厩の朝


 ――どこまでも澄み渡った朝に、陽光を受けて輝く大気のような。
 ――彼女はまさに、そんな人でした。

「驚いたわ。わたしより早い人がいるなんて」

 馬の背に刷子を当てていたフィンは、つと瞬きをして、振り返り――息を呑んだ。

 厩の入り口に立っていたのは、絵本から出てきたような少女だった。
 艶めく黄金の髪に、バラの花びらを浮かべたような頬。長い睫毛に彩られた意思の強そうな瞳。
 やわらかな笑みをたたえた唇は、見る者をとろけさせる魅力に溢れている。
 見間違いようもない。先日、シグルドの軍勢に加わったノディオンの姫君、ラケシスであった。

 数秒、彼女の美貌を凝視してしまってから、我に返ったフィンは慌てて彼女に向き直り、片膝をついた。

「こ――これは、失礼いたしました」

 相手は王族の娘だ。貴族とはいえ騎士見習いである彼が、不用意にじろじろ見て良い相手ではないのである。
 配下の非礼は、主の汚名にも繋がってしまう。気が気でないフィンの耳に、くすり、と軽やかな笑みが聞こえてきた。

「良いのよ。楽にして、自分の仕事をなさい」
「――はっ」

 内心で安堵の溜息を漏らす。ひとまず逆鱗に触れることは避けられたらしい。
 フィンは、彼女の視界に入らないようにしながら、そそくさと馬の手入れに戻った。

 対するラケシスは、桶を片手に悠然と歩いてくる。気まずいのであまり近付かないでほしい、とフィンは内心で祈る。
 だが、そのとき、フィンの馬の隣に繋がれていた美しい白馬が、嬉しそうに尾を振って鼻を鳴らし始めた。
 ――まさか。

「おはよう、カルナン。ふふ、そんなに慌てないのよ」

 嫌な予感は的中した。
 すぐそばで立ち止まったラケシスが、微笑みながら白馬の鼻面を撫ではじめたのである。
 フィンの胸の内は、己の運の悪さを呪う気持ちでいっぱいになった。
 主人の緊張を察したフィンの馬も、不安げに首を揺らして前足で地面を小突いている。

 それにしても、こんな夜明けから間もない時刻に厩にやってきて、ラケシスはなにをするつもりなのだろう。
 作業をしながら意識を彼女に向けていると――フィンはぎょっとした。
 彼女は当然のように袖をまくると、水瓶から水を汲み、刷子を手に馬の手入れを始めたのである。

 仮にも――いいや、彼女は正真正銘の姫だ。
 馬の手入れは、馬丁か従者か見習い騎士の役目と相場が決まっている。
 割と庶民的なところのあるキュアンやエスリンであっても、馬番はフィン任せにしているのだ。
 なのに、こんな朝早くに、由緒正しき家柄の姫が、手ずから水仕事だと?

 大量の疑問符を浮かべながら何度も馬の同じ場所を梳いていると、突如として声が転がった。

「その身なりからして、レンスター王国の騎士見習いかしら?」
「えっ」

 一瞬、自分に話しかけられているのだと理解できずに、フィンは無防備に聞き返してしまった。
 その後、かっと頬が熱くなるのを感じながら、しどろもどろに返答する。

「は、はい。そうです」
「中々教育が行き届いているではないの。こんなに朝早くから働いているなんて、感心するわ。わたしの騎士たちにも見習わせたいくらいね」
「え、――あ」

 ここは「ありがとうございます」がいいのか、もっと別の言葉があるのか。返事ひとつで頭をパンクさせかける未熟な見習い騎士を見て、ラケシスは馬ごしにイタズラっぽい笑みを向けてきた。

「そうかしこまらなくていいわ。ここに来れば身分に関わらず、皆が馬の主。楽に話せばいいのよ」

 視線が合うと、彼女の瑞々しい笑顔が網膜に焼き付いてしまって、フィンは慌てて目を伏せた。
 この咲き匂うような雰囲気は、王族ならではだろうか。いいや。もっとなにか別の、自分が触れていいものではない、輝くような力があるように思える。
 そう、彼女がそこにいるだけで。獣臭のするただの厩さえ、澄み切った鮮やかな空間に感じられる――。
 ぼうっとしていると、不機嫌そうにラケシスが眉をあげる。

