-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

25.紫の翼



 胸が全てを失ってからからに乾き、嗚咽も出なくなった頃になって、俺はやっと顔をあげた。
 拘束されていたせいか、体の節々が痛い。感覚がまだぼんやりとしている。それでも、自分の羽織っているものがフェレイ先生の上着で、先生がこちらを静謐な目で見下ろしているのは認識できた。
 フェレイ先生は何も言わなかった。全ての真実を得た俺の反応を、ただ罪人のように待っている。
 耳鳴りがするほどの静寂だった。胎の鼓動は止んでいた。俺という臓器を外された為だろうか。
 先生と話さなければならないことは、確かにあった。それはもう、一晩をかけても語りつくせぬほどに。 けれど今は、座していられなかった。走り続けていないと、悲しみに溺れてしまいそうだった。
「……先生、行きましょう」
 掠れた声で告げると、先生は僅かな沈黙の後、小さく頷いた。
「立てますか」
 柔らかいフェレイ先生の気遣いが、薄闇の中で燐光を放つかのようだ。
 手伝ってもらって立ち上がると、珍しくフェレイ先生が僅かに眉根を寄せた。ようやく戻ってきた嗅覚が血の臭いを嗅ぎ取って、俺はぞっとした。
「先生、その傷」
 フェレイ先生の痩せた体の背中から腰にかけて、血がじんわりと滲んでいた。なのに先生は淡く笑ってかぶりを振る。
「大したことはありませんよ。痛みはあまり感じませんから」
 そうは言うが、体は今にも潰えてしまいそうで、その対比が更にぞっと背筋を冷たくさせる。だが、手当てをしようとすると、今は無闇に魔術を使わない方がいいと、やんわりと断られた。
「急ぎましょう」
 俺たちは、言葉にせずとも同じ行く先を心の中に決めていた。残された俺たちには、別れを告げなければいけないものがある。それを思えば、確かに今は魔力を消費しない方が良いのかもしれない。
 俺は歩き出しながら黒い管が無数に垂れ下がる天井を見上げた。駆動音は止んだが、大気に満ちた魔力は耳鳴りを覚えるほどに濃い。俺の体が外されるのが遅すぎたのだ。具現化した魔力の塊は、未だにひび割れた硝子のような胎に篭っている。破裂しないのはきっとセトが――あの宝珠が、最後の意志を振り絞って押さえ込んでいるのだろう。それもいつまで持つかわからない。
 俺たちは互いに無言で黒ずんだ道を歩いた。もう電灯は半分以上がきれてしまって、酷く暗い。崩落が始まったのか、至るところに亀裂が走っている。
 目覚めたばかりだからか、全身から血液を奪われたような眩暈があり、視界を歪ませて足取りの邪魔をした。俺は喋りたくとも喋れなかった。フェレイ先生も同じだったかもしれない。それでも止まるわけにはいかないのだ。こうして、生きている限りは。

 俺が先導して、胎の深層部に到達すると、そこは完全なる闇に閉ざされていた。大気に満ちた魔力を刺激しないように慎重に魔術を行使して灯りを作ると、浮かび上がる世界はまるで太古の遺跡のようだった。
 一際分厚い魔力の壁が最後に俺たちを阻んだが、俺が手を触れると意志を持ったように消えていった。フェレイ先生は、僅かな光に仄暗く横顔を浮かび上がらせている。それは、両目を見開いて自らの罪を見つめるひたむきな表情だった。
 開けた扉の先、目の前に続く道に、王を取り巻く衛士のように巨大な試験管が立ち並んでいる。それらは多くが割れ、管を散らせ、常闇に残滓をさらしている。
 そして、奥の台座に乗った宝珠もまた、契約が出来る者以外に口を開くことも叶わなくなっているようだ。美しさを損なっていびつな形に膨れ上がり、心臓のように脈を打っていた。
 けれどいびつなのは宝珠だけではないと思った。人が関われば、物も人も、全てが歪む。歪みの果てに、人は立ち止まり、そして空を仰ぐのだ。自らの手の醜さを知って、けれどそこに確かなものを欲して。
「俺を作り出した人は、ただ、自分が生きた証が欲しかっただけだったんだと思うんです」
 そんなことが、口をついてでた。有機物のように脈を打ち、今にも肉塊と化して腐り落ちそうな宝珠の傍らに立つ。
「だから許されないことと知っていながら――多分、人として、必死で生きたんでしょう」
 俺の言を聞きながら、フェレイ先生は宝珠をじっと見つめ、そこに手を翳した。長い時を生きた、細く、かさついた手だった。
「けれど、いつまでも同じではいられない。許されないことは、許されないことです」
 疲れた口調で先生は言って、瞼を伏せた。やろうとしていることは分かっている。渦を巻く魔力の塊を屠ってやらねばならない。どれだけ押さえ込めるか分からないけれど、でも、廃墟と化したグラーシアなど見たくなかった。あそこには、大切な記憶があるのだ。
 その昔、一人の狂える男がその意志で作り出した胎を、今、俺たちが、俺たちの意志で止めようとしている。
 それは、自然なことなのかもしれない。人は己が抱く想いに従って生きるのだろうから。そして誰もがいつしか朽ちていく。残されたものは歪みを抱いて生きるしかない。
 そう考えると、大海の底に取り残されたように自分の無力を感じた。この足で地を踏みしめて、いつまで立っていられるだろう。けれど、泣きたくても、膝を折りたくても、背負ったものを手放すわけにはいかないのだ。
 俺は唇を噛み締め、先生と同じように手を伸ばした。守りたいものがある。守ってくれた人がいる。だから、死ぬわけにはいかないし、失ってもいけない。



