-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

15.自らの傷に手をやって



 淀んでいる。ああ、とても淀んでいる。
 ねっとりと熱の篭った臭気。伸びる影は炎のようにゆらゆら、ゆらゆら――。
 泣いた。謝った。ごめんなさい、ごめんなさい。
 体の何処がどう痛いのか、とうに忘れてしまった。けれど、痛かった。痛みだけは、いつまでも肉体にとって真実だった。
 押し付けられた煙草や、殴られたベルトの味。髪を掴まれて引っ張られ、壁に押し付けられたその冷たさ。
 唾を飛ばして怒鳴る祖父が、いつか、いつか。無様を晒して死んでいる様子を、ただ夢想して。
 それでも生きた。

 生きることは、戦いだった。誰かを否定することだった。だから己も否定される。祖父が生きるために。
 故に、抗わねばならなかった。生き抜かなければならなかった。
 どう殴られれば最も痛くないか。どう泣き叫べば祖父が手を止めるか。
 学び、実践する。反旗を翻す機会を待つ。
 砂漠を彷徨うように頼りない命は、けれど消えることなく瞬いた。
 倒さなければならぬ敵がいる。生きるために。
 ああ、しかし。もしもその敵がある日忽然と消えてしまったら。死体すら確認出来ず、闇に隠れてしまったなら。
 敵を倒すことも出来ず、怯えながら彷徨うしかないではないか。
 永遠に彷徨うしかないではないか。

「――」
 水晶の中に閉じ込められてしまったように、空気が粘っていた。まさに今、この一帯は魔力の大海になっているのだ。
 手をもたげて、己の疲労度を確認する。思考力は若干低下しているようだった。ともすれば、ぼんやりと過去を思い出してしまうほどに。
 レンデバーは、草陰からかの地に引きずり込まれていく者たちを眺めていた。先ほどは我を忘れたような女が。そして次に、恐怖と戦慄を顔に張り付かせた茶髪の少年が。彼らもきっと、運命の螺旋が散り散りになった、その糸の一つなのだろう。
 しかし、まだ足りない。主賓がいない。それでは糸はぐずぐずに絡むだけだ。
 レンデバーは一度、既に胎の内部へ足を踏み入れていた。そこにいた者を捕らえて縛り上げ、必要なことを聞き出した。その男が言うに、この魔力の中枢にある宝珠の在り処は、厚い壁によって封印されており、それを破るために彼らも四苦八苦していたらしい。レンデバーは男の言った通りに壁の前まで行ってみたのだが、それがただの壁でないことはすぐに分かった。魔術によって封印されていたのだ。それも、宝珠の持つ魔力をもって。
 恐らくこれは、常人の力で開きはしまい。国で一番の魔術師を連れてきたとしても開くかどうか。爆薬を使うなどもっての他だ。この壁を扉とすることが出来るのは、壁を作り出した張本人か、それとも恒常的に走り続ける魔力の源が意志をもって招き入れた者か――。
「待つのは嫌いなんだ」
 誰にともなく唇に乗せる。幼き日も、こうして永遠の時を待っていたのだ。祖父を否定するために、その体を裁きの刃で切り刻む為に。
