進むことができる」
「……で、でも、わたし。なにもできないわ」
「できないならできるようになればいい。おまえはヘズルの血を引いているのだぞ。強い戦士になれないわけがない」
「わたしが戦士に?」
「うむ。私でよければ稽古をつけてやろう。ただし、やるからには容赦はせんからな、覚悟することだ」
「あ、あの、でも、シグルド公子が許すかしら。あの方は、わたしを前線には出してくださらないし……」
「甘えるな、ラケシス」
「――っ」

 厳しくたしなめられ、ラケシスはびくりと肩を震わせる。
 アイラは、鋭く瞳を細めた。

「自分で選べ。自ら剣をとり進むか、このまま他者に流されながら人生を過ごすか。おまえが自分で、責任をもって決めるんだ」
「…………」

 二人の合間に、北からの風が吹き抜けた。黒と金の髪が、それぞれ激しくなびき、そして元の位置に戻る。
 ラケシスは、ゆっくりと指で頬をぬぐい、立ち上がった。

「強い戦士になれば、本当に前に進むことができるの?」
「そうだ」

 アイラの返答は短く、はっきりとしている。ラケシスは再度、強く頬をぬぐった。

 もう、自らを悔やみながら涙をこぼすのは嫌だった。依って立つ柱もなく、闇夜をさまよい続けるのも嫌だった。
 心の牢獄から抜け出せるというなら、どのような茨の道も怖くはない。

「この苦しみから抜け出せるなら……」

 凛と背筋を伸ばして待っているアイラに、瞳を開いて告げる。

「わたし、強くなるわ。ううん――」

 ラケシスは覚悟を決め、顎を引いた。

「――お願い、アイラ。わたしを、強くして」

「いいだろう」

 アイラはニッと笑うと、立ち上がり、ラケシスの肩を拳で軽く小突いた。

「剣は私が教えてやる。だが、他の武具の適正もみなくてはな……弓はブリギッドに頼むか。そうだ、レックスとアゼルも呼ぼう、どうせやつらも暇をしているだろうからな。斧と魔法が見てもらえるぞ。あとは槍だな。むう、キュアンどのが残っていれば適任だったのだが……とにかく来い! すぐに訓練を始める!」
「え、ええ!」
「返事は、はいだ!」
「はい!」
「うむ、よい! 行くぞ」

 黒髪を艶やかにかきあげ、アイラは丘を降りていく。その速さに置いていかれないように、ラケシスは息を弾ませながら後に続いた。


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