-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

27.彼の行く手に



 目が覚めると、ややくすんだ色をした天井が飛び込んだ。味気ない簡素な光景だ。
 一体どれくらいの目覚めをここで繰り返したことだろう。はじめは数えていたのだけれど、今はそれも億劫になってしまった。
「卒論、間に合わないな……」
 馬鹿みたいなことを口ずさんで、少しだけ笑う。俺は体を起こすことにした。

 俺は今、首都アルジェリアンにいる。
 戦乱に疲弊した大陸を統一した英雄ウェリエル・ソルスィードが築いたリーナディア合州国。その中心部たる都市は、グラーシアとは比較にならない程の華やぎを人に振りまいているのだろう。
 だろう、としか言えないのは、俺が首都でも最も規模の大きい病院の最上階に軟禁されている為である。
 あの日、腐った胎で俺は宝珠を粉々に砕き、そのまま意識を失った。そこからのことは記憶にないのだが、説明によれば俺は軍によって救出されたらしい。
 重度の魔中毒に犯されていた俺は暫く生死の境を彷徨ったそうだが、全く覚えがないので、そう言われても実感が沸かなかった。ただ、長い長い夢を見ていたような、そんな気がしていた。
 フェレイ先生は無事だったろうか。都市はあの美しさを保っているだろうか。意識を膨らませたときに僅かに察知した別の気配も気になる。けれど、こちらからの質問は許されなかった。
 ただ、セライムのことだけが、僅かに確かな事実として胸の中で熱を放っていた。始めは涙が零れたが、暫くの時をかけて、俺はその事実を飲み込むことが出来た。
 あいつは――待っていると言った。
 それが何処なのかは分からないけれど。なら、そこを目指して歩かなければいけないと、そう考えていた。

 俺の身柄は政府の手の内にある。俺をここに閉じ込めて、今頃政府の偉い人たちが俺をどうするのか審議しているのだ。といっても、中々沙汰が降りないということは、討議が難航しているのだろう。当たり前か。ダルマン先生の言葉を借りれば、俺の力は黄金の卵だ。それをむざむざ屠るには勿体無いし、かといって、俺と俺の力を飼いならせるかというとまた難しいんだろう。俺に関する情報は、全てが胎の中で消えてしまったのだから。
 病室は俺の脱走を防ぐため、通常よりも強固な魔術規制の結界が張られていた。流石の俺でも、この結界を突破するのは楽ではない。部屋にはベッドと最低限の医療器具しかなく、窓もついているにはついているが、最上階のそこが開くわけもなかった。
 考える時間だけが無闇にあった。俺は今までのことを一つ一つ思い出し、思い巡らすことで日々を過ごしていた。殺されるわけにはいかないから、処分が決まったらどうにか脱走しなければならないわけだけど、今はどうすることも出来ない。
 そして、長い時間をかけてやっと根本的な疑問に突き当たったそのとき、部屋にひょっこりとレンデバーが現れたのだった。


「――って、えあぁえ!?」
「あはは。相変わらずの反応だね、ユラス君」
 扉が突然開いたので、ベッドに腰掛けていた俺は尻を滑らせて床にを打ちつける。レンデバーは物珍しそうに部屋を見回し、ニッと目を細めて笑った。
「ああ、良かった。顔色は悪くないみたいだね。元気?」
「……え、あ、……ええ?」
 尻餅をついたまま、最終的には聞き返してしまう俺である。だって、人と話すのも久々なのだ。舌が痺れたように動かない。
 レンデバーは長い足でつかつかと歩いてきて、人差し指を唇に当ててみせた。
「僕がここにいるのは秘密だよ。あとで怖いおじさんに怒られちゃうから――ほら、立てる?」
 色の違う両目に見据えられて、俺はカクカクと頷いた。結局立ち上がるには手を借りる羽目になったけれど。でも、そのくらい驚いたのだ。
 だって。
「な、なんでここにいるんですか」
「君とお話がしたかったんだよ。だって僕たち友達でしょう?」
 いけしゃあしゃあと嘯いてくれる。俺はぐっと腹に力を込めて、問いを押し返した。この好機を逃すわけにはいかないからだ。
「あの。グラーシアはどうなってるんですか」
「……」
 レンデバーはふっと笑みを消して、俺を正面から見た。気が遠くなるような一瞬、俺たちは停止していた。
「――安心して。だいぶやられたけど、致命傷にはなってない。噂だけどね、一人の男の子が結界を張ってあれを防いだそうだよ」
 言葉の内から真実に辿り着くまで、暫くの時を要した。そうして俺はそこに秘められた意味を理解し、心の淀みがごっそりと抜けた思いで膝をついた。
 俺の力で、全ての魔力を発散させることは出来なかった。けれど、都市は――まだ、あそこにあってくれているのだ。
「他の……皆は。先生は無事ですか」
 くすくすとレンデバーは笑う。
「君は良い子だな、ユラス君。もっと聞きたいことが他にあるだろうに」
「あります、勿論。だから全部聞きますよ」
 間髪いれずに答えると、レンデバーは驚いたように口を閉ざした。俺の顔をじっと見つめ、べっこう色の髪を揺らす。
「……少し、顔つきが変わったね」
 何故だか優しい響きだった。唇を噛み締めて見上げていると、レンデバーはふいっと体の向きを変え、窓辺に寄った。妙に広い部屋だから、俺との間には数歩の距離があく。
「君の大切な人々の安否は自分で確かめるといい。ここで燻っている気はないんでしょう?」
 俺に背を向け、レンデバーは窓辺で何かをしているようだった。なんだろう、と思ったけれど、それよりも次の問いが口をついて出た。
「じゃあ、次に俺についての質問です。何故政府は――」

