-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

13.あるところに、一人の狂った男がおりました



 声は甲高く笑った。実体を持たぬそれは、頭の中だけでのみ反響して暴れ周り、セライムは思わず耳を塞いだ。
『――悪い悪い。いや、違うよ。俺はユラスじゃない』
 紫の少年と寸分違わぬ音で、声は愉悦の笑みを漏らす。セライムは声の発信元を探して周囲を見回した。
『ん、分かんないか? 酷いな、さっきまであんなに仲良くしてくれたのに』
「えっ?」
 瞳を丸くしたセライムは、台座に鎮座したセトを見つめた。紫水晶を嵌め込んだような瞳が、静謐な光を宿している。
『いやいや、本体はこっち』
 瞬間、強大な魔力を感じてセライムは息を呑んだ。それは台座の水晶から発せられ、かと思うとセトの体が散り散りの煌きとなって霧散したのだ。煌きはあっという間に水晶に取り込まれて、セライムはその揺らめきに目を奪われた。拳大の紫水晶は、幻惑的な光を中央に浮かせている。まるで液体で満たされた硝子球のようだ。なのに繊細な印象はなく、むしろ呑まれそうなほどの畏怖を抱かせる。空の風も大海のうねりも敵わぬであろう魔力がそこに秘められているのだ。
「……セトは、お前だったのか」
『そう。お前のことは、ユラスと一緒にずっと見ていた。楽しい毎日だったな』
 セライムは全身から血の気を引かせて後ずさった。目の前の存在に比べれば、己など砂の粒にも等しい。圧倒的な魔力は、鉛のようにセライムの全身を苛んだ。
『ん、心配しなくていい。俺は誰とも契約していないから、外への干渉は鳥になるくらいが精一杯なんだ。今になってやっと声が届けられるようになったけど、波長が合わないとあの様だしな――。そうそう、この部屋には俺が望んだ人間しか立ち入ることができないからさ、出来れば近寄ってもらえるか? そっちの方が楽なんだ』
 セライムの様子を気遣うように、ふわふわと水晶の中の燐光が揺れる。セライムは暫く呆気に取られてそれを凝視していたが、首を振って雑念を払い、意を決して水晶の袂まで歩いていった。そうだ、恐怖している場合ではない。聞きたいことがあるのだ。
 すぐ傍で見た水晶は、ざわざわと瞬きを内部で揺らせている。
「お前は、誰だ」
 拳に爪を食い込ませ、腹に力を込めてセライムは問うた。セトはくつくつと笑ってはっきりと告げた。
『我が銘は紫なる根源。混迷の幻を司る者。人より生まれ、人と生き、人に従う。調停者にして執行者。神にして下僕。母なる者の為にあるもの』
「……」
『うん、ごめん。ちょっと難しいよな、はは』
 突然口調を崩してみせる。セライムは熱湯と冷水を同時にかけられた気分で、どう反応していいか分からなかった。
『まあ、昔のことを語っても仕方がない。今はただの魔力の塊だよ。人と契約を結び、知と力を与える』
「契約……? お前、まさか力ある玉石か!?」
 セライムは閃きに声を大きくした。授業で学んだことを思い出したのだ。この意志ある玉石に選ばれた魔術師は、地を裂き海を割る力を得ることが出来るのだという。マディン大陸を消失させた玉石に代表されるそれらは、しかし現代では伝説的な存在だ。
 こそばゆかったのか、セトは声に苦笑を滲ませた。
