-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

09.己の生



 ドミニクが目を覚ましたとき、都市には未だに異様な空気が漂っていた。
「……ぅ」
 鉛のような体を引き起こした途端、喉が詰まって激しく咽こむ。全身を覆う不快感に身を捩じらせるが、そんな少年を見る者は誰もいなかった。彼がいる周辺は、――否。一部を除いた都市中が、廃墟のようになっているのだ。昨日の凶事を受け、市長から都市中に向けて、学園への避難勧告が発令されたのである。
 襲い掛かる光は、セシリアの体に異変を引き起こしたのと同時に、ドミニクにも干渉を及ぼした。ドミニクもまた、悲鳴をあげて意識を失ったのである。セシリアと違ったのは、そのとき誰も周囲にいなかったことだけだ。
 口を覆っていた手にべったりと血がついているのを見て、ドミニクは顔をしかめた。しかし灰のような心はもう、何の反応も示さない。少年の瞳は茫漠たる空虚を見るかのごとく無感情であった。
「……」
 世界が白い闇に閉ざされている。一人立ち上がり、脇道から出て周囲を見回す。昨日の襲撃は、都市自体に目立った傷跡を残すほどではなかった。ところどころに建物が損壊した跡が伺えるが、被害もたかが知れている。しかし人の気配が絶えている様子は、遺跡でも見ているようだ。
 この後、都市は更なる悪夢に見舞われるだろう。ドミニクはそう確信していた。誰かが自分たちの故郷を動かし始めたのだ。明確な悪意を持って。だがそれが誰なのか分からなかったし、分かりたくも無かった。消えてしまえと願うのはドミニクも同じだったのだ。
 何処へ行くのも億劫で、壁に背をつける。くすんだ瞼を伏せ、闇に沈み込もうとしたとき、ドミニクはふと唇を震わせた。彷徨う指先が、懐の中で何かに触ったのだ。
 何だろうと思って取り出してみると、それは色彩豊かな包み紙にくるまれた小さな菓子だった。ドミニクはじっとそれを見つめる。あのうるさい少年がいつかくれたものだった。包みの色は滅び行く都市と相反して鮮やかだ。
 ドミニクは唇を引き縛る。
 彼は今、何をしているのだろう。自分と同じ、残り少ないであろう命を抱え、何を想っているのだろう。
 ドミニクは、なんとなしに歩き始めた。暫くすると、都市中に響く放送があった為、彼は人が何処に集まっているのかを知った。しかし、歩の向きを変えることはあっても、早まることはなかった。
 もう、どうでも良かったのだ。何を見るのも、何を見ずに消えるのも。


 廃墟のような都市を一人で歩く。諦観から大通りを堂々と歩いていたのだが、すれ違う者たちはそんなドミニクにろくに目を向けることもなく、学園へ向かうようにと怒声を降りかけて去っていく。緊急時のため、必要以上に頭が回らないのだろう。警視院の者は灰色の人間たちを探しているのだろうに。
 馬鹿な奴ら。そう内心で呟いて、ドミニクは一途学園を目指した。
 そういえば、こんなに道の中央を堂々と歩くのは初めてかもしれない。生を受けてから日陰に潜み続けたドミニクは、日差しを首筋に受けながら思う。汚れた自分の姿は、白日の下でさぞかし醜く見えるだろう。
 シェンナの姿は何処にもない。あんなことを言ってしまったから、きっと見捨てられたに違いなかった。闇を彷徨った者の末路はこんなものかと、ドミニクは他人事のように考える。
 講堂や教室が開放された学園では、避難してきた人々を分け隔てなく迎え入れていた。若者たちの住処であるそこに多種多様の人間が集う様には、不思議な印象を受ける。空気に染み出す不安と恐怖は茫洋としたドミニクにも感じられた。ざわめきはまるで始まりの地の駆動音のよう。あそこにいた者も、ここにいる者も、そう変わりはないのだ。
 実際、学園内は混乱の極みにあった。市長たちの機転で避難誘導は円滑に達成されたが、この状況で研究を優先させる学者がいるのが学術都市グラーシアである。更に指導者層に悪夢となって襲い掛かったのが、前日の機関車の脱線事故の一報であった。陸の孤島であるグラーシアは、その生活に必要な全物資の輸送を蒸気機関車に頼っている。これが麻痺してしまっては都市は外界から遮断されたと言っていい。更に都市からの退去手段も絶たれてしまったのだ。
 そして何よりも学園を混乱させた理由は、その長たる者の不在による。理事長が職務を代行することでどうにか踏ん張っているが、若くして長年采配を振るった男が抜けた穴は彼らにとって大きすぎた。
