いくじなし


 朝の訪れを小鳥が歌い、瑞々しい陽光が大地に降り注ぐ。
 穏やかなまどろみの中で、ラケシスは、うっとりと目を覚ました。みじろぎをすると、布の合間から冷気が流れこんできて、ふるりと身体を震わせる。
 すると、だれかが布を肩まで引き上げてくれる。もう何年も感じていなかったような温もりに浸り、口元を緩ませて――。

「な、なっ……!?」
「おっと」

 跳ね起きると、覗きこんでいたベオウルフがひょいと顔をどける。

「なっ、なっ、なんであなたがここにいるのです!」
「なんでって……状況見ろよ、覚えてねえのかよ」

 悪びれもなく肩をすくめるベオウルフ。その背景が中庭で、自分が噴水の縁に座っていることに気づいたラケシスは、はっと口元に手を当てた。

「あっ、わたし、もしかして昨日あのまま……」
「そうだよ、人の膝の上で爆睡しやがって。おかげでこっちはろくに眠れやしなかった――ふああ」

 自分の肩からずり落ちていくのがベオウルフの上着だったと気づいて、ラケシスは頬を赤く染めた。

「だ、だ、誰が頼みましたか! いやなら起こせばよかったでしょう!」
「あんたの寝顔が思いの外、可愛かったからな」
「な――――!」

 ラケシスは茹で上がらんばかりに赤面しつつ立ち上がると、ベオウルフの上着を思い切り投げつけた。

「あなたなんて嫌いです! 大っ嫌い! どうしてそういうことを言うのですっ!」
「おーおー、ご挨拶だな。昨日の夜は、ベオウルフ様〜、って感じで甘えてきたってのに」
「――っ、死になさい! いますぐに!」
「やなこった。まったくあんたは朝になると可愛くないな。こういうときは、感謝を込めて熱いキッスを送るもんだぜ」
「送りますか! ――っしゅん!」

 急に身体が冷えたためか、くしゃみが出た。やれやれとベオウルフが立ち上がり、ふたたび上着をかけてくる。

「ほら、さっさと部屋に戻るぞ。腹が減ってかなわん。飯を用意させてくれ」
「なっ……、まさか一緒に食べるつもりですか!」

 睨み上げると、頭に手を乗せられる。軽薄で、それでいて、優しい声。

「ひとりで食べたいなら、俺は遠慮するが?」
「…………」

 ラケシスは、しばらくの沈黙の後、愛らしい唇を尖らせて言った。

「あなたなんて、大嫌いです」


 ――といった一連の流れを目撃していたデューとジャムカによって、噂は瞬く間にシグルド軍を駆け巡った。


「へえ……あの生ける高飛車わがままプーなラケシスが、傭兵とか。世の中、なにが起きるかわかったもんじゃないな」

 そう感想を漏らしたのはキュアンである。

「でも、フィンは大丈夫かしら。その、いろいろあったから」

 エスリンは手を頬にあてて、ため息をつく。昨晩のフィンの異様な様子の原因を、ようやく察したようだ。
 難しげな顔で、キュアンは頭をかきまわした。

「当然ショックだろうな。身分相応の男とくっついたならまだしも、やつより下の身分の男に奪われたんだからな」
「そうやって無責任に言うんだから。わたしたちが応援していれば、別の結果になったかもしれないわ」
「……まあな。だが、状況が変わるのが早すぎた。ラケシスが亡国の姫になるなんて、誰が想像できるか」

 逆に、ノディオンがいまだ独立を保っていたら、彼女が一介の傭兵と恋に落ちるなど、だれひとり許さなかったろう。

「それに他人に応援してもらわなきゃ恋を成就できないなんて、男として情けないだろう。これは、フィン自身がだした結果だ」

 そこまで言って、流石に言い過ぎたと思ったのか、頬をゆがめて続ける。

「レンスターに戻ったら、いい女を紹介してやろう。真面目なあいつには、立場に合った女を娶ることが、一番の幸せだろうからな」
「ええ……そうね。いまは時が癒やしてくれるのを待ちましょう」

 エスリンはうなずいて同意したが、気持ちを晴らすことができず、鞘に収めた光の剣をぎゅっと抱きしめた。

(神様、どうかお守りください。フィンのことも、ディアドラ様のことも、私たちのことも……)