『つっても、俺はその成れの果てだよ。色んなところが変質しちまって、もう大した力も残っていない。魔力はほとんどユラスたちの生成に持ってかれちまったんだ。まあ、今はユラスと接続してるから、不安定ながらも話くらいは出来るんだけどな』
「ユラスがここにいるのか」
『いるよ』
 セトはあっけらかんと答える。
『彼は真実を知ると共にここに戻ってきた。我が身の破滅を望んで』
 破滅。その言葉に、ぞっと背筋が冷える。
「どういうことだ……記憶が戻ったのか?」
『違うよ。彼には元々、失うほどの記憶なんて存在しない。その事実に彼は気付いてしまった。そして封じられていた衝動を思い出してしまったんだ。消えてしまいたい、とね』
 待って。もう話さないで――。
 そう叫びたかったが、逃げ出したくはなかった。セライムは祈るように問うた。
「どこにいるんだ。まだ生きているんだろう?」
『生きてもいるし、死んでもいる』
「私に分かるように話してくれ!」
 喉から刃を放つ。頬が紅潮し涙が浮いて、全身が炎のように熱かった。
 するとセトは暫くそんなセライムを眺め、ふと思い出したように呟く。
『――似てるな。やはり親子というべきか』
 セライムは呼吸を止められて、宝珠を瞳に映す。嵐の海を彷徨っていたところを、突然宙に引き上げられた心地だった。
「お父さんを……知っているのか」
『俺は外界の情報を遮断された代わりに、この地で起きたことをあまねく見ていた。アラン・デジェムが出会った悲劇も、全て見ていたよ』
 気がつけば、セライムは台座に指をかけて宝珠を覗き込んでいた。そこに父の姿が映ったような気がして。
『お前もアラン・デジェムも、不思議だな。何故ユラスやシェンナたちを人間として捉えられる?』
「それは――だって」
『確かに人の形をしている。感情もある。しかしそれは、有機的な自立行動のために付加された能力でしかない。そもそも彼らが生まれた因果をお前たちは問わない。彼らのあるがままを人として受け入れ、お前も父のように悲しく散っていくのか?』
「……」
 セライムは崖の淵に立たされた思いで唾を飲み込んだ。だが、肺腑の奥底で滾る感情は消えることはなかった。
「当たり前だろう!! 何の為に作られたとしても、ユラスもシェンナも、人間と何ら変わりないじゃないか! 救いたいと思う。――失いたくないと思う。その為にお前はここに私を呼んだんだろう!?」
『違うよ。お前のためでもユラスのためでもない』
 紫の少年と同じ音色をした声は、冷淡な響きで否定を紡いだ。殺気だった瞳でセライムはそれを睨めつけた。
「じゃあ、何故呼んだんだ?」
 そのとき、ふっとセトの表情が緩んだ気がした。何故だろう。どこにも顔も形もないのに、セライムは心の中に感情の震えを感じ取って困惑した。
『約束――だからな』
 遠くに思いを馳せるように、セトはぽつりと呟く。それは一瞬の感傷であった。次の瞬間、再びセトは元の口調に戻っている。
『まあいいか。人間の考えることは理解できないし、しなくとも問題ない。ユラスの居場所を聞きたいんだろう? ここで何が起きようとしているのかも』
 セライムは言葉に詰まったが、こくりと頷いた。
『よし。じゃあこれからユラスの居場所を教えるから、そこへ行って』
 セトは、簡単な使いを頼むように言った。


