-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

17.大丈夫だから



 嘘だ、と喉の奥が呟いた。自分の体が吹き飛ばされて、灰燼と化してしまった気がした。
「え……」
 それは、隣の妹も同じだったらしい。腕を掴んでくる力が、みるみる強くなる。まるで、何かに縋ることで我を保とうとするかのように。
 目の前にいる強張った教師の顔が、空間と共に歪んでいくようだった。暫くの停止の後、キルナはもう一度聞き返した。
「あの、……それは」
「辛いことかもしれないけれど、受け止めて頂戴。セライム・ユルスィートさんの荷物はこちらで預からせてもらうわ」
 ――形見になるかもしれないから。
 キルナの担任であるレインは、神妙な面持ちで静かに言う。しかしその説明は心の上を滑るばかりでうまく頭に入ってこない。現れた単語ばかりが硝子の破片となって、キルナの周りに浮かんでいる。
 蒸気機関車事故。脱線。谷底に。生存は絶望的。巻き込まれた。セライムが。捜索中。行方不明――。
「嘘です」
 喉が勝手にそう紡いだ。レインは表情を悲痛に歪める。今や都市中の住民が避難して肩を寄せ合う学園の片隅。その腕を伸ばし、凍りついた二人の体を温めるように抱き締める。
「ええ。まだ分からないわ。希望はあるもの。だから落ち着いて。念のため、荷物を預かるだけだから」
 双子の姉妹は、避難勧告を受けて親友の荷物も持ち出していたのだ。されるがままだった双子の妹の肩が動き出した。嗚咽が漏れて、すすり泣きに変わっていく。
 キルナは目を見開いたままだった。そして、空気を求めるように顎をあげて、担任に問いかけた。
「大丈夫ですよね。だって、セライムは……」
 笑顔で手を振って都市を出て行った少女の、燦然とした瞳が脳裏に蘇る。ようやく過去を断ち切るために、母の元へと出かけていったのだ。説得できたらすぐに帰ると言っていた気楽な声が、幾度も耳の中で反響する。
「ええ――ええ、勿論よ」
 それが気休めにならないことを知りながらも、担任は何度も頷いた。

