-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

28.いつか果たされるべき約束の為に



 まだ、その子供にとって世界が確立されていなかった頃。
 子供は、ただそこにいるだけで幸福だった。

 静かな村。無口な父。優しい母。ありふれた生活。
 不満も満足も未だ生まれぬまま。ただ、瞳に映るものが世界の全てだった。日常は穏やかに、くるくると廻っていた。

 ある日、父が難しい顔で帰ってきた。出迎えても返事はなく、何かに悩んでいるふうだった。
 その夜、母に早くベッドに行くように言われた。
 だから早くベッドに入った。
 いつもなら早めに消される居間の灯火は、その日だけ随分遅くまでついていて。
 何故だか冴える目を閉じていると、父と母の話し声が聞こえてきた。
 だけれど子供にその内容を理解する術はない。
 子供の世界は山の中、緑に溢れた村で全て。木で作られた家で虫の音を聞きながら、子供は母のいいつけ通り目を閉じていた。眠れなくとも、それでも母のいいつけ通りに。
 次の日、母はいつもの笑顔でおはようを言ってくれた。
 しかしそれが子供の為に作られた笑みだと気付くには、子供は幼すぎた。

 父は、その日の朝、不思議なことを聞いてきた。
 もしも弟か妹ができるなら、なんという名が良いだろう、と。
 子供は目を輝かせた。近所の友人たちには、兄弟がいる。それを羨ましく思っていたのだ。
「ユラス」
 子供は、考え込んだ先に、大切にしていた絵本の登場人物の名を挙げた。
「それか――ルガ。ドミニク。女の子だったら、シェンナ」
 どれも、何度も読み返した大好きな絵本にでてくる名だ。父はそれを黙ったまま聞いていた。
 父のことは、嫌いではなかったけれど、時折怖いと思うことがあった。そんなとき、父は心がすくむような眼差しをしているのだ。寡黙で、いつでも離れの小屋で研究に没頭していた父だった。
 そのときも、気に入る名前でなかったかと、子供は不安になった。これでは、弟や妹は来てくれないかもしれない。
「そうか」
 父は、呟いて席を立ってしまった。待って、と言ったけれど待ってくれなかった。父は、自分の興味のないことになると、まるで相手にしてくれない。

 子供が知ることは少ない。考えることも少ない。
 彼らはただ情報を吸収する。周りのものを手当たり次第にとりこんでゆく。
 だから周りにないものは、子供にとっては世界にないものであり。
 そして子供は幸福だった。

