-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

12.笑っていたから



 箱庭を思わせる狭い空間には光源こそあったものの、鼻が曲がりそうな据えた臭いが立ち込めていた。
 忘却されるということは、隋までの侵食を許すのか。劣化した建築材はくすんで変色し、あるいはその形を崩し、まるで遺跡のようだった。それも、恐ろしく悪趣味な。そう、この違和感は、錆びた空間にあって、その正体が唐突に現代に立ち返らせるような研究機関であることに起因するのだ。
 ごうごうと絶え間なく鳴る機械音や蒸した空気が不快感を高め、思わず外套の胸元を緩める。そうしてセライムは口を手で覆いながら、注意深く部屋の様子を伺った。ここは研究室のようだ。割れた試験管や書類が中央の机上に散乱している。役割を果たさなくなったランプが置かれているのを見て、セライムははっとして頭上を仰いだ。そこでは、科学の英知たる電球が煌々と輝いている。こんな林中に電気を引いてくるなど、並大抵の富と権力で出来ることではない。
 父の手記に書いてあったことを思い出し、汗ばんだ拳を握り締める。形成されていく真実が、じわじわと心を犯していくようだ。
 セライムは紫の少年の言葉を疑ってはいなかったが、それを何処かで夢の世界の出来事のように思っていた。平穏にまみれた日常は、危機感を拭い去ってしまうのだ。そうやって見過ごされてきた水底の真実がどんなに恐ろしいものか、考えもしなかった。
 そう、あの頃は、紫の少年も。
 何も考えず、底が抜けたように笑っていたから。
 不意に優しい記憶が流れ込んできて、目尻に涙が浮く。人が恋しかった。誰でもいい。記憶を想起させてくれる存在なら、誰だって。
 縋るように机を回り込んで奥を見た瞬間、セライムの思考は空白で埋め尽くされた。
 悲鳴をあげそうになった口を手で押さえる。体が見えない力に弾かれたように壁際まで後ずさった。そこにあったのは茶色と黒の不潔な斑模様に沈む、事切れた人間の成れの果てだった。
 肉のようなものは既に見えない。あるのは赤黒い骨にまとわりつく汚らしい衣服。長い間をそこで過ごしたのだろう。朽ちたそれは、部屋の隅に飲み込まれるようでもある。
 目を硬く閉じたまま、体勢を崩してふらふらとセライムは壁際を彷徨った。途端に充満した臭いが生暖かい死肉を思わせるようになり、烈しく頭を振る。
 しかし現実はいつでも厳然としている。いくら否定したところで、そこには確かに無残な遺体が転がっていた。
 狂乱から落ち着くまでにどれほどの時を要しただろうか。セライムはそれ以上遺体について調べる気が起きず、代わりに机に視線を滑らせた。埃の積もった紙束や乾いた墨壷が転がっている。恐る恐る紙切れを一枚とってみたが、科学実験の結果らしきものと分かるものの、内容となると専門用語が多すぎてわけが分からなかった。
 しかし、それらがうず高く詰まれた様を改めて認識したセライムは薄ら寒さを覚えた。執念で蓄積された情報の渦。それは狂者の研究を物語るもの以外の何物でもなかった。ここに積まれたものに、一体どれほどの情報が詰め込まれているというのか。ここには、この『世界』のあらゆる状態が文章化されているのではないか――。
 そんな予感が恐怖を伴って湧き上がり、セライムは部屋を出ることにした。動いていないと、恐ろしい考えに絡めとられて狂ってしまいそうだった。
 やはり扉も久しく開かれた形跡がなかった。それをそっと開いてみると、左右に細長い廊下が伸びている。闇の先に目をこらすと、左側の角はすぐそこに見えたものの、反対側は暗くて伺えない。ところどころに簡素な扉が開いていたが、中にあるものは想像したくもなかった。地下なのだろうか――窓のようなものは見えない。