 こうした上層部の混乱は、最下層にまで確実に伝播する。学園内でも指示が行き渡らない為の不和が、ところどころで火を噴いていた。
 なんて愚かなんだろう。言い争う男たちや途方に暮れて佇む研究員たちを、ドミニクは醒めた目で見やる。そんな愚者が夢を見るから、汚れたものを生み出すのだ。最初から何も見なければ良かったのに。
 だから突如として名を呼ばれたとき、ドミニクは神経が焼け切れる思いを味わった。
「おい、ドミニクっ!!」
 視界が真っ白になり、弾かれたように振り向く。まさか、と思う脳裏が、現実の認識を曖昧にする。結果、ドミニクは呆けたようにぼんやりと小柄な個体を迎えることになった。
「なにやって――いや、お前! 今まで何処にいたんだ、心配したのに大丈夫かよ、ここで何してんだよ!?」
 ティティルであった。光を集めた大きな瞳が無茶苦茶な問いを浴びせかけてくる。擦り傷の多い腕が伸びて、遠慮なく肩を揺さぶってくる。その痛みが、ドミニクに現実を知らしめる。反応の鈍いドミニクに、ティティルは苛立ちを露にまくしたてた。
「黙ってちゃ分かんないだろ!? 一人ならこっち来いよ、父さんもいるから。具合悪いなら母さんが診てくれる」
「もう、どうしようもないんだ」
「あ?」
 乾いた口内はろくに動かず、ドミニクの言は半分もティティルに届かなかった。しかし、くすんだ瞳に浮いた闇を見て、ぞっとしたように少年は息を呑んだ。
「……僕はもう助からない」
「え、なんだよ。お前」
 あちこちに言葉を彷徨わせて、ティティルはようやく事の深刻さを理解したようだ。
「お前……何処か悪いのか?」
 ドミニクは答えない。伸びっぱなしの髪で同じ色の顔を隠すばかり。
「だ、だったら尚更来いって! オレの母さんは医者なんだ、どんな病気だって治して」
「治らないんだよ!」
 唐突に弾けた怒鳴り声に、ティティルは言葉を失った。周囲の注目を意にも介さず、ドミニクは荒んだ目で少年に怒りの刃を振るう。
「もうすぐ死ぬんだ、僕は。何をやったって死ぬんだよ。はじめから決まってたんだ、だから……っ!」
「……」
 稚気の残る顔が色を失い、唇を戦慄かせるのをドミニクは見た。けれど、矛先はもうそこしかなかったのだ。自分は最後に自分を気にかけてくれた人でさえ傷つけるのだ。
 瞳を瞠るティティルを前に、ドミニクは更なる闇に沈む。だから自分は救いようがない。こんな呪われた身に伸べられる手など何処にもないのだ。
 己の世界に没頭していた子供たちは、そこに近づいてくる大人たちの姿に気付かなかった。気付いたときは既に、ドミニクの肩に大きな手が置かれていた。
「君」
 陰が日差しを隠して視界を埋める。ぬっと顔を近付けてきたのは、警視院の制服を着た男だった。不審げにドミニクの様子を上から下まで舐め下ろす。だがドミニクも抵抗をしなかった。ただ、男の手の感触を気味悪く思っていた。
「君、名前は。親御さんは何処にいるんだね」
 警戒心を与えぬためか、警視官は上面の笑みを向けてくる。ドミニクの灰色の髪や瞳は、彼らが追う人間と同じものなのだ。
 ドミニクは答えず、俯いたままだった。そうして警視官が何かを言おうとしたとき、硬直から開放されたティティルがそれを遮っていた。
「ち、違うんだよっ!!」
 警視官とドミニクの合間に割り込むようにして、腕を一杯に開く。
「こいつは怪しい奴じゃないんだ、オレの友達なんだよ。名前はドミニク、ちょっと前から都市に住んでるんだ。だからそいつのことはオレが保障するよ!」
 ドミニクは馬鹿らしさに笑いそうになった。これではまるで怪しい奴と言っているようなものではないか。そう冷えた視線でティティルの頭を眺めていると、警視官も表情を険しくして尋ねてきた。
「都市の何処に住んでいたんだね?」
「えっ、えっと、それは……」
 ティティルは表情を青ざめさせ、口ごもってしまう。
「ちょっと一緒に来て貰えるかな」
 無慈悲な現実に必死で抗うティティルを他所に、ドミニクは冷静だった。
「……触れるな」
 警視院の手を振り払う。伝わってくる体温が途方も無く気持ち悪かったのだ。警視官は顔を僅かに歪めたが、それ以上は何も言わなかった。
「こちらに来なさい。君に聞きたいことがある」
 大きな影が鷹のような警戒心を持ってしてこちらを見下ろしてくる。
