夕闇


 シグルドたちを襲う災禍は、その日の内だけに留まらなかった。
 夜明けとともに、泥だらけになったクロードとティルテュがシルベール城に駆けこんできたのである。

「私が、反逆者だと……!?」

 ランゴバルトとレプトールはすでにシグルド捕囚のために出陣しており、あと数日もせぬ内にシルベール城に到着するという。
 シグルドの身の潔白を訴えようとしていたクロードは、彼らが放った暗殺者に襲われ、ティルテュとともに命からがら逃げ出してきたのだ。
 シグルド軍の主だった面々は、朝から対策会議に招集された。キュアンも無論、その内の一人だ。
 エスリンも負傷したティルテュの看護に行ってしまったので、フィンはひとり、残されることになった。

 これからどうなってしまうのだろう。
 だれもが同じ問いを抱き、そしてだれも答えられる者はいなかった。

 シルベール城は、無人の廃屋のように静まり返っていた。空気は、ひたすらに重い。
 ジャムカは弓の手入れがうまくいかないようで、何度も舌打ちを繰り返している。いつも場を賑やかしているデューでさえ、今回の戦いで拾ったらしき魔法剣を女に渡すことも忘れて、ぼんやりと振っている。フュリーは居場所がないのか、沈んだ顔で同じ場所を行ったり来たりしており、シルヴィアは居心地が悪そうに枝毛を探す作業に勤しみ、レヴィンは手入れを忘れられた中庭の木立の下でじっと目を閉じていた。
 そして、ラケシスの姿はいまだにない。


「レンスターに撤退することになった」

 昼過ぎまで続いた会議から戻ってきたキュアンは、険しい顔で告げた。
 反逆者と認定されてしまったシグルドが身の潔白を証明するには、時間がかかる。だが、一度捕まってしまえば、グランベルを牛耳る有象無象に良いようにされるだけだ。よって、まずは亡命すべきという結論に達したのだという。

「亡命ともなれば、大人数での行動は避けるべきだ。腹心と希望者だけ、シグルドとともに逃がす。後のシアルフィの兵はグランベルに引き渡す。主君が勝手に逃げたとなれば、兵まで罰せられることはないだろうからな」

 それは、シグルドの名声を失墜させることにも繋がる。だが、状況はすでに手段を選べる状況にないのだ。

「亡命先は決まっていないが、どちらにせよ俺の軍がいては目立つ。俺たちは、ランゴバルトどもの軍勢を避けつつ、北回りでレンスターに帰る。――険しい旅になるぞ、覚悟しておけ」
「はっ」

 このときフィンが動揺していなかったといえば、嘘になる。
 いつかラケシスと別れることになるとは思っていたのだ。だが、現実はあまりにも唐突であった。

 物思いにふける間もなく、フィンは撤退の準備に奔走することになった。北回りでレンスターに帰るには、シレジアの山道やイード砂漠など多くの難所を通ることになる。兵糧や装備の調達、戦死者の確認、部隊の再編成など、目の回るような忙しさであった。

 息をつく暇もなく、仕事は深夜にまで及んだ。
 夜闇が大地を包みこんだころ、フィンは紙束を脇に抱え、中庭に面した通路を歩いていた。
 と――、誰かの話し声が聞こえてきて、フィンはなにげなしに目をやった。
 とりわけ聞き耳を立てるつもりはなかったのだが、次の瞬間、彼は足を止めていた。

 月明かりの下にぼんやりとした淡青で浮かびあがる中庭は、幻想的な陰影を作りだしていた。
 その中央。壊れた噴水の縁に、ラケシスが座っていた。俯き、身体を丸め、肩を震わせている。泣いていることは、一目で分かった。
 声が出そうになる。駆け寄り、顔を覗きこみ、抱きしめられたら、どれほど良かっただろう。
 しかし、現実は残酷に、フィンの眼前に横たわっていた。

 ラケシスのすぐ隣には、無骨な傭兵が座っていた。その手が、彼女の肩に回されている。
 こちらからは聞き取れない小さな囁きが、二人の間で交わされる。
 ふと、ラケシスが顔をあげた。月光に、横顔の輪郭が美しく描き出される。
 じっと見つめ合う二人が、互いに近づき、唇を触れ合わせた。

 フィンはその場に凍りついた。

 頭が真っ白になり、なにも考えられなくなった。


「――ン、フィン? どうしたの?」

 ふと見ると、夜着姿のエスリンが心配そうな顔をしてこちらを見上げている。
 辺りを見回すと、レンスター軍の宿舎だとわかった。しかし、どうやってここまで戻ってきたのか、まったく記憶がなかった。

「顔色が真っ青よ。体力が戻ってないのに、無理をしてるんでしょう。私に手伝えることがあるなら、遠慮なく言って」
「…………」
「フィン? どうしたの、しっかりして」

 ただならぬ様子に気づいたのか、エスリンが眉根を寄せる。

「……なんでも……ありません」
「そんな酷い顔をして、なんでもないってことはないでしょう。私に言えないことなら、キュアンを呼んでくるから――」
「なんでもありません!」
「っ」

 エスリンが怯んだ隙に、フィンは踵を返して走りだした。行き先などない。もう、どこにも。それでも足は止まらなかった。
 屋外の武器庫前までくると、壁に手をついて肩で息をする。
 凍えるような夜の冷気が、全身を苛んでいるはずだった。しかし、いまはなにも感じることができなかった。

 ガン、とフィンは衝動的に頭を壁に打ちつけた。一瞬、思考が飛び、全身が痺れる。
 生暖かいものがこめかみを伝うのを感じながら、フィンは――唇を歪めた。

「当然のことだ…………」

 目を開けていても閉じていても、同じ光景が脳裏に焼き付いて離れない。

「私では、ラケシス様に届くはずもなかった……」

 現実は、呑み込むにはあまりにも大きく、苦しすぎる。
 だが、それが臆病者の末路だったのだと、暗澹とした気持ちでフィンは悟った。
 胸から溢れる痛みが、笑いとも嗚咽ともつかない声になって、唇から漏れる。
 今更になって涙がこぼれ、フィンは、気づいた。

 自分はこれほどまでに、あの女性のことが好きだったのだと。


 続きの話(引き続きベオラケの直接表現が入りますのでご注意ください)
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