-紫翼-
末章:レーヴェヴォール 16.母の歌 その形がいつ崩れてもおかしくない泥人形。エディオの瞳に、陰鬱な影はそう映った。落ち窪んだ目や伸びっぱなしの髪はどれも色褪せ、まるで老人のようだった。 影はこちらを見咎めて、ひくりと頬を歪ませる。その口がもたげられる前に、悲鳴のような声が場を支配した。 「ち、違うんだ!! こいつが入ってきたのを見つけたから……!」 途端、襟元を引っ張られたエディオは目を剥いた。ルークリフだった。顔面を蒼白にさせた彼が、エディオの身動きを封じながら唾を飛ばしてわめいたのだ。 「ほら、好きにするといい! そ、そうだ。例の部屋への扉は開いたのか?」 思いがけぬ力に後ろ手を封じられたエディオは、抵抗しながらも目の前の男を睨んだ。この男がグラーシアへの攻撃を加えている張本人なのだ。 「……お前も邪魔をしに来たのか」 陰鬱な影はくぐもった声でそう呟き、かつかつと神経質な足音を立てて近寄ってきた。荒れた手で顎を掴まれて持ち上げられる。枯れ草のような前髪の下から、緑の瞳がぎらつく光を宿してこちらを見下ろした。病的な禍々しさのあるそれは、人としての理性を失っている。ぞっとしてエディオは手を振り払った。 陰鬱な影は無表情のまま、エディオの鼻先に銃口を押し当てる。全身の血液が沸騰するような嫌悪感に、エディオは顔面を蒼白にさせた。 「次から次へと。邪魔者ばかり」 凍てついた表情で言い放つと、陰鬱な影はぎらつく視線をルークリフに向けた。 「侵入を許すなと言った筈だ。お前は何をしていた」 ルークリフは声を詰まらせ、恐怖に喉を震わせる。 「い、いや……違う、違うんだ、ヘリオート」 呼ばれた名に、エディオは銃口の存在も忘れて目を剥いた。耳鳴りと共に、世界が急速に遠のく。ヘリオート。その名前は、母が迷夢の中で紡いだものに間違いない。 では、まさかこの陰鬱な影こそがヘリオートなのか。 母が夢の中で何度も呼んだ、あのヘリオート。 そう。母の記憶にいた――。 恐ろしい予感が胃の奥底でうねり、エディオは吐き気を覚えて身を捩らせた。ごうごうと続く駆動音に、気が狂いそうだった。 「や、やめっ」 目の前に開いていた穴が不意にずらされ、頭上で引き金が引かれる。耳がおかしくなるような音が妙にくぐもって聞こえた。拘束されていた体が自由になり、前につんのめる。首筋に生暖かい液体がぴしゃりとかかる。 地面に投げ出された感覚はほとんどなかった。全てが薄膜を通して伝わるかのようだ。禍々しくも孤高に立つ陰鬱な影を、エディオは呆然と見上げた。 *** 慈愛の眼差しをくれる母は、時折寂しげに虚空を見つめていた。母のことは好きだったが、その表情だけはとても怖かった。母はこの世にある筈のないものを見ている。そんな気がして、自分を見てくれないことに唇を噛み締めた。 そしてその虚空の先にある闇はいつしか、自分たちを絡め取るのだと思った。 だから崩壊が訪れたときも、恐怖にかられながら、ついにこの時が来たのだと、諦念に近いものも感じていたのである。 母の歌はこの世のものとは思えないほど美しかった。 今になって分かる。あれは、二度と会えない男に向けられた悲しい愛の歌なのだ。 『かあさん』 母と子供は暗がりに住まい、終焉に怯えて、ただ生きていた。 エディオは幻視する。そこにある男の古い面影。こけた頬や無精髭に隠された、汚濁の向こうの過去。母の遠い目線と歌の果てにいた男。 「壊してやる」 今は歪んだ形相で、終焉を願って、ただ生きている。 喉元まで沸騰した感情の塊がせりあがり、エディオは声もなく喘いだ。それを言葉にすることを、彼の理性が押し留めた。 この男は狂気の権化だ。許されないことを犯そうとしている。止めなければ都市は災厄に飲み込まれる。 