-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

11.そうして全てが闇に帰る



 心の奥底で、セトの鳴き声が聞こえた。警鐘を鳴らすような鋭い声だ。
 何故だろうと思っている内に、胸にあった温もりがみるみる頼りないものになっていく。抱きしめていた光が、煌きを残して霧散してしまう。
 待って――そう叫ぼうとして、セライムは唐突に目覚めた。それはいつもの朝には程遠い、不快と倦怠を伴う目覚めであった。
「……ぅ」
 寒さにぶるりと体が震え、思わず外套の裾を引き寄せる。全身が軋む音を聞きながら、セライムは心もとない記憶を手繰り寄せた。
 開いた瞳に飛び込んでくる情報は酷く少ない。視界が暗いのだ。暫くして、硬い床に体が投げ出されていることに気が付いた。
 そうして自分の置かれた状況を把握していくに従って、セライムはみるみる青ざめた。見知らぬ薄暗い屋内の一室に、たった一人で閉じ込められていたのだ。
 全身から血の気がひく。無意識に涙が浮いて、セライムは扉にとりついた。しかし鍵が閉められてしまって、ノブが回ることはない。
「セト、セトっ!!」
 唯一の導きの名を叫んでも、細長い部屋に反響するだけだった。セライムは呼吸を荒げて暫く名を呼んでいたが、不意にぺたりと座り込んだ。絶望が、少女から力を意図も簡単に奪い取った。
 何故あのとき意識を失ってしまったのかと思う。それとも、これは全て夢なのだろうか?
「……違う」
 ふるふるとかぶりを振って、自身の呟きを否定する。自分は、己の意志でここに来て、セトという導きを見失ってしまったのだ。
「……っ」
 足に力が入らない。恐怖に心が焼かれて、思考が鈍る。自分が無力な小娘でしかないことを思い知らされる。
「う……」
 頭を抱えていないと、中から体が弾け飛んでしまいそうだった。幼い頃を思い出す。大きな屋敷に囚われて、母からも見放されて彷徨った地獄のことを。
 駄目だ。蹲っていては、呑まれてしまう。
 セライムはよろよろと体を動かし、部屋を見回した。扉の隙間から漏れる僅かな光に浮かびあがる部屋は、目を凝らせば人の住んでいた気配が伝わってくる。忘れられて長い時を経た、荒涼とした空間だ。壁に備え付けられた棚は半分が壊れて蓋がとれ、中身を溢れださせている。それらは衣類が多かったが、床に落ちて砂と埃にまみれてしまっていた。奥の方にある一層黒ずんだ一角には、シャワーのようなものが見える。もしかしたら、浴室だったのかもしれない。
 扉の横には無骨な受話器がついていたが、今は忘れられたようにだらりと垂れ下がっている。少なくとも、ただの住居ではないようだ。普通の家ならば、まず浴室に受話器など置かない。
 無力感を忘れるべく、セライムは詳しく部屋を調べることにした。蝶番がとれかけた棚を一つ一つ開いていく。畳まれた白い衣類は、どれも同じ形をしていて、まるで病服のようだ。埃が積もったそれらは大きさごとに分けられて、棚にぎっしりと詰まっていた。次の棚も、その次の棚も似たようなものだった。変わったものは入っていない。
 そうして最後に開こうとした蓋は、若干歪んでいた為か、開けるのに僅かな手間を要した。セライムはそれを開いて、はっとした。そこだけ、何も入っていなかったのだ。
「……」
 錆びた金属の匂いが鼻をつく。あけた衝撃で蝶番が外れ、そこだけがぽっかりとした空虚をさらす。しかし、よく見ると奥の方に、紙のようなものが落ちていることに気付いた。膝をついたセライムは、藁をも掴む思いで手を伸ばし、白茶けたそれを拾い上げた。暗くて見え辛かったので、腕を掲げ、僅かな光に晒してみる。
 がつん、と頭を何かで殴られたような衝撃があった。その紙に映し出された一枚の写真は、埃で汚れ、色褪せ、――しかし、一つの幸福を体現していた。
 それは家族の写真だった。場所は町の広場か何かだろうか。波打つ金髪を長く伸ばした幼子が、中央で無邪気に笑っている。そんな少女を抱きかかえているのは、同じ色の頭髪を犬の尾のようにくくった男性。同じように、歯を見せて破顔している。そしてその肩に頭を寄せ、この上なく幸福そうに微笑む若い女性。
「あ……」
 お父さん。お母さん。そして――わたし。
 昔の写真は、全てが処分されてしまっていた。だからセライムは、若い頃の母の顔を、そして父の顔を、おぼろげにしか覚えていない。だがそれが一つの像として現れた今、優しい記憶が鮮やかな色彩を以って思い起こされる。写真の中身が動き出し、風の匂いや掌の温もりが心の底から溢れてくる。
 写真の裏には、びっしりと文字が綴られていた。走り書きのような短い文章の羅列だ。半ば無意識に目が走る。

