それは最後に残された陽だまりで 「あっ、いいところにいたわ。フィン、ちょっと手伝って!」 呼び止められたフィンは、階下から上がってきたエスリンの姿を見てぎょっとした。 臨月を控えたエスリンは大きな腹を抱えているというのに、うずたかく積まれた化粧箱を両手に抱え、しかもその足元にアルテナをじゃれつかせているのだ。 「――ああ、よかった。アルテナが裾を引っ張るんだもの、落ちちゃうかと思ったわ」 レンスター城の回廊を歩きながら、エスリンは足取り軽く言った。アルテナは、母に手をつないでもらってご満悦だ。なし崩しに荷物持ちをすることになったフィンは、ため息をつく。 「こういったことは侍女にお任せくださればいいのです。お体に万が一のことがあれば、周りが心配しますよ」 「あらっ、フィンまで私を病人扱いするのね。平気よ。お医者様だって、適度な運動が大事って言ってるもの」 来月には二人目の子供を産むというのに、エスリンの笑顔はまるで童女のようだ。きっと何年経ってもこの人はこうなのだろう、とフィンは感慨深く思ってしまう。 「それでは、私はここで失礼します」 「え? 帰るの? ちょっと遊んでいきなさいよ」 荷物をアルテナの乳母に届け、踵を返そうとすると、エスリンに引き留められる。 「しかし、この先はみだりに私のような男が入って良い場所では」 「固いこと言わないの! アルテナの相手をしてやってほしいのよ、この子ったら元気が有り余ってて」 「そ、そんな」 「ふぃんー! ふぃんとあそぶー!」 見ればアルテナまでがフィンの服の裾を引っ張り、目を輝かせている。ちなみに叙勲された騎士の基本業務に、四歳児の面倒を見るという項目は存在しない。 「ほら! いいから入って!」 エスリンは容赦なくフィンのマントを掴み、アルテナの部屋に引っ張りこんだ。 「あ、アルテナ様! 痛い、痛いです」 「あはは! ふぃん、おけけ、ふさふさー!」 いかに歴戦の騎士とはいえ、思い切り髪の毛を引っ張られれば悲鳴の一つもでるものだ。アルテナは、座ったフィンに後ろからのしかかったり、耳をつまんだり、服をかじってみたりと、やりたい放題であった。 「あの、エスリン様。私は、その、なにをすれば、あっ、そこを引っ張ってはいけません、破れますっ!?」 「うふふ。アルテナったら、絵本や人形遊びより、身体を動かすほうが好きみたいなのよ。だれに似たのかしら」 「ある、やりつかいになるのー! とーさまみたいなの! てきをね、ばびゅーんって、やっつけるの! ばびゅーん!」 「ごっ」 アルテナが元気よく振り上げた拳がフィンの顎にあたり、華麗なアッパーが決まる。 険しい遠征を経て影を湛えるようになったフィンであったが、アルテナにかかれば形無しであった。たじたじ、と言ったほうが正しいかもしれないが。 「うーん……」 「……どうしたのですか、エスリン様」 アルテナ相手に決死の防戦を強いられる若き騎士の姿を、エスリンは真剣そうにじっと見つめていた。そして、深くうなずく。 「うん、決めた。ちょっと待ってて! 提案してくるわ!」 「はい?」 「アルテナのことよろしくね!」 「えっ」 「かーさま、いってらっしゃーい!」 「えっえっ」 突然立ち上がったかと思うと、猛然と部屋を飛び出すエスリン。 後には、真っ青になったフィンと、元気盛りのアルテナだけが残されるのであった。 「キュアン! 聞いて、私、いいことを思いついたの!」 「な――おまえ、むやみに走るなと言っただろ。転んだらどうする――」 「そんなことどうでもいいの! あのね、あのね!」 出会い頭にキュアンに飛びついたエスリンは、瞳を輝かせて言った。 「フィンを未来のアルテナのお婿さんにしたらどうかしら!」 …………。 キュアンはしばしの沈黙の後、異様に低い声で言った。 「……俺のゲイボルグを倒せるやつにしか、アルテナをやるつもりはない」 「なに言ってるの、キュアン。アルテナだって、いつかはお婿さんをもらうのよ」 キュアンは顔面を蒼白にさせた。 「駄目だ! やめてくれ! アルテナは俺の宝だ、他の男になどやれるか!」 「それに、アルテナだったらあなたからゲイボルグをもぎとって、従ってもらいましょうか父上、くらいのことは言いそうよ」 「不吉な想像はやめろ!? そんなことされたら俺は自殺するからな!?」 「あらあら、嫉妬深いお父様だこと。でもね、アルテナが16歳のとき、フィンは30歳過ぎでしょ。十分につりあうと思うのよね!」 「だからやらんと言っているだろう!? いかに一番の臣下だとしても、アルテナだけはやらん! 絶対だ!」 「アルテナには何色のドレスが似合うかしら。ふふ、今から布だけでも選んでおいちゃいましょ」 「やめろーーーーっっ!?」 