-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

22.私は選ばれなかった



「昔話をしてやろう。付き合え」
「へっ?」
 スアローグはだしぬけにそう言われて目を剥いた。双方共に長い間黙り込んでいたため、心臓が飛び跳ねる思いだった。
 顔を向けると、都市が一望できる硝子窓の前にどっかりと腰掛けるローブの頭が視界に入る。スアローグの反応を気にした様子もなく、老人は勝手に話し始めた。
「私が若い頃のことだ。非凡なる才を持ちえた私は、学園を主席で卒業した後も目覚ましい成果をあげ、至上稀に見る若さで教授の地位を与えられた」
 この状況で自慢話か、とスアローグは顔を歪めたが、止める気も起きなかった。何を言ったところで無力な自分に出来ることなどないと諦めていたのだ。
「しかし皮肉なものよ。学問の独立を謳うこの地の学び舎は、まるで腐った小箱だった。私は下らぬしがらみには束縛されぬ。故にあの生徒の論文には、賛辞を与えたのだ」
 淡々と語る老人を眺めながら、暇になった手で意味もなく体をさする。すると硬いものに触れて、はっとした。取り出すと、寮の部屋でとっさに懐に入れた学園の卒業証だった。なんとなしにそれを手で弄びながら、スアローグは老人の話に耳を傾けた。


 ***


 聖なる学び舎グラーシア学園の卒業試験には、論文の提出及びその発表、また教授陣からの口頭試問が課される。研究内容は生徒の自主性を重視するため自由度が高く、時に奇抜な研究が飛び出ることもある。
 そしてその年、ある一人の生徒の発表が終わったとき、会場は水を打ったように静まり返っていた。だが、それは感服の沈黙ではない。誰もが開いた口が塞がらないといった様子で、生徒を見つめていた。
「馬鹿げている」
 教授の一人が頬を震わせ、椅子を蹴り飛ばすように立ち上がった。これといって特徴のない生徒は体を飛び上がらせ、もごもごと反論のようなものを口にする。しかしそれは、彼らの感情を逆撫でする効果しかなかった。
「なんというものを研究しているのだ。我々を馬鹿にしているのか!」
 声を大にするのは一人だったが、口を閉ざしながらも敵意を向ける者は大勢いた。こんな人間を卒業生として認めるわけにはいかぬ。都市から追放せよ、と叫ぶ教授に反論する者はいなかった。生徒は黙って俯き、唇を噛み締めている。
 彼は人工生命体についての研究を発表したのだ。しかも、当時主流だった論説を根底から覆す理論を繰り広げ、それを塗りつぶすような新しい考え方を展開した。人の手で生命を作り出すことは教会の教えに反することであったし、更に自分たちの考えを否定された教授たちは揃って激怒したのだ。
 唐突に拍手が鳴り響いたのはそのときだった。大講堂の高い天井に鳴り響いたそれは、場の空気を瞬時に塗り替え、誰もが音の方角に振り向いた。
 拍手をしていたのは、抜け目ない顔をした若い教授だった。
「いや、素晴らしい。このような研究を私は待っていたよ」
 冷水を浴びせられたように、教授たちは弱齢の男を見つめた。先ほど糾弾した教授は、ぽかんと口を開け、みるみる顔を赤くさせた。
「ダルマン教授、軽口が過ぎるぞ。このような研究、倫理に悖るではないか!」
「倫理。学究の徒である我らが倫理に縛られるというのですか。眉一つ動かさずに実験動物を屠り、国の金を湯水のごとく使う我らが倫理を語ると!」
 これは傑作、と若い男は目を輝かせてせせら笑う。
「人の手で命を作る。素晴らしい研究だ、人類の長年の夢です。しかも彼は中々興味深い視点で取り組んでいる。その才能はまさに宝だ、誇りにしなさい」
 怒り狂う教授が反論する前に、別の方向から賛同があった。
「同感です。彼には主席を与えてもまだ足りない巨才の可能性があります」
 そちらも若くして教授の地位を勝ち取った男であった。べっこう色の髪を丁寧になでつけた彼は、ダルマンと同様に教授陣たちから忌み嫌われていた。
 その後は予想通りの舌戦が繰り広げられたが、不健康そうな顔をした生徒は一言も喋らなかった。

