-紫翼-

child-childhood -少女の子供時代-



 花の蕾が膨らみ、日増しに暖かくなる風が春を告げようとするころ。
 どちらが抱えられているのか分からないような大きな荷物を背負って、少女はそこを訪れた。
 息を呑むほどに洗練された空間。空は吸い込まれるほどに高く青く、地には新たな教え子を迎えようと華やぐ人の営み。
 まるで別世界に踏み込んでしまったかのような心境で、しかしぎゅっと小さな拳を握りしめて、少女は幼い足を踏み出した。
 世界中の『天才』と分類された子供たちが集う、学術の都。聖なる学び舎、グラーシア学園。
 セライム・ユルスィートがそこに入学した、ミラース歴1581年の春のこと――。


 ***


 困った。
 とても困った。
 セライムは人質にでもとられたような顔つきで辺りを見回していた。
 汚れのない白い壁。窓の外には鮮やかな緑。細やかな装飾のされた通路は、しんと静まっている。だが、そんな美しい建造物の景観を楽しむ余裕は、今の少女にはない。
『……迷った』
 生徒総数4000名を抱えるこの学園の広さは、まだ10にもならない少女をいとも簡単に迷わせる。辺りをもう一度見回してみるものの、世界が滅んでしまったあとのように誰一人として見つけられなかった。
 それも当たり前だ。今日はグラーシア学園の入学式。式が始まりが近いこの時間、学園の者は皆会場に行ってしまっているだろう。セライムは人ごみが嫌で散歩にでてみたつもりが、気がつけばうっかり知らない場所まで迷い込んでいたのだ。小さな町で生まれ育ち、その後様々なことがあってからは大きな屋敷の中で過ごしてきた彼女は、道を覚えることをまだ知らなかった。
『もうすぐ式が始まる……』
 きっと大講堂に近いところだったら人のざわめきも聞こえただろう。しかし、いくら耳をすませたところで聞こえるのは春の風が窓を叩く音ばかりだ。
 ――困った。
 静寂に一層心細くなって、セライムは立ち止まった。涙が滲んでくるのをこらえようと、目元をぬぐう。だが足の震えは収まらず、唇が勝手にわなないた。
 誰もいない。いてくれない。
 ずっと一緒にいてくれるはずだったのに。
 いつだって誰かが傍にいてくれたのに。
 あの日から、いつだって――ひとりだ。
 息ができないくらいに胸が苦しくなって、幼い顔を歪める。
 彼女は逃げ出すように故郷を飛びだし、この地にやってきた。他の入学生は皆、笑っていた。きっと嬉しいのだろう、嬉しいに決まっている。誰もが羨む白いケープの制服をまとって、誉れ高き学園への入学に胸を弾ませて。
 しかしセライムは違う。少女は、逃げてきただけであった。逃げられる場所だったら、どこでも良かったのだ。だから全寮制と聞いただけで、ろくに調べもせずこの学園に飛び込んだ。
 だが、そこはあまりに目に眩くて。
 ひとり俯く。涙がじわじわ滲んでくる。
 あの夜、一生分泣いたつもりだったのに。もう、これ以上泣かないと誓えるほどの涙を零したのに。
 どうして、この瞳はまた――。