『ユラスを殺してきてくれ』


 丸々数秒、セライムは停止していた。
『彼とグラーシアを救うにはそれしかない。誰かさんがもう少しうまくやれば運命は変わったのかもしれないけど、もう手遅れなんだ。環を閉じるには、セライム。お前が最もふさわしい。だからお前を呼んだんだ』
 一体、この声は何を言っているのだろう。
『上の男を見たろう? 歪んだ妄想に取り付かれ、ユラスと俺の力を合わせて都市を襲おうと考えている。止めるにはユラスとの接続を切るしかない。でもそれには、物理的にユラスを取り外さなければいけないんだ』
 これは皆、夢ではないのか? 本当はユラスはここにはいない。グラーシアで、今も元気に――。
『まあ、そう考えたくもなるだろうけれど。このままじゃグラーシアは消えるよ。俺とユラスじゃ、マディン大陸みたいにはならないだろうけど、都市ひとつ飛ばすくらいなら造作もない』
 だって、彼は笑っていたではないか。幸せそうにしていたではないか!
『それはお前がそう思っていただけだ。彼は本質的な苦しみを封じられてグラーシアに放たれたにも関わらず、己が歪みに苦しんでいた。そして今の彼を見ればきっと理解するだろう。彼を苦しみから開放するには、終焉しかありえないことを』
「どうして」
 頬を涙滴が伝っていた。見開いたままの瞳から溢れたそれは、ぼたぼたと床に垂れて染みをつくる。それを拭おうともせず、童女のようにセライムはかぶりを振った。
「絶対に嫌だ!! そんなことが出来るものか。何故ユラスが死ななくてはいけない?」
『大丈夫。彼もそれを望んでいるよ』
「嘘だ。それは――」
 何故、セトはユラスと同じ声で話すのだろう。まるでそれは糾弾するようでもあり、いつかの日のように優しく慰めてくれるようでもある。
『セライム。お前はユラスがこれまでに見てきたもの、感じてきたものを知らないからそう言えるんだ。ユラスは意識を奪われ、闇に繋がれて力を搾り取られるだけの存在と成り果てた。俺と同じさ』
「なら起こせばいいだろう? また自由にしてやればいいじゃないか!」
『さっき言っただろう。彼は自分の意思でここまで来たんだよ、我が身を呪い、生まれたことを後悔し、無への帰還を切望して――』
「黙れ!!」
 台座を拳で叩く。闇を弾く光が青い双眸を彩り、少女の表情を獣のようにした。
「そんなのはユラスじゃない。あいつは、あいつは……」
 しかし、同時に心の隅で囁き声が聞こえる。自分はあの少年に夢を見ていたのではないだろうか。勝手きままな素振りをする彼の姿に、光を重ねて――。

『あるところに、一人の狂った男がおりました』

 唐突にセトが声音を変えたので、セライムは台座に拳をついたまま目を見開いた。
『語ってあげよう、セライム。全ての歪みの物語を。そうすれば、お前もきっと』
 双眸の眼光が緩み、迷い子のように玉石を見つめる。
『きっと、手を下せるから』
 優しく慰めるようなその声は皮肉にも、紫の少年の佇まいを何よりも思い起こさせるものだった。


 ***


『あるところに狂える男がおりました。彼は意志に取り付かれておりました。何かを成したいという、強い意志』

『人の子なら誰もが抱くその夢は、彼の中ではいびつなまでに大きかった』

『彼は命の神秘に魅せられた。命を生み出すことは科学者の永遠の夢。彼は誰に謗られようと、夢を追いかけ続けた。彼の思惟は鋼のように揺るがなかった』

『しかし美しき学び舎はその歪みを許さなかった。彼はただ、何かを成したかっただけなのに。居場所を追われた彼は恋人に連れられて、遥かな地に落ち着いた。その心にしこりを残したまま――』

『そんな彼の価値を理解している者がいた。その者は宝珠を手に、男の家の扉を叩く。彼の心に希望を灯すため。彼の狂気に火をつけるため。そして彼は全てを投げ打って、この地にやってきた。自らの理論を展開し、宝珠を解析し、魔力を搾り取る機構を生み出した』

『幾千の失敗があった。幾万の挫折があった。しかし彼は夢を追い続けた。彼は完成させたんだよ。元からあった識別名に、成功という名と、彼の名の一部をつけて、生まれた赤子はユラス・アティルドと呼ばれた』

『しかしそれでは足りない。ただの命なら、男女を一室に入れておいても出来るもの。求められるは、人を凌駕する力と知能。幾重の思惑が絡まり、成功体は産声をあげることを許されなかった。目覚めることを許されなかった。魔力、そして宝珠の古からの記憶が注がれ続けた』

『成功体は久遠の夢を見ていた。指先一つ動かすことも許されずに。成功体が生まれた後も、障壁は幾重にも狂った男の前に立ちはだかった。彼は時間をかけすぎたのだ。組織としての機構は、既にぼろぼろだった。裏切りがあった。余所者の侵入も起きた。その度に、彼は冷酷な処置を成した。成功体は、それを見続けた。夢の中で見て、見て、見続けた』

