-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

21.はじまりの記憶



 頭の奥がじんわりと熱を放つ。
 ようやく見つけた宝石に震える指を伸ばすように、辿りついたセライムはそっと口を開く。
「ユラス」
 矮躯をベンチに沈ませて俯いている少年の名を、祈るように呼ぶ。その瞬間、押さえていたものが爆発した。何も言葉にならず、駆け出していって少年の頭を抱き締めていた。
 人の感触がそこにあった。心がぐずぐずに熔ける思いで、セライムは暫くそのまますすり泣いていた。触れた髪の感触が、曖昧な温もりが、彼が冷たくなっていないことを伝えてくる。
 少年はされるがままで動かない。ふっと体を離し、顔を覗き込むと、彼は薄っすらと瞼を開けて茫洋の内にある。光と闇の境界でまどろんでいるようだった。
「ユラス、ユラス。起きろ」
 肩を揺さぶると、人形のように体ごと揺れる。目覚める気配はない。
 何もかも手遅れだったのだろうか。彼の心は完全に死んでしまったのだろうか。
 いいや、それは違う。
 冷水のように駆け抜けた予感を、セライムは一笑に付す。
 彼はずっと、ここで待っていてくれたのだ。本当に彼の心が死んだのなら、この世界があるわけがない。ここは彼の心そのものなのだから。
 今までに流してきた涙が胸を埋めた。開放された疲労が押し寄せた。何も急ぐことはない――そんな不思議な確信を持って、セライムは静かに笑う。
 世界に質量を感じた。たった一人の他人がいるだけで、世界は心地よい重さを持つ。意味を持つ。
 どんなに寂しい地でも、絶望にまみれていても、他者は必要なのだ。
 
「……お前、この前も私が話している最中寝ていただろう」
 見下ろしたまま少年に語りかける。世界で唯一の他者は聞いているのか定かでない。それでも尚話しかける自分は狂っているのかもしれない。しかし、同時にこの声はきっと彼に通じているとも信じていた。紫の少年は髪で疲れた顔を隠している。
「私がいない間に勝手に都市を出るなんて……」
 少年の手を取る。その体を引き起こす。
「ほら、行こう」
 言ってしまってから、どこに行くのかと思う。けれど、彼は引かれて立ち上がってくれる。今にも崩れ落ちそうな体を抱えて。
 目を見開いたセライムは、体の隅々に力が行き渡るのを感じた。
 彼に見せたいものがある。それはこんな廃墟の様でなく、先ほどセライムが見た世界だ。
 風が吹き始めていた。セライムは少年の腕を引いて歩き出す。軽く目を閉じ、いびつな世界を補正するよう、そこに陽光を思い描く。学びの聖地を真っ直ぐに照らす上天の光。すると、冴え冴えと太陽が輝きだし、都市に光と影を生んだ。ある時は生の活力を与え、ある時は身を焼く光。ある時は身を凍らせ、ある時は優しく傍に寄り添う闇。それらが世界を瑞々しく彩る。
 けれどまだ足りない。空虚と言われた道々に、彼はその通りの空白を見ていたのだろう。しかし……。
 石畳を叩く音が、何処からともなく聞こえてくる。はじめは頼りないそれが、交差し、反響し、次第に巨大なうねりとなっていく。
 道々に影法師が歩き始めた。何処か急くように歩く人。しかしそれは短い生の内に何かを成したいと願うもの。道端で舌戦を繰り広げる人。だがそれは生の限りない輝きを放つもの。例えいびつなものを生んだとしても、彼らは貴さを望んで歩き続ける。
 白いケープをまとって踊るように道を行くのは、聖なる学び舎の子供たちだ。さざめくように笑いながらセライムと少年の横をすり抜けていく。
 学園の正門前までたどり着くと、既にそこは命で賑わっていた。
 淡い金髪を後ろでひとくくりに束ねた生徒が、皮肉げな笑みを浮かべて手をあげ、寮の方角へと去っていく。都市の方角からは、買出した荷物を背負って忙しげに駆けていく双子の妹。鞄を手に歩く茶髪の少年はこれから研究室に行くのだろうか。双子の姉はすれ違いざまに明るく声をかけ、生活の為に働き先へと向かう。
 それらは人の目に、光となって映る。けれどその傍ら、他人が慮ることの出来ないものをそれぞれの心に秘めている。そのための歪みを持つ。
「ユラス」
 彼らの影法師たちの前で、セライムは振り返った。
「確かに世界はいびつだ。綺麗じゃないし、悲しいことなんていくらでもある。でも、お前は世界にいてもいいんだ」
 少年は腕を離されて、一人で口を閉ざし、立っている。気がつけばそこは風の舞い上がる中央広場。吹き上げる噴水が、美しく青空を飾る。
「私たちが出会ってからの時は、確かに誰かに仕組まれたものかもしれない。お前にとってここでのことは全て夢の世界の出来事で、……だから本当のことを知ってしまったとき、お前は消えてしまうことを望んだんだろう」
 何処からかのびやかな汽笛が聞こえてくる。花壇に咲く鮮やかな花弁の群れが、風に心地よく体を揺らす。少女は声を大きくする。
「だったら私はお前以上の気持ちで望む。お前に生きて欲しいと思う。お前にとってそれが枷になったって――私は、そう思わずにはいられないんだ」
 誰も失いたくない。身勝手で、痛烈な祈りだ。少年をこの世に産み落とした狂人と何も変わらぬと思う。
 しかし同時に、その望みがひと時の日常を作り上げた。背後に闇を潜ませながらも、少年も少女も確かに生きていた。
 だから、少女は望む。彼の背にある翼を。
 そう。彼の背には翼がある。その翼は自由を象徴するものではない。むしろ逆だ。絶えずはためかせていなければならないそれは、彼を地に縛りつけ、永遠に光の中にいられぬのだと示すもの。束縛と歪みの象徴だ。
 命の生には限りがある。永久に飛び続けるなど、出来はしない。歪みを抱え、変わらずにはいられない。風の中、光の中、闇の中。人はそうやって彷徨うのだろう。その生が続く限り。その生を願う限り。そしてその生を、誰かに願われて。