「どうしました?」

 影。
 降りかかった声に、心臓が飛び出るかと思った。
 体が一瞬縮こまったかと思えば、次にはかっと熱くなり、振り向いて顔をあげる。
「どうしましたか、こんなところで」
 そこには細面の男の人が立っていた。
 まず印象に残るのは、はっとするような着物の白。それは、この学園の色でもある。胸に刻まれた青き花の紋は、グラーシアの学園章だ。
 たっぷりとした布で織られたローブには、銀の装飾。上等な青の羽織をまとって、神々しいまでに輝いている。あたかも絵画の中の人物が抜け出してきたかのようだ。
 しかし、仰々しい被り物の下にある顔はそんな衣装とは打って変わって、穏やかな陽だまりみたいな表情を湛えていた。
「……あ」
 夢の世界にでも迷い込んでしまったのだろうか。セライムは眼尻に溜まった涙も忘れて、その姿を呆然と見上げた。
 するとその人は、にこりと笑って。
「こんにちは」
 ぺこり、と礼儀正しく頭をさげる。
 ――ぼとっ。
 被り物が、ずれて落ちた。
「あっ」
 慌てたように屈んでそれを拾い上げ、軽くはたく。輝く金属の飾りがついた被り物はとても重そうだった。言葉を見失っているセライムに向けて、その人は困ったように笑いかける。
「大きな被り物でしょう? こんな仮装大会みたいな真似はやめようっていつも会議で言うんですけどね、結局今年もこんな成りです」
 よっこらしょ、と長いそれを被りなおす――が、微妙に角度がずれている。だが彼は気にした風でもない。というか、気付いてすらいなかった。
「さて。こんなところでどうしたんです?」
「――」
 問われて口を開いたが、声がうまくでない。入学試験のときの面接官の前ですら絞りだせた声は、喉の奥で消えてしまう。
「おや、新入生の子ですか」
 びくりと肩が跳ねる。胸元の学年章の色で判断されたことが幼い彼女には分からず、まるで魔術でも使われたように思えた。
 こちらの戸惑いが悟られたか、男性は優しく笑った。
「お名前をきかせて貰えますか?」
 もう一度屈んで、名を問うてくる。
 その暖かな光を宿した目を見つめながら、セライムはどうにか言葉を絞り出した。
「――せ、セライム・ユルスィート」
 最後の方は消え入りそうになって、聞こえなかったかもしれない。だがそれでも彼は頷いてくれて、立ち上がった。
「セライム君ですね」
「は、はい」
 どぎまぎと頷き返す。心臓が痛みを感じるほどに高く波打っていた。
「あ、あの」
「はい」
 ごくりと唾を飲み込む。それほどに目の前の人は背が高くて。
 ――どこか、懐かしい匂いがして。
「だ、だだ」
「はい」
「……その、だい、だ」
「はい」
 どもりまくる自分に、気にした風でもなく何度も相槌を返してくれる。
「だ、だい……その、大講堂……は、えっと」
「あっ、すみません」
 どこですか、と続ける前に、人影はぽんっと手を打って少し慌てたそぶりを見せた。
「すみません、そろそろ式が始まってしまうので。まずは一緒に行きませんか? 式が終わったらお話はゆっくり伺いますから――」
「……え」
「ああ」
 返す言葉が見つからず、胸の前で手を握りしめるセライムの反応をどう受け取ったのか、その人は再びぽん、と手を叩く。
「そういえば、最近の子は見知らぬ人についていかないように育てられているんですよね」
 見当違いな言動に、セライムはますますどんな顔をしていいのか分からなくなった。絵本の中から抜け出してきたようなその人は、子供のように首を傾げている。
「困りました。……あ、それでは」
 数秒思案するように口元に手をやってから、彼は名案を思い付いたとばかりに嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今すぐにお知り合いになりましょう、セライム君」
 全身の骨が砕けそうになって、セライムは何度も瞬きをした。こんな人が自分の目の前にいることが信じられなかった。ふとした瞬間に消えてしまうのではないかとすら思えて、彼の顔をじっと見つめる。
 そこで、頭の奥にひらめきが瞬いた。午前の柔らかい日差しに包まれた、優しげな笑み。ふんわりと煌めく水色の髪。それらはおぼろげな記憶に引っかかっている。
「――」
 一体どこで見たのだろう。混乱した頭で考えていると、答えを見つける前にそれは音となって目の前から飛び込んできた。
 軽く腕を持ち上げて、彼は笑った。

「学園長のフェレイ・ヴァレナスと申します。セライム君、聖なる学び舎グラーシア学園へようこそ」


 ***


 セライムは唖然としながら、舞台の上の人を食い入るように見つめていた。
 入学試験で首席の座を勝ち取った生徒が、子供とは思えない調子で答辞を読み上げている。その前に立っているのは、――先ほど出会った学園長のはずであった。しかしその出で立ちはつい数十分前とは嘘のように違っていた。
 真剣な、強い眼差し。細長い体には豪奢なローブ、まるで神の代理人のように静まり返った空気をその身にまとう。不格好に見えたはずの装束が、今は彼に着られるために作られたようにさえ思った。
 創立から百年以上の歳月を数える大陸の最高学府、グラーシア学園。その最も高きにいるにふさわしい姿。
 そこに、セライムの瞳を通してかぶるものがあった。見ている内に、ふっと空間が途切れ、切り離される。
 書き物に集中していた大きな背中。普段はおどけていて優しいのに、一度自分の部屋に入ってしまえば、大量の資料やメモに囲まれて強い眼差しでそれらに目を通していた。それを、いつも息が詰まる思いで見ていた。見続けていた。
 悪い人を正すために戦っているんだよ、と語った父の優しい笑顔が大好きだった。この世で一番好きなのは誰か、と尋ねられたら、天地がひっくり返っても父だと答えたろう。
 だが、今は――。