 今更ながらに、現在時刻が昼なのか夜なのか、セライムは疑問に思った。陽光どころか命の気配がないために、時間の経過が全く捉えられない。ここはどこまでも異世界なのだ。
 そのとき、闇の果てから不思議な異音を聞いて、セライムは慌てて首を引っ込めて扉の陰に隠れた。視界に例の遺骸が入ってしまうが、気にしている場合ではない。先ほどの男が戻ってきたのだろうか。ならば、脱走に気付かれてしまうかもしれない。そうなったときにあの男は何をするか――狂気じみた瞳の色が脳裏に浮かぶ。
 こつこつ、と人の足音にしては軽い音。セライムは必死で耳を澄ませた。鼓動がみるみる早まり、その音で気付かれてしまうのではと思うほどに高鳴る。
 しかし、異音は中々近づいてこなかった。不規則なそれは突然止まると、また思い出したように乾いた音をたてる。そして羽ばたきを思わせる風切り音が聞こえてきて、セライムは瞠目した。
 全身の血液が瞬時に沸騰する。飛び出したい気持ちをこらえて、セライムは恐る恐る廊下に顔を出した。そうして、そこに紫の鳥の姿を見た瞬間、なりふり構わず駆け出していた。
「セト……っ!」
 薄暗い廊下でぴんと尾羽を伸ばしていたセトは、セライムの抱擁を無言で迎えた。ぼたぼたと涙を零しながら、セライムはその温もりを感ようと抱き締める。すると胸から染みた暖かさが再び奔流となって、目尻から止め処なく溢れ出した。
 どれほどの時間、一つになっていただろう。僅かにセトが身じろぎをしたので、セライムは体を離した。セトは、ひょいとセライムの膝の上から床に降りると、廊下の先へと跳躍しながら進む。先ほどの異音は、こうして爪が床を叩く音だったのだ。
「……セト。ここにユラスがいるというのは、本当なのか」
 小声で問うと、セトはちらりと振り向いた。心がざわざわと沸き立つ。魔力をもって干渉されているのだ。しかも、前よりも強い干渉だった。声にならない声が心の中で幾重にも重なり、セライムは身を強張らせた。しかし、それらの囁きは意味をなすことなく消えていく。
「すまない……聞こえないんだ、セト」
 もどかしさに眉を潜めたセライムを一瞥すると、セトは再び前に進みだした。時折跳躍が面倒になるのか翼を広げるが、狭い室内では飛ぶのも難しいのだろう。煩わしげに身を震わせている。
「セト」
 セライムは小さく笑って、その体を抱えてやった。そうすると、艶やかな羽根のやわらかい感触が緊張をほぐしてくれる。自分以外の誰かがいるということが、心からありがたかった。
「先に行くんだな?」
 言いながら歩き出すと、セトはおとなしく腕に収まっていてくれた。
 セライムはいくらか落ち着いた気分で、改めて回廊を見渡した。ごうごうと悪夢のような音が鳴り響いているが、これは空調音なのだろうか。全体的に古い作りである上に、長い間忘れ去られていたためか、壁の塗料も朽ちてしまっている。照明は足元を照らしてはいたが、これもところによっては壊れていた。なるべく足音を立てないようにしているのだが、狭いためかぞっとするほど遠くまで響いてしまう。機械の駆動音に隠されていると思いたいが――。
『ここで本当にユラスが生まれたんだろうか』
 見たところ、全体的に老朽化してはいるが、駆動音を除けばただの研究施設といっても差し支えない。凝り固まった夢を錆び付かせた研究所だった。
 曲がり角ではセトが行きたがる方向に足を向けながら進んでいくと、次第に耳鳴りが酷くなってくる。抱き寄せたセトと懐の写真に勇気を貰う気分で、セライムは真っ直ぐな眼差しを奥に向けた。ここは父親の来た場所であり、そしてセトはここに自分を呼んだ。ならばこの災いの予感を想起させる音の正体を突き止めなければならないと、いつの間にかセライムの表情を燃えるような使命感が覆っていた。