 子供はその日も外で遊んでいた。
 仲間もいる。皆、屈託のない笑顔で笑っている。時に怒ったり、泣いたりもする。
 子供はその帰り道、上機嫌に家路を歩いていた。
 とても穏やかな日だった。風はゆるやかに頬を撫で、土を蹴る足は軽く、全てが子供を祝福しているかのよう。
 森に溶けるようにして存在する村は、人の喧騒などに縁はなく、ただひたすらに変わらない。
 子供は家の扉を開いた。だが、父と母の姿はなかった。
 そうだ。今日は確か、少し遅くなると言っていた。山を降りて、下にいる人と話してくるよ、と。
 上機嫌だった子供は、思わず振り返った。
 先ほどまでの温かな空気が突然体をすり抜けて、どこか遠くへ去ってしまったような気がした。振り向いた先には、当たり前のように木の葉が揺れている。
 子供はこくりと唾を呑んだ。まるで世界に自分ひとりしか存在していないようだった。自分ひとりを置き去りにして、全ての人が遠くへ行ってしまったようだった。
 だから子供は、たどたどしく歩き出した。
 家の裏手に回って、父の書斎になっている小屋の前に立った。
 父の書斎は家に直接繋がっておらず、倉庫のように別の建物として建っている。
 何か悲しいことがあったとき、子供は決まってこの建物に入りこんでいた。例えば仲間と喧嘩をしたとき。母に叱られたとき。転んで膝を擦りむいたとき。
 ここにいれば、必ずいつか父か母が来てくれる。
 ここには父の大切なものが沢山あるそうだから。
 父は子供がそこにいると、困った顔をする。最初は、入ってはいけないといわれたものだ。
 だけれど、子供は珍しく父に食いついた。父はそのとき、とても困った顔をしていた。そして母が間に入ることで、父は言った。
 ここにあるものに手を触れなければ、いてもいいよ。
 それを固く固く約束して、そこは子供の隠れ家になった。
 子供は木でできた扉を開く。ぎぎぎ、と軋む音。手は少し冷たくなっていた。
 中には別世界が広がっている。むわっと鼻をつく紙とインクの香り。壁の全てが本棚になっていて、色とりどりの本が惜しげもなく並べられている。
 しかし子供にとってそれは風景でしかない。ただ美しい光景でしかない。子供は、何も知らない。そこで、何が行われているのか。
 風が入ってこないように扉を閉める。そうでなくては机の上の紙が飛んでしまう。飛んでいってしまったら、元に戻さなければいけない。それでは父との約束を破ってしまう。
 部屋は大して広くはない。様々な本や得体の知れないものが並べられているから、むしろ狭くすら感じる。
 子供はいつもの決まった場所に腰を下ろした。机の横、扉を開ければすぐに目につくところ。
 そうしてじっと待っていると、母が迎えにきてくれるのだ。あなたは何かあるとそこにいるのね。いらっしゃい、ご飯の時間よ――。
 だからそこで待っていた。
 窓から零れる飴色の夕日を、ぼんやりと眺めていた。自分の影が、どんなものを形作っているのかも知らずに。
 ふと、子供は顔をあげた。
 視線を、左右に向ける。
「……だれ?」
 それは、ふっと心の表面を撫でていった。
 羽根の感触に似た頼りない気配は、いつの間にか部屋一杯に充満していた。
『ん、お前、俺の声が聞こえるのか』
 突然の声に、子供は飛び上がる。
 かっと熱くなった体は、助けを求めて叫ぼうとした。なのに喉が固まってしまって、声がでない。
『あ、驚かせたか? 悪い悪い。でも安心してくれ、俺は確かに怪しい奴ではあるが、お前に危害を加える奴じゃない』
 その声はおどけたようにそう言って、微かに笑い声を漏らした。
「どこ? ねえ、どこにいるの!」
 ここは父の聖域だ。なのに何故違う人の声がするのだろう。
 子供はなけなしの勇気を振り絞ってそう叫ぶ。
『えっとだな、机の一番上の引き出しを開けてごらん。俺はそこにいる』
 声は、とんでもないことを言う。子供はふるふると首を横に振った。
「お父さんから触っちゃいけないって言われてるから、だめだよ。それにそんな小さな引き出しに人は入れないよ」
『俺は人じゃない』
 今度こそ子供は言葉を見失った。頭の中がぐちゃぐちゃにかき回されている。夕日はこんなにもやわらかいのに、空気はこんなにも穏やかなのに、子供の心だけが荒れている。
「君、誰。誰なの!」
『人のかたちをしていない、人のある部分だけを持った『力』。きっとお前にはまだ理解できない』
「ひとのかたち?」
