-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

14.誰も彼を救える者はいなかった



 はっとしてセライムは白昼夢から目覚めた。肩で呼吸しながら、やっと自分の意志が戻ってきたことを知覚する。触れた額は、脂汗でぬつるいていた。
『ユラスは、本来なら目覚めた瞬間に崩壊するはずだった。老人は彼が目覚める前に息絶えてしまったから』
「どう――して」
『言ったろう。彼は己が何故生み出されたのかも知らず、全ての自由を奪われて、深遠の淵でずっと考えていんだよ。どうして自分は消えてしまえないんだろう。夢うつつに見る悲劇から開放されたい。いなくなってしまいたいと』

 ――妙な声を聞く。あれは、彼の声だろうか。
 ――彼は死にたがっている?

 父の手記の内容を思い出し、セライムは戦慄に全身が冷たくなるのを感じた。
『そう。彼は数多の魔力と知識をその体に刻まれながら、終わることのない悪夢を見続けていた。だからその手に自由が宿った瞬間、彼は自らの手で自らを消してしまう。その筈だった』
 皮肉を込めて、セトは哂う。
『一人の男が、目覚めて間もない彼の前に現れた。既に彼の崩壊は始まっていた。しかし――うまいことを考えたものだね。その男は、ユラスに暗示をかけることで、崩壊を止めたのだよ』
 記憶喪失という名の楔。
 存在しない筈の悲しい記憶を作り出し、悪夢をも塗りつぶす。それを思い出してはいけないと、強迫観念まで植え付けて。
「……フェレイ先生が、そうしたのか」
『そう。その後のことは君もよく知っているだろう? 彼は己がついこの前まで眠っていたことも気付かず、深層に死への渇望を抱え、空白の記憶を抱えて彷徨った。そして――死という救済をくれる筈だった男の娘たるセライム、父の面影を残すお前に惹かれ、近づいた』
 紫の少年の姿が瞼の裏をちらつく。何もかも知らずに、眼前の光景をただ瞳に映して、取り込んで。
 喜びも悲しみも。怒りも憎しみも。愛すべきものも、全てを手にして。
 なのに、何処か空虚だった。
『ユラスは気付いてしまったんだ。失ったと思っていた記憶が、空の箱だったことに。お前に分かるかい、セライム。その悪夢が。どんな自由も許されず、ただ在ることを強いられる恐怖が。そう。彼は記憶を取り戻したのではなく、絶望と恐怖の味を取り戻し、そして崩壊した』
「……」
 足から力が抜けて、セライムはその場に座り込んだ。縋るように台座に額をつけるが、残酷な冷たさが伝ってくるばかり。
 泣いてはいけない、と思っているのに、嗚咽が漏れた。乱れた前髪が頬に張り付くのも払うことが出来ず、子供のようにセライムはしゃくりあげた。
『泣くな、セライム』
 心を暖かな手で包み込むような声は、あまりに残酷だ。
『あの男も手を尽くしたが、及ばなかった。誰も彼を救える者はいなかったんだよ。どんなに間を引き伸ばしたって、彼はいつか気付いてしまったろう』
「そんな……」
『狂った男の夢は、最後まで歪みにまみれる。これは仕方のないことなんだ。もう、彼を休ませてやってくれ。俺の一部だった、そして人形と果てた、哀れなみなしごを』
 目の前が暗くなり、ああ、とセライムは呻いた。彼にとって生とは絶望でしかなかったのか? あの笑顔は全て、偽りの上に成るものだったというのか。
「……ユラスと話をさせてくれ」
 台座の根元に座り込んだまま、セライムは請う。
『無理だ。もう目覚めることはない』
「どうしても無理なのか?」
『はは。セライム、彼を救えるとでも?』
 セライムは垂直に伸びる冷たい壁面を感じながら、静かに目を閉じる。
「諦めたくない。あいつは、……それがどんな偽りの上にあるものだったとしても、笑っていたんだ。悩んで、泣いて、人として生きていた」
 掠れた声は今にも消え入りそうに、淡々と続く。
「全て無駄だったのか? そんなわけがないじゃないか。人はな、悲しいことを忘れていけるんだ。死んでしまうほどに辛いことがあっても、それに囚われながらも、幸せだと思える瞬間は絶対にやってくる」
 己の紡ぐ言葉を力にするよう、少女の瞳に生気が戻る。忘れる苦痛、忘れられない切なさ、その全てを知る少女は、懐に手をやりながら、ついに天を仰ぎ、燦然と輝く水晶を睨んだ。
「そのことを教えてやる。一度の絶望で死なれてたまるものか! 眠っているなら叩き起こしてやる。だから会わせろッ!」
 セトは瞬間、声をくぐもらせ、僅かな笑い声をあげた。
『父とは違う選択をするか、娘よ。否。大切なものを守るという意味では同じか』
「いいから答えろ! ユラスはどこだ」
『焦るなよ。――セライム。なら、教えてあげよう。彼を目覚めさせる、たった一つの方法』
 瞳が弾け、セライムは飛び上がるように立った。
「策があるのか。何故始めからそれを言わない!」
『まあ落ち着いて聴けって。あまり薦められない方法なんだ』
「教えてくれ」
『俺の力でユラスの心に直接干渉してもらう。お前たちが精神術とか呼んでるものの少し威力が大きいやつだ。彼の心は今、再び終わらない悪夢の中にたゆたっている。お前の存在そのものをぶつければ、彼も再び目覚めるかもしれない』
「私はどうすればいい」
 水晶は中央の光彩を幾重にも重ね、誘うように輝く。
『彼の前に行けば、あとは俺が連れていってやる。ユラスの心に何を呼びかけるかはお前の勝手だよ』
 情報を一つ得るたびに、胸の奥底から力が沸いてくるようだった。出来ない筈がない。そう決意を固めた少女が首を縦に振りかけた、そのときだった。