 準備の時間はあっという間に過ぎ、レンスター軍は慌ただしくシルベール城から出立する日を迎えた。
 フィンも早朝から、てきぱきと自分の荷物を荷車に載せ、装備の最終確認を行った。むろん、キュアンからもらった槍も忘れていない。
 あれからフィンは、ひたすら見習い騎士としての仕事に打ちこんだ。キュアンもまた、なにかを察したのか、事実上、騎士と同等の任務を任せてくれるようになった。脇見をする余裕もなく、ラケシスを見ることもなく、フィンはただ目の前のことだけに集中した。胸の内には、早くこの城を出たい気持ちだけしか残っていなかった。

 澄み切った朝の冷気は、まるで剃刀のようだった。北の山では、すでに雪が積もっているだろう。危険な旅になることは、だれもが理解していた。
 物見の兵士に異常がないことを報告させると、フィンはいよいよ出発のためにキュアンの元へ向かおうとした。

 そのとき、最も聞きたくない呼び声が耳を打った。

「フィン!」

 空耳だと思いたかった。あまりの寒さで、耳がおかしくなってしまったのだと。
 だが、再び、肉声が耳朶を叩く。

「フィン、お待ちなさい!」

 馬を止めて振り向くと、息を切らせたラケシスが一人で立っていた。幾分かやつれた頬が、桃色に上気している。
 やわらかい金髪は、青空の元に映えて、宝石を散らしたように輝いている――だがそれを瞳に映す前に、フィンは目をそむけた。
 そのまま、ためらいつつも馬から降りて、手を胸に当てて礼の姿勢をとった。

「御用でしょうか」

 他人がしゃべっているような心地だった。心は、一目散に逃げ出したがっている。この手に取ることのできなかった宝物から。そして、弱く無力な自分から。

「……その。あなたに、お礼をまだ言っていませんでした」

 目を伏せてラケシスを視界から外しているから、彼女がどんな表情をしているかわからない。
 ただ、思い切った様子であることは伝わってきた。胸を、締めつけるほどに。

「わたしのわがままをきいてくれて、ありがとう。無理をさせたわね」
「…………いえ」

 声を聞くたびに、胸がじくじくと痛む。早くこの苦痛な時間が終わればいいと思う。
 なのに彼女は、もっとも残酷な言葉を唇に乗せた。

「……寂しくなるわね。あなたともう、厩で一緒に手入れをできないなんて」
「――」
「わたし、あなたのことは、忘れません。いつか、きっとまた会いましょう」
「――」
「今度会うときは、必ずあなたより早起きができるようになります。ふふ、覚悟しておきなさい」

 胸にあてた手が、震えていた。彼女をここまで立ち直らせた男の顔がちらちらと浮かぶ。そして黒くうねる醜い嫉妬の感情が。そんな自らに対する惨めな気持ちが、後から後から追いかけてくる。
 それらを悟られないように、フィンはもう少し深く頭を下げた。

「フィン? どうしたの?」
「……いいえ。もったいないお言葉、ありがたく頂戴いたします」
「他人行儀にしないのよ。わたしたちの仲でしょう、いつものようになさい」

 不機嫌そうに言ってから、ラケシスはとうとうフィンの表情に気づいたようだった。

「フィン、あなた……?」

 冷たく乾いた風が、もっと強く吹けばいいと思った。
 そうすれば、頬を伝う涙を散らしてくれるだろうから。

「ラケシス様……」

 フィンは、祈るように彼女の名をつぶやいた。

 もしも、私があの晩、勇気を出してあなたのところに行っていたら。
 あなたは私を選んでくださいましたか。

 私にもう少し強さがあって、あなたを好きだと言うことができていたら。
 あなたは私に、微笑んでくださいましたか。

 ラケシス様。

 はじめてお会いしたときから、あなたのことが好きでした。

 けれど、私は。
 騎士である前に。人である前に。


 私は、ただのいくじなしでした。


「どうか、お幸せに」


 フィンは、ラケシスを見て微笑んだ。溢れる涙を、止めることもできないまま。


「……フィン、待って。フィン!」

 呆然と立ちつくしたラケシスが、混乱しながらも駆け寄ってこようとする。
 だが、フィンが馬に乗り、手綱を握るほうが早かった。

 放たれた矢のように、フィンは大地を駆けた。
 激しい風が頬を叩き、先ほどの願いを遅れて叶えるかのように、涙を吹き散らしていった。
 荒く息を吐き、唾を呑んで、フィンはもう一度だけ、届かない相手に向けてつぶやいた。

「どうか、お幸せに……」

 言葉は虚しく風の中に失せていく。もう、誰に届くこともない。
 荒野の真ん中。肩を震わせる青年の外衣が、激しくはためいている。

 冬の足音は、すぐ傍まで近づいてきていた。


 続きの話
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