 持ち出してあった親友の荷物を渡した双子は、肩を寄せ合って講堂の片隅に蹲った。そこには、避難してきた人々のざわめきや気配が、膿となって漂っている。脱線事故を受けて、大陸を貫く蒸気機関車は完全に麻痺していた。この都市と同じように、『攻撃』を受けたのである。今や学術都市グラーシアは、荒野に佇立する陸の孤島と化していた。
 自らの存在はまるで大海に投げ出された木の葉だ。波にもまれて削られて、深海に沈み行くしかない。キルナはぴったりと寄り添う妹の止まらない嗚咽を聞きながら、そう思った。
 みるみる自分の掌から、大切なものが零れ落ちていく。混乱の中では友人たちがそれぞれどうしてるかも分からない。同じ都市にいる筈なのに。一度日常が崩壊してしまえば、あとはばらばらと朽ちていくばかりなのだ。自らの行く道が何処までも固い土の道であると、誰が保障してくれるというのか。気がついたら何もない場所を歩いて、迷うしかないのが現実なのだ。
「あ……」
 チノが何かに気付いたように顔をあげた。キルナが目を向けると、そこに見たことのある顔があった。チノが立ち上がり、人の荷物を飛び越えながら駆け寄っていく。
「おじさん!」
「む?」
 険しい顔で住民たちを見渡していたその人は、グラーシア警視院本部部長のラヴェームだった。少し前の事件で知り合った仲である。壮年の体を制服に包んだ警視院部長は、泣きはらした少女を見て痛ましげに眉を下げた。
「ああ、無事だったか」
 見た目こそ厳しいが、その声には相手を気遣う優しさがある。チノは涙を拭って、小さく頷いた。
「お姉さんと一緒なのか?」
 そう周囲を見回した警視院部長は、同じく立ち上がったキルナを見止めて、安心したように肩をおろした。そうして、長くこの都市を見続けてきた瞳に不敵な笑みを浮かべる。人の上に立つ者特有の余裕をもって、壮年の男は少女に語りかけた。
「すまないね、こんな窮屈な生活をさせて。もう少し我慢してくれ。きっと守るから」
 それを大きな瞳で聞いたチノは、両手を握り合わせて父親のような年齢の男を見上げた。そこに映る不安を見取って、もう少し言葉を続けようとした警視院部長の背中に声がかかった。
「部長! ちょっと来て下さい」
 見れば、入り口のところで若い警視官がこちらを見ている。あちこち駆けずり回っているのだろう、その制服は酷く汚れていた。
「わかった、すぐに行く」
 表情に厳然さを取り戻した警視院部長は、振り向いてそう答えた。もう一度チノを見て、その肩に手を置く。
「……今は何が起きているのかよく分からない。だから皆が不安がっている。だが平気だよ。誰も諦めていない。諦めない限り、人は大丈夫だ」
 チノの小さな頭が、こくりと頷く。最後にニッと笑って、警視院部長は踵を返した。僅かな時間を縫って避難者たちの様子を見にきていたのだろう。
 学者たちは魔術の心得がある者が多い。彼らは一様に、この変事を敏感に察知していた。空間に魔力が満ち、都市の結界すらも意味をなさなくなっている。軍が出動し、警視院が治安の確保に走っているが、不安は講堂中に渦を巻いている。
 チノは指で目元を拭って、警視院部長が去った方角を見つめていた。その後姿をキルナは佇立したまま見つめ、そうして振り向いた妹の表情に息を詰めた。
「お姉ちゃん」
 瞳に強い意志を宿して、チノはこちらに駆け寄ってきた。人々の不安の息遣いが渦巻く中、それは生の気配を濃く印象付ける。チノはキルナの手をとって、毅然と言った。
「わたしたちも動こう。わたしたちに手伝えることがきっとあるはずだから」
「チノ……」
 半ば呆然と、キルナは同じ高さにある妹の顔を見返した。チノは静かに頷いて、膿んだ講堂を見渡す。
「おじさんが言った通り、本当に何が起こってるのか分からないけど……でも、わたしたち、一度こういうことを経験してるんだもん」
「……うん」
「元気だしてよ、お姉ちゃん」
 くってかかるように、語気強くチノは口を尖らせた。
「今は信じよう」
 キルナは妹の瞳を見つめる。その瞳孔の奥は震えていた。先ほどまで泣いていた妹だ。今だってともすれば絶望に膝をついてしまいそうなのを、必死でこらえているのだろう。
 妹は強い。いつだって、その強さに自分は支えられてきた。妹が身を振り絞るように無理をして立っているからこそ、自分もどうにか前を向いていられるのだ。
「うん、ありがとう。チノ」
 そうしてキルナはそこにある光の為に、笑うことが出来た。チノも笑って、双子の姉妹は歩き出した。
『お願い、セライム』
 淀んだ空気を振り払うように進みながら、キルナは心から祈った。
『どうか、無事でいて』