『でも、彼が目覚めようと目覚めまいと、セライム。お前は消える。二度と戻ってこれなくなるんだ』


 ***


 光の中に飛び込んだときは無我夢中であったが、冷静な思考を取り戻したエディオは自らが宙に浮いていることにぞっとした。しかし恐怖は終わらなかった。息を呑んだ瞬間、体が瞬く間に煌きとなって消散したのだ。
 はじめは指先から。みるみる腕が消え、足先が砕け、胴が削れる。叫ぼうとした瞬間、口が弾け飛んだ。肉体の束縛から放たれた何かが光の奔流に混じり、渦を巻き、激発した。
「――」
 母がいる。すぐ傍に。乳白色の渦が螺旋を描いて進むそこは、まるで滝壺のよう。エディオの砕けた意識は、その一つ一つが母のそれと交じり合う。
 散り散りの囁き。映像。感情。あらゆるものが煌きとなって、その一瞬、エディオは母と同化した。


『休まないと、体を壊すわ』
 囁くような、しかし同時に甘さを含んだ声。破片が急速に形を成し、粗末な研究所を浮かばせる。耳鳴りが遠のき、代わりに唸るような駆動音が聞こえてくる。視界には貪るように紙に算術式を書き殴る男がいる。ぼさぼさに伸びた茶髪。無精髭の浮く頬は歪められ、鮮やかな瞳には鋭い輝きがある。身形を整えれば色男を名乗れるだろうに、彼の粗末な白衣は染みと皺だらけで、一層彼をみすぼらしく見せた。
 ふふ、と視界の元は笑う。神経質な男は苛立ったようにガツガツと文字を書き込み、片手でコーヒーの器を取る。
『あなた、そんな泥みたいなの飲んでよく平気ね?』
 こめかみをひきつらせ、とうとう彼は顔をあげた。荒みきった表情は、野生の獣を思わせた。
『ルーシャ。黙っててくれ、もう少しで解けそうなんだ』
『あら。さっきもそう言ったわよ。明日にすればいいじゃない』
 男から乱雑な机の上へと視界が動く。研究用の広い机だというのに、何処までがゴミで何処までが必要品なのか分からない。骨ばった手で目の周りをほぐしながら、男は首を振る。
『呑気に言うぜ。いつまでこんなことを続けられるかも分からないんだ。上の連中がコロリと態度を変えれば、オレたちにはろくな未来が待ってねえ』
『でも、ここに拾われなかったら、もっとろくでもなかったんでしょう?』
 艶めいた女の言には、誘うような響きがある。かつり、と安っぽい床を靴が叩く。
『学説を否定されて腐っていたあなたにとって、ここは楽園なんでしょうね。あなたの研究を邪魔する人も、否定する人も、誰も居ないわ』
『お前が邪魔してんだろうが』
 男はすげなく返したが、その口元は笑っていた。
 女の細い指は薄闇の中、白く輝くようだった。それがついともたげられ、男の頬を撫でる。
『……私は信じている。あなたの考え方を、そしてセトルド博士の言葉を』
『奴の話はするなよ』
『ふふ。嫉妬した?』
『馬鹿か。博士は正真正銘の化け物だ。人外に嫉妬してどうするよ』
 皮肉を口ずさむ表情に、僅かな恍惚がさす。
『ねえ。ヘリオート』
 愛しげに頬の輪郭をなぞりながら、冴え冴えと女は男を呼ぶ。
『番号で呼ばねえと始末書だぜ』
『あなただってさっき、名前で呼んだわ。そんなことよりもヘリオート』
 腕が伸びて、座ったままの男の頭を抱く。
『今度の検体のコード名が決まったわ。ユラスっていうそうよ』
『いよいよ番号以外の名前がついたか。博士も本気だな』
『シェンナの生成から随分経ったもの。忙しくなるわ』
 子が母にされるように髪をすかれ、男は黙って瞼を伏せた。粗末な研究室は、まるで世界の全てから切り離されたかのよう。
『……時々、不安になるのよ』
 男は猫のようにうっすらと目を開く。
『私たちは許されるのかしら。いいえ、この研究の素晴らしさは理解できるわ。ゆくゆく、私たちは王の母と呼ばれるのでしょう。けれど私たちは、今私があなたにしているように、その子の頭を撫でることも許されないのよ』
『当たり前だ。オレたちが作るのは王だが人ではない。ありふれた愛情は必要ない』
『獣だって、親は子を愛するのに。成功すれば、彼は眠り続けたまま成長するのでしょう』
『安心しろよ。正確な人格プログラムが埋め込まれる。ルガやシェンナで実証されているだろうが』
『私たちは彼を、親として律することが出来るのかしら』
 ふるふると視界が揺れる。首を振ったのだろう。
『博士は、――あなたは。本当にこの国の未来のために、あの子たちを作っているの?』
『ルーシャ』
 男は苦笑いを浮かべて立ち上がった。今度は逆に腕が伸び、体が覆いかぶさってくる。
『お前らしくないぜ。何度も言ったろう。オレたちの意志と国の利益が一致しているんだ。何も心配することはない。まさか今更怖くなったわけでもなかろう?』
 視界が闇に閉じる。きっと、目を閉じたのだろう。
『ええ、ええ。分かっているのよ。分かってる。ただ、もしも次に生まれる子が私たちの理想を理解しなかったら、その子は私たちをきっと憎むわ。そんなとき、私たちは何をするのかしら』
『起こり得ない仮定を論議しても仕方ないさ。疲れているのはお前の方だろう、ルーシャ』
 燐光を探すように、細い指が男の背をまさぐる。暗い。何処までも暗い部屋だ。
『……ヘリオート。それでも私がここにいる理由はね』
 男の首筋に甘えているのだろう。肩越しに映った乱雑な机が、ゆっくりと掠れていく。空気に熱が浮き、男の吐息がすぐ横に落ちる。
『あなたがここにいるからよ』
 ぶつん、と映像が途切れた。


