-紫翼-
二章:星に願いを 02.セシリア・オヴェンステーネ 「セシリア・オヴェンステーネと申します」 ふわりと、淡い亜麻色の髪があでやかになびく。春とはいえ、まだ上着を必要とする季節の風が、俺たちの合間を一息に駆け抜けて――。 精巧な人形のような顔立ちをした、――マーリアではなく、セシリアと名乗った少女に、初めに駆け寄ったのはセライムだった。俺は、がくがくしながら指差すことしかできなかった。 いや、だって。 「おま、その、かみ」 「一体どうしたんだ――!?」 壊れた機械仕掛けみたいな声になる情けない俺に代わり、セライムが少女のすぐ前で膝をついて、上から下まで何度も視線を往復させる。 「この格好は……」 「見ておわかりでしょう? ここの幼学院の制服ですわ。思っていたより洒落ていて気に入りました」 少女はそう微笑んで真新しい純白のケープを軽く払った。セライムは嬉しさと驚きが混ざった瞳で唇をわななかせる。 「なんだ、ここに入学するのだったら、来る前から言ってくれれば良かったのに……! それにしても、名前を変えたのか? ああ、髪もよく似合ってる。前会ったときより少し背が伸びたんじゃないのか?」 「……セライムさん」 見た目に見合わぬ、酷く大人びた――いや、こいつは実際にもう大人なんだが――静かな落ちつきが、少女の表情を優しく変える。 「ユラスさんも。まずは少し、どこかで座ってお話をしませんこと?」 「ああ、そうだな。ユラス、まずは外で店に入ろう。お前の好きな店でいいから」 「お……おう」 未だ固まったまま動けない俺は、カクカクと頷いて目を泳がせた。 だって、この少女は、前の年の秋にあの林の中の屋敷で助けを求めてきた黒服の少女に他ならないのだ。青い薔薇のむせかえるような香りの中、俺たちは――。 「うー」 思い出すと、頭の隅にじんわりと痛みが走る。あの一件のことは、――特にあの得体の知れない水晶については、今までそっと黒い布をかけて記憶の端に置いておいたのだ。あまり深く考えたくなかったから。 それに、この少女の変貌はどうしたことだろう。名前も変えたようだし――。 眉間にしわを刻んだ俺は、暫く唸った後、とりあえずは結論に行きついて重々しく頷いた。 「プリン食べよう」 こういうときは、甘味に限る。まずは頭を落ちつかせなければ。 「よし、プリンならディヴェールだ。とにかくディヴェールだ。なにがなんでもディヴェールだ」 俺はとにかく、愛しの菓子屋に飛び込むために全力で足をそちらに向けたのであった。 *** こぽこぽ、と湯気と共に豊かな香りを醸す紅茶を注ぎながら、セライムは辟易したように呟いた。 「……それにしてもよく食べるな、お前は」 「うん?」 四つ目のプリンに手を伸ばした俺の目の前で、女二人はまだ一つ目を半分しか口にしていない。少女――まだ混乱するがとりあえずセシリアと呼ぶことにする――は俺の食べっぷりに半ば絶句しているようだった。そういえば、こいつの前で甘味を食べたことはなかったっけ。 菓子屋ディヴェールは、横道にこじんまりとした佇まいで看板を掲げる、俺様一押しの甘味屋である。落ち着いた店内でささやかに植えられた観葉植物を楽しみつつ、目玉商品であるプリンを一匙口に含めば、そのとろける舌ざわりと魅惑の風味に世間のことなどどうでもよくなってしまう。 「えーとそれで、何の話だったっけ?」 幸せを存分に摂取し、意識もとろけそうなままに問うと、セシリアは小声で隣のセライムに囁いた。 「……いつもこのような調子なのですか」 「ああ……割とこんなだ」 こちらに得体の知れないものを見る視線を送ってくれる二人。砂糖を惜しみなくティーカップに投入しながら、俺はようやく何故ここに来たのか思い当った。 