「お前ももうすぐ死ぬのに」
「ん?」
 小さな呟きは、完全には耳に入らなかったようだ。だがそれ以上の何をする気も起きず、ドミニクは警視官に従おうとした。
「ま、待てっ!!」
 切迫した声に振り向いたドミニクは、一瞬、何が起きているのか分からなかった。
 弾丸のように飛び出したティティルが、警視官の腰に取り付いていた。ドミニクに注意を傾けていた警視官が、思いがけぬ一撃に姿勢を崩す。
 不意に風が吹いて、灰色の髪をはためかせた。
「逃げろ、ドミニクっ!」
 鞭のような声が届く。ドミニクは、それを嘘のように見つめる。
「何してんだよ、早く行け――わっ!?」
 屈強な腕で引き剥がされて、ティティルは尻餅をついた。しかし子供への手加減が、彼に大した怪我をさせなかった。身軽に飛び起きると、今度は腕を目掛けて突進する。
「こら、やめ――!」
「行けっつってんだろ馬鹿!! ぼさっとすんなよ!!」
「……」
 ドミニクは無言でそれを見つめる。灰色の胸は、疑問で満ちていた。何故そのようなことをするのだ。何故こんな薄汚れた自分を庇うのだ。
 瞬間、唐突に耳鳴りを感じてドミニクは体を強張らせた。大気が収縮を始め、空がぐんぐんと大地に近づいてくる。
「おい、ドミ――」
 声を荒げたティティルの体が、警視官と共に流れる。ドミニクも同時に平衡感覚を失って後ろに倒れた。大地の唸り声と激震が、聖なる学術都市を直下から襲ったのだ。
「わあっ!?」
 ティティルが素っ頓狂な声をあげて石畳に叩きつけられる。天も地も割れよと言わんばかりの力のうねりに、みるみる石畳に亀裂が走り、轟音と人々の悲鳴が重なった。
「始まった……」
 懐かしい魔力の気配に、ドミニクは表情もなく瞳を瞬かせる。人の営みをぐずぐずに踏み潰す崩壊の波が、都市中を暴風のように駆け巡る。
 もう目を閉じてもいいか。どちらにしろ、この体もすぐに朽ちる。
 ドミニクは遠すぎる空を瞳に映しこんだまま、意識を闇に閉ざそうとした。
 耳元で予感がざわめく。誰かの声。光。玩具のように弄ばれるそれらは、命の光。
 視界の隅で蹲る、巻き毛の少年。警視官がそれを庇おうとしているが、二つの命をもろとも食い尽くすであろう脅威が迫っていた。地盤が脆くなり、自らの体を支えきれなくなった樹木が、めきめきと音をたててその巨躯を鎌のように振り下ろす。
「……」
 放っておけばいい。どうせ早いか遅いかの違いだ。世界は優しくない。闇はいつでも隣にある。彼らもそれを知ればいい。止まらない崩壊を前に、業火のような絶望を味わえばいい。
 巻き毛の少年が目を硬く閉じ、身を震わせていた。馬鹿。いつもの身軽さはどうした。大人も大人だ。とっさの機転もきかず、少年に覆いかぶさっているだけなんて。馬鹿じゃないか。人間なんて。その一つ一つの生に、大した意味も持たず、光の中を行く者はごく一握りしかない。なのにその光をちらつかせて、自分に生きることを強制する。なんて憎く、悔しく、そして優しい――。
 唐突に思い出す。懐に入れた包みの固い感触。
 いつか触れた、光の色。
「――ぁ」
 灰色の瞳に閃光が走る。呼吸を忘れた体が跳ねて、指先が印を結ぶ。宙に満ちた魔力はそれだけで実を紡ぎ、集束した力が一定の流れをもってして力の奔流となる。
 煌きをいくつも散らせたそれは、瞬時にして樹木を貫き、崩れ落ちる方向を変えた。間一髪、二人のすぐ隣に倒れた樹木は、葉のついた枝を断末魔のごとく震わせる。
 ドミニクの足は、同時に地を蹴っていた。何をしているのか、自分でもよく分かっていなかった。
 気がつけば、足元にティティルが蹲っていた。世界はまだ混沌の中にある。その腕を力任せにとったドミニクは、大地の束縛から逃れるために天を願った。
「――っ!?」
 顔を蒼白にさせたティティルが、我が身に降りかかった出来事を理解できずに目を剥く。矢のように空まで上ったドミニクは、そうして、やっと自分の息が切れていることに気付いた。


 ティティルはたった数秒の間に、あたかも自分が一度死んで、また生まれ変わったように感じていた。
 死んだ人は空に昇る。そんな御伽噺が脳裏を駆け、ならば死んでしまったのだろうかと思う。今、自分は翼を得たかのように空に浮いている。鳥にでもなったみたいだ。
 そうしてティティルは、自分の腕を掴むドミニクの横顔に気付いた。半ば呆然とした様子で俯いている。人形を思わせる表情に、一度口を開いて――ティティルはやっと、自分のいる場所を知覚した。
