-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

18.どうして私たちは




 彼の翼は、大地に繋がれていた。



 その存在自体を紫の翼に絡めとられ、彼は眠っていた。
 口元がおびただしい量の機材に覆われているため、顔ですら半分ほどしか伺えない。しかし、流れる水流に髪をたゆたわせ、彼は確かに瞳を閉じていた。
 生まれ落ちてから、ずっと、ずっと。
 指先の一つも動かすことなく。
 久遠の夢を見続けて、見続けて。
 いつしかやってくる終焉に、ただ心を焦がしながら――。

 光景がぶれた。魔力の流れがぶつかってくるのを、セライムは放心したまま受け止めた。陰影がゆらめく。空間が崩壊し、再構築される。色褪せて雑音の混じるその地を、セライムは見た。
 それは記憶だ。誰かによって留められてあった記憶だ。

 そこには父が立っていた。


 ***


 波打つ金髪を後ろでまとめた男は、痩けた頬をひきしめて階段を下りてきた。背には荷物、片手に拳銃を握り締めて。暗い時間、そこには誰もいない。彼の瞳は意志を宿して、爛々と輝いている。
 長い時間を闇においた男の体は、まるで獣のようだった。あらゆる手入れがままならず、艶を失い、色あせ、荒れている。表情にも何処となく取り憑かれた様子がある。
 帰りたい。
 男の心は、望郷に支配されている。
 救いたい。
 男の心は、渇望に支配されている。
 それらは寄せ合いせめぎ合い、男の胸は更に歪む。苦しみに脂汗を浮かせた男は、奥歯を噛み締め、限界に近い己の心と体を悟った。恐怖感と使命感は交差して、彼にその行動を決断させた。
 感覚を研ぎ澄まして、男は装置に繋がれた子供を見つめる。青い双眸で、儚いまでにひたむきに見上げる。まだ生まれ落ちてから数年、男か女かも定かでない体が、紫の海の中で無数の管によって繋がれている。男は始めにそれを見たとき、全身が消し飛ぶほどの畏怖を感じた。遥か上方に磔にされ、数多の管を引き連れたそれは、人の形をとった神に他ならない。この子供には、今の瞬間も数多の魔力が注ぎ込まれ、幾多の知識が刻み込まれているらしい。そうして、完璧な存在となるまで紫の水槽で眠り続けるのだと、灰色の少女は語った。
 灰色の少女自身は、成長の途中で実験が失敗した為に色素を失い、水槽から出されるに至ったのだという。故に扱える魔力こそ人を超えるが、その体は不安定で、いつ崩壊してもおかしくないのだった。
 シェンナと名付けられた少女は、自らの体を生き長らえさせる為に研究に参加していた。無論、検体は自分自身。成功体の解析と失敗作の解析、双方が揃えばあるいは自らが生きる術があるかもしれないのだと。正しきも間違いもなく、そう灰色の唇で語ってみせた。
「それは、間違っている」
 男は、翼に繋がれた子供を見上げながら呟いた。そうして、ゆるゆると腕をもたげ、銃口を子供の眉間に向けた。ゆらゆらと、紫の髪が水槽の中で揺らめいている。頭上からは絶えず光が降り注ぐというのに、縦横無尽に走る管によって、足元はぞっとするほど暗い。男の顔にも、濃い陰影が刻まれる。男は顎を引いて、照準を合わせる。銃声は多くの者を呼び寄せるだろう。一発で仕留めなくてはならない。

 ごぽごぽごぽ。

 水槽の中を、気泡が走る。集中力をかき乱すように。玉のような汗が額に浮き、流れ落ちる。胸にぞわぞわと戦慄が走る。今から男は、人殺しになろうとしている。
 同時に男の脳裏には、妙な感慨があった。これはただ自分の精神が異常を呈しているだけかもしれない。男はここ暫く、おかしな声を聞くのだ。それは絶望の呼び声。終焉を願い、祈る、切なる叫び。この子供が発しているものかも定かではない。しかし男は、それがこの磔にされた命の叫びなのだと、心の何処かで理解していた。産声をあげることも許されず、眠ったまま繋がれ続けて、人との接触すら知ることもなく、ただ力を埋め込まれて。終焉を願わぬ筈がない。
 しかし、本当に終焉がこの子供にとっての救いとなるのだろうか。男は結局のところ、自らが守りたいもののために一人の子供を犠牲にしようとしている。その罪は厳然として変わらない。そして彼はその歪みを受け入れるつもりだった。
 肺腑の中身を吐き出し、引き金に手をかける。早くしないと、いつ人が来てもおかしくない。この子供は徹底的に監視されている。今はその隙間に生まれた、奇跡の空白なのだから。
 目標を睨みあげた。ぴたりと銃口はやわらかな頭部に向けられている。あとは、この指を引くだけ。そうすれば帰れる。妻に会って。
 ――娘の笑顔を見ることが出来る。

