-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

10.悲劇の再来



 今、生きてるか死んでるかと聞かれたら、限りなく死にそうです、と答えるだろう。スアローグはそんなことを考えながら、孤独に都市を歩かされていた。
 背中にはぴたりと黒い杖の切っ先がつけられている。下手に動けば、背後の老人は無力な少年など簡単に吹き飛ばすに違いなかった。
 なんでこんなことに――。
「ほれ、さっさと歩かんか」
 考え事をしている内に動きが鈍くなっていたらしい。ごつ、と杖で背中を押される。スアローグはいっそ、蹲って泣き出したかった。
 老人が向かう先は方向からしてグラーシア国立図書館だ。学園の周辺にあった人の気配は、都市を南下するに従って絶えていく。その道すがら、スアローグは改めて背筋に冷たいものを感じていた。
 一夜を経た都市は、まるで戦場のようだった。嫌でも視界に飛び込んでくる、地面に走った亀裂や砕けた外壁。廃墟と化した建物からは幾筋もの黒い煙があがり、青空に不穏な薄灰を振りまいている。昨日の一件で学園への避難命令が発令された為、地震による人的被害は少ないようだが――。
「何をしている! 止ま――どふっ!?」
 背後で聞こえた鋭い静止と、哀れな悲鳴を再び聞いて、スアローグは心中で十字を切った。この老人が凄まじい魔術の腕で薙ぎ倒してきた人間と地震で怪我をした人間、どっちが多いんだろうとか考えながら。
 だが気配を見るに、周辺にいるのは警視官でなく軍人だ。少し前から都市に配備された彼らは、深海魚のような目をして見えない何かを睨んでいるようだった。もしかすると、この都市に起こることを見越していたのだろうか。
 スアローグとて、先ほどの地震を偶発的なものと思うほどお目出度い頭をしているわけではない。この都市は、何者からか攻撃を受けている。それは、はっきりと肌に感じ取られた。噂では、蒸気機関車の線路も破壊されたらしい。
 悪意だ。誰かの悪意が、この都市に向けられているのだ。
 図書館の前では悶着が起きていた。警視官と軍人と民間人と、種族の違う人間たちが押し問答をしている。どうやら、図書館に立て篭もって動かない民間人がいるらしい。グラーシア国立図書館には貴重な書物が保管されている他、魔術規制の結界の中心点となる管制塔もあるのだ。軍がいるのは後者の為であろう。
「うるさいな」
 背後から舌打ちが聞こえて、スアローグはぞっとした。
 何を言う暇もなかった。瞬時にして気配を膨らませた魔力に肌を粟立たせた瞬間、周囲の石畳が割れて噴水のように噴き上がり、その場にいた者たちは浮き足立った。数十人が足をとられて一斉に地に伏す様は地獄を思わせ、唯一立ちつくすスアローグは失神する寸前であった。
「蝿どもめ。見苦しい」
 たった一瞬で場の支配者となった老人は禍々しく哄笑し、哀れな少年の背中を杖でどつく。虚ろな目でのろのろと歩き出す少年と共に、周囲の呆気にとられた視線を浴びて老人は門をまたいだ。
 白亜の学園と睨みあうように聳える堅牢な知の要塞は、昨日の襲撃にも揺るがず、堂々と扉を開いている。階段を上り、見上げるような扉を越えると、そこでは学者たちが走り回っていた。突然の来訪者に、十数人はいる彼らが一斉に険しい顔をする。
「何者だ。どうやって入ってきた」
「どう言われようが我々は動かんぞ」
 口々に言い合い、席についていた者も立ち上がる。紙の痛みを防ぐために館内は薄暗く、空気は焦燥に満ち、彼らの目は猫のように輝いていた。普段は開放されている広間の閲覧卓にはうずたかく本が積まれ、彼らの疲労を現すように煩雑な様相を呈している。
 そんな現実を前に、スアローグは明後日の方向を向いて賛美歌を口ずさんでいた。若干精神がどこかに旅立っているようだ。
 異様な生徒を彼らが怪訝そうに睨んでいると、それまで背後で様子を見ていた老人が、唐突に口をきいた。
「なんだ、騒々しい。今日は休館日か?」
 漆黒のローブを着た老人はそう進み出て、スアローグの腹を軽く杖で小突く。
「学園生は手続きなしで入れるのだから連れてきたというに。これは力ずくで進めと言っているのか?」
 殺気が膨れ上がったそのとき、鋭くかぶさる声があった。
「相変わらず破天荒な奴めが」
 その声はしわがれて聞き取りづらいが、芯には強かな意思がある。スアローグが見上げると、広間の階段の上に、厳しい顔をした老人が立っていた。
「ウィーネン師! 危険です、お下がり下さい」
 学者の一人が叫ぶと、グラーシア国立図書館の館長ウィーネンは、鼻から息を抜くようにして笑った。
「構わんよ。私の古い友人だ――久しいな、ダルマン」