 ぼうっとしている内に式は終り、慌ただしく新学期が始まった。それからは学園長の姿を脳裏に焼き付けたまま、しかし襲いくる日常との戦いに埋もれていった。
 幸いクラスは馴染みやすく、友人もすぐにできた。特に仲良くなった双子の姉妹は何かと世話を焼き、あるいは甘えてきて、まるで姉と妹が同時に出来たようで嬉しかった。
 授業が始まれば、毎日が嵐のように過ぎていく。だが、セライムは幾度となくあの背の高い学園長の姿を頭に描いていた。優しく深い知性を秘めた瞳、静かで厳かな祝辞を述べる声。それらを思い出すたびに、連鎖して遠い日々が蘇ってくる。
 あのころは、そばに父がいた。帰ってきてくれる、父がいた。強くて優しくて、何でも教えてくれた父がいた。
 だけれどそれを思い出すたびに、同時に泣きだしたい気持ちが沸いてくる。
 今はいい。全寮制のこの学園にいれば、朝から晩まで優美な鳥かごの中で夢を見ていられる。
 しかし、夏が来れば長期休業期間に入る。家に戻らなければいけない。
 前は、家には父がいた。
 だけれど今は、いない。

 一人で歩く学園長を偶然見つけたのは、もう初夏に差し掛かるころだった。入学式以来、セライムは学園長には会っていなかった。学園長はその立場の人間として忙しなく働いているようだったから、声がかけにくかったのだ。それに学園長は少しでも間があれば上級生に掴まって、学問を説かされている。だが本人もそれが嬉しいらしく、にこにこしながらそんな生徒と付き合っているものだから、のんびり歩く学園長を見つけられたのは幸運中の幸運だった。
「せ、先生っ」
 どきどきしながら声をかけると、ふっと淡い水色の髪が揺れ、変わらぬ優しい表情が振り向いてセライムを捉える。
「ああ――セライム君ですね」
 名を覚えてくれていたことに、胸がどきりと高鳴った。同時に、言葉が嘘のように頭の中で霧散してしまう。恥ずかしくなって下を向いてしまったセライムを見て、学園長はころころと笑った。
「どうしましたか?」
 目線を合わせるように、長い体を折りたたんでその場にしゃがみこんでくれる。だがそんな優しさに鼻の奥がぎゅっと苦しくなって、セライムはますます長い髪で顔を隠すように俯いてしまうのだった。
 暖かな眼差しも、そうやってこちらの言葉を聞こうとしてくれるところも、とても嬉しくて、そして同じくらいに痛かった。
「……」
「はい?」
「……」
 僅かに動いた唇に、学園長の瞳がどこか遠くを見るように一瞬だけ色を滲ませる。学園長は立ち上がって周囲を見回すと、校舎から外に続く階段を見つけてそちらにセライムを促した。
「少し、座ってお話をしましょうか」
「……」
 授業も早くに終わる幼学院の校舎は、皆遊びに出かけてしまって人影はない。こっくりと頷いたセライムは、学園長と共に石造りの階段の淵に腰をおろした。
 中庭に面した階段は、黄色い木漏れ日が生き物のように揺らめいている。本格的な夏が到来する少し前の半端な季節の色彩を、学園長は楽しそうに眺めては口にするのだった。
「ほら、ハナミツグがもう白い花をつけていますよ。今年は雨があまり降らなかったからですかね、こんなに真白に咲いているのは初めて見ました」
 そう高いところに花を散らせる木を指さす学園長は、入学式とは違って質素な薄手のローブを着ていた。今みたいな穏やかなときは、そんな姿がよく似合っているな、とセライムはぼんやりと考えた。
「今日はお友達と一緒じゃないんですか?」
 ぎゅっと膝を抱えて、セライムは首を振り、膝の上に顎を乗せた。普段ならキルナやチノと遊んでいるのが常だったが、夏が近づくにつれて一緒にいても楽しくなくなってしまったのだ。
「キルナにはチノがいて、チノにはキルナがいるから、私はいなくてもいいんです」
 あの家に入って一から鍛えなおされた口調で言うと、自分の台詞ながら胸の中が濁ったように気持ち悪くなった。
「……この学園は楽しくないですか?」
 学園長は眉を下げて気遣わしげに尋ねてくる。セライムはぷるぷると強く首を横に振った。楽しいから、楽しすぎるからこそ、時が過ぎてしまうのが辛いのだ。
 もしも父がいなくならなかったら、彼女は絶対にグラーシアの受験などしなかったろう。大好きな父の傍から離れたりはしなかったろう。しかし父は霧のように溶けて消えてしまった。それから待っていたのは見上げるような豪邸で、刺さる視線に怯えながら暮らす日々だった。それに比べたら、グラーシアはまるで楽園だ。友がいる。好きな本が読める。外に出て遊ぶことができる。
 そして何よりも――こうやって目の前の人を通して、遠い日々のことが思い出せる。
 だからそれが一時でも消えてしまうのが、辛くて辛くて仕方無かった。
 けれど、気持ちを言葉にできるほどの器用さは今の少女にはなく、ただみじめな想いを抱えたまま重たい沈黙が幼い唇を閉ざす。
「ねえ、セライム君」
 きっと学園長は、可愛げのない自分にさぞ失望したに違いないと思った。だが、今口を開けば泣いてしまいそうで、耳を傾けることしか出来ない。
「私はまだ、セライム君が笑ったところを見たことがありません」
 セライムは唇を噛み締めて、高いところにある学園長の顔を見上げた。学園長を見ていると、体がじんわりと痺れて胸がうずく。しかしそれは自分の記憶のせいだ。何もかも預けてしまえそうなその姿が、たまらなくいとしく、悲しいのだ。とても笑えなどできなかった。
「私と一緒にいると、悲しいですか?」
 言葉が心をぐっと押して、セライムは益々泣きそうになりながら首を振る。けれど、学園長はそれ以上追及はしてこなかった。ただ、安心したようにふんわりと笑った。
「……良かった。嫌われてしまったかと思いました」
 それだけで十分です、と広い正門前の景色に目を細める。違うんですとセライムは言おうと思った。嫌いなんかじゃない、むしろ、むしろ――。
 セライムが口を開こうとした瞬間、突然上から降ってきた声に二人はびくりと肩を飛びあがらせた。
「せんせーっ!!」
 首をほぼ垂直にして仰ぐと、校舎の二階から眼鏡をかけた金髪の幼い男子生徒が身を乗り出してこちらを見下ろしている。学園長は慌てて立ち上がって、珍しく声を張り上げた。
「アナトール君! 危ないですよ」
 だが言われた当人は動じた風でもなく、ニッと悪戯っぽく笑ってまくしたてた。
「勝負だ! 今度は発明勝負っ、絶対勝つから覚悟しろ!」
 びしっと指さされてすっかり情けない顔つきになった学園長は、困りましたと小さく呟いてセライムに目を戻した。セライムは立ち上がって、自分の服の裾を掴みながら頷いた。学園長は心配そうにその顔を覗きこむ。
「……また今度お話しましょう。私は学園長室にいますし、休日は家にいますから、困ったらいつでも訪ねてきなさい」
 こっくりとセライムが頷くのを確認すると、学園長は再び顔を上に向けて叫んだ。
「今いきますから、待ってて下さい!」
「はーやーくーっ!!」
 急かす子供の声に苦笑しながら学園長は会釈をして、背を向ける。大きな背中が歩いていってしまう。
「――ぁ」
 セライムは一瞬、口を開いた。木漏れ日がゆらゆら揺れる。世界と同じように、ふわふわと頼りなく。
 言葉にしたいと思った。この気持ちを、あの人に伝えたいと思った。