『そう。見たかったら引き出しを開けてみればいい。今の俺は誰とも契約していないからな、お前を傷つける力すらだせない』
「……」
 子供はぎゅっと拳を握った。
「どうして、ここにいるの」
『人に見つけられて、ここまで持ってこられたんだ』
「じゃあ、お父さんのものなの?」
『さあ……人の考えることはよく分からないからな。でも、多分そうだよ』
 父の所有物である――それが唯一の救いであったかもしれない。それだけで、子供の心は幾分か和らぐ。
 子供は恐る恐る顔をあげた。
「……ねえ、引き出し、開けてもいい?」
『お前の好きにすればいい』
「お父さんに、秘密にしておいてくれる?」
『お前がそれを望むならな』
 子供は好奇心に負けて、引き出しに手を伸ばした。一番上の引き出しは、子供の背丈と同じ高さがある。
「んしょ……」
 子供は背伸びをして、取っ手を掴む。
『一番手前にある。綿にくるまれたやつだ』
「これ?」
『そう、それ。落とすなよ』
 引き出しの中を見下ろせない子供は、手探りでやわらかいものを掴んだ。そのまま取り出して、顔の高さまで持ってくる。
 それは、白い綿の奥底で不思議な光を放っていた。
 無意識の内に綿を剥ぎ取る。割れ物を扱うように、そっとそっと――。
「わあ」
 子供の瞳が、驚きに揺れた。
 中から姿を覗かせたのは、子供の両手に乗るほどの大きな紫水晶だった。中央に、仄かな光彩を宿している。子供に魔術の心得があれば、その宝珠から発せられる強大な魔力に圧倒されていたことだろう。けれど、子供は子供であった。ずっしりとした重みのあるそれは、宝石以上の圧倒される光を秘めて子供の目に映った。
『これが俺』
「これが、君」
 子供はその輝きを目にしただけで、声の言葉を信じた。逆にこの石に何も宿っていないといわれた方が、子供は首を傾げたことだろう。
『まさかお前が俺の声を聞くとはな――でもお前、まだ子供だしな。今契約しても体がもたないか』
「けいやく?」
 子供はどこまでも深い紫色を覗き込んで、首を傾げた。
『俺はお前たち人間と契約することで本来の力を生み出す。お前は俺の声を聞けるから、契約自体はできるんだよ。親に感謝しな、お前には才能がある。俺の言葉が聞こえる人間は多くない――お前の親ですら聞けなかったんだ』
「……」
 子供は言葉を理解できず、困ったように首を傾げ続ける。
「それは、いいこと?」
『善悪は俺たちの決めることじゃない、お前たちの決めることだ』
「俺たち、って、君には仲間がいるの?」
『鋭い奴だな、まだちっこいのに。そうだよ、俺には仲間がいる』
「たくさん?」
『いや、お前の右手だけで数えられる』
「……」
 子供は自分の右手を見た。とても少ないと思った。
「どこにいるの?」
『さあな。ずっと昔に分かたれたきり、一度も会ってない』
「一度も?」
『ばらばらになっちまったからな』
「寂しくないの?」
『俺たちは人間のいう苦しい、悲しい、寂しいといった感情は作られてない。理解出来ない概念だ』
「……」
 声は笑いを漏らしたようだった。
『悪い悪い、お前にはまだ難しすぎる話だったな。まあ、頑張れよ。今、俺と契約しても、お前死んじまうだろうから。お前がもっと強くなったら契約してやるよ』
「友達になってくれるってこと?」
 邪気のない問いに、声は更に笑った。
『似たようなものか。契約をすれば俺はお前の血と共に生きる。お前に大いなる力を与える』
 子供は、大きな瞳で考え込んだ。もっと話をしたい、この宝珠と。もっと知りたい、この宝珠のことを。
「ケーヤク? するにはどうすればいいの」
 真剣な声で問うと、宝珠は顔もないのに表情が見えるような、静かな声音で答えた。
『理を知れ』
 どきりとして子供は目を瞠る。宝珠は続けた。
『万物を学び、知ること。労苦の対価として得られるべきは力。ならば、得たいが為の力に見合う労を見せよ』
「……んっと」
 子供は、宝珠の言うことの半分も理解することができなかった。ただ、言いたいことは理解できた気がした。
「勉強すればいいの?」
『はは。そういうことだな』
 突然砕けた調子に戻って、声は軽やかに言う。
『お前が大人になったとき、俺が認めるほどの奴になってたら、契約して助けになってやるよ』
 ――尤も、それがお前の幸福になるかは知らないけれど。
 声はそう付け加えたが、子供の耳には届いていなかった。そのときの子供の思考は、既にやらなければならないことで占められていたからだ。
「うん」
 子供は大きく頷いて、宝珠をじっと見つめた。

