-紫翼-
二章:星に願いを

03.これが地獄の一丁目



 その日、相変わらず崩壊寸前の掘っ立て小屋にしか見えない第二考古学研究室の扉の前で、小柄な人影ががたがた震えているのを見つけ、俺は首を傾げた。
 今日は確か、新しく入ってくる後輩が初めて研究室に顔を出す日だ。ということは、後輩がこの研究室のあまりのボロさに戦慄してしまっているのだろうか。
 しかし予想に反し、近づいていくと、それがこざっぱりと茶髪をひとくくりに束ねた女生徒――シアだということに気付く。
「どうしたんだ」
 整備の手が遠のいた、今にも雑草に覆われてしまいそうな敷石の上を早足で駆けていくと、シアはぱっと恐怖に青白くなった顔を見せた。唇は色をなくし、普段はきらきらと輝いている瞳が今は涙を溜めている。明らかに様子がおかしい。
「シア?」
「――ぅ」
 シアは俺の顔を目に映しているのに、鞄を抱きしめたまま動かない。まるで鬼か化け物でも見たかのようである。なんだ、どうしたんだ。
 言いようのない不安が膨れ上がって、俺は慌てて膝を少し曲げ、背の低い少女の顔を覗きこんだ。
「おい、シア。しっかりしろ、どうしたんだ」
「……ぁ、ぅ」
 シアは聞き取れないほどに震えた声を漏らし、研究室の閉ざされた扉を指差す。
「なんだ、中でなにかあったのか」
 そう問うと、シアはかくかくと頷いた。俺は見慣れたオンボロの扉に目をやる。古い為に通気性抜群の研究室であるから、誰かがいれば気配が伝わってくる筈だ。だが、耳を澄ましてもそのような物音は聞こえてこない。楕円形の体に触覚をつけた黒い悪魔でもでたんだろうか?
「ちょっと待ってろ、見てくるから」
 俺はひとまずそう言って、恐る恐る錆びたドアノブに手をかけた。黒い悪魔だったら俺も苦手だから、できれば会いたくないんだが――。
 ぐっと腹の底に力をこめて、扉を開く。シアが隣で怯えたように体を縮こまらせたので、素早く俺は体を滑り込ませて扉を閉めた。
「……」
 鞄を片手に、右を見る。左を見る。天井を仰ぎ、足元も確認する。
「……」
 ピーヒョロロロ、と窓の外からはうららかな春を歌う鳥の鳴き声。さんさんと日差しの降り注ぐ部屋は明るく、これといって普段と全く変わりはなかった。
「……うん?」
 何もないじゃないか。首を捻って俺はもう一度、勝手知ったる研究室を見回した。
 向かいに置かれた机が四つ。シアの席は綺麗に整頓されているし、俺の席には備蓄してある菓子の箱の山。壁には埃の積もった本棚と、得体の知れない出土品が無造作に放置され、クモの巣がはっている。誰も使っていない教室の扉は閉ざされたままだし――。
「何があったんだ?」
 一人ごちながら、俺はとりあえず自分の席に鞄をおろして、積んである菓子の一つに手を伸ばし、飴玉を口に放り込んだ。どこからどう見ても、普段と変わったところがあるようには見えない。
 がちゃん、と左手の方から扉が開く音がしたので、俺は苦笑して飴の包み紙を手で丸めた。
「おーいシア、何もない……?」
 そこで、止まる。
 待て。
 ……。
 研究室の外に出る扉って、右手の方になかったっけか。
 じゃあ、なんで反対である左手から扉の開閉音がするんだ。
 固まったまま頭をフル回転させて、この研究室の間取りを思い出す。そう、左手の方には、この研究室の最も奥に続く扉があるはずで、その扉っていうのが――。
「ま、ままままま」
 まさか、と言おうとして舌が滑る。全身が産毛だって喉が動き、思わず飴を塊のまま飲みこんでしまった。とてつもない不快感と共に飴が喉を落ちていくのを感じながら、俺は首をそちらに捻るというごく単純な動作すら出来なかった。
 ずずっ、ぺたっ、と、粘ったような、なんとも形容しがたい足音が何処からともなく聞こえてくる。じわじわと恐怖が込み上げ、冷水をかけられたように頭が冷えていく。
 指の隙間から包み紙が零れて、かさりと音を立てる。俺はそうっと、横目で音の元を見た。見てしまった。
「――」
 フェレイ先生。
 今まで、本当にありがとうございました。
 そんな感じに、なんか遠いところで意識が辞世の句を紡いでいく。開かずの扉、と勝手に命名していた扉が開き、そこから黒く濁る気配を発しながら出てきてうごめく闇の塊は、胸くらいの高さまでしかない――え、魔物?
 だが次の瞬間、俺は思考すら奪われるほどの衝撃に襲われた。おかしいな、と思った瞬間には視界がぐらりとぶれる。
「――くっ」
 それ以上は言葉に出来なかったので、心の中で俺は目いっぱいに叫んだ。
 ――臭いっ!!
 なんだ、この臭いは。腐ったような、かびたような、それでいて酸っぱいような、えもいわれぬすえた臭いが吐き気さえ呼び起こして、両手で鼻を押さえるがそれでも臭う!
 視界が激しく点滅して眩む暴力的な臭いに、足をもつれさせながら窓を開こうとする。だがそれも叶わなかった。恐怖と混乱で俺がもたついている間に、うごめく黒い影が驚異的な素早さですすすっと寄ってきて俺の足を掴んだのだ。
「ひっ!?」
 ぞっと冷たく、痛みを覚えるほどの力で足首を引っ張られ、あえなく転倒する。その勢いで鼻から手を離してしまい、もろに臭いが鼻孔を直撃した。
「おごっ!?」
 体が勝手に痙攣する。痛みなど既に感じられなかった。全力でもがくが、床をみるみる引きずられていってしまう。遠くなっていく、俺の席と意識。最後に何かを掴もうと手を伸ばすが、それも無益な抵抗にしかならず――。
 がちゃん、と扉が閉まり、俺の視界は暗闇に閉ざされた。