「――来る」
 ドミニクは南の空がどろりと透明な泥に覆われるのを見た。清涼な無の空間をみるみる侵食する腐った大気。あの胎から発せられたものに違いない。膿んで凝り固まった、亡者のような魔力だ。
 風が止み、空気が濁るのを感じた。ティティルは安全な場所にいるだろうか。不安が胃の辺りにこびりつき、そんな自分をドミニクは不思議に思った。こんな事態になっても人のことが心配できるほど、自分の神経は図太かっただろうか。
 懐をまさぐり、友人から貰った包みの存在を確かめる。それは指に吸い付くように絡んで、胸に細波のような暖かさを生んだ。残り僅かの時間を抱き、ドミニクの思考は疑問で満たされる。
 ただの飴玉を、何故こんなに大切に思うのだろう。どうして他者を思うと心が穏やかになるのだろう。
 その答えを終わりまでに見つけられないことだけが心残りだ。潤み始めた目尻を乱暴に拭い、そのまま手を掲げる。一度、目下に気を配ったが、人がいる様子はないようだ。
 こんな自分の姿など、誰も知らなくていい。塵から生まれた醜い体には、暗がりが相応しい。僅かな瞬きに触れることができただけで、既にそれは奇跡だったのだ。
 密度を増していく魔力を頬に受け、ドミニクは宝珠の欠片を握り締めた。先ほど図書館にいた奇妙な老人に託されたものだ。一つの悲劇さえなければ、与えられる筈だった色を持つ石は、確かな力となってドミニクを助けてくれる。
 そして同時に、その色を持った少年の顔を思い出した。死の淵にあったドミニクを助けた少年は、悪寒が走るほどに傷ついた者の目をしていた。壊れかけて、それでも走ることを課せられた者の目だった。
 それを見た瞬間、ドミニクは紫の少年に対する憎悪が溶けてしまうのを感じた。光の中にあるものが持つ歪み。それが、あまりにも痛々しくて。
 傷を知らない者なのいないのだと、知った。
 崩壊の日、危機を察知してこの手をとり、胎から連れ出してくれた人の名と共に、もうすぐ僕も死ぬから、と呟いた。滅びの瞬間を知って泣いて叫んで、壊れてしまえれば楽だったのに、それが出来なかった。彼の心は今、哀しいまでに静まり返っていた。
 わだかまった糸をほどくように魔力を紡ぐ。華々しすぎる白亜の都市がどうなろうと構わなかったけれど、そこが好きだと告げた少年は守りたかった。少年が抱く夢が、いつか叶えばいいと思った。世界一の古本屋になると空に向かって語らったその未来が、きっと訪れればいい。
 思うように動かない左腕は無視して、掲げた右手から盾を生み出す。行使に耐えられない体には、皮膚に亀裂が走ったような痛みがこみ上げた。
 世界から見れば芥子粒のような重さしかない少年が、空の中央で舞う。最後の光を放つよう、線となった煌きが伸び上がり、広がっていく。
 ずん、と耳元で音がした。その時がやってきたことを悟って、ドミニクは自らの重みを乗せるようにして魔力を具体化させた。