 ――先生。
 ねえ、先生。

 そう、呼びかけることができたなら。

 先生、私のお父さんはとっても大きくて、力が強くて、何でもできる人でした。
 お父さんは悪い人を成敗するためにお仕事をしているんだと、いつも言っていたんです。
 先生。お父さんはあまり帰ってこなかったけど、私、お父さんが大好きだった。お父さんに肩車してもらうのが大好きだった。
 あのね、先生。お父さんは、私のお父さんは――。


 ***


「――やりィ!」
 色彩豊かな的屋の旗を、風がくるくるとなびかせる。軽快な破裂音と共に、台座から落ちる的。玩具の銃を片手にぐっと拳を握りしめる父の横で、それまで真剣な眼差しを注いでいた毬玉のような幼い娘が、大きな瞳を輝かせた。
「すごいっ!」
 投げられた景品のクマのぬいぐるみを父は軽々と受け取って、傍らの娘に差し出してやる。
「ほれ」
「わぁっ」
 とろけた金を流したようにまばゆく波打つ髪が、娘のやわらかな輪郭を包みこむ。うっとりと青の瞳が笑みを作り、それを見た父も自慢げに豪快な笑い声をあげた。
「どうだ、お父さんはすごいだろう!」
 子犬のようにやわらかい娘の頭をわしわしと撫でて、小さな手をとる。娘はきゃあとくすぐったそうに声をあげながらも、父の足にぶつかったりしながら人ごみの中を歩きだした。
「それではお姫さま、お次はどちらに?」
「んーとね」
 娘は芝居がかった父の仕草に、本当に昔の国のお姫様にでもなった気分で周囲を見回した。こんなにも胸がわくわくしたのは久しぶりだ。父はいつも忙しなく仕事にでていて、何日も帰ってこない時もある。今日のように二人で出掛けられるような日は、一年に数度あるかという程度だった。
「お芝居と、お洋服屋さんと、お菓子屋さんと、あと本屋さん!」
「……せ、セライム。流石にお父さん、破産してしまうぞ」
「やだー、行くの!」
「仕方ないなぁ」
 晴天の下で色素の薄い不精ひげがきらきら光る。父はこっそり財布の中身を確認し、母さんに怒られちまうな、と小さな声で呟いた。だが、次の瞬間には不敵な笑みを浮かべたかと思うと、ぱっと娘の手を離して走り出した。
「じゃぁ、お父さんより早く芝居小屋についたら全部回ってやるっ」
「あ、待って! ずるいー!」
 顔をあげたときには既に父は数歩先だ。ぬいぐるみを脇に抱えて娘もぱたぱたと走り出すが、足で父に敵わないことは十分に知っていた。父は背が高くがっしりしていて、自分を片手で持ち上げられるくらい力も強いのだ。
「わはは、追いつけるものなら追いついてみるんだなっ」
 むっとして娘は丸い頬を紅く染める。前方を走る父は、余裕たっぷりのスキップまじりなのに、羽根でも生えているような速さで行ってしまう。道ばたの人が笑っていようが全く気にせず、娘はがむしゃらに足を動かした。ぬいぐるみの腕と足が風にぶんぶん揺れる。体が火の玉みたいに熱くなる。
 だが芝居小屋につく前に、娘はすっかり息をあげて立ち止まってしまった。汗ばんだ手でぬいぐるみを抱きしめ、荒く呼吸していると、父が来てくれてひょいと脇に抱えられた。
「ほれ、行くぞっ」
 そう言った父が走り出すと、ぐんぐん景色が過ぎてゆく。いつも見ているのと同じ町なのに、まるで命が吹き込まれたように全てが輝いて、笑い声をあげているように感じられた。父の腕は硬くて逞しく、横抱きにされていても恐怖はない。すぐに幼い少女は疲れを忘れてけらけらと笑いだした。
「しかし中々いい走りするなぁ、セライムは。将来は競技会に出場できるぞ」
 芝居小屋の前で、父は娘を下ろしながら言ったものだ。しかし娘はぷうっと頬を膨らませてそっぽを向いた。
「そんなの出ないもん。私、お菓子屋さんになるんだもん!」
「いっ……お、お前。菓子、作る気か」
「作るのーっ」
 突然寒気が走ったように顔をひきつらせる父に、ますます不機嫌になった娘は掴みかかった。無論、まだ舌足らずな子供であるから、本人は全力であってもせいぜい子猫がじゃれてきた程度でしかない。