「「宝珠を使って人間を作ろうとしたのか」」

 俺とレンデバーの声がぴたりと重なって、不思議な音律を呼んだ。レンデバーは振り向いて、満足げに微笑んだ。
「やっと気付いたんだね、その謎に」
「……考えないようにしてたんです。自分に課せられた、歪んだ想いのことなんて」
 その思惟はきっと重いに違いなくて。正体を知れば、崩れ落ちてしまうと思っていた。
 でも、今なら受け止められる気がした。たった一人だけど、倒れる気はしなかった。
「教えて下さい。考えてみればおかしいことだらけです。だって宝珠の魔力を抽出できたんですよ。兵器が欲しければいくらでも作れるし、太古の知識だって投射することが出来たでしょう。なのに、なんで人間を作ったんですか。確かにそれは神の技ですけど――」
 そんな稚拙な夢を見るほどこの国が愚かだとは思えない。いくらセトルド博士の悲願だったとはいえ、この研究は非効率すぎるのだ。第一、俺が敵に回ったらどうするつもりだったのだろう。考えたくないけれど、やろうと思えば俺一人でこの国家を転覆させることが出来るのだ。
「ねえ、ユラス君。ディスリエ大陸に広まっている噂のことは知っているかい」
 レンデバーは窓辺に腰掛けて、優雅に手を膝元に置いた。外はよく晴れているようで、逆光になったレンデバーの輪郭が輝いている。そこに超然としたものを感じ、俺は顎を引いた。
「ここ数年、西海岸沿いに妙な漂流物が落ちているんだそうだよ。誰も知らない言語で書かれた文章が入った小瓶、国旗のような布きれ、鎧の欠片のような金属の塊。その海の先に何があるか、想像できるかい?」
 ざわざわと胸が騒ぎ始めるのを感じて、俺は唾を呑んだ。ここから遥か西方にあるディスリエ大陸。その西海岸の先にあるもの。否、――あったもの。
「マディン大陸」
 一人の魔術師によって滅びた地。久遠の嵐の為に数百年の間閉ざされた、幻の大陸の名前だった。
 しかし、滅亡したと言って、誰がそれを確かめてきたのだろう。そして、もしもそこに文明が残っているとして、誰が――誰が。
 全身が宙に浮いたかのようだった。与えられた知恵と魔力。人として思考できる頭。そして、死地に向かわせても誰一人悲しむことのない兵士。
 それが、俺だった。
「国の人もえらく怖がっていたからね。五百年も前に分かたれた国家が亡霊のように姿を現したんだ。いち早く情報を欲しがっている」
 歌うように語り、レンデバーは声に深みを持たせた。
「本来、君には目覚めた後、兵士として徹底的な教育が施される筈だったんだよ。そうあることを強く望んだ馬鹿な男がいた。宝珠を持ってきた博士たちに金と人を与えたのもそいつだ。無茶苦茶な計画を、政府内でも極秘で推し進めた。去年の夏、とうとう殺されてしまったけれどね」
 おぞましさに、俺は胃の辺りを握り締めた。しかし同時に、頬が震えるほど哀しかった。なんてことの為に、大勢の人が散っていったのだろう。マディンなどという見えない敵に翻弄され、人は何処まで滑稽に踊れば気が済むのか。
「そう。君が思う通り、これはとても馬鹿げた話だ。君を生み出した研究は、政府内でさえ知る者も少なかった。お陰でああなるまで手が出せなかった。でもね、ちゃんと現実を見ている人もいたんだよ? その不透明な外貌を暴き、解体しようとした人が現れたんだから。――来なさい」
 誘われるままに俺は立ち上がり、レンデバーの隣で窓の外を眺めた。ぞっとするほど高いところに俺の牢屋はあった。そこから見る首都はまるで模型のようで、現実感が伴わない。
「この国を見てご覧。血に濡れた11年からよくここまで栄えを取り戻したものだよ。でも、平穏は人を鈍くする。見えない恐怖に耐える力を、人から奪ってしまうのだよ」
 悲しいね、幸福なのに――そう、横でレンデバーは呟く。