『狂った男の体と心も朽ちかけていた。気の遠くなる時を大海で彷徨い続けた彼は、唯一の成功体に異常な執着を呈し始めた。そして、組織に解体が命じられた。成功体も処分せよとの通告が渡った。春の――嵐の日のことだった』


 ***


 なんて暗い場所だろう。
 なんて昏い場所なのだろう。
 ぐったりとした少年を引きずり出したのは、痩躯の老人。褪せた髪や瞳に、彼を特別にする特徴は見られない。何処にでも存在する老いた学者。しかし、闇にたゆたい続けた彼は、実年齢よりも遥かに老いて見えた。そして刳り貫かれた目が炯々と輝く様は、ぞっとするほどの狂気を秘めていた。その瞳は閉じることも、瞬くこともなく、ただ少年に降り注いでいる。
「起きなさい」
 脇に散乱する薬瓶と注射針。必要な処置は全て下したはずだ。あとは少年が起きるのを待つだけだった。熱に浮かされたように老人はその体を揺さぶる。
「起きなさい、ユラス」
 身体への直接の干渉に、少年の指先が動く。ほんの僅か。
 そうして、卵から雛が孵るかのように、ゆっくりと瞼が持ち上げられた。中に覗くは紫水晶。その美しさに、老人はああ、と喉を鳴らす。己の求めたものがここにある。人類の英知の結晶。なんと優美な色だろう。
 本格的な覚醒はまだ遠く、少年は薄く目を開いたままぼんやりとしている。それも全て計算の内だった。そして少年がこれから辿るであろう道の頼りなさを思って、老人はまた嘆きに咽ぶ。
「すまない」
 涙は枯れ果てた。心は何も感じないと思っていた。しかし、己の心に沸くどうしようもない衝動が、炎となって罪を成した。老人は少年に向け、最も残酷な謝罪を吐いたのだ。
「許してくれ。私を許してくれ。――ユラス、どうか私の仕打ちを許してくれ」
 少年は、老人にとっての神だった。監視をしているようで、見つめられているのは老人の方であったのだ。老人はそれをいつだって肌身に感じ取っていた。今でこそ鎖から解き放たれているが、数刻前までの少年のなんと神々しかったこと。この少年が実験体として成功した後、もう一人の少年が作られたが失敗した。しかしその事実に、老人は不思議と納得していた。このような存在が二つも三つもあるわけがないと思ったのだ。
 少年の瞳は無感動に天井を仰ぐのみ。老人は満足そうに立ち上がり、少し待っているようにと仰臥した少年に命じた。その手には、彼の痩身に似合わぬ無骨な拳銃が握られていた。
「お前が生きるためならば」
 そのとき、異常に気付いたのだろう、職員が二人、部屋の扉を開いた。老人はぬらりと唇を舌で濡らし、振り向く。異変を察知し、彼らの表情に恐怖が浮かぶ。挨拶の気軽さをもってして、老人は引き金を引いた。
 惨劇の始まりだった。

