-紫翼-
二章:星に願いを

01.春の季節



 英雄ウェリエル・ソルスィードによって建設された学術都市グラーシア。荒野に投げ込まれた石のように聳えた都市は、その孤高さで外界とは一線を画す。この地はあらゆる文化や権力からの干渉を受けぬ、学者たちの聖域なのだ。
 そんな都市に自らの才を試しにやってくる者たちは、蒸気機関車を使うのが一般であった。グラーシアから別の人里に歩いていこうと思うと、最低でも一週間はかかるほどの距離があるのだ。
 風を引き裂いて突き進む蒸気機関車が白亜の駅に到着すれば、わらわらと人が改札から吐き出されてくる。そのほとんどは学者や技術者などであったが、たった今出てきた人々の中で驚いたように声をあげる者がいた。
「あははっすごいぞグレイヘイズ! グラーシアなんて初めて来た。へぇーあれが有名な時計塔かぁ。美しい見栄えだね、流石はかの建築家マルーズが手がけただけはあるっ」
 そう上品に整えられたべっこう色の髪を春の風になびかせるのは、上機嫌に笑う若い男だった。全体的に細身で手足が長く、切れ長の琥珀色の瞳と相まって猫のような印象を与える。彼は、腕をいっぱいに伸ばして子供のように走りだした。
「見てっ、噴水だ!」
「……レンデバー」
 周囲から奇異の視線を受ける彼をゆったりと追ってきたのは、心底呆れたように溜息をつくもう一人の若い男だ。だがその容姿はまるで対照的。背丈はそこらの人より頭一つ分高く、筋肉質で岩を思わせる頑健な顔つきをしている。金髪を短く刈り込んだ姿はさながら軍人のようであった。
「目立つのでやめて下さい」
「こういうところの鳥は人に慣れてていいよね。ねえグレイヘイズ、パンかなんか持ってる?」
 噴水の傍でたむろする小鳥たちをしゃがみこんで観察し始める、若い猫のような男――レンデバーに、グレイヘイズは二人分の荷物を持ったまま顔を引きつらせずにはいられない。
「自分に都合のよい言葉しか聞かない癖をいい加減に直して下さい」
「んー?」
 レンデバーは好奇心に満ちた瞳を瞬かせて、明後日の方向へ首を傾げてみせる。聞いちゃいない、と口の中で毒づきながら、グレイヘイズは懐からメモを取り出した。
「宿は広場に面しているそうですし、先に荷物を置きに行きましょう。やらねばならないことは沢山あるのでしょう?」
「分かってないなあ、グレイヘイズ」
 しなやかな動きで立ち上がり、大股に歩きだしながらレンデバーは人差し指をかかげる。
「お仕事の前にまずは観光でしょ? 僕、前から国立図書館に行ってみたかったんだ! あと昔の学者の家とかも一般公開してるらしいよ? そうそう、それから――」
 切れ長の瞳が不意に獲物を見つけた獣のように底光りして、彼は振り向きながらにぃっと笑った。
「グラーシアといえば、グラーシア学園! 天才と呼ばれる子供たちのお手並み、拝見したいじゃないかい」
 軽やかな声が、刃のような輝きを持って鮮烈な音色を奏でる。グレイヘイズもレンデバーに倣って、大通りから遥か先に見える重厚なる学園を瞳に映し、僅かに口の端を引きしめた。この都市には、これから長らく世話になりそうだ。
 聖なる学術都市に再び春の季節が巡り、淡い色彩がかすみのように駆け抜けていく。強い風は花びらと一緒に鳥の羽根を青空へと巻き上げていった。