「だから想いを乗せずにはいられないんだよ。それが人間だ」
「でも、俺にそんな大きな願いを叶えることなんて出来ません」
 俺に出来るのは、たった何人かの大切な人たちの想いを継ぐことだけだ。
 レンデバーは俺の目を見て深く頷いた。病室の中は、そこだけ世界から切り離されたような静寂に落ちている。
「もしここを逃げ出すことが出来たらどうする?」
 それを話すかどうか、俺は少しためらった。そもそも、レンデバーの正体を俺は知らないのだ。政府関係の人なんじゃないかとは思うんだが、正直に答えて良いものか。
 だが、拳を握って俺はレンデバーを見た。この人は俺に、真実を教えてくれた。なら俺も真実で返すべきだろう。
「……俺は無知です。本当に。自分で悔しくなるくらい無力で、一人じゃ何も出来ない人間です。でも持っている力は現実で、お陰で俺は今まで翻弄されてきました。俺にはそれを持つだけの器がないんです。だから、知って、見なければいけないと思います。この世界にあるものと、人を」
 自分を人間であると言えたことに、少し驚いた。
 遥か彼方の都市で、金髪の少女が待っている。あそこに辿り着くまで、生を信じてこの体で走ること。それが、あいつとの約束だ。
 レンデバーは隙無く輝いていた眼光を緩ませ、不思議と穏やかな顔をしていた。
「なら、一旦この国を出た方がいいね。ここはちょっと窮屈だろう」
 俺は小さく頷いた。といっても、まず逃げ出す手段から考えなければいけないんだけど。
 するとレンデバーは鼻から息を吸って、一つの区切りのように燦然と言った。
「よし。じゃあ、自分のやることは分かったね?」
 そこに妙な含みを感じて、俺は口元を引きつらせる。
「……はい?」
「ああ。あとね、グラーシアに寄り道するくらいの時間は稼いどいてあげる。行っておいで。愛する人たちの元へ、別れを告げに」
「えっと」
 一体何を言っているんだ。目を剥く俺に見向きもせず、レンデバーは腕を伸ばして窓の取っ手を掴んだ。鍵がかかっている筈のそれが手品のように動き、隙間から大気が吹き込んでくる。世界が目の前に開けたのだ。あっという間に全開になった窓から飛来した突風は、俺の髪を後ろに遊ばせ、ベッドのシーツをまくりあげる。レンデバーは楽しげに笑いながら、唐突に俺の首根っこを掴んだ。濃く甘い空気が鼻先に触れる。
「さあ、行け! 束縛されながら、それでも自由に。その行く手に風を受け、どこまでも高く。君の背には翼がある」
 何が起きたかわからなかった。気がつけば俺の足は地から解き放たれていた。浮遊感に肺腑が押し潰され、窓から投げ出されたのだとやっと理解したとき、俺は既に自由落下の真っ最中であった。
 ――悠長に現実を認識できたのは、そこまでだった。
「っのおおお!!?」
 地上20階建、全世界に誇るリーナディア合州国首都の医療機関の最上階から突き落とされた俺は、無我夢中で手を伸ばした。はっと指先が魔力の流れを捉える。そう、この世界は魔力で満ちている。無理に結界で抑えても、そこには確かに脈動がある。
 下方を確認する余裕もなく、魔術を放った。爆音が弾け、割れた石畳が頬を掠める。風の玉の中でもみくちゃにされるとこういう気分になるのだろうか。俺の体はすんでのところで地面との衝突を免れ、代わりに毬球のように一度だけ跳ね上がり、そして大地に投げ出された。
「でっ!!」
 殺しきれなかった衝突の痛みに思わず悲鳴をあげてしまう。全身が凍りついたように冷たく、生きているのが不思議で仕方なかった。
「な、ななななな」
 冷や汗をだらだらと流しながら、俺は空を仰いだ。自分が降ってきたところは遠く霞み、レンデバーの姿も見えない。あんなところから落ちたのだ。
「俺、本当に生きてる……?」
 思わず自分の頬に手をあててしまう俺である。