叫んではいけない。感情に喰われてはいけない。それは相手を刺激するだけだ。 けれど、この男は。 自分の。 父親じゃないか。 不意に一人であることが恐ろしくなった。誰でもいいから傍にいて欲しかった。闇に立ち向かうには、この心は非力に過ぎる。 「やめろ」 笑ってしまうほどに弱々しい言葉が、唇の端から零れる。ヘリオートは狂気を浮かべてこちらを見下ろし、何かを言っている。それは既に自分に向けられたものではない。 何処までも闇に落ちて、袋小路に迷い込んで。そこに囚われてしまった亡者だ。 混乱に目元が滲む。母の顔が脳裏を過ぎった。遠くを見つめる母は、得られないものへの渇望に、悲壮な色を浮かべている。欲しいものは手に入らない。崇高なものはこの世に多くない。母の切望した男は今、悪鬼のような笑みを浮かべている。 そのとき心に沸いたのは怒りだった。理不尽な運命に対する、幼稚なまでに純粋な怒りだった。 「やめろ、とうさん」 時の流れが限りなく引き伸ばされている。ヘリオートが銃口をこちらへ向ける。その先に、終わりが待っている。 弾ける音は、きっと銃声。それを耳は確かに捉えて、エディオは自分の命が尽きることを確信した。恐怖を感じる余裕もない。何もかもが一瞬のことだった。 なのに奇妙な違和感があった。体が床に打ち付けられた痛みはあるのに、それにしては打ち抜かれた衝撃がない。そもそも頭を吹き飛ばされていては、とうに意識などなくなっているのではないか。 己がまだ生きていることに気付いたその時、エディオは後ろから首根っこを掴まれて体を持ち上げられた。代わりに巌のような腕が伸び、そこに持たれた大振りの銃が火を噴いて弾幕を作る。 「ちぃっ!」 無様に逃げ出したヘリオートは、角に飛び込んだ。足音が遠ざかっていく。そうしてエディオは自分を助けた大柄な男を見上げた。 それは、巨岩を掘り出したような顔立ちをした男だった。引き締まった筋肉をまとい、隙無く武装している。軍の人間だろうか。 男はグラーシア学園の制服を着たエディオの姿を見て僅かに眉を曇らせ、何故ここにいるのか問い質した。エディオが答えると、男は表情を険しくする。 「あの人は何を……」 ぼそりと呟き、やや途方に暮れたように闇の向こうを睨み据えた。立ち上がったエディオが歩き出そうとすると、肩を掴んで止めてきた。 「何処へ行くのです」 「急がないと、あの男が」 「ここで待っていて下さい。危険です」 「――」 心臓が一際波打つのを感じながら、エディオは高いところにある顔を睨んだ。今更ながらにやってきた恐怖が呼吸を浅くしているのか、胸が苦しい。しかし立ち止まっては、母を捜すことが出来ない。母とあの男を会わせてはいけない、そんな予感が指先を冷たく痺れさせていた。もしもこの予感が正しいのなら。 「あの男は」 言おうとしたが、その先を言葉にすることが出来なかった。代わりに意志の塊が喉から迸った。 「あの男を止めなければ」 「……」 グレイヘイズは少年のぎらつく視線を見て、内心で嘆息した。ここのところ、妙な荷物をよく拾うものだ。 しかし、確かにこの民間人をここに捨て置くのは逆に危険かもしれない。自分の任務を考えれば少年の命の保全は優先度が低いが、死なれたら死なれたで夢見が悪い。 「分かりました。ではついてきて下さい」 彼としては早く主人と合流したいところだったが、その前にこの変事の首謀者を見つけてしまったのだ。周囲の様子から鑑みて、この機会を逸するわけにはいかない。 意識を失ったセシリアを置いてきたのは正解だった。民間人を二人も守りぬく自信はグレイヘイズにもなかった。また、無愛想な生徒が九死に一生を得た直後である割に落ち着いているのも救いだった。この肝の据わりようは軍人向きかもしれないとグレイヘイズは思う。