 セトの導きに従って踏み入ったのは、螺旋を描いて下へ続く階段だった。酷く長いそれは、地の底まで続いているように思わせる。しかも朽ちかけてぎしぎしと軋み、今にも崩落しそうだ。手すりに身を預けるのも危うく、息を詰めて最下層まで降りると、突然セトが騒ぎ出した。
「わっ?」
 慌てて解き放つと、翼を広げて器用に飛翔し、セライムの髪を嘴で引っ張る。痛みに顔をしかめたセライムは、不意に足音を聞いて全身を凍らせた。心臓を直接突き刺すように性急な靴音が、みるみるこちらに近寄ってくるのだ。
 視線を右に左に揺らせたセライムは、セトに激しく引っ張られて体勢を崩した。慌てて振り向くと、階段の陰に膨らんだ麻袋が胸の高さまで積みあがっているのが目に入る。はっとして、セライムはセトを掻き抱くとその陰に体を滑り込ませた。
 唇を噛み締めて呼吸を押し殺す。上に比べて更に薄暗くなったそこは、セライムを闇の奥底に閉じ込められた気分にさせた。全体的に窮屈で、回廊など人がすれ違えないほどに狭い。更に階段際の僅かに開けた踊り場に麻袋が積んであるものだから、まるで倉庫だった。麻袋は男性二人がやっと持ち上げられるくらいの大きさがあり、中にはみっしりと何かが詰まっている。何だろう――そう顔を動かそうとしたそのとき、人の気配がすぐそこまで来て、セライムは心臓が絞られる思いを味わった。外套の下に、じっとりと汗が浮き出てくる。脱いでくれば良かったと思うが、もう後の祭りだ。
 人影は思った通り、先ほど現れた陰鬱な男だった。ぶつぶつと何かを呟きながら、一直線にセライムのいる方向に近寄ってくる。ごうごうと駆動音が鼓膜を圧迫する。来るな来るな――膝にセトを抱えて心の中で祈るが、彼が止まったのはセライムのいる麻袋の前だ。思考が熱く焼けつき、もう観念するべきかと思ったが、ふいに彼はその場にしゃがみ込んだ。
「くそ。劣化していないといいんだが」
 ブチッ、と麻を切り裂く音が背後から聞こえ、結晶体が床にぶちまけられる。そのいくつかがころころとセライムの真横まで転がってきて、いよいよセライムは硬く眼を閉じた。しかし彼は全く気にした様子もなく、暫く何かの作業に没頭し、再び踵を返して戻っていった。
 再び場を駆動音が支配するようになって、セライムは胸の底から息を吐き出した。強張った体は全身汗だくで、まるで自分の体でないようだった。そしてセトを強く抱き締めすぎて怪我でもさせていないかと、そのときになって不安になる。だが、見下ろす先でセトはもぞりと動いた。音を立てないように、震える指で翼に触れる。
 セトは僅かに顔をもたげたが、それ以上動く気配がなかった。ここで暫く待っていようと言っているのかもしれない。セライムはこっくりと頷いて、眼を閉じた。血流が全身を駆け巡っているのが知覚できる。ああ、生きているのだ、と、妙な感慨があった。
 開いた手を写真が入っている懐にやる。淀んだ空気も、耳障りな機械音も、饐えた臭いも、全てが僅かに遠のき、閉じた視界の先に、仄かな燐光がちらちらと舞った。そこに映るは――紫の少年が眠る顔。
 そうだ。実家に戻る前、学園の中庭で。折角大事な話をしたのに、彼はすぐに寝てしまったのだ。
 彼は本当にここにいるのだろうか。セライムは未だにそれが信じられなかった。彼は記憶を思い出すことを嫌っていた筈だ。なのに自らその場所に来るなど、まさか記憶が戻ったというのだろうか。
 予感が氷水のように胸に満ちた。
 記憶が戻った彼は、果たして彼なのだろうか。
『もしも違う人だったらどうしよう、セト?』
 導き手に心の中で問いかける。
 無邪気に笑う瞳が、ぼんやりと宙を彷徨っていた瞳が、闇に溶け消える。そんな恐ろしい夢想は、必死で振り払うしかなかった。
『会いたい』
 呟きと同時に、天が割れたような轟音が鼓膜をつんざいた。
 続いて、男が向かった方角から爆風が吹き抜けて、ざらざらと床の結晶が音を立てる。背筋に電流が走った気分だった。セライムは全ての思考を止め、ただただセトを抱いていた。セトは、全く動じた様子がなかった。
 空間に満ちた魔力に、ぴりぴりと肌が粟立つ。魔術による爆発だった為か、煙も臭いも感じ取れなかった。後には、駆動音の支配が再びやってくる。
「くそ!!」