「――ゆ、ユラスさんっ!?」
 中から聞こえた悲鳴と争うような物音に、シアはやっと正気を取り戻した。全身から血の気が吹き飛んでいく。自分が行ったときは何もせずに奥の部屋に戻っていったというのに、まさか彼には襲いかかったのだろうか、あの黒い物体は。
 しかし、一人で中に踏み込む勇気はシアにもなかった。足が凍りついたように動いてくれない。誰かに助けを求めないと。誰か、誰か!
「――ヴィエル先輩」
 引きつった喉では大声を出すこともできずに、シアはいつも頼っていた人を思い出した。しかし、ここから彼女のいる場所までは遠すぎる。早く、彼を救いださなければいけないのに。
 そのとき、震える瞳がこちらに向かって歩いてくる生徒の姿を捉えた。はっとして、誰なのだかも確認せずシアは駆け出していた。
「たっ、助けて下さいっ!!」
 驚いたように目を見開く生徒に、シアは全身を声にして振り絞った。
「ユラスさんが、――ユラスさんがっ!」
「……」
 シアが縋りついた生徒は、冷静であった。すぐにただならぬ事態であると察し、まずは取り乱した少女を落ちつかせた。そうして必要なことを要領良く聞き出し、古びた研究室に目をやる。
「――わかりました」
 極めて淡々と答えた彼は、淀みない足取りで閉じられた扉に向かって歩き出した。


 ***


 フェレイ先生には、本当に申し訳ないことをしたと思う。
 川のほとりで苦しんでいた得体の知れない少年である俺を助け、保護者にまでなってくれた。そんなことをする義理など、欠片もないはずなのに。
 けれど、俺はその恩を仇で返してしまったのだ。先立つ不幸を先生は許してくれるだろうか。
 ああ。思えば短い人生だったな。
 死後の世界ってのは、どんなものなのだろう。
 プリンともケーキともお別れなんだろうか。それはとても悲しい――。