「そ、そうだな。半分は俺の血が入ってるし……大丈夫だよな、きっと」
 まるで自分に言い聞かせるようにぶつぶつ呟く父に、娘は唇を突き出して不服そうに首を傾げていた。


 父はまるで、魔法使いのような人だった。
 一言父に頼めば飴玉でも人形でも、色んなものを手に入れてくれたし、この国のこと、そこに住む人たちのことを沢山教えてくれたし、それに――。
 肩車をしてもらいながら、娘は普段よりも空に近づいてぼんやりと揺れていた。もじゃもじゃと渦を描く父の金髪は犬の尾のように後ろで束ねてあって、肩車してもらったときはそれをいじくるのが娘の癖だった。
「いたた。セライム、そんなに引っ張られたらお父さん痛いぞ」
 苦笑まじりに注意されて、ちょっとだけ手を緩める。片手のぬいぐるみは、夕日に照らされて手足を左右にぶらつかせている。
 娘は空を見上げた。端の方に藤色の波がかって、赤、橙、水色と順に色を変えていく。空は一色じゃないんだな、と首を垂直に傾けていると、父が慌てたように背負いなおし、がくん、と体が揺れた。
「こら、ちゃんと掴まってないと落ちちまうぞ」
「ねえお父さん」
「うん?」
「なんでお空にはたくさんの色があるの?」
 今度は逆に父の顔を頭の上から覗き込むようにかがんだ娘に、父はうーんと唸った。
「難しい質問だなぁ」
 帰り道の黄昏には、それぞれの家に帰っていく人々の影が長く落ちる。片づけられていく屋台をどことなく寂しげな風が撫でていく。あっという間の一日はもう終わってしまう。父の不思議な髪の匂いに何故だか切ない気持ちになりながら、娘は父の返答を聞いた。
「空が水色だけだったらつまんないだろう? この町だって、春には花が咲いて、夏は雨がよく降って、秋は落ち葉で一杯になって、冬は雪化粧だ。空だって泣いたり笑ったりしたいんだよ」
「でも町とお空は違うよ。お空は触れないよ。お花は摘めるし、雨はすくえるし、落ち葉は拾えるし、雪は丸められるのに、お空の色には触れない」
 くすっと父が喉の奥を鳴らす。真剣に言ったのに笑われたので、娘は眉根を寄せ、束ねた髪を強く引っ張った。
「あいたた。ごめんごめん、いや、セライムは面白いことを考えると思ってな」
 低い家が続く街並みは、夕暮れに染められて飴色の輝きを放つ。ふと香る夕飯の香りと、ぽつぽつ灯りだすささやかな光、空には一際輝く一番星。
「セライムは空に触ってみたいか?」
「うん……でも、お父さんに乗っても触れないもんね。お山にのぼったら触れる?」
「難しいなぁ。だがセライム、空はさみしいところだぞ」
 父はそう言いながら、ゆったりと空を見上げた。
「きれいな色をしてるけどな、誰もいないし、何もない。大地はこんなに人で溢れてるのにな。あそこにはきっと、悲しみもないが喜びもないんだろう」
 突然父が難しいことを言った気がして、娘はじっと耳を傾ける。父はそれに応じるように語って聞かせた。
「この大地には、悲しいことも辛いこともたくさんある。お父さん、そういうのばっか見てきたから分かる。人っていうのは、罪を犯さずにはいられない。苦しまない人なんていないし、自分が幸せだって思ってる人なんて、きっとほとんどいないだろうな。ただ、みんな幸せになりたいだけなのに、笑顔の裏には悲しみが必ずついてくる」
 おぶさっているため父の顔は見えなかったが、言葉はひどく悲しく、そして優しい響きを持って彩度を落とした空に溶けていく。
「でもな、生きていれば素敵なことはきっとあるんだ。俺が母さんと出会って、お前を授かったみたいにな。だから、大地から離れることはできないんだ。ここは嘆きに溢れているように見えて、とても優しい場所でもあるんだよ」
 お空は見上げるだけで十分さ――、父は小さく笑った。父が不思議な香りをまとわせているのは、インクと紙の匂いが染みついているからだと気付くには、まだ娘は幼すぎた。


