-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

19.闇に最も近い色



 光が瞬いた。闇が踊った。
 引き絞った指によって放たれた鉛弾は、少女を後方に吹き飛ばしながら一直線に硝子板を突き破った。
 蜘蛛の巣に似た亀裂が透明な空間に走った。夢と現の境界が揺らぐ。次の瞬間、ついに支えることもままならなくなったそれらが決壊し、無数の煌きとなって散った。
「――っ!!」
 撃ったときに後方に薙ぎ倒されていなければ、セライムはそれらの硝子片を全身に浴びることになったろう。溢れた液体と飛び散った欠片のいくつかが降り注ぐ。外套によって多くを免れたものの、足に突き刺さる刃の痛みがセライムに襲い掛かった。それでもセライムは顔を庇っていた腕をおろして、銃を捨て、崩壊した夢の跡を見た。全身が紫の液体で濡れ、動作を重くする。歯を食いしばって硝子の刺さった外套を脱ぎ捨てる。獣のように立ち上がると、腰まで液体に漬かっていた。自らの頬を濡らすのが涙なのか紫の液体なのか、もう分からなかった。
 はっと息を吸い込んで駆け出す。水の中では風となることはままならない。むせ返るような得体の知れない臭いに腕で鼻を庇い、体が傷つくのも構わずに割れた硝子板を踏み越える。上天を思わせる光が降り注ぐそこに辿り着いたセライムは、飛沫を散らせて無数の管に取り付いた。
 手を伸ばす。遥か上方へ。欲しいもの、守りたいもの。憎く、悲しいもの。滑る足が落ちる前に更なる高みに引っ掛け、腹から力を振り絞るようにして自らの体を持ち上げる。

 そうして上っていった先で、すぐ傍に紫の少年の顔を見た。
 彼の体に傷がついていないことを確認する。ぐったりと首を折った少年の頬を持ち上げて、セライムは歯を食いしばった。
 ――見ているんだろう。
 ここにはいない、少年と同じ声を紡ぐ存在に向けて呼びかける。
 ――お前は今も見ているんだろう。
 ただ呼吸をしているだけなのに、心臓が内から胸を叩く。
 ――目を閉じて、逃げ出して、膝を抱えて。歪みを閉じることが正義と思っていた。
 この命は、何の為にあるのだろう。どれほどの想いを抱えようといつか消える、忘れられる体。残らない心と痛み。時は全てを押し流す。久遠の存在は許されない。
 その虚無を抱え、しかし確かに生きている。
 ひとつ、セライムは呼吸をした。ぴたりと自らの心が、自らの全身に行き渡る。一つの指令に向けて、全神経が集束する。
 少年の口元に当てられた管を引き剥がした。その体を抱き締めるよう、解き放つよう、彼の脇の下に腕を差し入れ、全体重をかけて引っ張る。
 食い縛った歯列の向こうで、喉から声が迸った。ぶちぶちと音をたてて管が抜けていく。年頃の少年としては小柄な体が傾ぎ、胎からついに引き抜かれた。
 最後の管が切れた瞬間、勢いを殺せずに二つの体は宙を舞った。セライムの瞳に、少年の肩ごしに光が映った。紫色の飛沫がきらきらと輝く。
 ――見ているんだろう、なら見るがいい。この心の叫びを。願いを。
 煌くそれらをきつく睨み据え、少女は全身を声にして叫んだ。

「――連れていけ!!」

 少年の細い体を抱いた少女の瞳は見開かれたまま。もう、閉じられることはなく。
 みるみる水面が近付く。セライムは、遠のく筈の光が大きくなっていくのを見た。自分の髪が翻って波打つ。涼やかな魔力の流れが自らを取り巻き、全身を切り刻んでいく。
 呑まれる。そう感じた瞬間、セライムの体は唐突に霧散した。黄金の煌きを残し、それが尾を引いて消えるのも一瞬だった。少年の体だけが、水柱をあげて水中に没した。
 後には、不穏な駆動音だけが残り、そしてそれすらも消えていった。


 ***


 視界が闇に閉ざされた瞬間、セライムは少年の肌の感触を失って小鳥のように震えた。自らの意志でとった選択は、もう取り返しがつかない。
 しかし、躊躇いを覚えていられたのもそこまでだった。時が捻られる。全身が闇の欠片となって砕け散り、そのひとつひとつが崩壊の痛みに悲鳴をあげる。喪失した感覚では上も下もなく、ただ欠片がぐずぐずと形を成せずに一方に向けて飛翔した。昆虫の移動に似て禍々しい様相は、しかし無の中にあっては観測されることもない。次第に集束し、ぼたぼたと水滴のように落ちていく。

