-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

08.始まりの地



 セトが導いた先は、セライムが期待したような人里ではなかった。紫の翼をはためかせたセトは、鬱蒼とした林に分け入ったのだ。川岸に辿り着いてからはそこに沿って進むことが許されたため、水で顔を拭うくらいは出来たが――。
 一体、何処に連れていく気なのか。セライムの脳裏を埋めていたのは、一年前、同じようにセトに導かれた記憶だった。あのとき向かった先では、紫の少年が血溜まりの中に倒れていたのだ。
「――っ」
 鮮烈すぎる思い出に吐き気を催して、セライムは口元を押さえた。紫の少年の笑顔に掠れて忘れかけていた記憶が現実に被って、まざまざと浮かび上がる。
 紫の少年と、紫の鳥。彼らは同じ時期に白亜の都市にやってきた。紫の少年は、全ての記憶を失って。
 しかし、セトの方はどうなのだろう――?
 もちろんセトがただの鳥であることなど百も承知だ。鳥が人のように記憶を持ち、意志をもって動くなどありえない。
 だがセライムは拭いきれない疑念を抱いている。セトはいつだって紫の少年を見守っていた。一年前だって、この鳥にセライムが導かれなければ紫の少年は命を落としていただろう。オヴェンステーネ伯爵の屋敷のときも、目を開けられないほどの光の中で聞いたのは、確かにこの鳥の鳴き声だった。
「……今度は何処に連れていくつもりだ」
 無論、ここでセトが姿を消してしまえば、途方に暮れるのはセライムの方だ。セライムの目は、セトの姿を見失わないようにと必死で空を見上げている。だが、セライムには確信があった。セトは自分を何処かに連れていこうとしている。紫の少年に何かが起きたのかもしれない。
 谷底に落ちた汽車のことが気になったが、そろそろ後続の汽車が発見しているだろう。そうあることを祈りながら、セライムは唾を飲んで歩き続けた。
 次第に辺りが暗くなり、空気がみるみる冷たくなっていく。背の高い木々が生い茂る林は牢獄のようで、本当に自分が前進しているのかも分からなくなる。
 そんなとき、セライムは信じられないものを見た。木の一つにとまってセライムが来るのを待つセトの体が、燐光を放ちだしたのだ。
 淡くぼんやりと光るそれは、青や紫の幻想的な色合いをもってセライムの方まで流れてきた。触れてみるとじんわりと暖かい。光と熱の放出は魔術の基礎中の基礎であったが、それが一羽の鳥から零れ落ちる様は、まるで絵本に出てくる世界のようだった。
「……ありがとう」
 セライムの心細さを気遣ったのだろうか、光の熱で周囲の空気が暖められる。外套を着ていたため、それだけで寒さはなくなった。見上げると、黒い木々に縁取られた先に、月の姿が見えている。冬は日没が早いのだ。
『川――多分レイユ川の支流だと思うけれど』
 地図を思い浮かべると、レイユ川を覆う森林地帯があったことを思い出す。確か、グラーシアの南部にある林から繋がっていたはずだ。
 一体何処まで誘われるのか。いよいよ道なき道を進むにも疲労を覚え始めていたとき、セライムは始まりの地に辿り着いた。