 -紫翼-
 二章:星に願いを


 ***


「のぅぉっ!?」
 制服のケープが強い風に引っかき回されて、俺は慌てて胸元を押さえて顔を風下に向けた。周囲のそこここでも短い悲鳴があがる。
「ああもう、なんだろうねこの風は。この世の終わりでも来るんじゃないかい」
 隣でスアローグが逆立った髪を整えながら、いかにも辟易したようにぼやいた。入学式が厳粛に執り行われた翌日、始業式に向かう途中のことである。
 春休みの殺風景なグラーシアばかりに慣れていると、多数の生徒たちがわらわらと門に流れ込んでいく様は、目が回るくらいに新鮮だ。更にこの季節は進級による新たなクラス編成などもあるため、全体的にどこか雰囲気が浮足立っている。俺たち高等院の新二年はクラス再編成もないし、成績によるランクの移動さえなければ研究室も変わらないので、実際ほとんど変化はないのだけれど。
「ユラスさぁーんっ!」
 振り向くと、人をかき分けるようにしてシアが飛び出してきた。
「おお、シア。久々だな」
「久々どころじゃないんです聞いて下さいユラスさんっ!」
「ぐふっ!?」
 歓迎の抱擁を通り越して追突ギリギリのところで俺の胸倉を掴んでくれるシア。隣でスアローグがさっと顔を背けて他人のふりをしてくれた。だが助けを求める前に、久しぶりに聞くシアの怒号の早口が俺の耳から脳天を刺す。
「すごい、すごいんですよぉ!! これは神様からの贈り物ですぅああシアはこれから毎週教会にお祈りにいこうと思うくらいです神よ感謝しますっ! それでですね、さっき見てきたらウチの研究室に新しく入ってくる生徒の中にAランクの子がいるみたいなんですよぉっ!」
「え……ええああそりゃあすごいなシアだが放してはくれないか」
「それでそれで! 絶対私、ユラスさんのおかげだと思うんですぅ! きっとこのままいけば来年からは研究室自体の地位もあがるでしょうしっ。まずはお祝いしなきゃいけないですねぇ!」
「あ、ああ良かったなところでシア放してくれないか」
 ゆっくりと、しかし確実に俺から距離を広げていってくれるスアローグを視界の端に留めながら、がっくんがっくん揺さぶってくるシアの手を引き剥がす。まずここで立ち止まっていたら迷惑だ。
「そうでした。このことも先輩に伝えなきゃいけませんね! 私、行ってきますねぇーっ!」
 嵐のようにシアは走り去って行った。ああ、ヴィエル先輩、ごめんなさい。俺にあの娘を止めることはできませんでした。ちなみに、これから先輩の所属する研究所に行ったら始業式に間に合わないのでは、とちらっと考えたが、その点については忘れることにした。
「おーいスアローグー」
 随分先まで行ってしまっていたスアローグによろめきながらも追いつくと、横目で呆れたように溜息をつかれた。
「君も人気者だねぇ」
「い、いやああいうのはシアだけ――」
「ユラスーっ!」
 肩を飛び跳ねさせて振り向くと、セライムが大きく手を振りながら駆け込んでくるところだった。ああ、こっちは突撃してこないからちょっと安心だ。
「久しぶりだなっ」
「……や、久しぶりもなにも、昨日も会ったぞ」
「制服姿のお前が久々だと言ったんだ」
 革の鞄を片手に、セライムは零れる豊かな金髪を耳にかける。後ろからぱたぱたと息をきらしながら双子の姉妹も追いついてきた。
「はあっ、セライム、足早いよー」
「うん、そうか?」
「あのね、走らされるこっちの身にもなってみなさい」
 スアローグが笑って肩をすくめ、俺もつられて笑った。再び、学生生活という日常が戻ってくるのだ。一年先に卒業が待っているなどとはとても思えない、いつまでも続いてほしい光景だった。