 だしぬけに、忌々しげな声が聞こえてきた。壁を蹴っているのだろうか。がつがつと粗野な衝撃音が空気を震わせる。かと思うと、男が再び足音荒く姿を見せた。
「老いぼれめ、小癪な技を仕掛けやがって……! 何が鍵になっているんだ。あれに直接触れられればすぐにでも――ああ、くそ、くそ!! ルークリフは何をしてるんだ!?」
 男は頭を掻き毟りながら麻袋の前を過ぎ去り、階段を上っていく。それを呆然と見送って、セライムはそろそろと影から這い出した。セトも踊り場に降り立ち、狭い場所からの開放を喜ぶように翼を何度か広げる。
 ごくりと唾を飲んで、セライムは踊り場に入り口を開いた回廊を覗き込んだ。しかし、そうしている間にもセトは気楽な様子で跳躍しながら先に進んでいってしまう。
 セトの様子を見て、セライムも覚悟を決めた。人もすれ違えないほど狭い道に、息を潜めて歩みだす。そこは照明がほとんど切れていて、一歩進むごとに暗くなっていく。だが、実際に歩いてみるとすぐに行き止まりに突き当たり、セライムは困惑した。必死で眼をこらして手で触れてみるが、あるのは錆びた壁ばかり。床も、先ほどの男が使ったのだろう、薬紙と空の容器が落ちているだけだった。彼はここで魔術を使ったのだ。この壁を吹き飛ばす為だろうか。だが壁には傷一つついていない。
 次に起きた出来事に、セライムは自分の正気を疑った。じっと見つめた壁が呼応するかのように、みるみる闇に蕩けていくのだ。呼吸どころか心臓さえも止まった気分で固まっていると、そこに扉が姿を現した。瞳を何度も瞬かせるが、誰も夢だと囁く者はいない。そして隣にいた筈のセトが消えていることに気付いた。
「――っ」
 前後左右に目線を配るが、全てが死に絶えたような暗がりが広がるばかり。急に闇が質量を持ったかのように、全身に襲い掛かってくる。
 セライムは唇を噛み締めて、扉を見定めた。今、彼女に残された道はそれだけだ。セトを信じるしかない。
 意を決して、錆び付いた扉に手をかけた。重たい扉は横開き式で、体重をかけることでやっと動くほどのものだった。開かれた闇の隙間からは、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。
 そこに足を踏み入れた瞬間、ぱっと視界が明るくなってセライムは反射的に顔を背けた。強い光でなかったが、暗がりに慣らされた瞳には閃光でも焚かれたように感じられた。
 やっとのことで捉えた青白い小部屋は、細長い作りをしていた。進んでいくごとに、既視感に首筋が粟立つ。そう、これは――青薔薇の屋敷で、少女が量産されていた実験室によく似ている。両際に巨大な試験管が並び、最も奥に台座のようなものが見える。しかし、過去に見たものよりも一層その様は禍々しかった。細い通路を残し、空間という空間を縦横無尽にパイプや管が駆け巡っている。それらは試験管にまとわりつき、あるいは足元でわだかまり、そして全てが奥の台座に繋がっていた。まるで人間の内臓を見ているかのようだ。しかしセライムはそれらに嫌悪感を催す前に、台座の上にあるものに目を奪われていた。

 台座の上には、一羽の紫の鳥がとまっていた。
 その足元に、燐光を放つ紫の玉石が収まっている。

『セライム』
 突然名を呼ばれて、セライムは肩を飛び上がらせた。心臓が警鐘を鳴らし、あまりに大いなる力を秘めた『それ』への警戒を促す。先ほど助けてくれた、男と女が混じったような奇妙な声だった。
『ああ、悪い。ちょっと待ってくれ、調整するから……あー、あー』
 声が一方的に言うと、周囲の空気が魔力を帯びてざわめいた。同時に声の調子も統一され、不快感が薄れていく。
『うん、これでいいか。聞きやすいだろ?』
 その声は銃弾のようにセライムの胸を貫いた。間違えようもない、あまりに聞きなれた音色だった。
 膝が震えだす。口の中が急速に乾いていく。戦慄の茨に絡めとられたセライムは、悪夢のようなその声をはっきりと耳にして。

『よお、セライム。よく来てくれたな』
「ユラス……?」
 懐かしい少年の名を、呆然と唇に乗せた。




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