 稚拙な計画であった。部屋の明かりを全て消し、汗でぬるつく手に銀のナイフを握り、暖炉の影に隠れて息を潜めていた。時の流れが、酷く淀んでいた。何秒経ったか、何分経ったか、もう、何年も待ち続けている気がしていた。
 人の気配を耳にして、レンデバーはふっと琥珀色の瞳を開いた。身を隠す必要もあるまい。彼は散歩でもするような気軽さでかの地の入り口に立ち、訪れた者を微笑みで迎えた。
「待ちくたびれました。どこで寄り道をしていたんです?」
 直方体に佇む灰色の胎。森の深淵を切り開き、隠者の楽園となった成れの果て。なんと滑稽なのだろう。風化したそこには、終わらない歪みが渦を巻いている。これが人の願いなのだというなら、人の存在そのものが間違いだ。楽園など、手に入れるには遠すぎる。増して、誰もが幸福を知る場所など。そんなものがあるのだとしたら、そこにいるのは人ではない。
 銀に近い水色の髪は陽光を柔らかく弾いて、蒼白の頬を気遣うように揺れている。薄手のローブはその細い身体の線を隠しても、脇腹の辺りから滲んだ赤黒い染みは誤魔化せない。なのに男は一人で立っている。そう、彼はいつだって一人で立っている。
「待たせしましたね」
 呟く先は、レンデバーではない。彼は、この灰色の胎に向けて語りかけているのだ。
 レンデバーはその様を見て、快も不快もなく、眉根を寄せた。本来ならここで男を捕らえ、深層へ連れていくつもりだった。しかし、そんな本人は今にも崩れ落ちそうな様子だったのだ。
「あなたは、終わらせに来たのですか。それとも再び始めようとして来たのですか」
 男はつとレンデバーを見る。そこに初めて細身の男を認識したように、ふっと目を開いて、また細める。困惑が、表情に浮かぶ。
「何を終わりにしようと、始まりにしようと、無意味です。それらは人の主観が決めることですよ。現実にはただ連綿と続く事象でしかありません」
「しかし、多くの者が終わりを望むとすれば?」
 男は陽だまりの中にあるように微笑んだ。
「その願いの為に、己を捧げれば良いでしょう」
 ローブの裾をさばいて、レンデバーの横を通って中に足を踏み入れる。この建物に、門は存在しないのだ。壁の一部分に無骨な扉がついているのみ。それも忘れられて久しく、朽ちて蝶番が外れ、ただの穴と化している。
 境界線を通る折、僅かに体が傾いだ。レンデバーは無言で歩み寄り、ぼろぼろの体を支えてやる。
「――ありがとうございます」
 その行為を打算と知った上で、男は礼を言う。レンデバーは静かに問う。
「あなたはそれでもユラス君に望むのですか。残酷な生を。空を飛ぶには重過ぎる想いを、彼に課し続けるのですか?」
 胎の地上に露出した部分は、隠者たちが食事や休息をするのに用いていたらしい。真の闇が広がるのは階下の世界。錆びた階段に足をかけながら、男はぽつりと呟いた。
「生きることは、痛みを感じることは、そんなに悲しいことでしょうか」
 そうして彼は自らの傷に手をやって。
「私は、そうは思いません」
 瞳に遠い過去を映し、それきり口を噤んだ。


