焦がれた温もり 時の流れからも置いていかれたような静けさだった。 真の闇に身を浸し、ラケシスは膝を抱えている。浅い眠りと覚醒を繰り返しながら、己が溶けてしまうのを待っている。 世界なんて終わってしまえばいい。 こんな酷い運命が待っているなら、生まれてこなければよかった。 なぜわたしは、こうなってしまったんだろう。 絶望ときらめきと後悔が、頭の中をぼんやりと回っていた。 口の中が乾いている。しかし、涙はいまだに頬を伝い続ける。 兄様。 心の中で呼んで、手を伸ばす。焦がれ続けたぬくもりを求めて。 しかし兄はどこかへ行ってしまった。亡骸すら、ラケシスは見せてもらえなかった。理由を問うても、口を濁されるだけだった。 兄は、本当に死んでしまったのだろうか? そうだ。兄は、ラケシスの知らない場所に行ってしまったのだ。ひとりで。身勝手に。 いやよ。兄様。わたしを置いていくなんてひどい。わたしをつれていって。 ひとりに、しないで。 ぼんやりと、ラケシスは思考を闇の内側に落としていく。 わたしも行かなきゃ。 兄様がいる場所だったら、怖くなんてないわ。 今度会ったら、もう離さない。ずっとずっと、抱きついているんだから。 わたしには、兄様しかいないの。 わたしの母さまはとてもひどい人で。わたしをなんども鞭でぶった。 おしゃべりをしたら、うるさいってぶたれて。 黙っていたら、気持ち悪い子ってぶたれて。 でも、兄様だけが助けてくれた。 隠れる場所を教えてくれた。お菓子を分けてくれた。頭を撫でてくれた。 身を守るためって言って、剣を教えてくれた。 ただわたしは癒やしの杖を使うほうが好きだった。 だって兄様の傷を治してあげると、兄様が笑ってくれるから。 本当は兄様以外、だれとも話したくなかった。だれとも仲良くなりたくなかった。 だって、兄様以外のひとは、怖いもの。 母さまのように、わたしのことを愛してくれないかもしれないもの。 でも、兄様がそうしなさいって言うから、わたしは兄様以外の前でもちゃんと笑うようになったのよ。 ほら、みて。ノディオンのお姫様は、みんなに愛されるようになったわ。 兄様はそれが嬉しいって言ったでしょう。 わたし、兄様の願いを叶えたくて、ちゃんと勉強したんだから。 兄様。ねえ、兄様。 わたし、いい子にしていたわ。 だから迎えにきて。抱きしめて、愛してるって言って。 その優しい手で。わたしの頭を撫でて。 兄様。 にいさま。 「――おいっ!?」 開いた扉から、荒々しい足音。 腕を引かれる。なすすべもなく身体が倒れる。洗面用の水に浸かっていた手首が床に落ちる。ナイフが落ちる音が、からりと響く。 「この、バカ娘がッ!!」 頬に熱く鋭い衝撃。布を割く音。自分で傷つけた手首になにかが巻かれていく。痛みを覚えるほどにきつく。首筋に固い手が触れてくる。その違和感に、全身が総毛立つ。 「いやっ!!」 力任せに振りぬいた拳は、彼のどこかを強かに打ったらしい。くぐもったうめき声。だが、その手をとられ、両手を拘束される。 「さすがやつの妹だな、なんて馬鹿力だよ。いいから落ち着け! 俺を見ろ、ベオウルフだ!!」 「いやっ、いやぁぁっ!!」 なにか大切なものが壊されてしまう予感に、喉から引き攣れた絶叫がほとばしる。 「脈をとるだけだ、おとなしくしろ!」 「離してっ、いやぁああっ!!」 「ラケシス!!」 腕を離され、代わりに背中になにかが巻き付いてくる。知らない温もりに、全身が押しつけられる。嫌悪感が先走った。食べられてしまう。本気でそう恐怖した。 「いや! いや! やっ…………あ、……ぅ」 四肢をばたつかせるが、それを続けるだけの体力は残っていなかった。強烈な目眩と嘔吐感に苛まれ、意識が途切れそうになる。 急速に、空気が冷えていった。あたりに、静けさが落ちる。 すると、不思議と優しい声が、頭上から振ってきた。 「……そうだ、落ち着け、いい子だ。ゆっくり息をしろ。すぐによくなる」 じっとしていると、兄のものとは違う大きくかさついた手に、頭を撫でられる。 「…………あ……」 新しい涙が、頬を伝った。呼応するように、ゆっくりと理性が戻ってくる。 ひび割れた唇で、小さく訊いた。 「ベオ、ウルフ…………?」 「ったく。手間かけさせるぜ、あんたは……」 呆れ声に、怒りが交じる。 「二度とやるな。約束しろ」 貫かれるような怒気に、肩が跳ねた。 「…………でも、わたし、兄様に会いたくて」 「そんなことして会えるかバカ」 「…………でも、会えるかも」 「会えねえよ。俺が保証してやる」 「…………」 「エルトシャンは、死んだんだ」 気持ち悪いのか心地良いのか判断できない曖昧な熱が、彼を通して伝わってくる。 ゆっくりと現実に戻ってくると、新たな悲しみが胸にせりあがった。 ぽろぽろと涙を零しながら、ラケシスはつぶやいた。 「わたし、あなたのことが嫌い」 噛みしめるように、繰り返す。 「大嫌いよ。わたしのことなんて、放っておいてほしかったのに」 「そうか」 短い返答。ラケシスの頬がくしゃりと歪む。 「全然優しくない。最低。ひとでなし。見るのだって汚らわしい」 「そうか」 「兄様の代わりにあなたが死んじゃえばよかった」 「そうか」 「なんであなたが生きてるのよ。あなたなんかが……大嫌い。大嫌い、よ……っ」 段々と声が震えてくる。ベオウルフは相槌を打ちながら、抱きしめてくれる。兄が、そうしてくれたように。兄とは、違う声や手で。 「ぅぅぁあああっ……ああっ……」 嫌い、大嫌いと叫びながら、ラケシスは大声で泣いた。 続きの話(ベオラケの直接表現が入りますのでご注意ください) 戻る |