 瞬間、ティティルは悲鳴をあげた。
「わ、わああっ!!?」
 足がつくべき地面が、遥か遠い。大都市が箱庭に見えるほどまでの高度に達した体は、落ちればばらばらに砕け散るに違いない。そんな想像が頭を過ぎり、ティティルは一層青ざめた。
「ちょ、な、なんだこれっ!?」
 冷静に考えれば目の前の少年が魔術を行使したと分かったはずだが、そのような余裕もない。ティティルは怯え、恐怖し、ドミニクの腕に縋り付いた。
「痛……」
 ドミニクは顔をしかめて、隣の少年を見やる。哀れなほどに震えるその姿は、ドミニクに妙な感慨を与えた。――こいつでも怖がることがあるのか、と。
「……おろしてやるから、わめくなよ」
 超然としたドミニクの態度を、ティティルは目を丸くして見つめて、それでようやく僅かな落ち着きを取り戻したようだった。

「こ、これ、お前が?」
「他に誰がするんだ」
「さっきのおまわりさんは」
「さあ。運が良ければ生きてるんじゃないか」
 ――どちらにしろ、もうすぐ死ぬけれど。
 ――この、目の前の少年も。
「……」
 ティティルの顔は今にも泣き出しそうであった。足を所在なさげに動かし、ぽつりと呟く。
「飛んでるんだな、オレたち」
「浮いてるっていうんだよ」
「……すげえ眺め」
 ドミニクの腕に抱きついたまま、ティティルは恐る恐るといった様子で下界を見下ろした。
 見る者を圧倒する白亜の都市は、こうして見るとただの積み木の町だ。平原の中にぽつりと落ちた、白い染み。いとも簡単に踏み潰されてしまうのではないかと、不安すら覚える。
「さっきのあれ、地震っていうのか?」
「……さあ」
「戦争――ってやつか?」
「僕に聞くな」
 すげなく返しながら、確かにな、ともドミニクは思っていた。これは戦争だ。歪みを作ったものと、それを受け継いだもの、あるいは何も知らなかった者たちの。生きることは戦いなのだ。利害は衝突する。憎悪は膨れる。求めるものを手に入れる為に、何かを捨てながら、絶望を知りながら、誰もが光を求めて彷徨っている。
 けれどもう疲れたのだ。だから。
「……なあ、ドミニク」
 唐突に名を呼ばれて、思いがけず心に波紋が落ちた。
「空を飛ぶのって、すげえ憧れてたけど――空の上って寒いんだな」
 風の抵抗は魔術によってある程度相殺していたが、ティティルはそう眉尻を下げた。
「戻ろう。ここは人のいていい場所じゃないよ。神様がいるところだ」
「……」
 ふわふわと灰色の髪を躍らせながら、ドミニクはティティルを見つめた。
「父さんと母さんも心配だし――」
「このまま遠くに行くって言ったら?」
 狼狽に頬が震える様を、はっきりと記憶に刻む。この少年と過ごす時も、あと僅かでしかない。
「それは……」
 ティティルは困惑に言葉を濁し、目を泳がせる。しかし、返答は思いの他しっかりとしていた。
「寂しいじゃないか。こんな空の上じゃ。何にもないよ」
 次第に視界が眩んでくる。魔術を使いすぎているのだ。空気が薄いのも相まって、軽い頭痛がした。体が酷く冷たい。
 雲ひとつない大気は澄み渡り、遠くを鳥が飛んでいる。たった一羽で、風を切りながら。鳥は進化の過程で翼を得る代わりに、飛び続ける宿命を背負った。空を舞う翼に必要となる莫大な養分の摂取のために。隠れ場所のない空の中、彼らは翼を広げている。いつかは死に還るのに。
 そのように生きて、何が得られるのだ。退化した脳ではそれすら考えることを放棄したのか。
 ドミニクは、生きる意味を考えて涙を流す。
「僕はもうすぐ死ぬ」
 ティティルは何も言わなかった。言えなかったというのが正しいか。ドミニクの腕を握り、じっと唇を噛み締めている。
「だから、何処にいたって同じなんだよ」
 空の上にいようと、地の上を這いずっていようと。この世は、自らを苦しめることしかしないのだから。
「……嫌だ」
 俯いたティティルは、押し出すように呟いた。
「そんなの、嫌だよ」
 それを聞いて、ぱっとドミニクの頬が赤らむ。
「お前が言うなよ! 僕の気持ちも分からないくせに」
 怒りを迸らせた刃は少年の胸を裂くかのように思えたが、逆にティティルは眦を吊り上げて掴みかかってきた。目を瞠ったのはドミニクの方だった。その茶色の瞳から血のような涙が噴き出していたのだ。