 ***


 妙な感覚があるのは、セライムに魔術の心得がある為だった。
 外套を着込んでいるというのに、うっすらと鳥肌が立つ。かの地の中央から、魔力が無尽蔵に溢れ出しているのだ。
 木々を切り開いた中にぽつりと存在する灰色の建物を見て、セライムは得体の知れない恐怖を覚えた。正方形に近い無骨な建造物は、そう大きなものではない。しかしそれがグラーシアにあるのならまだしも、鬱蒼とした森の中にぬらりと立ちはだかる様は、見る者に奇怪な印象を与える。
 耳朶を叩くは脈動に似た駆動音。建物というよりも、その直下に蠢くものの唸り声のような。その不協和音は聞いているだけで精神がおかしくなってしまいそうだ。沸き立つ空気と相まって、なんという場所に来てしまったのかと困惑を覚えずにはいられない。
「セト、……ここは」
 燐光を消したセトは、闇に紛れてほとんど景色と同化している。
 そのとき、セライムはあることに思い当たって、僅かに口を開いた。
「……ユラスの、故郷?」
 口にしてから、心臓が大きく鳴る音を聞く。セトが導いた場所。セトと紫の少年の関係。紫の少年が、己が『作り出された』と語った場所――。
「まさか」
 喉の奥で呟いて、しかし体が震えだすのを抑えきれない。脳裏で火が踊る。僅かな情報によって紡がれた物語の、終着点にある影法師。
「お父さんも来た場所……?」
 セトが翼を揺らす。静かにしろ、とでもいいたげに。
 だが、火がついた心の内を止めることは出来なかった。
「なあ、どうして今更こんな場所に連れてくるんだ? ユラスに何かあったのか? お前は一体――わっ」
 ぱっと目の前に闇が広がったと思った瞬間、後ろに押し倒される。セトが全身を以ってぶつかってきたのだ。独特のやわらかい感触に目を白黒させていると、砂を踏み鳴らす足音を耳にして凍りついた。
 目線だけを動かすと、草を踏みしだきながら闊歩する影が夜闇の中に見えた。声を聞きつけたのだろうか。注意深く、視線を配っている。セライムがいたのが木陰でなかったら、すぐにでも気付かれていたかもしれない。
 息を詰めるというよりはただただ恐怖に凍り付いて、セライムは微動だに出来なかった。胸の上にセトが乗っているようだったが、こちらも彫像のように動かない。
 暫く影は辺りを彷徨い、忌々しげに舌打ちをして去っていった。たっぷり数分経過してから、セライムはそろそろと体を起こす。乗っていたセトも跳躍して、地に降り立った。
「……」
 視界が酷く暗い。心臓が破裂しそうなほどの速度で波打っている。
『人がいる』
 その事実はセライムの胸を熱く焼いた。ここは恐らく、ユラスやシェンナが生み出された場所だ。まさか、内部では未だに何かが生み出され続けているというのか。
 落ち着けと命じても、心は事実と記憶を吐き出し続けてうまく整理できない。
『誰かに知らせないと――』
 そこにようやく思い当たって、セライムは背を向けようとした。今すぐにここから離れたかった。恐怖と嫌悪は、愛しい人々に会いたいという気持ちに変わっていた。彼らの顔を見て安心したかった。ここは――なんて恐ろしい場所なのだ。
 セトが、ぴくりと頭をもたげる。風が唸ったのはそのときだった。否、それは風ではない。大気を震わせ、木々をみしみしとたわませるそれは、魔力による干渉だ。そう思ったときには、セライムは思わずセトの小さな体を抱きしめていた。
 次の瞬間、頭の上をぞっとするような空気の塊が吹き抜けていく。大気に魔力が満ち、干渉された空間がひしゃげて軋み声をあげる。強大な魔力は縦横無尽に巻き起こり、四方八方へと刃となって散っていく。
「――っ」
 木々がぼろ切れのように薙ぎ倒され、轟音が鳴り響いた。セトがいなければ、半狂乱になって泣き叫んでいたかもしれない。必死で唇をかみ締めながら、セライムはそれをやり過ごした。

 だがあるとき、唐突にセライムは気付く。
 過ぎ行く魔力の気配。
 何故だか、酷く懐かしい。
 けれどそれは、胸を締め付けるほどに物悲しく、絶望に満ちている。
 そう。この声は。
 何かを請う、この声は。

『ユラス……?』

 じわじわと体内が汚染される。過ぎ去るだけとはいえ、人は魔力の中にあるだけでその干渉を免れない。川の中の石のように意識を少しずつ剥ぎ取られながら、セライムはそこに虚無を見た。そう、この波動には憔悴した虚しさしかない。
 何をそんなに悲しんでいるのか――。霧散しかけた意識の手を伸ばして、それを探ろうとする。しかし、あるのは凍れる闇だけで。あと少し先に進めば、見えるかもしれないのに――。
 セトの温もりだけが、一抹の光となってセライムを照らしている。僅かに力付けるように。けれどそれは闇の全てを照らすほど強くはない。空気が薄れた場所に迷い込んだ鳥のように、セライムはそのまま意識を手放した。