いや、既に退役した自分がいうのもなんだが。 少年を伴ったグレイヘイズは、首謀者と見られる影の後を追った。少年の話によると、あの陰鬱な男がこの胎を動かし始めたらしい。そこに、間が悪いことに紫の少年が囚われた。 それを聞いてグレイヘイズは内心で顔をしかめた。紫の少年をこの地に仕向けたのは、他ならぬグレイヘイズの主人だったからだ。 これから起きようとしていることを考えると、舌打ちしたい気分になる。情報を何もかも極秘にした結果がこれだ。たった数人の気違い染みた夢が、救いがたい歪みを生んでしまった。この分では軍もまともに動けてはいまい。主人でさえ、紫の少年を介してやっとこの地の在り処を掴んだのだ。 そんなことを考えていた足が、異音を察知してふと止まった。ごうごうと鳴り続ける駆動音に混じって、人の声が耳に入ったのだ。 グレイヘイズは唇に人差し指を当てて背後の少年へ警戒を促した。茶髪の少年はコクリと頷き、壁に寄る。落ち着き払った様子に、これは本当に実戦向きだなとグレイヘイズは内心で考えた。この歳でこの振る舞いは大したものだ。ここから無事に脱出したら、本当に軍へ紹介してやろうかと思う。 耳を澄ませて音の方角を確かめると、それはある一室から漏れ出しているようだった。拳銃を構えて壁に横顔を近付ける。すると呪詛のように忌々しげな呟きが聞こえてきた。先ほどの男に間違いないだろう。 そっと目を閉じて、グレイヘイズは突入の算段を立てた。胎の停止法が分からない限り、殺すわけにはいかない。相手は拳銃を持っているものの、腕は素人同然だ。無力化させて、災厄を防ぐ手段を吐かせる。冷たい思考とは裏腹に、胃の奥底から体の隅々まで血が滾った。グレイヘイズが扉を蹴り破ろうとした、そのときだった。 何処からともなく、奇妙な音律が奏でられる。 息苦しい駆動音に混じったそれは、場違いなまでに美しく不安定な歌声だ。 「――」 グレイヘイズがぴくりと停止し、瞠目したエディオは僅かに唇を動かせた。瞬時に我を取り戻したグレイヘイズが危険を察知して飛び退る。けたたましい音を立てて扉が開き、ヘリオートが取り乱した様子で飛び出してくる。 「ルーシャ」 呆然と彼はそれを口にする。極限まで開かれた瞳に、獣のような光が宿っていた。体格に似合わず機敏な動きで押さえ込もうとするグレイヘイズを、彼は凄まじい力で振り払う。巨漢が体勢を立て直すのに要した数秒の間に彼は走り去ろうとしたが、そこに覆いかぶさるように飛び掛った影があった。 ガン、と暴発した拳銃から明後日の咆哮に銃弾が吐き出される。それに臆することなく、エディオはうつ伏せに倒れた男にのしかかり、動きを拘束する。そこにグレイヘイズが加勢し、痩躯の男は拳銃を振り落とされ、完全に封じ込められた。 「ルーシャ、ルーシャ!!」 途切れ途切れの歌声が、首筋を撫でるかのように響き渡る。回廊は何処までも暗く、ヘリオートは牙を剥いて体を捩らせた。 「畜生、離せぇっ!」 痩せた腕からは想像も出来ない力に、グレイヘイズが顔をしかめる。その嘆きは炎の刃のように鋭かった。 「お前らが、お前らが全部奪っていった。大切なものを搾り取って、最後まで奪うつもりか。ルーシャが待っているのに」 エディオは拘束をグレイヘイズに任せて身を引いてから、それを呆然と聞いていた。 母が終わらない夢の中に恍惚と呟いた一人の男。母が愛したということは、きっと自分との血の繋がりもある筈で。それがこうも錆と淀みの奥底で無様に伏しているというのだ。 これが、夢の最果てにあるものだというのか。 「俺が何をした。望んだものも多くない、ただルーシャがいてくれたら」 「父さん」 涙が混じった悲鳴のような嘆きを、小さな声で遮った。 男の動きが止まる。