「嫌だよ! なんでだよ、死ぬとか言うなよ。お前がいなくなるなんて、そんなの嫌だっ!」
「は……」
 胸が詰まって、言葉が出てこない。しかし黙ったら自分が悪いことになる気がして、必死で声を絞り出した。
「我侭言うな! 仕方ないって言ってるだろ、僕がいなくったってお前には、」
 大切にしてくれる都市があって。
 夢があって、未来があって。
 きっと、自分には与えられない光を信じて生きることが出来るのに。
「嫌だ!!」
 少年はそれを叩き斬るように否定して、喉から絶叫を走らせる。
「絶対、絶対そんなの嫌だからな!! お前がいないなんて……、せっかく、せっかく、友達が出来たのに」
 みるみるそれは萎んで、すすり泣きに変わっていく。涙で顔がぐしゃぐしゃに歪み、まるで別人のようだ。
 ドミニクは、呆然とそれを見つめるしかない。
「嫌だよ……ドミニク。お前ともっと遊びたいのに、もっと色んなもの見せてやりたいのに」
 縋るように腕を掴んでくる。胸に沸いた感情を持て余して、ドミニクはどう反応すればいいのか分からなかった。
 ただ、唇が勝手に言葉を紡いだ。
「ごめん」
 ティティルの喉から、嗚咽が漏れる。それを塞ぐために、もう一度口を開いた。
「……ごめんな」
 己の生には、何の意味もないと思っていた。あらゆる歪みの最果てにいた自分だ。ただ憎悪を振りまき、人を傷つけ、何も出来ずに朽ちていくのだと。
 なのに、何故少年は泣くのだろう。
「僕のことは、忘れるといい」
「嫌だよ、そんな……こと」
 涙に声を途切れ途切れにさせながら、巻き毛の少年はかぶりを振る。
「馬鹿だな、お前」
 僕のことなんて覚えていたって、悲しいだけなのに。
 ドミニクは薄く笑う。なのに視界の端が潤んで、どうしようもない。それ以上は歯を食いしばっていないと駄目だった。それでも涙が溢れてしまいそうだったので、空を見上げた。滅びに瀕した都市を睥睨する空は、残酷なまでに晴れ渡っている。青すぎる青が、瞳を熱く焼く。
 息を大きく吸った。自分の腕に縋るようにして泣いている少年の体温が、じかに感じられた。ああ、生きている。この少年は生きている。そして自分も、まだ生きているのだ。もうすぐ塵となって消えてしまうけれども、それでも生きている。
「……なあ」
 灰色の少年は、ゆっくりと下降を始めた。連れを怖がらせぬよう、出来るだけゆるやかに。けれど本当は、この時が永遠に続けばいいと思っていた。
「ティティル。お前、この都市が好きか」
 泣き腫らした顔をあげたティティルと目があう。
「うん」
 弱い命だ。無力に過ぎる。嬉しければ笑い、傷つけば嘆く。なんて単純で愚かな存在だ。
「そうか」
 ドミニクは小さく頷いた。自分もきっと同じなのだろう。悲しいことがあると、愚直なまでに悲しんだ。そして、この少年と出会って。
 灰色の記憶に、僅かな光彩を得て。
「分かったよ」
 地に降り立つと、ティティルはぺたりと座り込んでしまった。それは幸いだったかもしれない。吐き気と眩暈を我慢するために、ドミニクも暫し目を閉じて黙っていなければいけなかったから。
 そうしてそれらを苦労して呑み込んだドミニクは、ティティルの手を引いて学園の正門を潜り抜けた。地上は未だに騒然としており、混沌の様相を呈している。誰かが怪我人の存在を訴えかけ、誰かが人々を講堂へと誘導する。そんな中、悲鳴のような呼び声があった。
「ティティル!!」
 二人して振り向くと、そこには濡れたような茶髪を乱した女性が、目を剥いて駆け寄ってくるところだった。
「あ……」
 母さん。
 茫洋としていたティティルが、小さく呟く。その瞳に再び涙が浮いて、母の抱擁を受け止めた。女性は外聞なく嗚咽を零しながら、少年の頭を掻き抱く。すぐに父親らしき男性も駆け寄ってきた。母の腕の中にある少年の無事を確かめるように膝をついて、表情を歪める。
 それらを目に焼き付けながら、ドミニクは一歩、二歩、と後退した。これでいい。帰るところのある者は、そこに帰ればいい。
 母の体温に今更ながら恐怖が染み出してきたか、しゃくりあげ始めたティティルだったが、ふと大切なことに気がついて体を離した。振り向いた先で、既にドミニクは何歩も遠いところにいる。
「――」
 駆け出そうとしたのだろう。その体が前にでる。しかしドミニクは首を振った。少年の両親が、不思議そうにこちらを見ている。珍しい容姿をしているからだろう。そう、自分がいるにはここ明るすぎるのだ。