『10月3日、奇妙な男をつけて建物に潜入。非合法の研究が行われているようだ』

「お父さん」
 これは、――父の字だろうか。父がここに来たというのだろうか。
 全ての疑問を通り越して、セライムは所々が朽ちた走り書きを読み進める。

『10月4日、職員の一人に見つかるも、懐柔に成功。シェンナという娘だ。調査を続けようと思う』
『10月6日、この建物では生命を作ろうとしているようだ。シェンナから情報を聞き出す』
『10月7日、シェンナは人工的に作られた生命の失敗作なのだという。非人道的な実験が行われている模様』
『10月8日、政府の関わりを確信』
『10月9日、セライムの誕生日。帰れないのが辛い。早く帰らねば』
『10月――日、――を見せてもらう』
『――月11日、何を証拠に持って帰るべきか。抽出した魔力を水晶に封じ込めたものがあるらしい』
『10月12日、――のせいか体調が悪い』
『――月――、シェンナを助けたい。セライムに会わせてやりたい』
『――、――を決心。心が痛むが、やるしかない。シルティーナも待ってる』
『――、証拠を――石と論――、武器は持った。あとは――』
『今日は何日だろう。妙な声を聞く。あれは、彼の声だろうか』
『彼は死にたがっている?』
『迷う。私に出来るのか――』