 はっと指が何かを掴んだとき、セライムは壊れた世界にいた。ざらざらと白と黒の合間が揺れている。己は白に埋もれて、黒の空を見上げている。否、それは海なのだろうか。それとも闇?
 ずぶずぶと足が白い砂に呑まれていく。驚いて立ち上がろうとするが、漏斗のようなそこに絡めとられては、手を伸ばすほどに沈むばかり。
 そして恐ろしいことを知覚した。足がない。いつの間にか白い砂になって消えてしまったのだ。みるみる腿から腰まで砕けていく。もう、空は何処にも見えない。
 ああ、と叫びそうになったとき、何かに手を掴まれた。視界は白く染まっていた。体が空虚になる寸前、浮遊感が肺腑を持ち上げる。

「――わあぁっ!?」
 唐突に自分の肉声が聞こえて、セライムは愕然とした。体が心にすとん、と収まると同時に、五感を取り戻したのだ。暴れまわる細胞の動きが、血流の巡りが、震える唇が、瞬く瞳が――心を吸い込んで、セライムを織り成す。
「……っぅ、つう……」
 その不快感。心と体が引き剥がされて、軋み声をあげながら再び重なり合う。地面に蹲って、呼吸を荒げる。そして、自分が地面に這っている事実に驚いた。その地面も、あの紫色の舞台ではない。何処かで見たことがある。否。いつも見ていた、とてもとても身近に――。
 敷き詰められた白い鋪石。長年踏まれ続けて僅かにくすみ、土が染み付いた懐かしいそれを、セライムはたっぷり数秒見つめた。
 そうしてようやく顔をあげ、吃驚に全身を凍りつかせた。
 すぐ隣に、石組みの噴水がぽっかりと空の中身を晒している。その向こうには時計塔。たっぷりと開けたそこから、大地を睥睨するように佇立している。
 周囲を取り巻く白い町並み。大きく門を開く駅の改札。そして真っ直ぐに伸びる大通りの向こう、両翼を力強く伸ばした聖なる学び舎の威容――。
 嘘だ、と呟いた少女の前には、学術都市グラーシアの崇美な姿が立ちはだかっていた。
「……」
 しかし、何だろう。この異様な光景は。慣れ親しんだ地である筈なのに、何かが違う。こんなに違う……。
 セライムは自分の手を見て、それが動くことを確認した。ゆっくりと体を起こし、足を立てる。しかし眩暈の中ではままならず、ブーツがかつり、と音をたてて、セライムの心臓は飛び跳ねた。
 そこまできて異常の一つに気付く。音がないのだ。風もない。耳が痛くなるような静寂が、白亜の都市を支配している。人のざわめきや、機関車が鉄とかみ合う響き、沢山の足音。それらがない。
 噴水も水を失い、ただの石桶と化していた。時計塔の針も、動いていないようだった。命の気配が完全に絶たれている。
 そこは、グラーシアであってグラーシアではなかった。セライムは歯の根が合わなくなる我が身を抱き締めて、空を見上げた。青空だ。雲ひとつない。しかし、太陽の光も何処か空々しい。まるでそこだけ空間を白く剥ぎ取ってしまったようだ。地面を見れば、陽光など何処にもさしていないことに気付く。自身の影すらない。

 ここが。
 ここが、彼の心だというのか。

 セライムはようやく立ち上がり、ふらふらと歩き出した。自分の立てる足音が妙に甲高く響いて、肌を粟立たせる。
 宝珠が言っていたことを思い出す。彼の心に、自分の存在をぶつけると宝珠は言った。しかしこの世界自体が彼の心だというなら、ここで何をすれば良いのだろう。呼びかけるにも、誰もいない。
「ユラス……」
 胸元で手を握り合わせ、無人の都市を歩き出す。たった一人。
「何処だ、ユラス」
 一歩、二歩と歩き出して。けれど、すれ違う人も、すり抜ける風も、何もない。
「ユラス」
 まるで世界が滅んだ後にたった一人取り残されたようだ。次第に駆け足になり、自らが風になるしかないことを知る。
「はっ、はっ、はっ……」
 全身の血液を沸騰させながら、セライムは走った。見慣れた筈の大都市が、迷宮となってその足を迷わせる。大通りを学園の方に駈けたが、それが果たして正しいのか。セライムには分からなかった。
「ユラス、何処だ。何処にいる!」
 叫んだとき、少年が働いていた古本屋が目に入った。硬く門戸が閉じてあり、無理やり扉を開いて入ってみたものの、会計所は無人だ。彼がよくいた二階も同様に、深海のように静まり返っている。本棚や手すりに触れれば確かな感触があるのに、それらは体温を奪うかのように冷たい。暫く立ち尽くしていたセライムは、顔を歪め、踵を返してそこを飛び出した。
 恐ろしかった。誰かの存在がないということが。空白を満たす存在がないということが。見えない大量の虫が自分に取り付いて、その体を食いちぎるかのようだ。
 自分という存在が、酷く曖昧なものになる。だから、腕を回して自分を抱き締めながら走った。この空白に溶け消えてしまわぬように。
「ユラス……」
 少年は何処にいるのだろう。こんなに白く空虚な世界の、一体何処に。
 ひたすら彼の名を口ずさみながら、少女は走る以外に術を持たなかった。
 ――孤独な少女は、ここでは異邦人なのだ。