 家と家の間に窮屈そうに収まっている自宅に帰ると、食べ物の匂いがしてきて腹の辺りがきゅうと鳴った。
「おかえりなさい」
 扉を開く音に気づいたのか、金髪を後ろでまとめた母が顔をだした。母は父にぴたりと照準を合わせると、凛とした歩き方で寄ってきて得意げに小さな鼻を膨らませる。
「聞いて下さい、今日は鍋も焦がしてませんし、指も切ってませんし、塩は一つまみしか入れてませんよ!」
「お……おお、そりゃぁ楽しみだ……ところで野菜と肉しか使ってないよな?」
「もちろんです! お肉は鳥を一羽まるごと入れたんですよ。いいダシがとれるでしょう」
「ぶっ」
 父の肩が不自然に跳ね上がり、その顔が真っ青になった。
「ま、まさかちゃんと切って入れたよな? 内蔵とか骨とかまで入れてないよな?」
「はい?」
 母は雪のように白い肌に煌めく瞳を瞬かせ、ふんわりと小首を傾げた。
「だって、まるごと入れた方がおいしくなるのでしょう? 羽根に火が通るまでもう少し待ってて下さいね」
「はっ……」
 ぐらりと父の体が傾き、血相を変えて台所に飛び込んでいく。悲鳴が聞こえるのはいつものことだった。父は魔法使いのようになんでもできる人だったが、絶対に母には敵わないのだ。
「セライム、手を洗ってらっしゃい。ちゃんと爪まできれいにするのよ」
「はーい」
 ほっそりとした体に質素なエプロンをまきつけた母は、父が帰ってくると本当に上機嫌になる。ちょっとくらいお皿をがちゃんと鳴らしても眉をしかめたりしないし、服を汚してしまってもにこにこしている。だから、父のいる夜は楽しかった。
「あなた。明日は早いんですか?」
「お……おう、そうだ。ちょっくらデカそうな話があってさ。朝一の汽車でクラナに行くが、それからは分からねえ。まあ、一週間くらいで帰れるようにはするよ」
「えっ!」
 セライムは笑みを突然失って台所に走った。鍋の中身と格闘している父の後姿にしがみつく。
「やだ! 毎日帰ってこないとやだっ」
「はは。いつものことだろうが。大丈夫だ、無理はしないで帰ってくるよ」
「本当に大丈夫ですか。危険な事件なら、手を出さないで下さいね」
「わーってるって。ウチの女どもは心配症だなぁ……おーい、母さん。今度は切った後の鶏肉を買ってきてくれな」
「なぜです?」
「……なんででもだ」
 がっくりと肩を落とした父は、セライムの頭をわしゃわしゃと撫で、母の頬に軽く口付けた。とても裕福とはいえない狭い家での生活であったが、そこで生まれたセライムはそれが当たり前だと思っていたし、この暮らしがずっと続くものと信じきっていた。
「セライム。明日からまた母さんを頼むな」
 父は翌日、家を出た。
 それきり、戻ってくることはなかった。