 ***


 胎の内部はまるで迷宮だった。そこにあるものに胃が焼けるような熱さを覚えて、エディオは柱に背をもたれさせた。背中がじっとりと汗ばんでいる。自らの呼吸が、胎のかき鳴らす駆動音と相まって、存在ごと取り込まれてしまいそうだ。
 床や壁に飛び散った黒いものが元は何であったかなど、考えたくもない。母を捜して歩き回っている内に、彼はそのようなものをいくらでも目にした。骸は誰かが片付けたのだろうか。すぐ目につくところになかったのが幸いだった。しかし、拭いきれない死の臭気は、じっとりと空気を淀ませていている。先ほどの夢から考えるに、ここはきっと父と母がいた地だ。こんな場所に、母は暮らしていたのだ。そしてきっと、自分を連れて逃げ出したのだろう。
 ――だから、呼ばれた?
 空間に満ちた魔力は、グラーシアのそれよりも重たく、濃い。この力があれば、転移術を用いて母をグラーシアからこの地に移動させることが出来るかもしれない。しかし、同時に混乱する。母は、そしてこの建物は、今回の変事に関わっているのか。そして、あの紫の少年は――。
「くそ」
 不快な味のする唾を嚥下して、歩を早める。母は何処まで行ったのだろう。
 通路の照明はところどころが壊れているため、長い通路も奥まで見渡すことは叶わなかった。もしかしたら、母とは違う道を進んできてしまったかもしれない。予感に、喉がごくりと鳴る。闇に足を絡めとられ、歩く力を奪われそうになる。
 呻き声を察知したのはそんなときだった。何処からともなく聞こえてくるそれは確かに人のもので、肌がざわめく。立ち止まり、目を閉じて耳を澄ませると、エディオはその方向に足を向けた。幾重もの分岐点を通り、奥まった場所の扉を開く。
 そこが光の中に見たものと全く同じ成りをしていることに、エディオは瞠目して立ち止まった。壁一面に詰められた書類と書籍。床に散乱した硝子片。うず高く詰まれた本と紙くず、古びたインク壷と――。変わっているのは、埃をかぶり、荒れていることくらいだ。そしてそれらの奥に、痩せた男が縛り付けられていた。
「……?」
 男は憔悴した様子でこちらを見止め、数秒の沈黙の後、助けを求めるように暴れだした。布をきつく口にまかれているため、くぐもった声ばかりが部屋に反響する。
 狂ったようなその様に心が竦むのを感じながらも、エディオは駆け寄って口にまかれた布を取ってやった。キツネのような顔をした男は、手足もパイプに縛られ、全く身動きが出来ないようだった。激しく咳き込み、ぜいぜいと呼吸を荒げながら、ぎらつく瞳で男はエディオを睨んだ。
「お、お前は――誰だ。奴の仲間か」
「……」
 得体の知れない男を前に、エディオは手足の自由を解いて良いものか不安になる。すると、その男も目を零れんばかりに見開き、必死の形相で声を荒げた。
「たっ助けてくれ!! 助けてくれたら金をやる。だから、な? 早くしないと殺されるかもしれないんだ!」
 ごくりと唾を飲み込んで、エディオは息を吸った。指先が、氷のように冷たい。
「質問に答えたら離してやる。ここは何処だ」
「はっ……縄をといてくれたら答える、だから」
 普段から己の感情を抑制しがちなエディオの性質が、ここでは幸いした。エディオは無表情で踵を返しかけ、それを見た男は得体の知れない少年の機嫌をとるべく、突如として大人しくなった。
「待て、待ってくれ……頼むから。話す、話す……」
 打ってでた賭けに、内心で相当緊張していたエディオは胸を撫で下ろした。そして縛られた男を見て、その滑稽な様に眉を潜めた。まだ若さの残る顔立ちをしているのに、ぞっとするほど痩せて艶を失っている。薬をやっているのかもしれない。
 ルークリフと名乗った男は哀れなまでにぺらぺらと喋った。ここが、元は政府が秘密裏に作った研究機関だったこと。それが生命の謎を解き明かし、より有能な人間を生み出す研究だったこと。しかしその研究は破綻し、狂える博士によって幕が下ろされたこと。
 だが、生命の謎を明かす鍵となった宝珠は、博士の手で隠されたまま、この地で眠っていたというのだ。それを手に入れ、力を我が物にするために彼はやってきたらしい。
「ぼ、僕はその理論が欲しかったんだ。科学者として当然の願望だろう!? だから悪くない、誰も殺していないし、何もしていないんだ。なのに突然こんなことをされて……僕は被害者だ!」
「……」
 男の慟哭を上の空で聞き流しながら、エディオは部屋の様相をもう一度瞳に移した。紛れもない、あの夢に出てきた部屋だ。父らしき人物と、母がいた場所。生命の秘密を解き明かし、――そして。