 けれど、そんな光を僅かでもこの胸は感じ取ることが出来たのだ。それ以上の何を望むことがあるのだろう。
「じゃあな」
 そこにいるのは闇に紛れて牙を剥く灰色の生き物ではなかった。
 人としての笑みを浮かべ、ドミニクは手を振る。
「さよなら」
 何かを叫びながら、ティティルが駆け出す。泣きだしそうな顔で。しかし少年と幸福な時を過ごすには、残された時間はあまりに短い。
 細い足が地を蹴った。空気が集束し、跳ねるように少年の体は宙を舞った。
 ティティルが伸ばした手は、もう届かない。
「ドミニク!!」
 あっという間に空へと飛翔した少年は、まるで羽根が生えた天使のように笑い、そして。
 二度と、ティティルの前に姿を現さなかった。


 ***


「ふむぐぶっ!!?」
 スアローグがそんな奇声をあげたのも、この地震では無理もなかった。しかも彼は丁度二段ベッドから降りようと、梯子に足を引っ掛けていたのである。ものの見事に後頭部からの着地を決めた彼は、そのまま意識を失った。引き出しが意志を得たように中身をさらけだし、ばさばさと落ちて彼の体を埋めていく。
「スアッ!」
 少年の悲惨な運命を神も哀れんだか、幸いなことにそこには彼の友人が居合わせていた。エディオは激震の中、転びながらも友人の元へ駆け寄ろうとする。彼らは避難命令を受けて、必要最低限の荷物を持ち出そうと準備していたのだ。
 肝を冷やしながらもスアローグに降りかかった荷物をどけていると、暫くして揺れは収まった。引き出しの中に入っていたものが衣類や小物で良かったと思う。発掘された少年は、幸いにして大した怪我はしていないようだ。
 しかし完全には胸を撫で下ろせない気分で、エディオは険しい目を外に向けた。
「……の野郎、何処ほっつき歩いてやがる」
 数日前に行方を眩ませた紫の少年の佇まいがちらりと過ぎる。この地震に巻き込まれていなければ良いが。
 とにかく今は、学園へ向かわなければいけない。ここのところの非常事態の連続で、地震の後でもエディオは十分に平静を保っていた。心が麻痺していたのかもしれない。とにかく彼は行動を起こすため、ぐったりしたスアローグの胸倉を掴むと、無慈悲な平手打ちを数発くらわせた。可愛そうだが、手っ取り早く意識を復帰させるにはこれが一番なのである。まあ、彼のそれはやや事務的に過ぎたが。
「――うっ」
 ぴくりと眉が動き、眼が開く。
「大丈夫か」
 抑揚のない問いに、しかしスアローグは、苦しげに顔を歪めた。
「……ぅ、痛い」
「何処だ」
 まさか骨でも折ったかと、エディオは緊張する。
「なんか、頬っぺたがすごく痛い……」
「……」
 エディオは無言で立ち上がり、荷物を担いだ。
「行くぞ」
「えっ、――あれ。い、一体、何が起きて」
「急げ」
 ギラリと光る眼差しで座りこんだままのスアローグを急かす。それでやっと自分に降りかかった出来事を思い出したスアローグは、周囲の状況を知覚すると同時に色を失った。
 部屋は暴風が通り過ぎた後のような惨状を呈していた。足を天井に向けた椅子、落ちて割れた食器の数々、落ちて時を止めた時計――。今まで優しく部屋を彩っていたものが破壊された様は、刃のような衝撃を与える。
「スア」
 鋭い呼びかけに、はっと我に返ったスアローグは、自分の手が硬いものに触れていることに気付いた。引き出しの中からぶちまけられたものの一つだ。それを見て、スアローグはぎょっとした。グラーシア学園の生徒が卒業時に貰う金属製の紋章だったのだ。
「何やってる」
「こ、これ、エディオのじゃないよね?」
 赤い宝石のついたそれを掲げて見せると、エディオは不審そうに目を細めた。
「なんだそれは」
「卒業証だよ、うちの魔術科の」
「まだ卒業してねえだろうが」
「――じゃあ、これって」
 この部屋に住んでいた、もう一人の少年の所有物。同時に二人はそう思い当たり、エディオは舌打ちをして、スアローグは目を逸らした。彼が何処で何をしているのか、今は皆目分からないのだ。何故彼はこのようなものを持っていたのだろう。
「とにかく急げ」
「わ、分かったよ」
 スアローグはそれを懐にしまい、まとまっていた自分の荷物を引っ張りあげた。荷物といっても、必要最低限のものなので大きくはない。