 ***


 先生。ねえ、先生。
 私は悪い子ですか。
 だから、お父さんは帰ってこなかったんですか。
 お母さんは、沢山沢山、私に謝ってくれました。泣いてるお母さんは、かわいそうだった。だから私、お母さんの手を握ったんです。大丈夫だよ、って。
 だって私、絶対にお父さんは帰ってくると思ってた。また遊びにいけるって。的屋で遊んで、お芝居を見て、服とお菓子を買ってもらえるって。
 でも、そうはなりませんでした。お母さんは、見たことのない大きなお家に私を連れていきました。そこには、怖いおじいさんがいて、お母さんを叱ったんです。お母さんをいじめないでって言ったら私、おじいさんにぶたれました。おじいさんは、お母さんのお父さんでした。
 怖かった。私はお母さんと抱き合って、震えていました。早くお父さんが迎えにきてくれることを、ずっと神様にお祈りしてました。
 でも、ある日お母さんはおじいさんに呼び出されて、一人で連れていかれてしまった。長い間、私はお外みたいに広い部屋でぬいぐるみを抱っこしていました。その家にいる人たちはみんな私を嫌な目で見るから、目を閉じたままでいました。
 気がついたら、私は眠っていたんです。そして、起こされました。お母さんがいて、私の髪を撫でてくれていました。
 でも、お母さんは悲しそうにしていました。お母さんは泣いてた。ごめんねって言ってくれた。
 新しいお父さんのところに行くのよって、お母さんは言ったんです。私、よく意味が分からなかったんです。だって先生、お父さんは一人しかいないはずでしょう。お父さんは、お父さんです。
 次の日には、私たちは太ったおじさんのところに連れていかれました。おじさんはにこにこ笑って、はじめましてって言ってくれて、宝石箱みたいな箱に入ったお菓子をくれました。
 お母さんは私に、今度からこの人をお父さんと呼びなさいって言いました。私、嫌でした。そんなことしたくありませんでした。でもお母さんは悲しそうな顔をしているばかりで、おじさんはそんなお母さんを優しく慰めていました。嫌。嫌です。お母さんに触らないで。お母さん。なんでそんなきれいな服で着飾って、笑ってみせるの。
 それから、私には大嫌いな人がついてまわることになりました。知らないお婆さん。私がちょっとでも動くと叱りつけて、私がちょっとでも喋るとどなりつけるんです。
 でも、ひとつだけいいことを知りました。私、おじさんのことをお父さんなんて言いたくなかった。そしたら、お婆さんが叱る中に、いい言葉があったのです。だから、『オトウサマ』って呼ぶことにしました。おじさんは、お父さんじゃなくてオトウサマです。
 オトウサマは親切な人で、私の部屋を玩具とお洋服と、見たことのないお菓子ときれいなお椅子や机で一杯にしてくれました。でも私、オトウサマは嫌いじゃないけれどそんなの欲しくなかった。
 お父さん。お父さんが帰ってきてほしかった。
 でもお母さんは、お父さんの話をすると怒り出すようになりました。気がついたらお母さんは私のこと抱きしめてくれなくなっていました。オトウサマと楽しそうにお喋りをして、私がそこにいるのを嫌がるみたいでした。
 先生。私、お母さんにも嫌われてしまいました。
 私には、どこにもお家がないんです。あそこでは誰も私のことを見てくれません。ひとりぼっちです。
 お母さんが笑ってくれるなら、お父さんが帰ってくるなら、なんだってします。でも、私には――。