 青く晴れ渡った空の元、白亜の都市は美しくその身を横たえ、無数の命をたゆたわせる。
 その掌は冷たく、身を切るような寒さが時に心をなぶることもある。
 しかし同時に、冷たい指先は考える時を人に与えてくれるのだ。挫折や絶望に立ち会っても、時は続いていく。孤高に聳えるこの地にある空虚は、己をゆっくりと見つめることのできる優しい空白だ。
 人は一人では生きていけない。しかし、生きようとする力は自ら望まなければならない。一人で立ち止まり、空を見上げる時間も必要だ。そのとき初めて人は、新たな光に手を伸ばそうと思えるのだから。
 どんなにいびつでも、光に手を伸ばさなければ生きていけないのが、人なのだから。
 もしも全ての想いをそのままに秘めていられたら、どんなに綺麗なことだろう。
 けれど何もかもを置いておくには人の胸は小さすぎる。罪と知っていながら、それを刃にして振るわずにはいられない。形にせずにはいられない。そうでなければ、想いは体の水分を搾り取って風化する。
 人の心はいびつだ。どんな心もそれぞれの軋みがある。痛みがある。
 しかしそれで尚、光の中で尊くありたいと思う。
 滑稽な意地に縋って、人は生きる。
 尊さを願って、人は生きる。


 何故だろう。こんなにも心が穏やかに、ゆるやかに静まっているだなんて。


 ***


 唐突に陽が暮れた。
 閃光が瞬いたように感じられた。
 抜けるような青空に、緋色が滲む。蜜色の光が差し込み、輪郭を輝かせている。
 白亜の都市が紅に染まる様は此岸と彼岸の境界に似て、心に迫る。お前はどちらに行くのかと。
 風が頬をくすぐり、髪と戯れて後方へ駆けていく。噴水の水滴は落ちていくまでの一瞬、その身を一杯に輝かせて舞い上がり、空を踊る。
 靴音が静かに遠ざかった。溢れていた人の気配が、波のように引いていく。
 目の前に少女が立っている。とろけた黄金が波打つ様を思わせる見事な金髪に、緋の光を吸い込ませて。逆光のためか、輪郭が一際輝いている。影の落ちた表情は明徹な双眸に彩られ、こちらに向けられている。
 少女は黄昏に立ち、夕暮れの都市を従えていた。堅牢な石で固められたそこに、影は何処までも長く落ちていた。

 俺は。
 俺は、なんでこんなところにいるんだろう。
 どうしてこいつがいるんだろう。

 風に吹かれ、途方に暮れるしかない。少女の視線に射止められた俺は、予感に胸がひりつくのを感じる。何故だろう。こんなにも優しい光景なのに。
 すると少女は風を受けて、綻ぶように笑った。何もかもを受け止める瞳。罪の象徴のように思っていた印象が、剥落していく。代わりに構築されるのは、赦しに似た静穏。
 いつも見ていた少女が笑っている。
 だから、俺も笑えた。ほんの少し。
 何もかも闇に閉ざされたと思っていたそこに生まれた、一滴の光のように。
 少女は僅かな空白の後、小さな口を開く。
「ひとつだけ、頼みがある」
 風音に乗せて耳朶を叩く、自分ではない人の言葉。体にじんと染み、熱くする。そうして風と己との境界を知る。人は風になれないのだと知る。
「――なんだ?」
 肺腑を擦り切らすように答えると、少女は嬉しそうに頬を緩めた。腰まである髪が風と遊び、さざめき、また元の位置に戻る。時が歌うような軽やかさで、少女は言葉を継ぐ。
「必ず守ってくれるか」
「もちろんさ。俺が約束を守らなかったことなんてあったか」
 反射するように返すと、少女は眉根を潜め、鳩尾の辺りで両手を絡ませた。
「かなりあったぞ」
 そうだったっけ――。
 でも、そうかもしれない。俺は、自分のことしか考えられなかったから。人の想いなど、気付けるわけもなかった。
 少女は呆れたように吐息をついた。
「だから今度こそ必ず守ってくれ」
 静かに胸を穿たれた気がした。守る。それは、何かを背負うことでもある。
 大海にたゆたっていた体が、槍で射止められた。また陽光の下に連れ出されるのだろうか。
 四肢がじんわりと痛む。引き上げられるのを否とするように。心の内で唱え続けていた想い。それらが黒い粘液となって体を覆おうとする。やはり目を閉じていた方がいい。
 消えてしまおうと思ったそのとき、少女と再び目があった。
 体が硬直した。薄煙になりかけていた意識が凝固する。