「チノ!」
 四肢がひきつり、全身に鳥肌が立った。途方もない恐怖の予感に、キルナは思わず顔をあげて妹の名を呼んだ。
 ざわざわと白い粒が蠢く視界に、妹が顔をあげてこちらを見るのがくっきりと映る。気がつけば駆け出していた。
 胃がぐっと持ち上がるような不快感がこみあげ、次の瞬間、足元が激震した。人々の悲鳴が狭い部屋を満たし、キルナは転倒したチノの体を守るように抱えて頭を伏せた。
 地震が止んでも、空気がびりびりと震えていた。腕に力を込めながら、キルナはそれらが魔力の波であることに気付く。部屋の人々もまた、それを察知した瞬間、怪我人の確認も忘れて眉を潜めあった。今までにない、恐ろしいことが起きる――。そんな予感が、人々の胸を満たした。
 双子の姉妹は大人たちを手伝って、学園の倉庫から物資を調達してくる途中であった。既に積み上げられていた荷物は崩落した後であったから、今回の地震で物が降ってくることはなかったが、代わりに妙な静けさが落ちた。誰もが室内にも関わらず南の方向を向いていた。双子の姉妹も抱き合いながら、固唾を呑んで一方向を凝視していた。
 腕に食い込む妹の指が、震えている。キルナはチノの頭を胸に引き寄せながら、己の無力を知った。座して運命を待つことしか出来ない自分を呪った。
 どうか、チノだけは。心からの祈りを込めて、キルナはその時を迎える。
 空から滝壷に飛び込んだような爆音に、キルナは固く目を閉じた。



 世界中の亡者が立ち上がり、咆哮をあげたかのようだった。一際輝いた宝珠は、ぶちぶちと表皮を突き破って頭ほどの大きさまで膨れ上がっていた。それがまた一つ盛り上がるごとに、翳した手を押し返されるような抵抗にあう。
 整然と駆動音を鳴り響かせていた胎が、今や崩壊の不協和音に全身を震わせている。
 魔力の流れを読み取っては空に逃がすことで勢いを殺ぐことは出来ても、暴走を完全に食い止めることは出来なかった。隣を伺うと、先生は凍てついた眼差しでそれを受け止めている。何年も昔から時を止めてしまったかのように。
 何かを言おうとしても、嵐に似た音と振動、そして魔術行使のせいで言葉にならない。冷たくなった体の先端は、既に感覚がない。圧倒的な力の差に歯噛みする思いだったが、どうしようもなかった。みしみしと壁に亀裂が走る。ここが崩壊して俺たちが潰されれば、全てが終わるのだ。
 ――それは、いけない。予感が走ったとき、何よりも先にそう思った。先生はここで死ぬつもりかもしれないが、そんなことをさせる気は全くなかった。
 聞きたいことがある。話したいことがあるのだ。今まで、大きな壁を隔ててでしか向き合えなかった人だから。
 何が化け物だ。己の有限の力を思うと、涙が溢れた。セライムが願った未来を果たすことも出来ずに、ここで全てを闇に帰せるわけがない。なのに、打つ手の一つも思いつけない自分がいる。
 胸にひやりとしたものが沸いたそのとき、ふと、先生がこちらを見ているのに気がついた。
 そう。フェレイ先生は、唐突に微笑んだのだ。まるで、何年も昔の友人に突然出会ったかのように。心地良さそうなそれは、あまりにこの状況に似合わず、俺は虚しく見返すことしか出来ない。
「ああ。やっと思い出しました、何故私はあなたの名を知っていたのか」
 俺より魔力の限界値がよっぽど低い筈の先生は、先ほどから探るように魔術を行使していたのだ。
 胸騒ぎがして、俺は声を低くした。
「どういう意味ですか」
 先生は何かを言ったが、震える音波で聞き取れない。代わりに先生は、突然生気を取り戻した眼差しで宝珠を見据え、傲然と言い放った。
「――約束を果たしに来ました。私と契約をなさい、力ある玉石よ。その運命は我が血と共に。光を行くも闇を行くも、我が魂と共にあるよう!」
 全身から体温が消し飛んだ。俺は先生の指先から痛烈な光が放たれるのを見た。まさか、この状態で宝珠と契約を始めたというのか。
 息が詰まるような衝撃と共に悟る。フェレイ先生こそ、宝珠と契約が出来る人間だったのだ。
「やめて下さい! そんなことをしたら」
 声が届かないことに気付いて、臓腑の底から怒りがこみ上げてくるのを感じた。先生は、いつだって身勝手だ。他人の傷も自分の傷も、何も考えることもなく、ただ最善を選び取る。宝珠との契約を以って、宝珠から溢れ出す魔力を全てその身に受けようというのだ。
 迷う時間などなかった。全身から力を漲らせ、俺は身を沈ませて拳を地に叩き付けた。魔力が込められたそこから亀裂が入り、先生の足元を崩す。長身が体勢を崩すのを見計らい、俺は腕を振りかぶってそこにあった接続を叩き斬った。ばちばちと光が踊り、宝珠から噴出した魔力が一層強くなる。もう都市に向けて放出されるのは止められないだろう。けれど俺は振り向いて、目を瞠った先生を見下ろした。
 先生の唇が動く。俺の名を呼んだようだ。
「あなたが願う世界があるように、俺にも、願いがあります」
 無意識に俺はそう叫んでいた。
「それは人がいる世界です。そこには皆がいて、先生もいて……」
 例えこの人に、痛みが通じないのだとしても。
「崩れ落ちても、泣いても。そこにある。あり続けてくれる」
 この人は、俺の標になってくれたのだから。
「それだけでいいんです」