「僕、勉強するよ。頑張って、色んなことを知るよ。それで、大人になったら――きっと君を迎えにくるから」
『ああ。俺もお前の助けになろう』

 それは契約などとは程遠い、あまりに小さな約束だ。
 そして、宝珠は気付いていた。そのような日が来る可能性が、限りなく小さいことを。
 己の力が何に利用されるのか、宝珠は人間の会話から悟っていた。己の存在が、この部屋の持ち主の心に火をつけたのだ。ここに持ってこられたのも一時のこと、またすぐに持ち出されるのだろう。今度こそ、終わりのない闇の中へ。そして、それに抗う術を宝珠は持っていない。人に使われることこそ、宝珠に与えられた使命なのだから。
 けれど、もしも。
 もしも長い時を経て、再び会う日が訪れたなら――。
『お前の名前は?』
 そして子供は、無邪気に己の名を告げる。


「フェレイ・ヴァレナス」


 それは、いつか果たされるべき約束の為に。


 ***


 木々の穏やかな香りが、春の気配を感じさせる。息吹いた新芽が折れた枝の合間から黄色に輝き、緑たちも我先にと手を伸べて陽光を受ける。
 そこに連れてきて貰った俺は、降り注ぐ光の眩しさに目を細めた。もう、春がやってくるのだ。

 俺は首都を逃げ出してから真っ直ぐにグラーシアを目指した。とはいっても蒸気機関車を使うわけにはいかなかったから、徒歩の道のりだ。途中、人気のない場所では魔術を使ったものの、ようやく辿り着いたときは倒れる寸前だった。なんせ、服も患者服のまま、靴に至っては部屋用の薄手のものだったのだ。
 そうして俺の目に映ったグラーシアは、復興作業の真っ最中であった。至るところで倒壊や亀裂などの爪あとが残っていたが、雑然とした活気は事件前とは比較にならないほどだ。数え切れないほど借り出された機工師たちが工事に従事し、学者たちが資料や資材の整理に奔走する。蒸気機関車も線路の修復作業が終わったらしく、高らかな汽笛を鳴らして都市に入ってくる。
 グラーシアにこんなに沢山の人がいるなんて、信じられなかった。たっぷり数分の間、それを呆然と眺めていた俺は、ふらふらと正門を潜って中に入った。
 奇妙な格好をした俺は、道行く人々に奇異の眼差しを向けられたが、彼らも忙しいのだろう、咎められることはなかった。そうして大通りを突っ切り、学園まで歩いていったのである。