グレイヘイズも力を緩めはしなかったものの、はっと目を見開いた。 「……」 ヘリオートは、ぼそぼそに絡んだ髪を揺らせて振り向いた。鮮やかな緑の目が、双方で交差する。思考回路が無数の異常を吐き出しているのだろう、その唇は震えど、言葉を紡ぐこともなく。 「母さんは生きてる」 どんな顔でそれを告げれば良かったのだろうか。エディオはただ呆然と、事実を声にする。 「あなたを、ずっと待っていた」 母が呼んだ名前。そこにいたのは自分ではなかった。その事実が腹立たしく、切なく、だから自分の姿を見て欲しくて。 なのに、清浄な母の望みはこんなに歪んでしまっていた。 狂ったように泣き喚く胎の奥底に、同じように歪んだ歌が響いている。エディオは顔を向けた。そこに、一人の女が佇立していた。 艶やかな茶髪は無粋な光を真っ直ぐに反射する。美しい理論を語る唇の形も変わらない。背の高さがまとう白装束と相まって、まるでこの世のものではないようだ。 冴え冴えと輪郭を際立たせた女は、童女のような顔で伏した男を見つめた。絶え間なく零れていた歌が途切れる。 自分の子を見捨てるのか、と糾弾した女だ。臆病な言を叩き割った、あの瞳が焼きついて離れない。 もしもあのとき、共に行くことを選んだなら、何かが変わっていたろうか。 その強さに、あと僅かでも近付けたなら。 自分は何か変われていたんだろうか。 「ルーシャ」 ヘリオートは、愛したものの名を呟く。 その胸に、赤黒い穴をあけた女の名を。 「……ぁ」 エディオが駆け出した。先ほど暴発した銃弾が貫いたのだろう。なのに女は痛みも感じぬ様子で、呆けたようにそれを瞳に映している。そうして長い腕を伸ばし、駆け込んできた息子の髪に触れた。 呼吸が止まっていた。こめかみが熱く焼けて、何も考えられなかった。 だが手が届く前に、ゆったりと前のめりになった母の腕が覆い被さってきて、不思議な匂いが広がった。エディオは母の抱擁を硬直したまま受ける。何年も何年も待ち続けて、だからこそ言葉を見つけられずに。 「ごめんね、エディオ」 母の肉声が耳元に吹き込まれる。心が飛び跳ねて、弾かれたようにエディオは顔を上げた。そこにいる母の表情には、はっきりとした理性が宿っている。 「ごめんね」 胸元を汚しながら、母の体から力が抜けていく。零れ落ちるものを掬うようにその服を掴んでも、傾ぐ体を支えることは出来ず、ずるずると体が落ちていく。エディオはただ瞳を見開いていた。 「あなたは生きて」 血の泡と共に紡がれる言葉が、とても遠い。 「……う、あ」 「あああ」 呻き声が背後から被った。自らの業を知って、ヘリオートが身を捩らせたのだ。 耳がそれを捉えた瞬間、途方もない衝動が全身を駆け抜けた。伏した母の赤い血が網膜を焼く。炎にあぶられたかのような熱さが喉から迸り、それは絶叫となった。 地に落ちた拳銃に腕を伸ばす。グレイヘイズがヘリオートの首元を掴んで転がっていなければ、振り向いた少年は真っ直ぐに父親を撃ち抜いていただろう。 「やめろッ!!」 赤く点滅する視界で、巨漢の体が獣のようなしなやかさで飛び掛ってくる。腕を鋭く蹴り上げられたエディオは銃を取り落とし、その場に立ち尽くした。唇が震え、見開いた目から血のような涙が溢れている。 心臓が張り裂けてしまいそうだった。銃を拾い上げたグレイヘイズにその腕を拘束されようと、死への恐怖は麻痺してしまっていた。ただ暴風のような感情が全身を駆け巡っている。 エディオは蹲った父を見下ろし、その唇が紡ぐ声を聞いた。 「殺してくれ」 母の歌が耳元にこびりついている。たった二人きりで生きていたのに、母は何処か空虚だった。欲しかったのは謝罪ではなかった。なのに、母は最期まで残酷な言葉を紡ぐ。そうして目の前に憎悪すべき男が伏している。