『ユラスが生まれた』
 幾多の知能と、人外の力を手にした少年。母はやはりそれに関わっていたのだ。
「なら、この現状はどういうことだ。何故空気中に魔力が満ちている」
「それは――」
 ルークリフは体を震わせ、語るのをためらった。しかし鮮やかな緑の瞳に射抜かれ、細々と話し始める。
「論文が、見つからなかったんだ」
「論文?」
「そう……その博士が最後にまとめあげた、生命を作るに必要な全ての情報がそこにあるらしい。しかしそれは持ち去られていた。それに、宝珠も封印されていて手がでなくて」
 エディオは、疾風に叩かれたかのよう心が震えるのを感じた。
 生命を作るに必要な情報が込められた論文。その音色には、覚えがある。
「どうしようもなかった、でもそんなとき、あいつが来たんだ。ここで生まれて、博士の手で外に連れ出された唯一の人工生命体が」
「ユラスが来たのか?」
 後頭部を殴られた思いで聞き返すと、ルークリフは弱々しく頷く。あの馬鹿、と口の中で呟いて、エディオは少年の居場所を聞き出そうとした。しかし、ルークリフは首を振るばかりだった。
「もうあれは、人間ではない。助けようとしても無駄だ。でも、その力と宝珠の力――元は一つだったもの、二つが合わさって、今まで以上の魔力の外界放出が可能になって」
 震える唇が、狂気を紡ぎだす。
「あいつは……狂ってるんだ。その論文が、グラーシアにいる男の手に渡ったとか抜かした。そんな証拠もないのに。あいつは憎んでいる、グラーシアを、その男を。だから、その力を使って」
 はっとして、血の気が引いた。エディオは男に掴みかかった。
「昨日の地震も攻撃も、そのせいなのか!?」
「く、だから狂っていると言ったろう……! 違う、僕は止めようと思ったんだ、本当だ。でも、知らない男が突然入ってきて、僕を縛り上げて……っ。ほ、ほら。もう喋れることは全部喋った。離せ。離してくれ」
 頭がくらくらする。呼吸を大きくして、エディオは暫くルークリフの胸倉を掴んだまま瞳を震わせていた。肌を圧迫するような魔力の塊が、空気中を埋め尽くしている。もし悪意をもってこれらの力を使うというなら、あの程度で終わる筈がない。
 白亜の学園の惨状が脳裏を過ぎり、エディオは歯軋りをした。母を救えばいいのか、都市を救えばいいのか。自分は何をすべきなのか。混乱した頭は、異常な信号を発するばかりだ。事実の欠片ばかりがふわふわと漂っていて、実体を伴わず、どこから手をつければいいのか分からない。歪みの軸が定まらないのだ。
 そのとき、僅かなひらめきが脳裏を走った。
 母の記憶にあった――恐らくは、父であろう男。彼はどうなったのだ? ここにいた職員は博士という老人に屠られたと聞いた。しかし、それを母は知らずに……。
「な、なあ! いい加減に離してくれよ!」
 わめきちらす男の声が不快だったので、エディオは縄を外してやった。縄はかなりきつく縛られており、外すのにも一苦労だった。開放されたルークリフはその場に崩れ落ちて荒く息をつく。五体がついていることを確認するように自らをさすり、そして立ち上がった。心もとなく、しかし切なる意志をもって歩いていく男の背中に、エディオは険のある目線を向けた。
「何処に行く」
「何処に行くって?」
 道化じみた所作で振り向いたルークリフは、犬歯を覗かせて笑った。
「逃げるよ。こんな狂った場所、もう沢山だ! 生命を解き明かす方法を見つけるために命を落としたら笑えもしない」
 そう叫ぶなり、壁に寄り添うようにして歩いていく。長い間拘束された体では、自由に動くこともままならないのだろう。エディオは嫌悪を覚えて顔をしかめ、しかし自身もここで止まっていてはいけないと、ルークリフの背を追った。
 彼は回廊に出るなり立ち止まり、顔を真っ青にさせて立ち尽くしていた。
 怪訝に思いながらもエディオはその脇をすり抜けていこうとし、そして回廊の奥にいた人の影を見て足を止めた。
「……ぅ、ぁあ、う」
 奇妙な呻き声が、ルークリフから漏れる。その横顔には、恐怖の情が汗と共に浮かんでいる。
 どうも、遭わない方がいい人間と遭遇したらしい。エディオは奥歯を噛み締め、目の前にいる人間を見定めた。それはこの建物を体現したような、錆びて朽ちかけた人影だった。




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