 そのとき、青い双眸は幼い娘を幻視した。幻視、してしまった。
 極限状態の視界。管に覆われた子供の顔は、まだ男女の区別も定かでない。
 穏やかに目を閉じたその様が、たった一人の幼い娘にぶれて、重なる。
 人差し指が震えた。唇が戦慄いた。足がもつれる。喉が呻く。はっとして見定めた先、そこに眠るのは。
「セライム」

 ごぽごぽごぽ。

 決定的な失敗だった。それが男に与えられた、最初にして最後の機会であったのに。
 荒々しく扉が開かれた。飛び出してきたのは、灰色の少女だった。失踪した自分を探しに来たのだろう。少女は銃を持った男を見て、その瞳を極限まで見開く。自らの希望と信じていた少年を屠ろうとした男を音もなく見つめる。
 裏切り。
 少女が経験した、初めての歪みだった。何もかもが崩壊する音を少女は聞き、いざというとき男を守るためと持ってきた銃を引き抜いた。少女は無我夢中で男を撃った。男は反射的に身を倒して転がる。しかし、引き金に手をかけたままであったことが、取り返しのつかない歪みを生んだ。倒れた衝撃で、男は銃を暴発させてしまったのである。
 当時、男が狙った子供の水槽の横に、小さな命が生まれつつあった。第二の成功体になるべきだった筈の胎児が眠る水槽に、銃弾がめり込んだ。硝子が砕け、中の液体が飛び散る。異常を知らせる警報が、ごうごうと唸る駆動音に混じって胎全体を揺るがし始める。男の持った拳銃が落ちて、回転しながら管の隙間に入り込む。
 駆けつけた職員によって、その胎児は命を取り留めた。しかし、成功体になることは叶わず、かの地で生まれた中でも最も不安定な体を抱えたまま水槽の外に出ることとなる。
 男は自らの落ち度を悟っていた。考えていた策は水泡に帰し、夢中で闇から逃げ出すことしか出来なかった。しかし、憎悪の塊となった少女がそれを追った。男は終わりのない森の中を必死で駆ける。その手に、抽出された宝珠の魔力が吹き込まれた水晶と論文を握り締めて。
 生き延びねばならなかった。妻と娘が待っている。自分がいなくなれば、到底生きていくことの出来ぬ二人だ。
 執念でどうにか人里までたどり着き、屋敷に飛び込んで論文と水晶を預けた。自分にもしものことがあったとき、この二つまで奪われては、全てが無駄になってしまう。それが更なる歪みを生むことになるなど露知らず、男は逃げる。更に逃げる。
 しかし、人知を超える力を持つ少女は、無慈悲にも男を発見した。無情な弾丸が、男に降り注ぐ。