ちょうど真向かいに座るセシリアの顔をまじまじと見つめ、とりあえず一番驚いたことを口にする。 「……お前、髪、切ったんだな」 「ええ、似合いませんか」 セシリアは耳のすぐ下で揺れる毛先を手の甲ですくってみせた。 「いや、そういうわけじゃないんだが……」 それにしても思い切ったものだ。それに、まとう空気も違うように見える。どこか、今のセシリアには何かをふっ切ったような、芯の通ったところがある気がした。 言い淀む俺に、セシリアは大人びた仕草でカップの紅茶に口をつけ、ふっと薄く笑う。 「あれから沢山のことがありました。……あの方が亡くなった、あの日から」 セライムが僅かに眉を下げ、気遣わしげにその顔を伺う。セシリアは軽くかぶりを振って、静かに語りだした。 「私は……あの後の調べで、マーリアの娘であるということになりましたわ。そうでないと、警視院では話の筋が通りませんでしたから。名前は、『両親』となった二人の名前から頂きました」 聞いている内に、いつか足を踏み入れた、狂った楽園の思い出が脳裏に描き出された。そうだ、確かに屋敷も燃えてしまったから、この少女がマーリア自身であることは主張しようが誰も信じないだろう。俺だって初めて出会ったときは、あの伯爵の娘だと勘違いしたのだ。 「その後は、マーリアの実家の方へ。今の私にとっては祖父母にあたる方々の元で暮らしていました」 俺とセライムは、同時に頬をこわばらせてセシリアを見た。今のセシリアにとっては、と言ったところで実際にこの少女はマーリアなのだ。それならば、実家にいたのは祖父母ではなく、実の父母になるではないか。 「マーリアはあの夜、あそこで死んだのですわ」 セシリアは俺たちの戸惑いを叩き切るように、凛とした声できっぱりと言いきった。かと思うと表情を崩し、痛みをこらえるように笑ってみせる。 「――そう思わないと、とても私は生きていられません」 しんと空気が静かになった。窓の外で、ゆらゆらと黄色の花が身をゆすっている。 「……セシリア、と呼べばいいのか」 俯いたセシリアに、セライムがそっと呼びかけた。僅かに顔を歪めたまま幼い少女はこくりと頷いた。 「そっか。じゃあスアローグとキルナにも紹介しないとな」 俺がそう言うと、セシリアは微かに笑って、居住まいを正した。長い睫毛が震える様は、どきりとするくらいに深い憂いを湛えていた。 「でも驚いた。まさかグラーシアに入学するなんて」 「……ええ」 セシリアは、両手を膝の上で重ね、物思いにふけるように首を傾げる。 「あれから色々と考えました……今までのこと、これからのこと。不安になったりもしましたわ。この体のことについても」 「――大丈夫なのか? 体調を崩したりしていないか」 「ええ。特に何の異変もありませんし、仰る通り少しずつ成長もしているようです。不思議なものですね。幼き日々を二度も繰り返すなんて」 硝子細工のような手を薄い胸にやって、ふっと息を抜く。子供時代を二度どころか一度も知らない俺には、ちょっとその心境はよく分からない。 するとセシリアは前髪にけぶる細い眉を下げて、心配げなセライムに苦笑してみせた。 「中々グラーシア学園の試験というものは難しいのですね。正直なところ、受かったのが夢のように思えますわ」 「言ってくれれば色々と力になってやれたのに。でもどうしてグラーシアに?」 セライムの真っ直ぐな問いに、セシリアは言い淀んで、小さな声で答えた。 「……見てみたかったのです。あの方が住んだ土地を。それに」 俺とセライムを交互に見据えて、どこか思いつめた表情で、セシリアは付け足したのだった。 