 ***


 足が砕けたように、セライムはその場にへたり込んでいた。
 紫色の光彩がちらちらと瞬き、影を様々な形に揺らめかせる。声は、何処までも残酷だった。
『な。だから薦められないって言ったろ。失敗すればお前は彼の心の迷路から永遠に抜け出せない。成功しても、一度彼の心に足を入れたお前を再び実体化させる術はない。だから下手なことをせずに休ませてやった方がいいって言ってるんだ』
 青い双眸を見開いたまま、セライムはただ光を瞳に映しこんでいる。
『なあ、セライム。俺は感傷なんてものを持ち合わせてはいないから、こういうことが言えるんだけどな。あんまり甘く考えない方がいい。彼の心は既に死んでいるんだ。それに、もし仮に成功したとして、彼がそこに払われた犠牲に気付いたとき――彼の心は再び壊れるとも限らない。ユラスはな、お前のことが好きだったんだよ。とても。大切だった。最も失いたくないものだったんだよ、お前の存在は。それを簡単に差し出すべきじゃないと俺は思うけどな』
 セライムは、唇を震わせながら自らの胸に手を当てた。まだ何が起きたわけでもないのに、自分の存在が吹き飛ばされてしまったかのようだった。
 紫の少年の為に、この命を捧げる。その命題に、反射的に否を叫んだ胸の内を、セライムは自覚してしまったのだ。死にたくない。そんな本能が肺腑の底で渦を巻く。自分はこんなに生き汚かったのか。彼のことをあんなに心配していたのに、いざ命を捨てるとなるとその覚悟も出来ないのか――セライムは、愕然とする。
『いや、当たり前だよ。誰だって自分の為に生きている。そうでなければ命ではない。恥じることはないよ』
「……」
 少女は、ふるふると首を振って否定する。
『セライム』
 紫の少年と同じ音色をした声は、優しく呼びかける。
『早くしないと手遅れになる。大丈夫、彼はもう体だけ生きているに過ぎない。その生命活動を停止させるだけだ。失敗することもないし、辛いのは一瞬だ』
「……あいつを物理的にここから引き離せばいいんだろう? だったら、殺さなくてもいいんじゃないか」
『同じだよ。言ったろう、彼の心は死んでいると。そんな状態で装置から切り離せば、体もすぐに死んでしまう』
「他に手はないのか」
『……そうだな。彼の力でグラーシアを含めた周辺都市は焦土と化すだろう。それを許すなら、彼をこのままここに繋いでおけばいい。彼はこの地が生きる限り生き続ける。終わらない悪夢を永久に見続けながら、な』
 指先の感覚がない。もう、涙も出てこなかった。ただ心は乾いて、抜け殻のようだった。
『行こう、セライム。途中まで案内する。大丈夫、俺がついているから』
 紫の少年の声が、とても遠い。再び宝珠が強い輝きを放ち、そこから同じ色の鳥が生まれて足元に降り立つと、セライムは人形のように立ち上がった。ほつれて頬に張り付いた髪を払おうともせず、セトの翼に続く。
『大丈夫。大丈夫だよ』
 次第に干渉できる範囲から遠ざかるためか、声も小さくなっていく。
『大丈夫だから――』
 セライムは、もう振り返らなかった。けれど、前を向くこともなく。ただ、紫色の鳥を追って、歩き続けた。


