-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

20.うそつき



 彼が短い生の多くを過ごした学園。そこに彼がいるのではないかと、淡い希望を胸に探し回る内に、セライムはあることに気付いた。
 敷地内に、行けない場所があるのだ。
 聖なる学び舎グラーシア学園の敷地は広大だ。しかし、その中でも幼学院や中等院の校舎の扉は、壁に張り付いたように開かなかった。窓から中を覗いても、灰色がかって伺うことすら出来ないのである。
 不思議なことは他にもあった。例えば花壇や本棚を注視しようとすると、眩暈に似たおかしな感覚に囚われて、うまく認識できないのだ。
 それはきっと、ここが彼の世界だからなのだろう。彼の記憶によってこの世界は構築されたのだ。彼が知らぬ場所は存在できるわけがない。注視出来ない場所は、記憶が曖昧になっているところだろう。ならば始めにセライムが抱いた違和感も説明できる。ここは、彼の目を通して見たグラーシアなのだ。
 そう考えると、ここが本当に紫の少年の心の中なのだと、やっと実感が沸いて来た。心の何処かで、彼とは関係のない時の狭間に落とされてしまったかと不安になっていたのだ。だが、同時に焦燥が胸を騒がせた。

 ――失敗すればお前は彼の心の迷路から二度と抜け出せない。

 宝珠の言葉が警鐘を鳴らす。早く彼を見つけなければ、手遅れになるかもしれない。彼は装置から引き剥がされて、果たしてどれほど生きることが出来るのだろうか。
 もう死んでしまったかもしれないと心が絶望を呟いた。そうだとすれば、セライムは二度とここを出ることは出来ない。否、彼を救えたとして、自分はもう戻ることは出来ないのだ。
 セライムは首を振って考えを散らす。駄目だ。それを考えては、足が動かなくなってしまう。
 高等院の教室はがらんどうで、窓も開いていなかった。彼が通った研究室も、つい昨日まで研究が行われていた様子なのに、誰もいない。
 職員室、学園長室。考えられる場所を全て回って、しかし人の姿はない。歩き回る内に、段々と肌の感覚が膨張していく気がした。地面から浮いているようだ。他者の圧迫のない世界では、己の存在ばかりが大きくなる。いつしか、大きくなりすぎて霧散してしまうのではないか。
 学園を一通り見回って、仕方なくセライムは再び正門を出て男子寮に向かった。彼の記憶で構築された世界は、セライムの侵入を咎めない。自分の足音が甲高く響くのを唇を噛み締めて耐え、セライムは片っ端から扉に手をかけていった。彼が別の友人の部屋に招かれたことがない限り、開いた扉が彼の部屋ということになる。
 作業じみた行為は、セライムを安定させた。その間は何も考えなくて良くなる。しかし、次第に予感がもたげてきた。彼の部屋に行き当たったとして、そこに彼がいなかったら、今度は何処へ行けばいいのだろう? セライムは彼の行動範囲を大まかには把握しているつもりだが、それでも都市は広すぎる。
 そうして次の扉のノブが滑るように回ったとき、セライムは新たな絶望に出会うこととなった。

 部屋は無人であった。

 縦長で、簡単な台所とベランダのついた部屋は、女子寮と全く同じ作りをしている。しかし簡素で殺風景なそこは、人の気配と共にこの世の気配すら剥ぎ取るかのようだった。誰もいないのに、酷く息苦しい。
 灰色の空間に、そっと足を踏み出す。机の上には、淹れ置かれたコーヒーとスアローグの筆跡で化学式などが走り書きされたメモがある。
 手入れのされていないソファーはぼろぼろで汚れも目立つ。その奥にある寝台は二段のものと一段のものが一つずつ。一段のものは、無機質な使われ方からしてエディオのものだろう。
 そうして振り向いた先。二段ベッドの下の段、くしゃくしゃのシーツがわだかまった薄暗い空間。ぽっかりと、そこにいる筈のものがない。麓に置き去りにされた鞄は、明らかに彼のものなのに。
「……」
 唇が震えた。喉からこめかみまでが熱くなり、止める間もなく涙が溢れた。
 それは、今まで味わったことのない絶望感だった。
 僅かな可能性に縋って迷い込んだ先は奈落の迷宮。そこにいる誰かすら存在しない、虚無の世界。
 今まではいくら失ったとはいえ、そこには誰かがいてくれたのだ。世界には人が溢れていた。ざわめきは喪失を埋め、他者との間を心地よく満たしてくれた。
 それが消えた今、泣いた少女に手を差し伸べる者は誰もいない。
 彼を見つけ出すのだという気概が急激に萎み、自らが無と等しい存在となるのをセライムは感じた。世界は死に絶えている。彼はもう、何処にもいない。暮れぬ世界は、永遠に明けぬ夜と何が違うのか。
 膝の骨が砕けたかのごとく、セライムはその場に崩れ落ちた。

 何処にも行かないでと請うたのは、空がとろける黄昏の刻。
 彼はそのとき、確かに返事をしたのだ。頷いてもみせたのだ。

「うそつき」
 搾り出す囁きは悲鳴に近い。
 疲弊した舌はそれ以上を紡ぐことすら厭い、豊かな金髪をかき乱すように少女は慟哭する。
「っぅ、……ぁああ」
 狂ってしまえばいいと思った。正気を失えば楽になる。何故なら少女は永遠にこの地に囚われるのだから。
 そう。これが自分の願ったものだった。空の果てに酷似した廃墟。人の温もりを忘れた残滓の屑。ここにいれば何もかもを忘れ、そして不変の時をたゆたっていられる。永劫に。しかし、そんな永遠に人の心が耐えられるわけがないのだ。
 苦しみや空虚には、永久に続かないからこその優しさと恐ろしさがある。その淵や狭間に光が見えてしまうから、立ち上がらずにはいられないのだ。
 苦しみを伴う生。
 セライムもまた、ひとしきり泣いた後はその足で立ち上がり、ふらふらと歩き出した。生への渇望と絶望を胸に抱え、それでも諦めることが出来ずに。