「なんだ。貴様、死に損なっていたのか」
「お互い様だ、老いぼれめ。何用だ」
 交わされる軽口の応酬には、しかし過去を懐かしむような響きがある。黒いローブの裾を僅かに持ち上げた老人は、禍々しく輝く瞳を露にした。
「クク、貴様なら話が早い。管制塔はどうなった」
「ほぼ死んでおるわい」
「借りるぞ」
 一様に狐につままれたような顔をしている学者たちを見て、館長は各自の仕事に戻るように告げた。その間に、黒いローブの老人は我が家を歩くような足取りで奥へと向かう。
「あ、あの。じゃあ、僕はこれで」
「阿呆。貴様も来い」
「ひえっ」
 踵を返しかけたスアローグは、束ねた髪の毛をがっしりと掴まれて連れていかれた。


 ***


「まさか図書館長に納まっていたとはな。古狸めが」
「……」
 何故か管制室まで連れていかれたスアローグは、おどおどど周囲のものに目をやっては、驚愕に身をすくませていた。図書館の最上階、最新の設備と共に設置された管制室は、都市のあらゆる魔力の流れを監視する為にある。高いところにある天窓から円形の部屋に降り注ぐ光はやや薄暗く、知の密林を思わせた。眼前には、目視で都市を監視できる巨大な窓。ごうごうと唸る無骨な機械から弾き出される数値が数多の目盛りを複雑に揺り動かし、その合間を記録用の用紙や水晶球、積み上げられた資料が彩る。
 通常時に来れば、スアローグはその装いに感激し、浮かび上がる数多の質問を同行者に浴びせていただろう。しかし今の様相は、彼に得体の知れない恐怖を与えるに過ぎなかった。
 中央に鎮座していた魔術規制結界用の水晶が、木っ端微塵に砕け散っていた。エルフの魂を加工して作られた、大陸屈指の強大な魔力を秘めた水晶が、である。
 部屋に満ちるは不安定に上下する機械音。壊れたいくつかが針を振り切れさせ、あるいは狂ったように最小値と最大値の合間を動いている。夢幻めいた狂騒を呈す管制室は、既にその管理を放棄されていた。僅かな人の残り香を残すのは散乱した報告書のみ。それらを踏みつけ、ダルマンはどっかりと椅子に腰掛けた。
 あの、勝手に座っていいんでしょうか。
 スアローグはよっぽどそう問いかけたかったが、恐ろしくて壁際に突っ立っているしか出来なかった。図書館長の許可(のようなもの)があった為、誰も咎める者はいなかったが、普段ならばここは関係者以外立ち入ることも出来ないのだ。
 だが惨状を見れば、この無関心について納得できもする。測定器の全てが壊れているのだ。いくつかが修理の為に分解され、焦燥を示すようにそのままになっている。故に階下で学者たちがこの状況を分析しようと右往左往しているのだろう。
 管制室には他に、例の図書館長がいた。監視ということだろうか。先ほどは黒ローブの老人と旧友のようなやりとりを交わしていたが、今は石造のように黙って都市を見つめている。鷹のような鋭い目つきは、恐ろしさ的に黒ローブの老人とどっこいだ。スアローグはますます情けなさに顔を歪める。
 しかしそれにしても、と、スアローグは唾を飲み込んだ。軍がいて、警視官がいて。自分はいつだって守られている気分であった。しかし事態は考えているよりもずっと悪いのだ。下手をすれば――。
 恐ろしい予感が胸を走って、スアローグは口を開かずにいられなかった。
「あの。何が起きているのか分かるんですか」
「知らんわ」
 思いがけずあっさりとした返事を貰い、膝が砕ける。ちらりとこちらを見たダルマンは、杖の先端で中央の巨大な円卓をさらった。ばさばさと本や器具が落ち、特に金属のそれが甲高い悲鳴をあげる。僅かに図書館長の眉が動いたので、スアローグは死を覚悟した。いや、彼が悪いわけではないのだが。
 だが、ダルマンが懐から取り出したものを見たとき、スアローグは恐怖を忘れて息をつめた。それは見慣れた――子供の頭ほどもある水晶だ。よくここまで持ってきたものだと思う。しかし見る者を圧倒するのは、そこから染みだす魔力だった。
「貴様、何をした」
 ちらと振り向いた館長が、唸るように問い質す。対するダルマンは、獣じみた笑みを浮かべて水晶を撫でた。
「なに。ちょっくら面白い生徒を捕まえただけよ」
「馬鹿な。このような力を吹き込める者がいるものか」
「――クク」
 スアローグは、得体の知れない畏怖を覚えて水晶から目線を逸らす。沈黙している筈の石から、胃を締め付けるような魔力の波動が伝わってくるのだ。それは何処か懐かしいような、恐ろしいような、不思議な予感をスアローグに与えた。息苦しさに、自分の体を抱きしめる。
「ウィーネン師、おられますか――な、なんですか、これは!」