無様なまでに啜り泣き、死を請うている。そう、欲しかったのは、こんな光景ではなかった。 膝が床に落ちた。けれど吹き荒れる絶望の渦には、ただ歯を食い縛ってそれが過ぎ去るのを待つしか手がないことをエディオは知っていた。泣いて現実が変わるものなら、この身が枯れるまで涙を振り絞ってもいい。しかし、それはただの夢物語だ。 グレイヘイズは少年に一瞬だけ痛ましげな視線を向け、手を下ろした。そうしてヘリオートの胸倉を掴み、壁に吊るし上げる。 「今すぐこの建物の動きを止めろ」 「……ぅ、殺してくれ」 悲痛な願望は、呻き声にとって変わる。丸太のような腕がヘリオートの矮躯を壁に叩き付けたのだ。岩から削りだしたようなグレイヘイズの表情は、冷たい怒りに満ちていた。 「自分の子にこれ以上の苦しみを背負わせる気か」 事情を知らないグレイヘイズとて、少年の悲壮な姿を見れば、その苦悩の深さを汲み取れる。凍えた目線をつきつけられて、ヘリオートは惨めな顔を更に歪めた。 「言え。どうすればこの建物は止まる」 「む、無理だ」 痩せた頬を震わせてヘリオートは言う。まるで許しを請うように。 「宝珠には直接触れられない。だからユラスを媒介にして出力を最大まで高めた。既にどんな制御もきかないだろう」 「ユラス・アティルドを屠ったとしても?」 「駄目だ――お前も感じるだろう、この魔力を。もう放出は止まらない」 グレイヘイズは舌打ちを喉の奥に押し込んで、奥歯を噛み締めた。宝珠の力は大陸を滅ぼすと言い伝えられている。このままでは自分もあと数時間で消し炭となるだろう。 ヘリオートの鳩尾に拳が食い込んだ。かはっ、と呼気を吐き出して背を丸めたところを、グレイヘイズの鋭い手刀が首筋目掛けて振り下ろされる。 目の前で倒れこむ男を、エディオは呆然と見つめていた。グレイヘイズは機敏な動きでエディオの前に屈み、その肩に手を置いた。 「辛いでしょうが我慢して下さい。この男を連れて外へ」 「――」 迷い子のような目線がゆるりともたげられる。グレイヘイズは表情を険しくした。いくら落ち着いているとはいえ、震える緑の瞳にはまだ隠し切れない幼さがある。だが、背中を強く叩くと、少年ははっと息を飲み込んだ。 「しっかりしなさい」 エディオは唇を噛み締め、袖で乱暴に顔を拭った。その服に母の血がついているのが痛ましかったが、グレイヘイズは何も言わなかった。少年は意識を手放したヘリオートの腕を肩に回し、自ら立ち上がった。 「ここを出たら、出来るだけ遠くに行って軍を頼って下さい。レンデバーという名を出せば、確実に安全は保障されます」 「あなたは」 「私は任務がありますから」 苦笑しながらグレイヘイズは立ち上がった。とにかく今は、早急に主人と合流しなければならない。 「気をつけて」 「お互い、せいぜい死なないように祈りましょう」 「……奴を」 ふと、少年の呟きにグレイヘイズは目を丸くする。 「あの馬鹿を、お願いします」 その言葉の指す人物に思い当たって、グレイヘイズの鼓動が一つ波打った。この少年は、胎に囚われた紫の少年を知っているのだ。 グレイヘイズは薄く笑って踵を返した。体格の割に足音も立たず、なのにあっという間にその姿は闇に掻き消える。 エディオは足を動かす前に、一度だけ悲しげな視線を背後に向けた。癖のない茶髪が床に散っている。 そこにそっと会釈をして、エディオは歩き出した。背負った男はぞっとするほど軽く、少年の足を鈍らせるほどではなかった。 ごうごうと唸る駆動音は、まるで母の歌のよう。 永劫に続く悪夢にも似て、甘く、優しい。 ただ一人の男を夢見て、母の時は止まってしまった。 しかし現実は続く。夢も歪みも飲み込んで、連綿と続いていく。 エディオは、だから闇の中でも歩き続けた。 Back |