「ユラスさんとセライムさんに、もう一度お会いしたかったので」 *** 抜けるような青空の下、微かに冷たさを残す風に襟元を掻き合わせながら、仏頂面で立ち尽くす男がいた。道行く人は彼を見た途端、気まずげに目を反らして早足で通りすぎていく。巨人とまではいかなくとも、人一倍高い背丈に筋肉を無駄なくまとい、岩のように厳めしい顔で立っていれば、誰でもそうしたくもなるというものだ。 「おっまたせー」 そんな軽やかな声と共に魔術用品店の中から出てきたのは、彼とは対照的にすらりと細い男であった。両手に買い物袋を持って至極満足げなレンデバーを、グレイヘイズは常人が見れば身をすくませるような表情で迎えた。 「……何を買ったのですか」 「おもしろいものが沢山あったよっ、流石はグラーシアだなぁ」 レンデバーは子供のようにはしゃいだ様子で、大きな袋からこれまた大きな戦利品を取り出してみせる。 ひくっとそれを見たグレイヘイズの顔が引きつった。 「……なんですか、それは」 「魔除けのお面だって。かわいいでしょ」 レンデバーはいかにも古めかしい木製の面を躊躇なく顔にかぶせてみせる。子供が見れば泣き出すこと請け合いの禍々しく牙を剥いた面の、一体何処にかわいいという要素があるのだろう。グレイヘイズは思わず目頭を手で覆った。 「グレイヘイズにも一つ買ってあげようか?」 「結構です」 即答で断ると、ふぅん、と面白くなさげにレンデバーは鼻を鳴らして、持っていた荷物をグレイヘイズに押し付けた。 「じゃ、次行こう!」 ニッと笑ったかと思うと、大股でさっさと歩いていってしまう。グレイヘイズは、押しつけられたやたらと重たい袋の中をちらっと覗いて、広がる混沌に一瞬で目を逸らした。彼は美的感覚というものを母親の腹の中に置いてきてしまったのではなかろうかと、真剣に考えずにはいられない。 それにしても不思議な街であると、グレイヘイズは自分の主人を追いながら考えた。殺風景な白亜の通りには人通りも少なく、通り抜ける風の音には奇妙な物悲しさがある。 世界中から学者が集う街と聞いていたが、彼らは外で起きることよりも、卓上で展開される理論を好むのだろう。ここに自分は住めないな、とグレイヘイズは苦々しく笑った。こんな空気の籠った場所にいたら、精神を病んでしまいそうだ。 『自殺率、離婚率、共に国では堂々首位の、学問の煉獄なのさ』 行きの汽車でこの都市についての情報を確認しあっていたときに、レンデバーは長い足を窮屈そうに組みながら言ったものだ。 『お陰でグラーシア国立病院は精神科の最先端機構になったらしいよ。皮肉なものだね』 「ちょ、あの、痛いですレイン先生っ」 「いいから黙ってついてきて下さい! 全く毎年毎年毎年! なんであなたはそういうところだけ子供なんですかッ!」 グレイヘイズはぴたりと足を止めて、妙な寂しさを吹き飛ばすような会話の方に振り向いた。レンデバーも少し先で不思議そうに目を丸くしている。 「いや、今年はちゃんと行こうと思ってましたよ、本当にっ」 「ほざかないで下さいッ去年もそう言ってすっぽかそうとしたでしょう!? 自分の歳考えて下さいっ、何処か悪いところでもあったらどうするんです!」 「く、首締ってます、レイン先生」 「問答無用ッ!」 ずるずるずる。一体どこにそんな力があるのか、細い腕で男性の首根っこを掴んで引きずる青髪の女性は、足音荒く突き進んでいく。されるがままの男は顔面蒼白で、今にも泡でも吹いて失神しそうだ。 「……ね、グレイヘイズ。あの人」 隣まで戻ってきたレンデバーは、くいくいとグレイヘイズの服の裾を引っ張った。 「あれ、グラーシア学園の学園長さんじゃない?」 「え?」 レンデバーを見下ろすと、彼は連れていかれる人を観察しながら、懐から冊子を取り出してみせる。 