 管制室に駆け込んできた学者が、目を剥いて立ち止まる。ダルマンは既に杖をかざして印をきり始めていた。
 館長は素早く数人の名を口にし、呼ぶように告げる。学者が駆け出していくと、館長は忌々しげに唸った。
「貴様の力とて、できるたぁ思っとらんぞ。割れるのが落ちだ」
 黒いローブの老人は、こらえきれない笑みを口元に刻んだまま、一際高く杖を振り上げる。杖の先端によって描かれた複雑な印が、次第に水晶と呼応し、ぽろぽろと煌きを零す。その美しさに目を奪われたのも束の間、光の渦がほとばしる。
 ばたばたと学者たちが入ってくるのにも集中力を欠くことなく、ダルマンは魔力を織り上げていく。ありえない、と誰かが呟いた。この図書館にあった水晶は皆、作動させた瞬間に周囲の魔力に干渉されて砕け散ってしまったのだ。なのに、卓上で力を解放する水晶はまるで歓喜するように煌きを振りまく。
 吹き飛ばされた書類から顔を庇ったスアローグは、みるみる光が形を成していくのを見た。それは水晶を中心として氷の花を咲かせるように広がっていく。否、それは大小様々な、見覚えのある文様を描いた。
 心臓を引きずり出されて鷲掴みにされた気分だった。
 スアローグは瞳孔が焼けるのも構わず光を凝視し続ける。円卓に淡く浮かび上がったのは、小指ほどに縮小された国立図書館であったのだ。そこから四方に向かって、みるみる都市の姿が形成されていく。
 都市の魔術制御の要となる管制室は、都市周辺の魔力反応を監視する為、最も魔力の流れが良い場所に作られる。そこに水晶の力を上乗せしているとはいえ、これは尋常な力量で出来ることではなかった。否、そもそもこの状況ではどのような水晶でも砕けてしまうだろうに。
『空間に満ちた魔力と波長が酷似している?』
 スアローグは魔術の知識を総動員して、内心で結論を導く。大気に満ちた力に干渉されることなく、むしろ同化した魔の波動はびりびりと空気を震わせ、都市とその周辺の様態を見事に再現してみせた。そして覆い被さる青い気流は――魔力の流れだ。スアローグはそこに、昏々と魔力が溢れ出る場所を見た。都市から遥か南、深い森林の中だ。学者たちは、それを見て一様に青ざめていた。老人が行使した魔術の凄まじさを凌駕するほどに魔力の霧は濃く、その根源では球形の魔力が渦を巻いていた。あの渦が都市を襲えば、何が起こるだろう。
「――マディンの悲劇の再来だ」
 誰かがそう呟いた。遥かな時代に一人の魔術師の手によって消え去った大陸は今、地図にも描かれぬ死の大地となっている。
 ぴし、と異音を聞いて、呆然としていたスアローグが顔をあげた。見れば、卓上の水晶にひびが入っていた。内部に秘めた魔力を使い果たそうとしているのだろう。
「やはりそういうことか。愚かな夢を見続けおって」
 つとダルマンは、自嘲するようにそう零した。ついに水晶の亀裂が決定的なものとなり、それが砕けると同時に光が霧散する。しかし、それらから身を庇おうともせずに、ダルマンはローブに表情を隠して立ち尽くしていた。
「……あそこが魔力の根源なのか」
 若い学者の一人が、恐怖に瞳を見開いたまま震える喉で紡ぐ。
「すぐに解析を! 警視院への連絡もだっ! い、急がないと――」
「落ち着け!」
 にわかに色めきたった空気を一喝したのは、館長の鋭い一声だった。腹の底に響くそれは、場にいる者の動きをぴたりと止める。鷹のような眼差しで彼らを見定めると、館長は厳かに口を開いた。
「ここを何処と心得る。学級の徒が何としたこと。事が大きければ大きいほど、石のように静かであれ。焦りある者に二度と学びの門は開かぬぞ!」
 ガン、と杖で床を突く。動じなかったのは、未だに俯くダルマンだけだった。二人の老人はまるで異世界の者同士のように正反対の空気をまとっている。そして光を浴びた館長は、いくつか闇の老人とやりとりを交わすと、必要な指示を下し、学者たちを引き連れて部屋を出て行った。残されたのはスアローグとダルマンだけだった。
「……」
 ふう、と息をついて、自分がほとんど呼吸をしていなかったことにスアローグは気がついた。体がふわふわと浮いているようで、気分が悪い。拭ったこめかみは油汗でじんわりと湿っていた。
 対する黒いローブの老人は、力なく椅子に腰掛けて動かない。
「あ、あの。あなたは行かなくていいんですか?」
 返事はなかった。死んでいるのではあるまいかと心配になるほどに静まり返っている。一歩を踏み出すと、散乱した水晶の欠片が嫌な音を立てた。
 目の前の老人の魔術師としての腕前は、先ほどの一事を見ても明らかだ。なのに、何故彼らについていかなかったのだろう。否――そもそも、何故この魔術師はこのような術を使いに来たのだろうか?