 連れ立って外に出た二人は、そこにあった光景に愕然とした。美しく翼を広げる白亜の都市の無残な姿が、冬の陽光に晒されていた。道も建物も関係なく亀裂があちこちに入り、倒壊した建物は瓦礫の山と化して、昔の姿を想像することも難しい。地盤がよれた為か、ところどころで下水が地面に噴出している。悲鳴や怒号があちこちで聞こえるそこは既に、栄えた都というにはあまりに悲しい様相を呈していた。
「落ち着いて! 学園まで非難して下さい! 学園は安全です!」
 埃塗れの警視官が住民の誘導に右往左往しており、歩かなければ、とスアローグは吐き気を飲み込む。しかし、隣のエディオは目を瞠ったまま、ぴくりとも動かない。
「エディオ。行こうよ」
「母さん」
「え?」
 倒壊した建物を見つめていたエディオの体が、ふらりと傾ぐ。おかしいと思ったとき、既に彼の体は弾丸のように飛び出していた。
「ちょ、エディオっ!?」
 駆け出した方角は、学園とは真逆。スアローグは一瞬の硬直を経て、慌てて背中を追いかける。
「何処に行くんだい!」
「テメエは先に行ってろ!」
「そ、そんなこと言われたって」
 この状況で一人になりたくない――そんな子供じみた言が喉まで出かけて、スアローグは赤面する思いで飲み込んだ。結果、無言を返すことになる。
 エディオが向かった先はグラーシア国立病院の方角だった。それを見て彼が何の為に走っているのか理解したスアローグに、迷いが生まれなかったわけではない。しかしそれ以上に、今走ることをやめたら、背後から迫る恐怖に食われて動けなくなってしまいそうだった。
 足元は陽光に照らされて残酷なまでに明るい。雲ひとつない青空が、逆に不気味な朝であった。
 警視官の制止を振り切って辿り着いた先の病院は、幸いなことに倒壊を免れていた。病人を搬送している最中であるらしく、正門前は医師や病人たちでごった返している。粉塵や人の体温のためか、辺りにはむっとするような臭気が立ち込めていた。戦場のような光景だ。エディオは足を止め、途方に暮れたようにそれを見回した。
 やっぱり帰ろう。数秒の沈黙にスアローグがそう口を開きかけたとき、だがエディオは再び走り出している。
「ちょっ……」
 言葉が、息が切れているために続かない。お陰で結局追うことになる。院内に入るときに止められるかと期待したが、しかし混乱の最中では誰も飛び込んできた少年に気を配る者はいなかった。白い静寂を叩き割るかのごとく足音を響かせながら、回廊を進む。だが、流石に階段を上った先では彼らを呼び止める者があった。
「君たち、何の用だね? ――む、君は」
 医師の一人がエディオの姿を見とめて、顎を引く。一瞬、エディオはこの呼びかけも無視するのではないかと肝を冷やしたが、逆に少年は猛然とそちらに掴みかかって行った。正直スアローグは、心臓が止まる思いだった。
「ルーシャ・ギルカウは!?」
 抜き放った刃を思わせる鋭利な問いかけに、しかし老境に差し掛かる医師はたじろいだ様子を見せなかった。
「落ち着きなさい。まだ搬送されていないよ。だがじきに――」
 刹那、硝子が割れるけたたましい音が階上から降り注ぎ、三人は目を剥いて天井を見上げた。みしみしと嫌な軋みをあげる四方の壁が、破片の粉をふく。
「ひっ……」
 自分が発したとは思えぬ呻き声に愕然としながらも、スアローグは無意識に逃げ場を求めて周囲を見回した。だが狭い院内では建物を出ないことにはどうしようもない。
 だというのに、エディオは迷わず踵を返して階段を駆け上り始めた。勘弁してくれたまえ、とスアローグは涙が滲む思いだ。ただでさえ幼少時の記憶が蘇る場所なのだ。女のものと思われるけたたましい声が聞こえると、エディオは更に焦燥にかられて足を速める。スアローグと医者の男も、必死で後を追うしかなかった。
 果たして最上階にあがると、そこには異世界じみた光景が広がっていた。割れた窓ガラスから吹き込んだ風が廊下の空気をかき混ぜる。そこに立っていたのは、茶髪を振り乱した女。スアローグは全身の血が動きを止めるのを感じた。長髪に顔をほとんど隠し、白い装束を着た女性――それはいつか見た、エディオの母に他ならない。だが、廊下の中央に立つその姿はあまりに異様であった。周囲にぱりぱりと光の筋を走らせ、足元に白衣を着た職員を平伏させている様子を、悪鬼と呼ばずして何と呼ぼう。
「母さん――!」