 ***


 始業式の日は事務説明で時間が潰され、生徒は午前中で教室から開放される。俺は学園の正門前、ウェリエルの銅像を見上げながらセライムを待っていた。
 ――セライムの父親の件についてである。
 あの嵐の訪れから、俺たちは少しずつ10年前の新聞記者失踪事件について調べはじめていた。セライムは、はじめは戸惑いもあったのか、俺が何を訊いても言葉少なだったが、次第に少しずつ重たい口を開いてくれたのだ。
 当時のことは幸い国立図書館の古新聞で参照することができた。ただ、だからといって思い通りの成果が得られたとはいえない。大人一人の国内失踪では大々的な記事にはならないし、当時は事件性もないと結論付けられたのだろう。事件自体の記事が組んである紙面さえ希少だった。
 最後はキルナやチノにも手伝ってもらって新聞を手分けして探したが、結局無駄足に終わった。だが、セライムが提案してきたのはそんなときだった。
『……お父さんの友達に、聞いてみるといいかもしれない』
 そのころになると、やっとセライムにも父親の消息を掴もうという気概が満ちてきたようで、しっかりとした口調で説明してくれた。
『昔、中等院に入ったころにも一度、お父さんのことについて調べたんだ。そのときに会ってくれた新聞記者がいる。そのころは私もまだ小さかったし、もう一度話せば何か思い出してくれるかもしれない』
 そんなわけで、グラーシアにあるその新聞社の事務所を尋ねてみることになったのである。そこに父親との友人とやらがいなくても、事情を話せば連絡先を教えてくれるだろう。
 春のうららかな日差しを受けてぼんやり立っていると、どことなく眠気に誘われて瞼が重くなってくる。空は雲ひとつない快晴、南から吹く湿り気を帯びた風がぱたぱたと制服の裾を弄ぶ。幼学院から高等院まで、今日は同じ時間に終業するため、このあたりはそれぞれ色の違う制服を着た生徒たちが入り乱れて行き交っていた。
「んー」
 軽く延びをしながら、ケープの首元を少し緩める。もう学内へは行かないだろうし、このくらい怒られないだろう。背後からゆったりと近づいてくる足音にも気づかず、俺は花壇が綺麗だなぁとかのんびり考えていた。
「お」
 そのとき、セライムが建物の向こうから姿を現した。あいつは遠くから見ても結構目立つのだ。向こうもこちらに気づいて駆け寄ってくる。
「すまない! 遅くなってしまったな」
「いんや、どうせ暇だし」
 セライムは俺の顔をまじまじと見つめて、言いにくそうに口をもたげた。
「……だが、いつもわざわざ手伝ってもらうのも悪い」
 俺は息を抜いてぽりぽりと頬をかく。実際、俺がセライムに助けてもらっていることの方が多いから、この程度だったら借りを返しているくらいにしか思えないのだが。
「ま、とりあえず行こう。事務所って確か大通りに――」

「ユラスさん」

 踵を返しかけたその先で、俺の名を呼ぶ声があった。それは記憶をざわりと触って揺さぶる、聞き覚えのある声だった。
「――」
 俺とセライムは、同時に呼びかけた主を認識して、そして同時に言葉を見失って固まった。
「あら――」
 くすり、と俺たちの戸惑いを面白がるように桃色の唇が孤を描く。
「こちらではユラス先輩、と呼んだ方がよろしくて?」
 新緑を吹きならす風の中で、そいつは俺たちを見上げていた。
 絵本の中から出てきたような白磁に輝く肌。長い睫毛で縁取られた若草色の瞳が、陽光を鮮やかに散らして煌く。僅かに赤みのさした頬、すらりと通った鼻筋が、完璧な美しい顔をそこに形作る。学年章のついた白いケープの下に見える緑の上着と黒のスカート、同じ色のブーツは、グラーシア学園幼学院の制服に間違いない。
 しかし、何よりも俺たちの視線を釘付けにしたのはその肩口の上で揺れる髪だった。膝まであったはずの、あの淡い亜麻色の髪が、今はない。代わりに、顎のラインで切りそろえられたそれが、風と共に軽やかに遊んでいた。
「――マ」
 名を呼びかけたセライムの声を、そいつは人差し指を可憐に唇にあてて遮ってみせる。
 未だ絶句したままの俺の前で、人形のような幼い少女は軽くスカートの端をつまみ、昔風に膝を曲げて挨拶してみせた。
「はじめまして」
 まるで、初めて出会ったときと同じように。しかし、その声に楽しげな表情を乗せて――。

「――セシリア・オヴェンステーネと申します」




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