 ***


 夜になれば一部を除いて廃墟のように静まり返る学術都市グラーシア。しかしその日は陽が落ちた後も蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。
 グリッドもまた、騒乱に巻き込まれて眉間にしわを寄せている一人である。研究室で使っていた魔力を用いる計測器が軒並み壊れ、朝から仕事にならなかったのだ。
 聞けば、このような現象はグラーシア全域で起きているらしい。魔術文明の頂点に君臨する学術都市はその大部分の機能を停止し、今だに復旧の見込みが立たない。送電が止まっていないのが不幸中の幸いだったが――。
「全く」
 外に足を向けたグリッドは、南の空を睨んだ。そちらから魔力の塊が押し寄せているのは、魔術の心得がある者ならば誰でも分かる。結界すらすり抜けて都市に吹き付けるそれは、計測器を狂わせ、人の肌を粟立たせ、空気をざわめかせている。
 周囲を見れば、機材を片手に持った者たちがたむろしている。この現象を解析しようと学者根性を丸出しにしている連中だ。魔力の波動の中で気分を悪くした者もあったが、それも少数だった。
 だが、とグリッドは研究所の目の前に佇みながら、予感に眉を潜める。この感覚は一体何だ。凶暴な巨人が背後にいるかのように背筋が冷たい。思わず振り向くと、そこにはヴィエルが立っていた。
「――っ?」
 素で目を見開いてしまう。いつの間に出てきていたのか。グリッドとは数歩離れた場所で、彼女も険しい表情を空に向けている。
 話しかけようと口を開いて、グリッドは慌ててそれを止め、睨むに留めた。自分から口火をきるのはなんだか癪だったのだ。
 ヴィエルはグリッドの存在になど気にも止めずに空の気配を探っている。そんな様子にかちんときて、今度こそ何か言ってやろうと息を吸ったそのとき。
 桃色の髪が、ふわりと翻った。色の奇抜さで忘れがちだが、真っ直ぐで艶やかな質感を持つ娘の髪がなびく様は目を奪われるほどに見事だ。こんな非常事態だというのに、グリッドは空から飛来するものも忘れて立ち尽くした。

 そんなグリッドを。
 風のように大地を駆けたヴィエルは、鋭く蹴り飛ばした。

「がっ!?」
 何が起きているのか判断する前に体が飛び、思い切り地に投げ出される。視界が回転し、思考が刹那真っ白になった。
「な、」
 たっぷり数秒の間を仰臥する形になったグリッドは、打ち付けた腰を押さえながら、信じられない気分で起き上がる。桃色の髪の娘はこちらの様子に構いもせず、ただ空を見上げている。
「何をす――っ!」
 最後まで言葉は続かなかった。数秒前まで自分が立っていた場所が視界に入ったからだ。
 信じられない光景がそこにあった。光弾でも落ちてきたかのように、地面に人の頭ほどの穴が開き、淵から煙をたなびかせている。電灯に照らされたその様は、グリッドを凍りつかせるのに十分すぎる威力を秘めていた。そして戻ってきた聴覚には、群集の悲鳴が突き刺さる。
「……」
「屋内へ」
 ヴィエルが、険しい顔のまま身を翻す。尻餅をついたまま我を忘れていたグリッドは、数秒を要してから、慌てて眼鏡の位置を直した。
 そのまま立ち上がろうとするが、腰が抜けて思うように力が入らない。ヴィエルが振り向かなかったのが不幸中の幸いであった。無様によろけながら、グリッドも彼女を追って、研究室内に入った。
 大気に満ちる魔力はいよいよ色濃くなり、濃密な空気が体内まで入り込む。
 屋内に入ろうとそれは変わりなく、騒ぎ立てる者たちの声と相まって、グリッドは眩暈を覚えた。