 何が起きているのか、エディオにも分からなかったろう。だが全ての理屈を跳ね飛ばしてエディオは駆け出した。伏していた一人が、まだ意識があったのか必死で静止を呼びかけていた。
「やめなさい! 来ては駄目だ――」
 そんなもので、エディオが止まる筈がない。呼吸を忘れた一瞬の出来事。エディオは、見えない壁に弾かれたように吹き飛んだ。人形のように体が飛んで、背中から床に叩きつけられる。
「――ぅあ」
 それを立って見ていることしか出来なかったスアローグは、明滅する視界に眩暈を覚えた。何が起きている。何が――。
 呼吸を荒げ、咳き込みながらエディオが体を起こす。鮮やかな緑の瞳が、燃えるような感情を宿している。床に散乱した硝子で何処か切ったのだろうか。紅い血の印象が、鮮烈に視界に焼きつく。
「エディ……」
 やめるんだ。そう叫ぼうとした。嫌だった。誰かが傷つくのを目の前で見るのは。傷ついた心に向き合うのは。臆病な自己は、そう嘆く。いくら嫌悪しようと捨てられない自らの性。けれどそのときは、純粋に、目の前の少年に襲い掛かる危惧を案じていた。
 女が鼓膜を破らんばかりの金きり声をあげた。頭を抱え、業火にまかれたかのごとく身悶える。球形を成す稲妻の奔流が、更にその勢いを増す。集束する魔力にがたがたと窓枠が震える。
 何かを叫びながら、エディオが駆けていくのが見えた。溢れる白に、他に何も映らなくなる。全てが無に帰ろうとする。
 瞬間だった。見知らぬ声が鞭のように耳朶を打った。
「どけッ!!」
 何かにぐいと肩を掴まれ、後ろに吹き飛ばされる。背中から壁に当たって、乾いた堰が喉から突き上げた。耳鳴りが一層酷くなり、次の瞬間、均衡を無くした魔力の渦が凄まじいエネルギーを散らせた。ほとばしる光の柱が天に伸び、大気を震わせて突風を起こす。
 誰かが前方で杖を掲げ、衝撃を天に逃がしているようだった。意識が目茶目茶に切り刻まれて、スアローグはひたすら自分の顔を腕で庇った。魔術の心得があるとはいえ、このような事態では行使など夢のまた夢だった。
 暫くしてやっと暴風が止み、自分の四肢がまだ動くことを確認したスアローグは、恐る恐る顔をあげた。そこに、黒いローブを着込んだ老人が立っていた。彼の足元には、先ほどまで狂女の元にあった人々が投げ出されている。
 そして老人が立つ先では床が崩れ、壁が失せ、そこにいた筈の母子が消失していた。
「チッ。逃がしたか。私も老いたものよの」
 しわがれた声で愚痴りつつ、老人は瓦礫の破片を蹴飛ばす。風通しの良くなった廊下に吹き込む風が、ばさばさとその裾を揺らす。
 放心状態のスアローグが目を丸くしていると、老人が振り向いた。僅かに心が跳ねて、体が硬直する。ローブの陰に覗く肌は皺くちゃで染みが浮き、なのに瞳だけが爛々と輝いている。老人は、笑み皺を深くするように、禍々しく口元を吊り上げた。
「感謝することだ。私が来なければ、お前も今頃塵だった」
「――ぅ、あ、あの、エディオ……は」
「少年が一人、あの女の転移術に巻き込まれた。運が良ければ生きてるだろうて。それにしてもあの女、一体――是非捕まえたかったのだが」
 思考の海に沈む老人の紡ぐ単語は、耳にするにはあまりに現実味がない。だがそれらを飲み込む前に、ふいに老人はニヤリと笑った。
「お主、学園の生徒だな?」
「え?」
 制服を着たスアローグを正面から見下ろした老人は、すっと杖を下げ、命令するようにスアローグに突きつける。
「来い」
 その言葉を理解するのにたっぷりの時間を使い、煤と埃に塗れた無防備な顔で、スアローグは聞き返した。
「……はい?」
「貴様の耳はただの風穴か。私が来いと言っているのだ、さっさと立て」
「い――?」
 腰を抜かしている間にも、階下より爆発を聞きつけた職員が上ってくる。老人は舌打ちをして、スアローグの胸倉を掴んだ。
「全く。どこぞの奴といい、学生の質も落ちたものよの、嘆かわしい」
「へっ」
 おかしい、と思ったときには、既に自分の体が宙に舞っていた。老人が魔術を使って窓から身を躍らせたのだ。――スアローグの腕を掴んだまま。
「クク! 護符なしに魔術を使えるのは良い気分だな」
「え、な、へっ、わあああっ!?」
 無論、そんな悲痛な叫びは誰に届くこともなく。
 こうしてスアローグは、黒いローブを着た老人に拉致されることになった。




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