 心の中で唱えている内に、学園長の姿は消えてしまっていた。少女は一人、木漏れ日に隠れて幼い顔を歪めた。


 時が流れて、終業式が来るその日まで、彼女は学園長を訪ねることはしなかった。自分ひとりが我慢すれば、何もかもうまくいくんだ、と言い聞かせながら、長い影法師を落とした少女は心を閉ざしたままでいた。
 終業式が終われば、大通りは帰省する生徒でごった返す。幼学院の生徒は、近くに住む者同士で固まって帰ることになっていた。
 増発された汽車がのびやかに汽笛を鳴らし、大きな荷物を持った生徒たちが駅になだれこんでいく。セライムもまた、中央広場に荷物を持って座っていた。セライムの家の方面に行く汽車に乗るには、もう少し待っていなければいけなかった。
 どんなお土産を買っただの、家でどんな人たちが待っているだのと大声で語り合っている生徒たちの中で、セライムだけが暗い顔をしていた。頭の中では、長期休業が早く終わることだけを考えていた。
「私ね、グラーシアを卒業したらお医者さんになるの!」
「オレは弁護士になるね。お金持ちになれるし」
 ふと顔をあげると、同じくらいの年の生徒たちが将来の夢を語り合っている。セライムはそれをなんとなく聞いていた。自分の未来など、彼女にとっては開けたこともない箱の中にあるものだった。
 だが、ざわりと心が沸き立つのを感じてセライムは自分の腕を抱きしめた。今はいいだろう、長期休業の間さえあそこで我慢していればいい。
 しかし、この学園を卒業してしまったら? その後は――?
「……」
 突然恐ろしくなって、すがるものを見失ったようにセライムは忙しなく辺りを見回した。生徒たちのざわめきが、まるでひとつの生き物のようにうねり、耳をかきならす。ぎゅっと目を閉じて耳を塞げば、今度は暗闇が自分を覆って消してしまう。
 何故自分はここにいるのだろうと思った。どうしてこんなことになってしまったのかと。自分が悪いのだろうか、それさえも分からない。
 帰りたくない、と胸の内が囁いた。誰か助けて、と体中が叫んでいた。ひとりにしないで、と喉の奥が掠れて震えた。
 汽笛の鋭い音が腹に響く。たまらずセライムは荷物を抱えたまま走り出した。同じ年の生徒で溢れかえる広場で、ありふれた金髪の少女が姿を消したことに、誰ひとりとして気付く者はいなかった。
 大通りをめちゃくちゃに走って、人通りのない道まで来て、やっと足を止めても暫く少女は全身で呼吸しながら体を震わせていた。
 夏の日差しを背中に受けながら空を仰ぐ。帰らなければ、と呟きながらも、あの空に行きたいとも思った。何もない空。鳥になって、自由にどこまでも飛んでみたい。こんな世界なんてこりごりだ。大好きな人がいなくなってしまうなら、最初からいなければ良かったのだ。だからもうずっとずっと、空の上で何も知らないままたゆたっていたい――。
「……ぅ」
 よろよろと、荷物をひきずるようにしながら歩き出す。次第に日が暮れていったが、このまま世界が終わってしまえばいいと思った。
 誰もいない道をさまよっていると、このままいれば体が朽ちて死んでしまえるのではないかという幻想にかられる。それはあまりに甘やかな夢だった。
 なのに、暫く経てばお腹の奥がきゅうと鳴る。喉が乾いて、飲み物が恋しくなる。死んでしまえばいいと思いながらも生への欲望を訴える体が惨めで、泣きそうになるのを何度もこらえる。
「……せんせい」
 学園長の顔を思い出したのはそんなときだった。いつでも訪ねてきなさいと、彼は言っていた。
 セライムはくしゃっと顔を歪めて茜色に染まりかけた空を仰いだ。先生に全部言おう。先生は魔法使いみたいな人だから、きっと何か教えてくれるに違いない。
 だが、今はどこにいるのだろう。辺りを見回して、セライムはぞっとした。見たこともない道だった。この都市には珍しい、人の営みのある通り。店や研究施設などはなく、住宅が平らな道に並んでいる。急がなければ、今にも夜の帳が落ちてきてしまいそうだった。
 心細さに座りこんでしまいそうになりながら、人通りの乏しい道を覗きこんでは歩いていく。空腹を訴える体は歩く力を出し渋り、どんどん足取りはおぼつかなくなっていく。人には会わなかった。まるで世界から人間だけ消えてしまったようだと思った。
 顔をあげたのは、荷物の重たさに、ついにその場にへたりこみそうになったときであった。

 世界は黄昏の幻惑の中。
 このまま終わってしまうようにみせかけて、なのにいつまでも続いていく。
 古びた家がそこにあった。門は開いていた。そこから見えるささやかな庭にはよく茂った木。窓からは騒がしい子供たちの声。
 そんな庭に、水をまく人がいた。細長い体に薄手のローブをまとって、こちらに背を向け、楽しそうに器を動かしている。淡い水色の髪が、夕日を受けてたおやかに煌めいている。
「ぁ――」
 その場に縫いとめられたまま、セライムは口を開いた。言おうと思った。何もかも。この人に伝えたいと思った。
 背後の気配を察知したか、ふと彼は手を止めて振り向いた。痩せた頬がぴくりと驚きに震えて、細い瞳が見開かれる。
 セライムは大きく口を開いた。

 先生。
 先生は、どこにも行きませんか。
 一緒にいてくれますか。
 私をひとりにしないでくれますか。
 先生――。

 そう言いたかった。けれど、失う恐怖に怯えた唇は震えるばかり。やっとのことで口にできたのは、たった一言だけだった。

「おとうさん……」

 まるで、暗闇の中からかすかな光にそっと指を伸ばすように。
 向こうがどんな顔をしたかは分からなかった。喉が縮んでじわじわと世界が歪み、言いたかった言葉も気持ちも全て霧散して、溜まっていた淀みが決壊するように、セライムは大声で泣き出した。それ以外にどうしようもなくて、目の前の人に抱きつくこともできず、一人で座りこんでしまうこともできず、ただわめきながら泣いた。
 駆け寄ってくる学園長、泣き声を聞きつけて窓から顔を覗かせる子供たち。涙は何もかもを塗りつぶして、茜色の黄昏に散っていく。散っていく――。

 それはこの地に紫の少年が訪れる、何年も前の出来事であった。




Back