 黄昏に凛と直立し、願う者の目でこちらを見ている。
 そうしているだけでも、綺麗だと思った。過去にこの身を見るものたちにあった負の感情は一切ない。何もかもを飲み込むような、肯定の瞳。夕焼けを弾いて尚青く、何処までも静謐だ。
 手を伸ばしたくなる。欲しいと思う。この手が闇にまみれていることを知っているのに、安らぎを想ってしまう。
 それは刻苦だ。鳥籠の中から見る瞬きだ。得る為には傷つかなければいけない。歪みを自覚せなばならない。
 けれど少女はもう空を見ていない。やはりその背に翼はいらなかったのだ。大地を踏みしめ、己の足で立つ。こちらを、――まるで光でも見るように、ひたと見据えて。
 じんわりと熱を放つ心が、息遣いを始める。
 ああ、……嬉しいな。そんな目で見てもらえるのは。誰かと共にあるのは。
 長い時を眠り続けて、その先に見た微かな時間。白亜の都市。静寂に見えて、耳を澄ませば聞こえてくる。名前を呼ぶ声が、一つ、二つ。
 答えてもいいのだろうか。そこに夢を願うのは許されるだろうか。
 セライムが、こちらを見ている。

「了解だ。なんでもこい」
 俺は、自らの足が地についていることを認識した。
 そして、差し出された手を確かに掴んだことも。
 セライムは嬉しそうに頷き、ひとつ、願う。
「もう生きていけないなんて思わないで欲しい」
 いよいよ濃くなる夕日は紅蓮に燃え上がるかのよう。
 祈りであり、呪いでもあり、この胸に力となって湧き上がる。
 人が抱く夢も願いも。全てを受け止めて、呼吸が止まる。
「どんなことがあっても生きていけると……ずっと、ずっと、信じていてくれ」
 セライムはそこまで言い切ると、小さく息をついた。軽く瞼を閉じ、己の言葉を胸の内で思い巡らせているようだった。
 耳に喧騒が戻ってくる。止まっていた時が動き出すように、自分の指が動くのを知覚する。しかしそこに違和感を覚えて、俺は困惑した。
 何故だろう。あまりに見知った光景に溶け込んでいるのに、こんなにも切ない。この景色を見るのがこれで最後になるような、考えたくもない予感がある。
「分かった、セライム」
 何か恐ろしいことが起きている。けれど災厄の予感は心の脇をすり抜け、実体を伴わない。
「分かったから……」
 言葉が途切れた。何を言えばいいのか分からない。セライムは何かを超越した佇まいでこちらを見つめている。まるで、最後にその姿を焼き付けるように。
 世界にひびが入る音を聞いた。はっとして空を見上げると、血で染めたように赤い。世界が粉塵に帰そうとしているのだ。
「セライム」
 走り出そうとして、足が動かない。視界が明滅を始める。セライムの目尻に涙が浮いていた。
「……私が望んだことだ」
 そう告げたセライムの頬を水滴が伝う。口を開くと水が入ってきたようになり、何も言うことが出来ない。耳鳴りが激しくなり、取り巻く情報をかき消していく。
 手を掴みたかった。そうしなければならない気がした。少女の肩が震え、その喉を引き絞るようにしてセライムは吼えた。
「行け! いいか、お前は行くんだ。私が大切なものを守ったように、お前も守れ」
「待て、セライム……っ」
 体を炎にして走っているつもりなのに前に進めない。熱い塊が視界を歪ませ、俺はその名を叫ぶ。すると、ふとセライムは穏やかに笑った。金髪が優しく揺れる。
「大丈夫。何処にも行かない」
 轟音をとどろかせ、建物が赤い霧と化していく。剥ぎ取られたところに漆黒の闇が芽吹き、一斉に世界をその色で塗りつぶしていく。
「私はここで待っているから」
 霧と化した欠片の輝きが吹き上がり、まるで炎の中にいるようだった。もう届かないことは分かっていた。拙く手を伸ばすことしか出来ない俺に向けて、セライムは別れを告げた。
「いつの日か、また会おう」


 闇の中に放り出される。たった一人。最後に見た、輝きの欠片。
 青い双眸が俺を見つめている。触れてみたいくらいに透き通った、優しい青が。

 ――それがはじまりの記憶であり、そして終わりの記憶だった。




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