「――ん」
 ふわふわと浮かぶ菓子が手の届かない闇の彼方に飛んでいくのを最後に、俺は目を覚ました。暗い。ああ、これが地獄の一丁目ってやつだろうか。
 頬が冷たいものに触れている。感覚からして床らしい。だが身をよじっても自由がきかないことに俺は気づいた。ぎちっと手首に縄が食い込んで痛い。どうも後ろ手に縛られて転がされているらしい。地獄ってものは色々厳しいんだなぁとか、完全に覚醒する前の頭でぼんやりと考える。
 しかし、顔をあげてみて俺はぎょっとした。真っ暗な空間に、得体の知れない燐光が瞬き、部屋の様子を浮かび上がらせている。
 床に大小さまざま、びっしりと刻まれた禍々しい紋様を描く魔方陣。こぽこぽ、と机の上では赤紫色の液体が盛んに泡を沸かせている。積み上げられた本の合間、錆びた実験器具があちこちに散らばり、据えた臭いがむっと鼻をつく。壁にかけられているのは黒い干物や宝珠、杖――。
「目が覚めたかの」
 ぎくりとして身をよじると、うつ伏せに横たわる俺の隣にゆらりと影が現れた。魔物のようだと思っていたそれは、漆黒のローブで全身を包んだ背の低い人間であった。顔は暗くてよく見えない――が、それよりも!
『く、臭いっ!?』
 先ほどと同じ臭いがむんむん漂ってきて、腹の辺りがすくんで冷たくなっていく。この人間から異臭は放たれているらしい。うう、吐きそうだ。
「フン、情けない顔よの。男ならもっとシャキっとせんかい」
 ――そちらこそ、人間なら風呂ぐらい入ってきて頂けませんか。
 そんなことを崩壊寸前の思考回路で訴えてみる俺である。
 思わず顔をそむけると、真っ黒の――声からして老人っぽい人間は、持っていた杖の先端で俺の顎を持ち上げてくれる。こちらを覗きこもうと近寄ってくるローブの頭。背筋が凍る思いで俺は真っ黒の男と顔を突き合わせた。
 ひっと喉が引きつる。僅かな光源に黄色く浮かび上がった男の顔は――禍々しい。骨ばった頬に肉はなく、やたら存在感を主張するのは鉤の形に突き出した鼻。性別すら定かでないほどにしわがれた、茶色い染みがびっしりと浮いた肌に、ギョロリと大きな目が異様な光を宿して俺を凝視している。
 全身から血の気が引き、反射的に全力で転がって距離をとった。だが、老人はくぐもるような途切れ途切れの笑い声と共に肩を揺する。
「クク。そう身構えるな」
 あまりに笑えないこの状況に、なんとか立ち上がろうとするが、手を縛られていては、焦燥と混乱で体がうまく動かない。一体、ここは何処だ。
 そうだ、俺は確か研究室に入って、そうしたら奥の部屋の扉が開いて――。ということは、ここは研究室の奥の部屋で、目の前にいるこの男はもしかして。
 閃光のようにひらめきが頭に瞬いて、同時に俺は青ざめた。
 ……えっと、まさか。
 ……この人、うちの研究室の、教授?
 あ、でも。名前、思いだせない。どうしよう。
 こんこん、と足元の方で音が鳴ったのはそんなときだった。誰かが扉を叩いたようだ。恐らくはシアか。
 しかし教授(仮)は見向きもせず、すすっとローブの裾を引きずって再び俺の至近距離まで来ると、杖の先を床に打ちつけた。
「とって食おうとしてるわけじゃあない、お若いの」
 いや、食おうとする気満々にしか見えないんだが。
 哄笑を漏らしながら、そいつは俺に向けて高らかに言い放った。
「お主の持つ力がちょっくら欲しくなっての」
 立ち上がることもできないまま、俺は半ば恐慌状態で目をひん剥いた。


 ***


 ノックをして暫く経っても反応がないのを見てとると、彼は無造作にノブを捻った。しかし、金属音がするだけでノブは回らない。
「鍵がかかっているようです」
 隣ではシアが未だ漂う異臭に鼻を押さえながら、泣きそうな様子で彼の顔を伺っていた。
 高等院の制服を着た少年は、学年章の色からして一つ下の学年の生徒だ。この臭いにはじめは彼も顔をしかめたが、無言で窓を開け放ち、奥の扉に目をつけたのである。
「わ、私、他の先生を呼んできますぅ」
 シアがそう提案すると、こちらを見もせずに口を開く。
「いえ、その必要はないでしょう。中にいるのは仮にもグラーシアの教授です。そう手荒なことをするとは思えません」
「で、でも」
 ふと、彼の口元に微笑が浮かび、シアはどきりとして目を見開いた。どこか余裕ありげな、この場には似つかわしくない笑みだった。
「それに連れていかれたのは『あの』ユラス・アティルド先輩なのでしょう? 例え教授に敵意があったとして、その程度で屈するほど愚鈍でもないでしょう。この中は密室のようですし、暫く様子を見た方が良い。下手に他の教授を呼んで何かしら問題が発覚すれば、この研究室を潰される口実にもなりますよ」
 そんな表情に心なしか不安を覚えて、シアはきゅっと唇を噛みしめる。そして一体この生徒は誰なのだろうと、初めてその疑念に突き当たった。この辺りには世間から見放された研究室がぽつぽつと点在しているはずで、こんな一見優秀そうに見える生徒が来るなんて珍しい。
「ぁ」
 ――優秀な生徒。
 シアは、一つのひらめきに息を呑んで、隣の男子生徒を唖然とした顔で見上げた。




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