 俺はそのとき、もっと根本的な問題に気付くべきであった。
 俺の悪いところは、問題が起きてもその場凌ぎばかりで周囲に目がいかないところにあるのだと、分かっているつもりだったのに。

 よく晴れた昼下がりだった。そして何度も言うが、ここは首都アルジェリアンだった。更に言えば、ここは医療施設であった。
 ……そこに一般人がいないわけがないわけで。
 妙に静かだな、と思って辺りを見回した俺は、そこで時間が停止していることを知る。
 幸い、俺の下敷きになった人はいなかったようだ。しかし、俺を中心にして半径一メートルに渡って広がる円形の窪み(石畳は吹き飛んだ)、そして空から降ってきた俺様。それらを目撃した老若男女様々な人々は、凍りついた表情で俺を凝視していた。

 ああ。
 なんてことだ。

「……ど、どーも。良いお日柄ですね……?」
 全身から汗を噴出させながら手を振る俺である。
 故に、この空気を動かすには。
「じゃあ、そういうことで」
 笑いだいそうな膝を奮い立たせ、俺は全力で走り出した。もう、何もかもから離脱するしかなかったのであった。壊れた石畳については、ごめんなさいと心の中で謝ることしか出来なかった。
 そうして地の果てを目指すがごとく、俺は首都を後にした。


 ***


「……あなたという人は」
 窓から吹き込む風は、淀んだ部屋の空気を洗い流すかのよう。白いカーテンと共に気持ちよさそうに目を閉じているレンデバーを見て、部屋に入ってきたグレイヘイズは深く嘆息した。
「命令無視もここまでくるといっそ清々しいとは思いますが」
「んー?」
 髪を指に巻きつけながら、レンデバーは鼻歌を聴くように首を傾げる。グレイヘイズはがっくりと項垂れた。

 彼らの雇い主から下っていた指令は、紫の少年を斃せ、であった。雇い主もうんざりしていたのだろう。闇から闇へと葬られた事件の残滓が未だにくすぶり、国の上層部を脅かしているなどという馬鹿げた事実に。
「一体どうやって鍵を持ち出したんです?」
 レンデバーの掌には銀色の鍵が転がっている。それを弄びながら、レンデバーは鮮やかに笑った。
「僕の人望の賜物」
 グレイヘイズは鬼神のような顔つきになった。
「……これからどうするつもりですか」
「さーね? まあ、釈明には行くつもりだよ。あのオジサンも話が通じないわけじゃないし」
 刈り込んだ髪を撫で付けながら、グレイヘイズは視線を部屋の隅にやる。確かに彼らの雇い主は弁明が通じない相手ではない。あの雇い主はレンデバーを引き取って育てた張本人でもあるのだ。もしかしたら、そもそもレンデバーがこのような行動に及ぶことも知った上での命令だったのかもしれない。そのくらいのことはしそうな人物なのである。
 グレイヘイズは元々軍に在籍していたが、いざこざに巻き込まれて上官を殴り、退役した身である。このまま故郷に帰ろうと思っていたところを、レンデバーに声をかけられた。それも、後から聞いた話では、雇い主からの指令だったらしい。職を失っていた当時、投げやりに承諾してしまったのがグレイヘイズの悲惨な日常の幕開けでもあったのだが。
「……あの方は、一体何処であなたの育て方を間違ったのでしょうね」
「生まれたことがそもそもの間違い」
 風が歌うような、透明度の高い音色だった。ぴくりと顔をあげたグレイヘイズは、主人の後姿を見つめた。
「昔は、そう思っていたよ」
 窓辺に腰掛けた若い男は、遠い場所に思いを馳せるような眼差しを外に向けている。
 今はどうなのか、とグレイヘイズは尋ねなかった。主人の口調に、静かな張りが加わったからだ。
「この国は変わるだろう。平穏はいつか幕を下ろすだろう。けれど、終わるものは何もない」
 別の何かに変わっても、大切なものを失っても、あらゆるものは続いていく。その果てにあるのが暗雲か楽園かは分からない。だから人はそこを目指すのだ。僅かな希望を、未来に託して。
「行けばいい。傷ついた翼で何度でも飛ぶがいい。いつか約束の地に辿り着けるまで、苦しみ悶えて生きるといい」
 消せない痛みをその胸に抱えて、レンデバーは空に向けて囁いた。

「彼の行く手に、精霊の加護のあらんことを」




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