 ***


 印象的な出会いだったと思う。
 そう。セライムが紫の少年と出会った、あれは星が降り注ぐような日のことだった。
 その日、セライムは絶望を抱えてテラスに立っていたのだ。
 春を告げる嵐が過ぎ去って、中等院を卒業して。いよいよ高等院に入学するのかと思うと、たまらなかった。この居場所は、もう二年後にはセライムのものではなくなるのだ。
 セライムは、日常に身を置きながら心の何処かで実父が迎えに来るのを待っていた。そうして父が自分に新たな居場所を作り出してくれるのだと夢想していた。それが夢と知りながら、その夢を見続けていた。
 しかし、狂ってしまえるほどに少女は弱くも強くもなかったのだ。
 人は歪みを抱えて尚、人であろうとする。残酷なまでに記憶は風化する。忘れられていく。おぼろげなものとなる父の顔。優しい日常に塗り潰され、薄れてしまう。
 悲鳴をあげそうになったのだ。変わってしまう自分の様に。ただ未来を恐れるだけの存在と果てた己の滑稽さに。
 優しい友人たちは何も言わない。ただ、ぬるま湯のような日常を生み出してくれるだけだ。なのにそれすら壊すことを恐れる自分は、強く在るように振舞うのだ。永遠にそれが続くことを願うのだ。
 けれど何もかも泡沫の夢だった。その虚無に、気付いてしまった。
 ぼろぼろの体を抱え、少女は彷徨う。
 何処か、遠い場所に行きたいと思った。そう、誰もいない空の最果て。永遠にたゆたっていられる処。大地の束縛から解き放たれ、この淀みを忘れてしまいたい。暖かさを失おうとも、絶望も忘れられるなら。それは、それは、とても――。
 星空を見上げていた。ここから身を投げてしまえば、あるいは楽になるかもしれないと思った。じわじわと近寄ってくる終焉をただ待ち続けているのは辛い。涙が出るほどに悲しい。なら、もう飛んでしまおうか。そうすれば、父と同じ場所に行けるかもしれない。
 ふと零れたひらめきが、春の風に乗って少女の心を淡く揺らせた。磨耗した想いはもうぼろぼろで、心は逃げ出したまま空虚なばかり。強くなければ、生きていけないと。そう思うにも、この足は枯れ木のように脆かった。
 暗い場所を切望して、少女の瞳は空を彷徨う。そして、ふらりと体が前に出そうになった、そのときだった。
 誰かの気配を背後に感じた。全身が凍りついた。自らがしようとしていたことを知覚し、ぞっと鳥肌が立ったのだ。そして、人に見られていたことに酷く狼狽した。羞恥と焦燥はやり場のない苛立ちを生んで、セライムはきつい目で振り向いた。
「誰だっ?」

 闇の中には、そこから生まれてきたような紫の少年が立っていた。

 この世の闇から紡ぎだしたような、か細い少年が。

 一瞬、自らの生んだ歪みが現実になったのだと思った。自然と相反する濃い紫色。闇に最も近い色。暗い廊下の奥から姿を現し、こちらを透徹な眼差しで見つめている。
 いけない、取り込まれては。心がそう叫んだ。少年を通して見えた歪みと、見知らぬ存在への混乱と、孤独であることの侘しさと。泣いてしまいそうだった。得られない幸福と、約束されない日常を目の前に。
 だから、立っているためには、刃を振るう以外にどうしようもなくて。
 少年を敵と断じた。


 全く、何をしていたのか。思い出すたびに赤面する記憶だ。しかしふと思うことがある。あのとき、彼の気配がなかったら、自分は何をしていただろう?
 否。ひと時の馬鹿げた考えに流されただけで、すぐ死への恐怖に我を取り戻していたことだろう。そうに決まっている。胸でそう唱えた。唱えるたびに高鳴る胸に向けて、何度も何度も繰り返した。
 紫の少年は底が抜けたように笑っている。いつか闇にとろけてしまいそうな様子で。
 遠くを見つめる紫の瞳。そこには何が映っていたのだろう。


 セライムは足を止めて、風のない空を見上げる。金髪の毛先が途方に暮れたように揺れる。
 命の絶えた都市。全ての意味を失った世界。そうだ、ここはきっと、あのときの自分が夢見た場所だ。
 彼は一体ここで、何を見ていたのだろう。
 彼は一体ここで、何を見ているのだろう。
 立ちはだかる白亜の学園を前に足を止め、セライムは瞳を歪める。

 少年の姿は、何処にもない。




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