 手で無理やりに宝珠を掴んだ。肉のような質感のそれが皮膚に張り付くと同時に、腕が消し飛んだような痛みが気を遠くさせた。光の渦が弾けながら巡る音は、体を切り裂くかのよう。
 もう、何処から何処までが自分なのかも分からなかった。感覚がみるみる広がって、胎の空間が自らと重なる。巡る管は血管に。震える空気は肉に。
 何故こんな真似をしたのか、自分でも理解出来なかった。しかし、意識が膨れ上がったことで、魔力に乗って視点が上空まで跳ね上げられた。体を失い、空から世界を俯瞰するのは、まるで鳥にでもなったかのようだった。セトの翼を思い出す。宝珠は元より、特別な者を通じてのみ力を使うことが出来る。それが、研究によってその機構を壊され、宝珠はセトを生み出すことが出来たのだ。
『――あ』
 逞しく大空を羽ばたく翼を思ったそのとき、閃きが雷鳴のように喉を強張らせた。
 上空に凝り固まった魔力は、あと瞬きを何度も繰り返さぬ内に学術都市を襲う砲弾と化すだろう。押さえ込むのはもう無理だ。
 ならば、その魔力を使ってしまえばいいのだ。いつだったか目の前で妖精族の少年がやってのけたように。
 全身の血が沸き立ち、やるしかないと即断した。
「先生、伏せて――」
 渾身の力を込めて意識を深層部に戻し、振り向いた俺は愕然とした。先生は倒れたまま動かない。服から滲む血が先ほどよりも広がっているのが煌々と照らされていた。
 駆け寄りたい衝動を食い止め、宝珠が張り付いた手を胸に抱く。そして、川の流れに沿うように、宝珠に心を近付けた。夢見た光景を想像し、創造する。淀んだそれを再び鞣し、一本の道に敷き詰める。
「先生、見えますか。見て下さい」
 魔力が、ついに動き出した。大地を舐めるそれは、通り道を瞬時に焦土とさせるものだ。そこに、手を差し込んで夢を描く。
 空白の空が茜色に染まった。魔術とは世界の流れを操るもの。留まることのない物質の流れを汲み取り、力と成す。それらが意思によって織り成され、夢の情景をそこに生む。
 人に踏まれて優しい色合いを生む石畳が、空間を激発させるようにして唐突に森を塗りつぶした。
 道があれば、そこには人が通る。彼らが夢を叶え、あるいは疲れて身を休ませる白い建物の群れが、地中から積み木のように芽吹いた。
 燃え尽きそうな頭の奥で夢想する。行き交う人。笑い声のさざめき。そこにある光は、幻でも構わない。それを見て、歩き出すことができるのなら。
「そう、これは皆、俺が見た夢です」
 輝きながら散る噴水。時を告げる鐘の音。走る列車の汽笛より早く、幾重もの幻を生み出しながら、森を抜けた魔力の渦は荒野に到達する。
「人が願うことはそれぞれ違うかもしれない。でも、それは本当は大した違いじゃなくて」
 一際鋭く、鳥の鳴き声が木霊した。紫の鳥が自然と相反する色の翼を羽ばたかせ、力を散らしながら飛んでいく。白亜の都市は近い。何処までも続く道を築き上げながら、鳥は止まることの出来ない己の身を震わせ、大きく羽ばたく。息遣いや足音、鼓動――。刹那の時間吹き抜ける幻の都市を、幻の人々が歩いている。
 目と鼻の先に、本物の都市がある。夢幻の石畳が、そこに到達してしまう。

 全身が炎のように熱くなった。
 石畳の通り、降り注ぐ栄光、あるいは平穏。誰もが夢見た場所。
 その中央。一人の金髪の少女が、青い双眸でこちらを見つめている。
 頭上を、孤高でありながら安らぎを求めて彷徨う鳥が飛んでいる。
 紫の翼を大空にはためかせて。

「願う安らぎは、きっと変わらない。だから俺も、先生も、同じ人間です」


 遠くでセトの鳴き声が聞こえた。
 光が手の届く場所にある気がした。
 そうして体が燃え尽きて、何もかもが暗転した。




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