 闇の奥底で、紫の子供は繋がれたまま眠っている。
 ずっと、ずっと。


 ***


 時は流れる。魔力の流れと同期して、限りなく未来に近い過去、現代へ。
 そこには、いつかの男と同じ外貌をした娘がいた。眠る少年を見上げて、己の無力を握り締めていた。
「ユラス」
 掠れた声は、少年には届かない。分厚い硝子の板に阻まれて、眠りの板に阻まれて、二人の距離は程遠い。
 そろそろとセライムは近付いて、震える指で硝子に触れた。凍るような冷たさが、体内に流れ込んでくる。
 こんな場所にいたのか。こんなに冷たい場所に。
 そして、彼は眠りながらも感じていたのだ。ここにあった想い。繰り広げられた悲劇の数々。向けられた想い。何もかも。全てを背負って、尚語ることも出来ずに。
「ユラス」
 身を寄せるように、セライムは額をつけ、名を呼んだ。僅かな奇跡を願って。彼に届けと力を込めて。
 闇から生まれた気泡が、天井の光を目指して上っていく。少年の体を撫でるかのように。しかし、届かない。塞いだ少年の心は、二度と光を見ようとしない。彼はもう抜け殻だ。体だけを生かされ、力を搾り取られるだけの存在でしかない。
「……っぅ、ユラス、ユラス――」
 名を呼ぶ。幾度も呼ぶ。だが、時は残酷に秒針を刻み続ける。歪みの片隅で震える少女の嘆きに耳を傾ける者は、もう誰もいない。
 童女に返ったように、セライムは泣きじゃくった。声は反響して、吹き抜けの部屋一杯に満ち満ちた。
 しかし届かなかった。どうしたって。自分が何を想おうと、彼に何を望もうと。彼にどんな光を幻視しようと。彼は元から、こうなる運命にあったのだ。壊れてしまう運命だったのだ。
 結末は厳粛としていた。薄膜を一枚剥がした先にあった真相から逃げて、逃げて、けれど磨耗は避けられず。
 セライムは、悄然と額を剥がし、立ち上がった。壊れた人形のような歩き方で、壁際に寄った。見せられた記憶の片隅にあったもの。そっと、パイプの下に手を差し込んでみる。硬いものに触れたので、それを引き抜いた。
 黒く、無骨な鋼鉄の塊。思っていたより重たいそれは、父が残していったものだ。埃を払って、セライムはそんな自分を信じられない気持ちで眺めていた。恐ろしい武器を平然と手の中に収めて、しかも、大切な友人を撃とうとしている。
 ずっしりとしたそれは、冷たく手の温度を奪っていく。セライムは紫の少年を見上げた。騎士のような佇まいに似つかわぬ現代の得物を持って。
「ユラス……」
 行ってしまう人の服の端を引くように、呟く。
「本当にこれがお前の望みなのか?」
 再び、彼の足元に近づく。
「私は……また、失うのか」
 ごうごうと音がなる。彼の力を搾り取る、残酷な胎。人の想い。交差して悲劇が成される。いつだって、世界は喪失に満ちている。生まれれば生まれるほど、別のものが朽ちていく。
「なあ。ユラス。どうして私たちはこんなに失うんだろう」
 両手に父の拳銃を持ち、少年の顔を見上げる。少年は静かに目を閉じ、表情も忘れて囚われている。数多の日々を走り抜けた先、紫で染められた液体の中、今はただ終わりを待ち望んでいるかのようだ。
「いや、違う。私たちは元から何も持っていないんだな。だから持っているものだと勘違いして、それが消えてしまうのを止めることが出来ないんだ」
 在ると思っていた日常。大切な人。崇高なるもの。失ってしまう。それは、いつしか消えてしまう。
「お前は何を考えていた?」
 おびただしい数の管にまみれた少年に向けて、愴然と問いかける。
「本当に、本当にお前はこれでいいのか?」
 彼はきっと歪みに苦しんだのだろう。その苦悩を、自らでさえ理解することも出来ずに。
 幾千の慰めをもっても拭いきれないそれに、己の手が届かないことなど分かっている。
 しかし、しかし――じんわりと目元が熱くなる。分からない。彼がその目で何を見て、何を望んだかなど。紫水晶の瞳に、どんな苦悩があったかなど。人と人の心は触れることがない。想いは個人のもの。ある一人の男の妄執がこの胎を作り上げたように。いくら貴いものだったとしても、形を成せば歪となる。
 ああ、とセライムは掠れた声を漏らした。きっと自分は、少年にではなく己に向けて問うている。自らの力で誰かが救えるのだと思い上がっていた自身に対して。
 白亜の都市で父が迎えに来るのを待っていた。同時に諦めていた。何も求めなければ、ただ毅然としていれば。そう念じて、膝を抱えていた。想いを振るえば、それは刃となる。歪みとなる。
 しかし、心は震えた。全身を血流が駆け巡っていた。吐息は熱く、体は炎に包まれたかのよう。
「ユラス。私は」
 荒れた唇で口ずさむ。歌声には程遠い、鋭刃にも似た呟きで。
「私は……」
 窓辺で振り向いた母の姿が過切る。手を伸ばさずにはいられない、求めずにはいられないそれは、人の性だ。相手を傷つけると知っていて、それでも欲しいと思う。この手に抱きたいと請い願う。
「私は……っ」
 一滴、二滴。無数の影が散乱する床に、灰色の染みが散る。とろけた黄金が翻る。セライムは、猛々しく顔をあげ、硬い床を踏みしめ、眠る少年を睨み据えた。その腕を掲げ、引き金に手をかけた。
 遠い過去、遥かなる今。二つの時がもつれて重なり、少女を父と同じ顔にさせる。己の願いを込めることで引き縛られた口元。紅潮した頬。優しさも美しさも程遠い、ただ疾風のような荒々しさがある。
 永遠に続く、紫色の夢の中。青い双眸が、闇の中から瞬いた。
 怒りも憎しみも、愛も嘆きも踏み越えて。

 セライムは、紫の少年を見つめたまま、引き金を引いた。




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