 それは、時空の彼方を翔破するたった一瞬の出来事だった。急速に繋がっていたものと切り離され、引きちぎられ、己の体――否、命そのものが再形成される。
「っ!?」
 唐突に戻る五感。肌、目、耳、鼻――全てが再びそれらのフィルターを通して伝わるようになる。ノイズの入る情報が、全身に混乱をきたす。
 風が肌にあたり、エディオは自らが宙に浮いていることを悟った。いけないと思った瞬間、体は地面に叩きつけられた。全身が砕けるような痛みに気が遠くなる。
 手をついて体を起こそうとしたものの、体はそれどころではなかった。船に乗っているかのように臓腑が揺れていた。嫌悪感が全身を苛み、耐え切れずにその場に嘔吐する。激しく咽むと更に頭が痛み、不快感が増した。全身の血液が濁っている。体の覆いを剥ぎ取られて、その奥にある聖域に汚い手で触れられたようだ。いっそ、臓腑ごと外にひきずりだして洗いたかった。
 暫くそんな不快と戦い、ようやく口元を拭うと、そこがグラーシアでないことに彼は気付いた。日差しはない。空を突き刺すように伸びる木々が、それを遮っているのだ。何処かの森のようである。
 しかし、何故だろう。命の揺りかごである筈の森は、そのまま化石になったような沈黙に覆われている。音がない。風も、命の息吹も。自分の掠れた呼吸音ばかりが不気味と木々の奥に吸い込まれていく。
 疑問がいくつも脳裏に浮かんだが、まず始めに探すべき人を思い起こし、エディオは鋭く周囲を見回した。どこまでも無言の木々が視界を覆い隠している。眩暈を覚えて俯き、歯を食いしばる。一体何があったのだ。がむしゃらに母の放つ光の中に飛び込んだところまでは覚えている。そして恐ろしい一瞬、自分は母になって――?
 ふと、足元に違和感を覚えてエディオはそこを凝視した。足跡のようなものが見える。つい先ほど踏みしだかれたようだ。葉の折れ具合などから慎重に辿っていくと、それは森のある一方向に向かっていた。恐らく母だ。自分と母は光の渦に巻き込まれ、同化の憂き目にあいながらも、ついには分かたれてこの森に投げ出されたのだ。
 そう断じると、エディオは森の中を注意深く歩きだした。大気には、相変わらずむっとするほどの魔力が満ちている。まるで深海の底を歩くように、悪夢めいた状況だった。




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