 部屋を出て、寮を出た。相変わらず人影はない。頬を汚す涙を拭うことも忘れて、セライムは当て所なく彷徨った。白亜の石畳は視界を焼き、首を真綿で絞め殺すかのよう。段々と重たくなる足を引きずり、彼の記憶に残る場所を一つ一つ確かめる。
 薦められない、と言った宝珠の言葉が、今更ながらに胸を打つ。宝珠は止めてくれたのだ。子供じみた希望に縋りついた愚かな少女を、あの宝珠は確かに諌めてくれた。
 しかし、仮にこうなることを知っていたとしても、命令に従って彼を手にかけることが出来たろうか。セライムは否と思う。人には捨てられない希望がある。自らを滅ぼしてでも手を伸ばさずにはいられない望みがある。
 そしてセライムは人だった。
 無人の大通りに立ち、風のないそこに無音で佇む。いくつもの大切なものを失った先に、セライムは一人で立っている。
 一体どれほどの時間が経ったのだろう。彼の気配はやはり消失し、残留物たる都市のみが横たわっている。
 けれど、歩くことをやめては心が風化する。想いが擦り切れてしまう。彼の名を叫ぶように幾度も呼んで、返答がないことを確認したセライムは、目を閉じて考えた。何かを考えていなければ、自分が消えてしまう。
『考えろ』
 彼は一体何処にいる?
『考えろ、考えろ』
 彼の佇まいを思い起こす。紫の髪と瞳。細い体。遠くを見る横顔。
 彼は――そうだ。彼は底が抜けたように笑っているくせに、ふいに黙り込んで遠くを見ていた。
 自分が今ここに在ることが不思議でならないというように。
 セライムはその表情を疑問に思ったものだが、今なら分かる。彼は空白の記憶を抱えて白亜の都市に投げ出された彷徨い人だったのだ。
 無垢な瞳は、故に途方に暮れて何もかもを平らに映していた。
 だから、恐ろしかったのだ。彼が突然何処かに行ってしまう気がして。闇から紡がれたのと同じように、闇にとろけて消えてしまいそうで。
 そんな浮世離れした佇まいが、記憶の片隅にわだかまる虚像と交わり、気がつけば父の影を重ねていた。
 彼の姿は、人ごみのなかでも目立った。生粋の紫水晶から紡いだ髪は、あるときは風に揺れ。
『ああ、でも』
 その佇まいは、とても頼りなかった。

 振り向いた青い双眸が幻視する。白亜の都市に散らばる人の足音。そう、彼女の記憶にあるのはこんな空虚ではない。
 風が吹いているはずだ。セライムは肌に風を感じようとする。停止しているものなど、何もない。あらゆるものは変わらずにいられないのだから。
 何処か急いた様子で行き交う学者風の人々。活気とは程遠いそこを、けれど夕刻になれば学業から開放された子供たちが彩った。それも夜には立ち消え、体温を失った石畳が月明かりに冴え冴えと浮かぶ。
 いびつと言われるかもしれない。人の気配に乏しいと厭われるかもしれない。
 しかしセライムはそこに生きていた。人々はそこに息づいていた。
 彼は細い体を風に遊ばせながら、白亜の道を歩いている。そうだ。彼は行き先もなく都市をぶらついていることが多かった。白紙の記憶を抱える彼にとって、全てのものが真新しかったのか。
 ざわっと肌が粟立ったのはそのときだった。景色がぶれ、過去の記憶と重なる。幻と現実が交差し、そこに人の息遣いを再現する。はっと息を呑んだそのとき、学園からふらりと姿を現した紫の少年は、弾かれたように走って消えた。
「まっ――」
 意識ばかりが前に進もうとして、体がつんのめる。すんでのところで転倒を免れたセライムは、彼が消えた方向を睨み据えて駆け出した。見ているのが現実なのか、記憶が生んだ幻なのかは分からない。しかし、そんなことを考えている余裕はなかった。
 研究所が立ち並ぶ区域に入る。そういえばこんなことがあった、とセライムは気付く。立ち消えてしまいそうだった彼を追って走った、その先にあったのは――。


 研究所の狭間に忘れ去られたベンチがあった。
 憩いの場として設けられたのだろう。ぽっかりとそこだけが開け、一本の樹が葉を茂らせている。まるで、大海の狭間に小さな島が浮かぶように。
 夕暮れにまみれた過去、行かないで、と言った場所。
 そこに紫の少年が座っていた。


 立ち止まって息を詰めたセライムは、瞳を限界まで開いて少年を見つめた。
 はじめにこみ上げた熱い塊は怒りだった。何処にも行かないと約束したのに、こんなに探させるなんて、と。
 しかし、続けてこみ上げたもっと熱い塊が、セライムの意識を染め上げた。
 風と陽光のない都市の片隅。けれど万感を胸に持ってして、セライムは仄かに笑った。


「なんだ。こんな場所にいたのか」


 風が、静かに吹き始めた。




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