 ***


「これはどういうことですの!?」
 鈴のような声も、張り上げられれば不快なものになる。グレイヘイズはげっそりとした面持ちで虚空を眺めていた。だからどうして、自分はこのような事態の中で少女のお守りを勤めているのだろうか?
「何故待っていなければいけないのです。私は――」
「足手まといだからですよ」
 さらりと言い放つと、セシリアは不服げに口ごもる。
 二人は、今は亡きオヴェンステーネ伯爵の居住地跡で険悪な雰囲気を漂わせていた。どれもこれも、あの主人の命令のせいだ。
『僕は様子見てくるから、あとは頼んだよ』
 焼け焦げた石段に腰掛けたグレイヘイズに対するセシリアは、殺気をまとって立ち上がっている。日没後の林は、まるで闇の海のよう。このような時間帯、どちらにしろもう動けるわけがないだろうとグレイヘイズは嘆息する。
「かの地には何が潜んでいるのか分かりません。レンデバーが調べに行っていますから、今は待つしかありませんよ」
「でも、ユラスさんもそこにいるのでしょう」
「……」
 グレイヘイズはセシリアに紫の少年がそこに向かった理由を教えていなかった。グレイヘイズでさえ未だに信じられないのだ。彼の根本的な瑕が、記憶を失っていたのではなく、記憶を元から持たないことにあったことなど。
 セシリアは鼻から息を抜いて、そもそも、と続けた。
「どうして今まで見つけられなかったのです。大規模な研究機関なら、隠蔽されようが場所くらいは分かったはずでしょう」
「かの地を知る者は、全て殺されたのです」
「……今、なんて?」
「リーナディアに持ち込まれた宝珠の解析とその有効的な活用法の研究の内容は、政府内でも極秘扱いにされていました。真相が闇から闇に葬られたのもその為。研究所と政府の橋渡し役を遣っていた男は、去年の夏に。その前後にも数名が亡くなっています。僅かな資料ですら、『不慮の火事』によって全てが焼けました」
 ――この屋敷のように。
 言外にそう語るグレイヘイズを前に、セシリアは唇を噛み締めた。
「……あの闇から出ずる者は政府を憎悪していた筈ですが、全てが彼らの仕業ではないでしょう。政府内でも、反対派の動きがいつでもありました。あの研究は莫大な資金と労力を経て運営されていましたから。それで40年間も研究を続けた成果が――あの少年一人ですからね」
 ユラス・アティルド。強大な魔力と知識を埋め込まれた、人類の英知の結晶。
「その少年が彼だというなら、本当に採算が合いませんわね」
 皮肉を聞いて、グレイヘイズも内心で淡く笑う。そうだ。彼ほど『英知の結晶』などという肩書きが似合わぬ者もいないだろう。能天気に笑い、苦悩して、限りなく人として生きていた。
「ならば、何故彼は外に――」
 セシリアの問いは、最後まで続かなかった。

 昼間の最後の気配が消えていく時間帯だった。唐突に込み上げた予感に、セシリアははっとして空を見上げた。そうして、薄青に浸された世界が魔力の津波に呑まれるのを見た。
 口元を押さえてよろめく少女を見て、グレイヘイズが片眉をあげる。魔術の心得のない彼は、魔力による異常の認識が鈍いのである。しかしそれを差し引いても、セシリアの反応は異常だった。次の瞬間、少女は全身を痙攣させて崩れ落ち、自らの頭を鷲掴みにして絶叫をあげたのだ。
「――っ!」
 硬直から解かれるのに数秒を要したグレイヘイズは、遅まきながら空の異変に気付いた。夜の帳が落ちようとしている空――そこを、何か、巨大なものが駆けている。
 それらは糸が紡がれるように集束して光の線となり、尾を引いて都市に落ちていった。瞬く間の出来事であった。
 駆け寄った先で少女を抱き起こすと、喘ぐような叫びがある。
「ユラスさん――!」
「落ち着いて! ここは安全ですから」
 そう言って、少女を抱えて廃墟の下に隠れる。光がここに降り注げばそれも無駄だと理解していたが、これが今のグレイヘイズに出来る最良の策だった。少女は瞬間、何かに気付いたように目をカッと見開き、手負いの獣のように暴れだした。
「駄目、駄目!! やめてっ、あなたのせいじゃない、だから――っ!!」
 狂ったように腕を伸ばし、指で空を掴む。今にも駆け出していきそうな少女を押し留めながら、グレイヘイズは声を荒げた。
「どうしたんです!」
「ユラスさんが――うう、ぁああああっ!!」
 金切り声をあげると、糸が切れたように少女は意識を失った。魔力に干渉されたためだろうが、それにしてもこんな苦しみを見せるのは尋常なことではない。
『……人に作られた体のせいか?』
 グレイヘイズは少女を見下ろし、そして愕然として振り向いた。あの魔力が飛来した元であろう場所に行った主人のことを思い出したのだ。
「レンデバー……!」
 災厄が降り注いだ都市が、にわかに悲鳴をあげだした時刻であった。




Back