 己の服に赤い斑点模様をつけた老人は、地に横たわるものを事務的に踏み越え、狭い回廊に出た。そこに気配を感じ、振り向き様に銃口を向ける。しかし、佇んでいた影を見た表情に僅かな揺らめきが走った。
「ルガか」
 背の高い灰色の男は、目の前で起きた出来事を前に呆然としている。青白い照明に照らされた頬は平素以上に血の気を失い、強張った唇は震える声を紡いだ。
「あの……先ほど、第五実験室で12号と29号が倒れました。飲み物を口にした瞬間、次々と……」
「ああ。効果があったか」
 老人はにべもなく瞑目する。ただし銃口の先は変えぬまま。灰色の男は、困惑して眉尻を下げる。
「私を殺すのですか? 私はもういらないのですか?」
「この鳥かごはじきに滅ぶ。その前にユラスを解き放たなければならぬ」
「……」
 灰色の男は視線を足元に落とす。老人の思惑を悟って。高いところで括った髪が、しゃらりと揺れる。そうして引き金が今まさに引かれようとした瞬間、彼は口を開いた。
「セトルド博士。先ほど、私のペスティル値の解析が完了しました」
 老人の指がぴくりと止まる。
「解析の結果、あと一年ほどで生命活動を停止することが判明しました。私はあなたに屠られなくとも、時が経てば潰えるのです」
 老人は頬ひとつも動かさない。それが先を促している仕草なのだと知っている灰色の男は、淡々と続けた。
「博士。私はこれまで、理由もなく、ただ示された道を歩いてきました。しかし、私は空っぽなのです。何故生きているのか分からないのです。だから……」
 灰色の細面が、老人を捉える。人形のように無表情だった瞳に、渇望を秘めて。
「残された僅かな時に私に出来ることを。私に、生きる理由を下さいませんか」
「……良いだろう」
 数秒の沈黙の後、老人は承諾した。しかしその命が刃になることを、彼は知らなかった。
「ルガ。彼を守ってくれ。彼が人として生きることを妨害するあらゆるものから。ユラスを、ユラスを守ってくれ」
 灰色の瞳がふっと見開き、淡い衝撃と絶望の色がさす。老人は頷き、噛み含めるようにもう一度囁いた。
「そうだ。お前はこれからユラスをあらゆる障害から例外なく守るのだ。それがお前の生きる理由だ」
 彼の心の歪みなど気にも留めぬ老人は、そうして目下の命を下した。この胎に蔓延るものたちを、残らず排せ、と。
 灰色の男は従った。絶望と諦観に唇を引き縛ったまま。
 世界は崩壊し、跡には命の残骸が取り残された。すっかり気配が絶えてしまうと、灰色の男と老人は落ち合った。老人は思わぬ反撃にあったのか、怪我をしていた。処置をせねば命に関わる。だが爛々と輝く瞳は前のみを向き、灰色の男にすら向くことはなかったのだ。
 老人は、茫洋とした少年を抱き起こし、立つように告げた。ふらふらと立ち上がった少年の腕をとり、廃墟を後にする。
「グラーシアへ」
 外は嵐の只中だった。昼か夜かも分からぬ暗さだった。老人はそこへ、敵陣に切り込むような足取りで進んだ。雨粒が瞬時に衣服を冷たく濡らす。相変わらず虚ろな表情とは打って変わって、少年の髪は激しく風にはためいた。
「グラーシアへ向かう。そこに息子がいる」
 刹那、風を切り裂いて鉛の塊が着弾する。老人は表情を険しくし、灰色の男は庇うように魔術を展開しながら森に入った。
「まだいたか」
「――23号です。元から外にでていたのでしょう」
 森の中は風こそ緩んだものの、爆音のような雨音の元に滑りやすくなった根の海に囚われて、足取りは思うように早まらない。そうしている間にも、あてずっぽうの玉が右に左に飛んでくる。23号も錯乱しているようだった。
 視界の悪さが、状況を更に悪化させる。ずるりと足が滑り、老人は転倒した。腕を掴まれた少年も同じように地に伏す。それでも老人は屈しなかった。弾丸のように、彼の意思はどこまでも駆けていくかのようだった。
 このままではいけない、と灰色の男は老人と少年を導きながら拳を握る。少年の命は守らなければならなかった。それが己の生きる理由であり意味であるのだから。
 森を突っ切って、増水して滝のように変貌した川に突き当たる。そこには、資材を運ぶための小船が備え付けてあった。それを見て灰色の男は告げた。自分が追っ手をまくと。そうして、少年と老人を船に乗り込ませた。
 陽光を忘れた世界はめまぐるしく雨粒が通り抜け、視界を悪くさせる。怪我を負い、悪路によって何度も打ち身をした老人の様子は、しかし確認することは叶わなかった。決断した老人は迷いも恐れもなく魔術で船を安定させ、あっという間に見えなくなってしまったのだ。
 灰色の男は、失意と共に走り続けた。

 その命が尽きて消えるまで。




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