 あの日。俺が目覚めた春の訪れの日。
 フェレイ先生に連れられて、そうしたように。


 森は静寂ではない。風に木々が揺れ、春を歌う小鳥の囀りが耳に届く。声を出すのも憚られるような穏やかな空間だ。
 俺は、隣に立つフェレイ先生を横目で伺った。
 フェレイ先生は相変わらず、体を薄手のローブで隠すようにして、そこに佇んでいる。大丈夫だろうか。俺と同時に救出されてから、まだ傷も治りきっていないのに、もう学園長として現場に立っているそうなのだ。
 そんな俺の視線に気付いたらしい。フェレイ先生は、ふと見つめていたものから目線を外し、俺に顔を向けた。何処までも穏やかで、老成した瞳だった。
「……あまり長居をすると、また怒られてしまいますね」
 そう、困ったように言う。胸に染むような笑い方に、俺も苦笑した。
 目の前に、枝を無造作に組み合わせて十字を模った墓標がある。林中の片隅、誰も知らぬ標。そこに埋まる人を思い、俺は一歩を踏み出す。手に鎖をかけた卒業証を持って。
 スアローグが持っていてくれた卒業証は、中央の宝石を失って、ただの金属の塊と化している。裏面も傷だらけで、持ち主を判別することは出来ない。
 何故、ここに眠る人は学園の卒業証を持ち続けたのだろう。白亜の都市への憧憬か、執着か。今となって、それを知る術はない。だから俺は、その印を粗末な十字にかけた。
 ――願わくば、永久の時を安らかに。
 たった一人で走り続けたその人への、そんな祈りの言葉と共に。
「久しぶりに、昔の夢を見ました」
 しゃがみこんだ俺の後ろで、誰にともなく先生は口ずさむ。
「もう忘れてしまっていたと思っていた昔、故郷に住んでいた頃の記憶です。きっとあそこが、私にとっての理想の地だったのでしょうね」
「だから、歪みを継いで俺を助けたんですか?」
 僅かな沈黙。首を振ったのかもしれない。
「私は母と私を捨てた父が憎かった。この生は、父への憎悪から始まりました。けれど、いつしか何もかもを忘れてしまった。――自分が何を欲しているのかですら」
 振り向くと、陽光に照らされた人の顔があった。その瞳の光は消えないけれど、迷いを忘れたものでもない。
「そう。始めは自分を救う為にあなたを助けようと思っていました。捨て置くという選択肢と迷ってもいたのです。でも、ユラス君。あなたはとても苦しんでいたから」
 そこに悲劇が待っているのだとしても。
 向けられるものが憎悪と知っていても。
 光を、与えたくて。
「ユラス君。私が憎いですか」
 願いのままに生きたその人は、決して特別ではない。欲しいものを求めて彷徨うのは誰でも同じこと。だから俺は、真っ直ぐに先生を見ることが出来た。
「先生は俺に、沢山の標をくれました。俺はだから今、ここに立っています。先生が連れていってくれた場所で、沢山の人と出会って」
 息を深く吸う。とろけた金髪が風になびく様がふと脳裏に浮かび、熱を放つ。
「ああ、いいところだなって。許される限りここにいたい、この景色を守りたいって、思えるようになったんです」
 フェレイ先生は憎んでいたと語った人の墓を作った。墓標は生者の為にあるものだ。ならば、これは先生の迷いそのものなのだろう。先生自身、それに気付いていないのだとしても。俺は立ち上がり、春の空気を吸い込んで告げた。
「俺が、誰の、どんな願いの果てに生まれたのだとしても。始めに手を伸べてくれたことを――感謝しています。先生」
 フェレイ先生は、不思議そうにゆるゆると目を見開いた。いつもの先生ではありえない迷い子のような表情。知らぬものへの戸惑い。暗がりの中に、突然救いの手を見たような。
 そして先生は、左腕を右手で掴み、顔を伏せる。連綿と繰り返される季節。春の風の中、己の心を持て余すように。
 そうやって人は生きていくのだろうと思った。己の歪みを抱え、整然と生きることの出来ぬ心を恐れ、憎み、あるいは愛しながら。

 差し出された論文を受け取って、俺は古びたそれをぱらぱらとめくる。人とは思えぬほど平然とした文字が、細かく連なっている。片手で持つにはやや重たいそれには、あの胎で生まれた知恵が塗り込められているのだ。
「……先生が持ってたんですね」
 自分の作り方が書かれた文章を追っているというのに、何故だか心は穏やかだった。狂気の論理を読んで、波打つものはない。
 迷いを失い、整然と生きてしまったものの証。踊る注釈。彩る図式。模るは美しき叡智。歪んだ世には、きっと合わない。
 俺はフェレイ先生と目を見合わせた。先生は静かに頷き、俺も頷き返す。
 黒ずんだ簡素な十字にかけられた卒業証が輝く。俺の手の中で、論文はぱっと燃え上がった。手を離すと、散らばる前にそれらを炎が舐め尽す。
 淀みを押し流すように風が吹き、灰を空へと巻き上げた。花びらが舞うように、それらは青空を背景に最後の輝きを振りまいた。
「いつ、ここを発つのですか?」
 青空を見つめたまま、俺は鼻から息を抜く。
「そうですね、あまり長居すると迷惑がかかりそうですから……」
「明日まではいられませんか」
 突然の申し出に不思議に思って振り向くと、フェレイ先生は微笑んだ。
 傷つき、心を磨耗させ、そうして辿り着いた時の果て。
 再び歩き出した俺にくれる、餞のように。


「明日は、学園の卒業式なんですよ」




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