 結果的に、生徒の卒業は許された。しかし同日、生徒が配属予定だった研究機関から、配属見合わせの通知がもたらされた。幼い才能は、完全に学会から閉め出されたのだ。

「君、ちょっと待ちなさい」
 卒業審査の発表の日、ダルマンは正門広場で生徒を呼び止めた。白いケープをくたびれた様子でまとった生徒は、疲れた目をこちらに向けた。何が目立つわけでもない、物静かな少年だった。ただ、瞳にはふいに呑まれてしまいそうな奥深さがあった。
「これからどうするつもりかね」
 少年は白亜の都市にこびりついた染みのような表情で俯いた。それを見て、ダルマンは内心でほくそ笑んだ。若き教授は年もそう変わらない少年の才能を高く買っていた。この才能は今、誰の手の内にもない。ならば、自分でそれを育ててみたかった。
「どうだ、私の研究室に――」
「セト!」
 矢のような呼び声に、ダルマンの誘いは打ち消される。顔を向けると、一人の女生徒が駆け寄ってくるところだった。息を切らした少女は呼吸を整え、そして親愛以上の情を持った目で少年を見つめた。
「セトルド、探したのよ」
 ダルマンは背筋の延びた女生徒に見覚えがあった。今年は女性が主席に輝いたと都市中で噂になっていたが、その主席をとった張本人であったのだ。
 理性の塊のような顔立ちをした少女は、ダルマンを見て会釈をした。
「彼に何かありましたか」
 きっとダルマンがこの生徒を詰っていると思ったのだろう。その表情には、子を守る母のような鋭い険がある。ダルマンは鼻から息を抜いて肩をすくめた。
「いいや、文句をつけているのではない。もし彼に行き場所がないなら、私のところで引き取ろうと思っているのだ」
「大変申し訳ありませんが、それは出来ません」
 小さな唇できっぱりと言われて、ダルマンは鼻白んだ。少女は生徒を庇うように立ち、燦然と言い放った。
「私たち、結婚するんです。この地からは離れます」
 信じられないというよりは、あまりに馬鹿馬鹿しすぎて言葉がでなかった。少年は黙って石畳を見つめている。少女は教授を前に臆することなく続けた。
「彼には休息が必要なんです。この都市は彼を傷つけるばかりじゃないですか。これから彼のことは私が守ります。この都市にも……いいえ、この大陸にも戻ってくるつもりはありません」
 とりたて美人というわけではないが、銀に近い水色の髪は陽光に輝き、静謐な表情で淡々と語る様子には、ぞっとするような凄味があった。
 これは無理かもしれないと思いながら、ダルマンは彼の才能の可能性を語り、その力はこの地で発揮されるべきだと説いた。だが、やはり少女の嫌悪は消えなかった。彼にそれを聞かせることも嫌という様子で、少女は牙を剥くようにダルマンを見据えた。
「薬は扱いによっては毒になります。そしてグラーシアは彼にとっての毒なのです。……失礼します。行きましょう、セトルド」
 言うなり、少年の手をとって踵を返す。少年は最後まで何も言わず、ただ、ちらと一度だけこちらに目をやった。否、それはダルマンではなく、堂々と聳える白亜の学園を見ていたのかもしれない。

「……大したお嬢さんですね」
 気がつけば同僚が隣にいた。あの生徒の発表に賛辞を送った、もう一人の教授である。ヒーザーという名のこの教授は、その明晰な頭脳と嫌味な態度で多くの敵を作る男だ。似たもの同士の二人は、考えることもよく似ていた。
「彼女は彼一人の為に研究室からの勧誘を全て蹴り捨てたそうですよ。理事長が嘆いていました」
 鷹のような視線でヒーザーは二人の後姿を観察する。少女は甲斐甲斐しく少年に声をかけているようだ。
「全く。これだから情に囚われた人間は始末に負えぬ」
 忌々しげに舌打ちをするダルマンを見て、ヒーザーは不敵に笑った。
「まあまあ。彼を呼び戻す機会はまたやってくるでしょう。あれは研究者だ。何処に逃げても、真実の探求をやめることはできません――まあ、貴方に渡す気はありませんが」
「ふん。吼えていろ」
 ダルマンは友人に険悪な視線を投げ、そして物静かな少年の行く先を思った。少女は彼の妻となり彼を守ると言った。しかし、本当に彼はそれを望んでいるのだろうか。
 そしてダルマンが少年を見たのは、それが最後になった。