 疑問が脳裏を埋めて、スアローグは胃の辺りをぎゅっと握った。
「何か物言いたげだな」
 驚いて首を向けるが、老人はぴくりともしない。ただ、投げやりに続けた。
「出て行け。目障りだ」
「……」
 流石にむっとして老人に向き直る。
「何をやってるんですか。あなたほどの腕があるなら、今はすることがいくらでもある筈なのに」
 普段なら絶対に出てこない糾弾が、このときばかりは口から勝手に滑り出した。恐ろしい出来事を前にしたからか、それとも自分が変わったからかは分からなかったけれども、それでも何もかもを放棄した老人を見ていると腹が立った。
 すると老人は、底冷えする瞳をギョロリともたげた。
「小僧め。吹き飛ばされたいか」
 低く脅されると、足がすくみそうになる。逃げ出してしまいたくなる。しかし、世界が終わるかもしれないというときに何処に逃げるというのだ。
「――本当に。何処に逃げるっていうんです」
 肺腑から吐き捨てるような声に、黒いローブが気を引かれたように揺らめく。そうして、ひび割れた唇に薄い哂いを乗せた。
「ああ、お主の言うとおり。何処にも逃げ場などない。見たろう、狂者の見た夢の末路を。あの魔力の塊はそう時も経たぬ内にグラーシアの天地を裂くだろう。この都市は大陸もろとも地図から消失するのだ」
 胃を踏み潰されたような衝撃がずんと響いて、改めて重い現実を思い知らされた。
「どうにもならないんですか?」
 つい縋るような語気になってしまう。そして目の前の魔術師ならば、何とかしてくれるのではないかという淡い期待もあった。
「阿呆か。あれを見たろう。もう間に合わぬ」
「そんな……」
 脳裏で今までの記憶が瞬いては過ぎり、何故、とスアローグは考えた。何故。ただ生きてきただけなのに、このような理不尽があってたまるものか。甘言と思いつつも、やり場のない憤怒がわだかまる。
 では何か。階下で走り回る学者たちは、怪我人の搬送に四苦八苦していた医者たちは、学園に集う者たちは、全て無駄なことをしているというのか。そんな絶望は、認めてしまうわけにはいかなかった。
「何か出来ることがある筈でしょう」
「お前が私なら何をするというのだ?」
「普段の僕なら、逃げていました。僕はそうやって生きてきましたから」
 でも、とスアローグは息を吸って続けた。
「今はそんな詮無い気持ちなんてどうだっていいです。人が死ぬかもしれないんですよ。そんなときに黙ってるほど、僕だって腐っちゃいませんよ!」
「人というより、お主が死ぬかもしれんのだぞ」
「だったら尚更嫌ですよ。僕はやりたいことがある。ここで研究者になるって夢があるんですよ。だから死にたくないし、この都市に居続けたいんです。あなたみたいな魔術師から見たら馬鹿臭い夢かもしれないですけど、それでもここは僕に機会と経験を与えてくれたんです。田舎の教会で馬鹿みたいに気取ったまま人生終わる筈だった僕に、目を覚まさせてくれたのがこのグラーシアなんですよ。――死にたくないし、この地を失いたくもない」
 こんなに息を切らせて、自分は何を言っているのだろう。こんな泥臭い真似をするなど、一番忌避していたのに。しかし、何故だか今はそんな自分にほっとしていた。
 言えるんじゃないか、こんな自分だって。己の感情のままに声を荒げることができる、そんな心があるではないか。
「――クク」
 ダルマンは、皮肉げに口元を吊り上げた。スアローグはその横顔を睨む。自分の無力が、痛いほどに胸を締め付けた。何をもってこの災いを沈めれば良いのか、その尻尾すらも掴むことが出来ない自分がいる。エディオも果たして無事でいるのか――。
 大気を覆う魔力はいよいよ濃く染まり、憎悪は都市中を覆おうとしていた。




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