肩で息をするキュアンを見て、エスリンは、でも、とつぶやいた。 「とても素敵な想像だと思わない? アルテナは素敵な王女様になって、私たちはお互いに年をとっていくの」 「……エスリンはいつまでも若くてきれいなままだろう」 「いやだ、私だって人の子です。いつかはしわしわのおばあちゃんよ。あなただって、白髪のおじいちゃんになるんだから」 いたずらっぽく言ってみせてから、エスリンは笑顔を輝かせた。 「それでもね、レンスターのみんながいるのよ。アルテナもいつかは結婚して、子供を産むことになるわ。いま、お腹にいる子供だって。みんなが成長していくの。私たちはそれが、嬉しくて、ちょっと切なくて……でも幸せに過ごしていくの。――あら」 突然、一筋の涙がこぼれたことに、エスリンは自分で驚いたようだった。 「やだ、私。どうしたのかしら。楽しい想像なのに、なんだか泣けてきちゃった」 「エスリン……」 眉を下げたキュアンは指でエスリンの涙を拭ってやると、細い肩を優しく抱いた。妻が泣いた理由を、キュアンはよく理解していた。 シグルドがシレジアに亡命してからすでに一年以上が経った。しかし、いまだ彼がグランベルに戻れる気配はない。 当のグランベルは、ヴェルダン、アグストリアを併合し、さらに領土を広げようと画策している。キュアンの耳には、不穏な情報が毎日のように入ってきていた。 どこかで歯車が狂ってしまった。だれもがそう感じていた。世界は、戦乱の時代に突入しようとしていた。 だからこそ、エスリンは恐れているのだ。いまある平穏が壊され、ささやかな幸福でさえ消え失せてしまうのではないかと。 「大丈夫だ、エスリン。きっとそうなる。俺たちの手で、子供たちを守っていくんだからな」 「うん、うん……ごめんね、ごめんなさい、キュアン……」 何度もうなずきながら、エスリンはキュアンの胸に顔をうずめた。その手が、すがるようにキュアンの服を掴む。 怯える妻の背を、キュアンは飽きることなく撫で続けた。 一方、フィンがこの世の地獄から開放されたのは、夕方になってからであった。 顔中に引っかき傷をつけられ、髪はぼさぼさ、服にもところどころヨダレの染みを浮かせ、這々の体で騎士団の詰め所に戻る。 「フィン、遅かったな――ブホッ」 なんの気なしにフィンの顔を見たグレイドは、飲みかけの水を噴き出した。 「げほげほっ……どうしたおまえ、いったい何と戦ってきたんだ」 「……エスリン様の命で、アルテナ様と、三時間ほど」 それだけで、グレイドはすべてを察したようだった。 「よくやった」 立ち上がり、フィンの肩を叩いて労うと、椅子を勧めてやる。 座ったフィンは、虚ろな目でつぶやいた。 「子育てをする女性方の気が知れません……」 「女性は偉大だ。私の父親もそう言っていた。とりあえずちょっと休んでいろ。今日はこの後なにかあるのか?」 「夜番が……」 「お、奇遇だな。私もそうだ。じゃあ終わったら飲みに行くぞ」 「……帰って寝るという選択肢は」 「付き合えよ。いい酒を出す店を見つけたんだ。俸給もあがったんだし、ぱーっといこう」 フィンは萎んでしまいそうなほどのため息をついたが、ちらりと笑って答えた。 「……グレイドの奢りなら」 「おっ! そんなこと言うと、しこたま飲ませるからな!? 覚悟しろよ!」 「……そう言って先に倒れるのはグレイドだろう。前に上役の方々に連れていってもらったときだって」 「ばーーーっ! その話はするな! とにかく、今日は負けんぞ!?」 「おい、新米ども。うるさいぞ」 「はっ、はい! 申し訳ありません!」 古参の騎士たちに睨まれて、グレイドとフィンは口をつぐみ、顔を見合わせた。そして、にやりと笑う。今年叙勲された騎士の中でもとりわけ能力に抜きん出た二人は、精神もまた強かであった。 特にフィンは、辛い思い出から少しずつ抜けだしているように思えた。時は残酷だが、優しい。どれだけ傷ついたことでも、いつか笑って話せるような日も来るだろう。そんな日が早くくればいいと、グレイドは思う。 「じゃ、夜にな」 小声で言うと、フィンはコクリとうなずいた。 「グレイドが酔っ払って醜態を? 嘘でしょう、お父様」 「事実だ、セルフィナ。上役との酒席で新米が飲まされるのは通例だが、やつは前後不覚になった挙句、謎の踊りをしながら服を脱ぎ始めた」 「…………」 「途中でフィンが気絶させたがな」 「…………あの、お父様」 「前々から言っていたおまえの結婚相手だが、やはり別の男が……」 「だっ、だめです! そ、その、いいではないですか! 女性ではあるまいし、公衆の面前で服を脱いだって!」 「駄目だろう!?」 そんな父娘の会話が繰り広げられたのは、また別の日のことである。 続きの話 戻る |