 ***


「あるとき、私は妙な噂を聞いて東の大陸へ渡った」
 煤煙のあがる都市が窓の外に広がっている。部屋の様子も滅茶苦茶だ。世界が終わる直前の一瞬に立ち会っているのかもしれない、とスアローグは思った。
 そんなことを考えていたものだから、次に老人が言ったことを危うく聞き流してしまうところだった。
「私の研究には多くの魔力が必要だった。東の大陸にそのような魔力を秘めたものがあると聞いたのだ。そして私はそこで力ある玉石を見つけた」
「……は」
 数拍おいて、スアローグは間が抜けた声で聞き返した。力ある玉石とは、契約した者に世界を左右する力を与える伝説上の宝石だ。
「色々あったがな。それを掠めて持ってくることに成功したのだ」
 思考回路に無数の判断不可能な事実を叩き込まれ、スアローグは停止する他ない。なのに老人はそれを、空虚な口調で語るのだ。
「え、あの、えっと」
「黙って聞いていろ」
 ギロリ、と一瞥をくれた老人は再び背を向ける。
「お主の言いたいことなど分かるわ。あのとき契約をしていれば、この国の歴史は変わっていただろうからな」
 そこに自嘲じみた響きを感じ取って、スアローグは唾を飲み込んだ。
「しかし、私には契約が出来なかったのだ」
 余韻も残さず、声は空虚に消えていった。
「それは確かに力ある玉石だった。だが伝承の通り、あれは限られた者の前でしか口を開かぬのだ」
 クク、と老人はくぐもった笑いを漏らした。漆黒のローブの輪郭が力なく揺れる。
「私にはどうやらその資格がなかったらしい」
 老人は、それ以上を深く語らなかった。スアローグは声もなく疲れた老人の後姿を見つめた。老人が魔術を使うところは、先ほどから嫌というほど見ている。この歳で尚、あのような凄まじい魔術を操るのだ。若い頃はまさに天才と呼ぶに相応しい魔術師だったのではないだろうか。
 なのに、やっと手にした宝珠には沈黙を返されたのだ。力ある玉石は、真に己が契約するに足る者の前でのみ口を開くのだという。そうでない人間の前では、神の力には程遠い、ただの宝石でしかない。
「どうにか魔力だけでも抽出できれば良かったのだが、それもうまくいかん。そんなときだ、――思えばあれが私の人生の最大の失態だった。同僚の教授に宝珠を盗まれた」
 かつかつと杖の先が床を叩く。声の代わりに何かを語っているのだろうか。
「私はそのとき、何年も前に出会った生徒のことなど完全に忘れていたのだ。まさかと思ったときは全てが遅かった。同僚は姿を消し、ご丁寧にその生徒についても病死届が出されていた。今から40年程前のことだったかの」
「そ、それで、どうなったんですか」
「知らんわ」
 突き放すように言われて、スアローグはぞっとした。この国では魔術に関して厳しい規制が敷かれている。魔力を秘めた物品を所持するのも免許や許可を得ねば罪になる。だというのに、そのような宝珠が密かに持ち込まれたというのだ。
「まさか今回のことも、その宝珠が原因で」
「阿呆。貴様、本当に学園の生徒か? 嘆かわしい。そのような短絡的な思考、獣にも劣るわ」
 うぐ、と詰まったスアローグは、手の中で金属を弄びながら顔を背けた。
 暫く沈黙が落ちたが、だしぬけに静かな声が落ちた。
「一体、何の為に理性があるのだろうな」
 それはまるで、突然心を直接まさぐられるような音色だった。スアローグが顔をあげると、老人は逆に窓の外に意識を向けていた。
「あのとき、私の心には怒りが満ちた。己の過怠は無論、あの男にもな。このダルマンが、憤怒と絶望に胸を引き裂かれる心地を味わったというのだ!」
 ガン、と杖の先が床を叩き、スアローグは電流を流されたように肩を跳ね上げた。
「そのようなときのためにこそ理性があるのではないか。私も所詮は人の子だと? 巫山戯た話だ。全く巫山戯ている」
 心がじくじくと痛みだすのは、鋭い音を聞いた為だけではなかった。スアローグにも、感情に囚われることを煩わしいと思うことがある。論理で塗り固られた熱のない世界に行きたいと願うことすらある。だから老人の言う苦悩も理解できる気がした。
 美しい論理だけを持ち続けるには、人の体はいびつすぎる。
 老人の笑い声が、そのときは泣いているように聞こえた。
「人は皆、どのような歪みを持った者だとしても、同じなのかもしれんな。光を浴びようと、闇に没しようと、変わりないのかもしれぬ。傷つけば痛みを覚え、己の弱さに苦悩し、救いを求めずにはいられない。己が持たぬものを切望する癖に、己が持つものには目もくれず。ただ、そこで考えをやめる者とやめない者の違いだけなのかもしれないな」
 自嘲した老人は、つと椅子の向きを変え、スアローグを見て眉を持ち上げた。
「お主、何を持っている」
「はい?」
 思いを巡らせていたスアローグは、きょとんとして持っていたものを覗きこんだ。手持ち無沙汰だったのでずっと卒業証を手の中で弄んでいたのだ。老人は、何故か瞳を爛々と輝かせて金属の塊を凝視している。
「えっと……友達のです」
「その友人とは誰だ」
 厳しく詰問されて、スアローグは怯えながらも名を告げた。
「――」
 老人の唇が、信じられぬというように動いた気がした。かつかつと傍まで歩いてきた老人は、固まるスアローグの手から卒業証をもぎ取った。裏面を見て、所持者の名が刻まれている筈の箇所が傷だらけで読めないことを確認する。そしてグラーシア学園の紋が刻まれた表面を食い入るように観察した。否、その中央に嵌め込まれた、赤い石を。
 クク、と忍び笑いが唇の端から漏れる。
「……私の目に狂いはなかった。やはり奴はやってのけたのだ」
 口の中で呟くと、染みだらけの肌からギョロリと覗く瞳がスアローグを射抜いた。
「ひっ」
 後ずさろうとして壁に背をぶつけてしまうスアローグの前で、老人は生気を得たように口元を歪めてみせた。
「感謝するぞ、そなたが都市を救うことになるやもしれぬ」
「はっ!?」
 手にすっぽりと入る大きさのそれを満足げに収め、老人は再び窓ごしに都市を睥睨した。その瞳には、先ほどはなかった光が炯々と瞬いていた。




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