「ほら」 開かれたページを覗きこむと、どうやらその冊子はグラーシアの案内資料だったらしく、端の方に市長や図書館長の写真が連ねてあった。そこに、一人だけ妙に若い人相が映っている。南の大陸に多い、淡い水色の髪の下で目を細めて笑っているその人――。 「あ」 半泣きで連れていかれたあの男と、顔は確かに一致する。だがグレイヘイズは信じられない気持ちだった。グラーシア学園の学園長が女性に首根っこ掴まれて説教されながら引きずられていたというのか――? 「……」 「なんか面白そうな人だねぇ。ぜひお話をしてみたいな」 既に角を曲がって見えなくなってしまった二人に、レンデバーが腕を組みながら楽しげに笑う。 「……あれで務まる役職なのでしょうか、学園長というものは」 「さあ? どうだろうねえ――ん、」 ふと、気まぐれなレンデバーは興味の対象を入れ替えたように、道の反対側を見て琥珀色の目を細めた。 グレイヘイズも同じようにそちらを見やって、――ざわっと肌を泡立たせた。 道端を歩いていたのは、聖なる学び舎と謳われるグラーシア学園の制服を着た生徒たちだった。 二人の上級生と思われる生徒と、もう一人はまだ頼りなげな幼い生徒だ。 だが、その上級生の一人――あまり背の高くない少年に、二人の目は釘付けになった。 それは、目が覚めるような紫色だ。生粋の紫水晶から紡いだような髪が、春の陽光を吸いこんで幻惑的に輝いている。そして、同じ色彩の瞳――。 全くそれ以外に特徴のない、しかしこれ以上なく印象に残る少年は、他の生徒を伴って脇道に入っていく。 彼の姿が数秒にして消え、時が解放されて動き始めてからも、暫くその深い色が瞼の裏に焼きついて離れなかった。 「……珍しいですね、あの色は。よほど遠くから来たのでしょうか」 紫色の髪など、グレイヘイズが見るのは生まれて初めてだった。他の大陸に渡ればそのような髪を持つ人間がいると聞いていたが、まさかここまで印象に残る色だったとは。 この地には世界中から学者が集まると詠われていたが、それを真の意味で実感する。そんなグレイヘイズの隣で、レンデバーは表情なく立ち尽くしたまま、ぽそりと呟いた。 「――紫」 まるで感情の感じられない、透明な単語。瞳に異様な光を宿し、彼が消えた先ばかりを見つめている。 レンデバーの考えたことを察して、グレイヘイズは顎を引いて声を低くした。 「まさか。紫だからといって、関係しているとは限らないでしょう。大陸の向こうにはあのような色の人種が多くいると聞きます」 「……」 口元から笑みを消したレンデバーには、先ほどのような能天気な快活さは微塵も感じられない。しかし、そんな彼の気性を長い付き合いでグレイヘイズはよく心得ていた。そして、こういうときの彼に話しかけても無駄だということも。 暫く考え込むように半眼になっていたレンデバーはふと、短く告げた。 「グレイヘイズ、仕事だ」 「――は」 目だけで頷いて、グレイヘイズは内心でほっとした。このあまりに気まぐれな主人は、普段から気が乗らなければやる気の欠片も見せない男なのだ。今回、あの少年を見てその気になったということは、何かをそこに感じ取ったからであろうが――、とにかく、やっとこれで仕事が出来るというものである。 そう考えれば、例えこの件に関わっていようがいまいが、きっかけを作ってくれたあの少年には感謝せねばなるまいなと胸の内で苦笑しつつ、グレイヘイズは主人からの指示を頭に叩き込んだ。この主人は、やり始めるまでにとことん時間をかけるが、やり始めれば恐ろしい勢いで仕事を振ってくる。これからは忙しくなるだろう。 「面白くなりそうだ」 後ろで手を組みながら、レンデバーは指示の最後をそう締め、にぃっと禍々しい笑みを浮かべた。 Back |