「返事は?」
「えっ?」
「もう。楽にしなさい、と言ったのよ。返事はどうなの?」
「あの」
「返事は?」
「は」
「返事!」
「はい!」

 半ば強制的に受諾させられる。
 すると、ラケシスは満足気に笑った。

「ふふ、それでよろしくてよ。あなた、名前は?」
「は……フィン、と申します」

 やぶれかぶれに名乗ると、気が抜けてしまった。だからだろうか。続くラケシスの問いに、フィンはようやく普通に答えることができた。

「いつもこの時間に厩に来ているの?」
「はい。他にも朝の仕事がありますので」
「レンスターの見習い騎士は皆、こんな早くから仕事を?」
「……いいえ。大体、厩に来るのは私が一番です。元から早くに起きるのは、苦手ではありませんので」
「あらっ、わたしも同じよ。早起きは気持ちいいから好きだわ」

 姫とこんな話をして良いのだろうかとも思うが、相手が嬉しそうなので、知らず知らずと会話を弾ませてしまう。
 ――ちなみにフィンの主キュアンは寝坊の常習犯で、ほとんどの朝の雑用を「任せた」の一言でフィンに任せてはエスリンに小言を言われている。目の前の見目麗しい姫の発言を聞かせてやりたいと、ちょっとは思わなくもないフィンである。

「この子はね、わたし以外に触られるのが大嫌いなのよ。だからこうして、毎日見に来てあげてるの」

 先ほどのフィンの疑問の答えを、ラケシスは自ら語ってくれた。滑らかな馬の毛並みに指を這わせ、目元を緩ませる。

「でも、戦場では何度この子に助けられたかわからない。兄様や他の騎士は、わたしがこの子の世話をすることに反対するけれど、わたしは全然苦じゃないの」

 よいしょ、と愛らしい掛け声とともにラケシスが藁を取り替えてやると、白馬は嬉しそうに彼女の頬に鼻を押しつける。
 馬とじゃれるラケシスの姿は、今まで遠いところにいると思っていた彼女を不思議と身近に感じさせた。
 自然と、フィンは答えていた。

「馬は、主が馬に尽くすように主に尽くす、と聞いています。その馬があなたを救ったというなら、それはあなたが馬にそれだけ与えたということだと思います」
「そうなの? ――ああ、嬉しいわ、カルナン。大好きよ」

 大好き、の一言になぜだか耳が痺れたようになって、鼓動が少し上がる。
 よくわからない気持ちを持て余していると、ラケシスは意地悪そうに振り向いた。

「ふふ。あなたが言うことが本当なら、あなたの馬もきっとあなたのことが大好きね」
「え?」
「だってほら。あなたがわたしとばかり会話しているから、嫉妬しているわ」
「えっ」

 気がつけば、フィンの馬はフィンの顔を物言いたげにじっと見つめている。
 フィンは返答に詰まって視線を泳がせ、ラケシスは楽しそうに笑った。

「そ、それでは。私のほうは終わりましたので、これで失礼いたします」
「ええ。なかなか面白かったわ。また話しましょうね」
「は――はい」

 フィンは胸に手を当てて礼をすると、逃げるように厩を後にした。

 足早に内庭を進み、誰もいない木の下まで来ると、ようやくほっと胸を撫でおろす。

(きれいな人だった…………)

 本来なら、自分の身分では逆立ちしても会話ができない相手だ。とんでもない幸運が舞いこんできたというべき出来事だったのだろう。

 周囲は魔法が解けたかのように、平素の姿を取り戻している。太陽はいつものように無駄に明るく、小鳥はやかましく囀っている。

 しかし、それでも。
 顔をあげると、前よりも世界が明るくなったように感じられて、フィンは何度も瞬きをした。


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