 何度か銃声と轟音が上方に聞こえたが、何故かそれらは心に響かなかった。先ほどまではあんなに恐怖しながら彷徨っていたというのに。今は全てが薄膜を通して伝わってくるようだ。足元が、酷く頼りない。疲労が今になって毒素のように体を汚染している。全身が泥水にでも浸かったようだ。
 セトは、こちらを気遣うような速度で回廊を行く。何度も角を折れたが、もう道を覚える気にもなれなかった。ただ、闇の中を歩き続けた。無粋な照明が不安定にちかちかと瞬く。この光に焼かれて消えてしまえればいいのに、現実は連綿と続いていく。憔悴した横顔を照らされながら、諾々と歩く。
 一体この歪みは何処から始まったのだろう。この運命はいつから決まっていたのだろう。紫の少年と出会ったときからか。紫の少年が生まれたときからか。この狂った胎が完成してからか。それとも、あの宝珠がこの世に生まれたときからか。
 何が足りなかったのだろう。どうして歪んでしまうのだろう。何故悲しい結末ばかりがあるのだろう。父は出ていったまま、帰ってこなかった。母は自分を否定した。そして、紫の少年は……。
 闇は何処までも広がっていく。誰かが苦しみと共に止めない限り。それが唯一の救いなのだ。誰かの犠牲なしに、歪みを止めることは出来ない。
 そう、人は痛みなしに救われることはないのだ。
 はらはらと、気がつけば涙が頬を伝っていた。もう自分の中の水分などないと思っていたのに。感情を揺り動かしては、悲しいだけと分かっているのに。
 歩き出してからセトが足を止めるまで、どれほどの時間が過ぎたかは分からなかった。ある一つの扉の前で、セトはこちらを見上げた。奥まった場所のようだが、何の変哲もない扉だ。しかし、この先に紫の少年がいるのだろう。気がつけば、駆動音は一層強く耳をかき鳴らしていた。きっと、ここがこの胎の中心部なのだ。
 セトの体が燐光を零してぶれる。力を搾り取られた宝珠も限界なのかもしれない。セライムが無表情で頷くと、セトは霧散して消えた。後には、無力な一人の少女だけが残った。
 ごうごうと、腹に響く唸り声。泣いているようでもある。セライムはそっと扉に手をかけ、押し開いた。扉は、呆気なく開いた。
 内部は仄暗い光に浮かんでいる。先ほどの宝珠の部屋と同様に、それは紫色の燐光だった。しかし、その広さは段違いである。セライムのいる入り口からは、壁に沿って下り階段が伸びている。部屋自体が吹き抜けになっており、床が一階分下方にあるのだ。
 見覚えがある。これは、紫の宝珠に見せられた記憶の一部――そう、紫の少年が老人によって目覚めさせられた場所だ。
 夜の海のように広がるその中央は殺風景で、代わりに壁際や天井が密林じみた乱雑な様子を晒していた。曲がりくねった太さも様々なパイプは三面の壁と天井を完全に覆い隠し、いくつかが切れて肉厚のある断面を宙にたゆたわせている。その合間に設けられた機材は魔力測定器にも似ているが、詳しい機能は分からない。むっと薬品臭が鼻をつく。耳を塞ぎたくなるほどの音で、機械たちが終わらない悪夢を歌っている。中央だけが空白を晒し、まるで舞台のようだった。セライムは、黒い管が伝っていない一面の壁に目を向ける。光源はそちらにあった。その壁だけが一面の硝子張りになっているのだ。しかし、壁に張り付いた階段の上からでは詳しいことは分からなかった。
 ぞっと背筋を凍らせながらも、手すりに指をかけ、恐る恐る階段を下りる。呼吸が酷く浅くなっていた。早く硝子張りの向こうを覗きたかったが、階段が急で、足元から目が放せない。脂汗が浮き、手がぬるつく。ぎしぎしと頼りない音をたてる段を一つずつ降りるごとに、足の感覚がなくなっていくようだった。
 そうしてやっとのことで下に足をつけたとき、セライムは思わず、ほうと溜息をついた。心臓が口から飛び出してきそうだ。なのに全身が酷く冷たい。そろそろと歩き出し、セライムは憔悴した顔を硝子の面に向け、そして停止した。


 ごぽごぽごぽ。


 ごぽごぽごぽ。


 そこは、明るく暗い場所であった。


 さらさらさら。


 さらさらさら。


 流れている。命がそこを、流れている。


 ごぽごぽごぽ。


 ごぽごぽごぽ――。


 上方からは白に近い光が降り注ぐ。なのに、足元は禍々しい漆黒の闇。
 けれど、それは紫の光ではなかったのだ。
 硝子一枚向こうが、紫色の液体で満たされていた。だからそこから注ぐ光が全て幻惑の色に染まっていたのだ。
 圧倒されるほどに巨大なそれは水槽だった。けれど厚みはない。否、元は長い奥行きがあったのかもしれない。しかし、今は。
「――ぅぁあ」
 呻き声が無意識に溢れた。セライムはよろよろと後ずさって、その場にへたり込んだ。
 紫の少年が、水槽の中央にいた。見上げるそこに、彼は磔にされていた。
 だが彼の姿は、上半身しかない。それより下は、――否。彼の見えていない部分全てを、黒いものが覆っている。その存在を、闇に絡めとるように。
 それは部屋を覆うものと同じ、太さも様々な管であった。この部屋の壁を覆うそれらは、全てが彼に接続されていたのである。水槽は彼を中心に伸びる管で満たされ、四方八方に拡散したそれは、何もかもを覆い尽くしていた。
 彼は紫の海に縫いとめられ、腕を開いている。その肩から腕から指から。彼の体の全てから、放射状に管が伸びるその様は、まるで――。



 ――まるで、彼の全身から紫色の翼が生えているかのようだった。




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