『私はこれから、人殺しになろうとしている』


 最後はまるで殴り書きのように、そう終わっていた。

『思い出したよ。お前の親父さんのこと。――アラン・デジェム、俺が作られた場所に、真実を掴むためにやってきた人のこと。その人は、その研究が許されないことだと分かっていた。だから、そのとき既に検体として成功していた俺を殺そうとしたんだ』
 ……お父さんは、ここに来たんだ。
 胸の奥から湧き出す感情は、名前がつけられるものではなかった。
 生まれて初めて知る、父親の人間としての苦悩。写真で笑う父の、真っ直ぐな瞳。いつだって前を見て走り続けていた父。しかし、そんな父も――。
「お父さん」
 セライムは写真を抱きしめた。同時に、自分をも抱きしめた。
「お父さん、――お父さん」
 古ぼけた紙切れの一枚が、温もりを以って胸を暖める。
 蹲っている場合ではない。立ち上がらなくてはいけない。自分の道は自分で決めると誓ったのだ。例えその途中で潰えるのだとしても、父がそうあったように、前に進まないと。
 人の気配に顔をあげたのはそのときだった。扉の向こうからカツカツと足音が反響してこちらまで届く。あっと思う暇もなく扉は開かれ、陰鬱な男が姿を現した。光が弾け、眩さに思わず目を細める。
 そうしてセライムは座り込んだまま、扉を開いた男を瞳に映した。茶髪をぼさぼさに伸ばし、かさついた肌に染みを浮かせた男。錆びた建物を体現したような出で立ちだ。仕草からして、意識を失う前に見た人間とは別人のようだが――。
 どことなく香る異臭に顔をしかめたセライムを、陰鬱な男は探るような視線で舐めた。背筋が寒くなる思いで、しかし手の中の写真に力を貰った気分で、セライムは男を睨み返した。この男が自分をこの部屋に閉じ込めたに違いない。
「貴様、何者だ」
 聞き取りづらい音で、男が問う。心臓がどくどくと波打つのを感じながら、セライムは顎を引く。
「ここで何をしているんだ」
 刃を打ち返すような返答に、陰鬱な男は僅かにたじろいだようだった。蔦のような前髪の中から、予想外に鮮やかな緑の瞳が覗く。その顔立ちに引っかかりを覚えて、セライムはどきりとした。
「黙れ、質問に答えろ」
 陰鬱な男は、不機嫌を露にして懐から拳銃を取り出した。肝が冷えたが、銃口を向けられるのは初めてではない。それに、それ以上の疑念を持って、セライムは食い入るように男を見つめていた。
 ――エディオに、どことなく似ていたのだ。
「答えろと言っている!!」
 心臓が握り潰されるような破裂音と共に、拳銃が暴発する。しかしそれは至近距離であるにも関わらず、凍りついたセライムには当たらなかった。構え方も撃ち方も知らぬ男の手の中で拳銃は跳ね上がって、セライムの遥か上方を打ち抜いたに過ぎなかったのである。
 がたがたと鳴りそうになる歯を食いしばってこらえ、セライムは落ち付け、と自分に言い聞かせた。自分は今、細い綱の上を歩いている。平静を失ったらおしまいだ。
 だがセライムが乾いた口を開く前に、彼の方から喋りだしてくれた。
「どうせ、あの化け物が狙いで来たのだろう?」
「……」
 化け物、と聞き返そうになって、慌てて噤む。余計なことを話すべきではない。代わりに、首を僅かに振る。きっと男は信じないだろうという確信の元で。
「嘘をつくな! それにもう手遅れだ。あれはもう目覚めない。復讐は果たされる――くく、見ていろ、俺の人生を壊した奴ら。自らが何を作ってしまったのか、身を焼かれることによって知るがいい!」
 そして次に男の喉が紡いだ言葉を、セライムは信じられない思いで聴いた。
「ユラス・アティルドの力は神をも凌駕するのだからな」
 今、男は何と言った?
「ユラス……?」
「ようやくあるべきものがあるべき場所に戻った。裁きの時は今。そうして全てが闇に帰る」
「ま、待ってくれ。ユラスが、ユラスがここにいるのか?」
「うるさい!!」
『セライム』
 電流が走るように耳の中に声が響いた。セライムは喉を握りつぶされた気分で目線を彷徨わせた。
『セライム、よく聞くんだ。今はやりすごせ。恐怖したふりをするんだ、そうすれば助かる』
 太い男の声と、か細い女の声が重なったような、耳障りな音列。眩暈を覚えて、セライムは拳を握り締めた。お父さん――心の中で呟く。
 酩酊したような様子の少女を見て、男は自分に気圧されたと思ったようだ。満足げに笑い、銃口を下ろした。
「そこで見ているといい。もう、誰が何をしようと変わらないのだ。そうだろう、ルーシャ」
 そう恍惚を浮かせた表情を虚空に向ける。そのまま踵を返すと、男は何かを呟きながら部屋を出て行った。流石に鍵をかけ忘れるという愚は犯さなかったが、男の常軌を脱した振る舞いに、セライムは本心から恐怖していた。彼が何をするつもりなのかは皆目分からなかったが、それでも、恐ろしい予感があった。
『ん、……接続がきれそうだな』
 ざわざわと耳元で声がさざめく。とうとう自分の頭がおかしくなったかと思い、セライムは首を振る。
『ああ、いいから言う通りにしてくれ。部屋の左側の隅が朽ちかけてるから、そこから隣の部屋に入るんだ。あまり音をたてるんじゃないぞ』
 声は逼迫した様子もなく、のんびりと情報を伝えてきた。
『うん……切れる。じゃあ、また後で』
「あっ」
 一方的に別れを告げられた途端、静寂がやってくる。セライムは暫し呆然として、半信半疑で声が言った場所を調べた。手入れを忘れられたそこは黴と埃の楽園と化し、不潔極まりなかったが、この際贅沢は言っていられない。思い切って手で触れてみると、風化した壁の表面がぼろりと崩れる。確かに隣の部屋まで行けそうだ。
「……」
 セライムは、父親の写真をもう一度見つめた。セトは、この為に自分を導いたのだろうか。
 色あせた写真では、仲の良い親子が、幸福そうに笑っている。この光はもう無くなってしまったけれど――。
 父は、闇を鎮めようと立ち向かい、消えていった。その闇を引き継ぐ者がいるのなら、自分に父の想いを継ぐことは出来るだろうか? シェンナの苦しみを、そして紫の少年の苦しみを生み出したここから、二度と新たな歪みを生み出さぬように。
 そして真実を暴き、父と同じものをこの瞳に映せるように。
「どうか、守って下さい」
 父の笑顔に願う。この悪夢に立ち向かうことが出来るよう。
「ユラス」
 少年の名を呟く。もしもここに紫の少年がいるのだとしたら、すぐにでも会いたい。囚われているのなら、救い出したい。彼ならきっと、あの男を止めるために力を貸してくれるはずだ。
 行かなくては。まずはセトと合流しなければならない。
 写真を懐にしまうと、セライムは取れた棚の蓋を使って、壁を打ち崩し始めた。




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