-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

07.狂人の夢



 枝の天蓋の隙間から覗く光は、多分、己を焼き尽くす業火の象徴。
 目を閉じているというのに眩暈が酷い。体はからからに乾いて、指先の感覚が曖昧だ。なのに、胸を苛む確かな痛みが意識を縛り付けている。何も感じなくなってしまえば良かったのに、最後まで自分は苦しみ続けるのだ。
 シェンナはひとり、もたれかかっていた木の根元に手を這わせ、立ち上がろうと足に力を込めた。しかしぼろきれのような体は宙に流れて木の葉の絨毯に倒れこむ。髪に絡んだ葉の欠片を払う力すら、今の彼女には残されていない。
 けれど、行かなくてはならない場所があった。
 辿り着かなければならない処があった。
 何ひとつ守れず、何ひとつ残せずに消えていく我が身に出来る最後の一手。人はそれを償いと呼ぶのかもしれないが、彼女はそこまで甘ったるい心を抱えてはいない。
 ただ、温もりを求めていた。
 彼女の心が僅かな鼓動を持った、儚い一時。その記憶に縋って、彼女はここまで這ってきたのだ。生きてきたのだ。
 一定期間中に魔術を行使しすぎた体は限界を迎え、崩壊の時が迫っていた。失敗作たる女は、老人のようになった指で地を掴み、緩慢な動きで体を起こす。ほつれた髪。染みが浮いた肌。惨憺たる女の様相を見るものは、誰もいない。
 しかし、もう少し、もう少し――。
 確か、あの木の向こうだ。そこまで行ければ良い。そうしたら、力を抜こう。もう、何も考えなくていい。
 立つことも叶わず、赤子が這うように進む。静寂の林は、風ですら口を閉ざして女の最期を見守っている。
 そうしてシェンナは、目的の地に辿り着いた。灰色の瞳をゆるりともたげ、そこにあるものを認識する。
 巨木の麓に立てた、一本の杭。他人が見ても、その意味の理解は出来ぬだろう。ここにあった憎悪も悲鳴も銃声も、全て時と共に霧散してしまった。あるのは久遠に変わらぬ空虚だけだ。
 墓標と名付けられるそれを見た瞬間、シェンナの体は沈んだ。彼女が犯した、たった一つの罪の前で。

『……人はこれを見て、哀れというんだろうな』
 唐突に、誰かが上空から語りかけてきた。
 身を起こすことの出来ぬシェンナには、枝の隙間から注ぐ光が突然意志を持ったように感じられた。
 それは、風切り音を立てて笑う。
『お前は哀れなのだろう。無知であったという点で。無垢なお前は、純粋に彼を愛し、憎んでしまった』
 これは、断罪の福音だろうか。
『違うよ。俺は神じゃない。しかし、真実を語ることが出来る』
 楽しげな音色を乗せて、それはくるくると旋回する。
『アラン・デジェム。お前が殺し、ここに眠る男。運悪く始まりの地を見つけてしまった、正義感溢れる若い男。彼は人を生み出す研究を見て、確かに生理的な嫌悪を覚えていたよ。だから彼は全てを壊そうとした――お前は、そう思っている』
 体がひとつひとつ、その機能を停止していく。なのに、心に穴があいたようだ。そこから零れ出す疑念。感情。想い。それらが、シェンナの意識を繋ぎ止める。
『そう。最後に聞いていくといい。折角、これだけの力を取り戻したのだから――』
 揺らぐ世界に在る、圧倒的な存在感。やはりシェンナには、全能の存在に思える。
『そうだな。お前にとっては、神であったかもしれない』
 では、アランは何を思って崩壊を願った?
『お前を救うためだよ』
 嘘。
『はは。お前はあのときもそうやって真実を跳ね除けた。ろくに考えもせずに』
 違う。
『人なれば、仕方のないことだ。恥じることではないよ』
 違う。私は人ではない。人になりきれなかった失敗作だ。
『しかし心を持った。壊れる前に奥底に仕舞いこんだ人の心。故にお前は懊悩の中にあった』
 違う――。
『だから、アランの心にも響いた』
 やめて。あの瞳を見せないで。
『お前をあの地から連れ出すために、あれは中々面白い策を立てた。ただお前を連れ出しただけでは、肉体の破滅を招くだけだと分かっていた。だから、成功検体を排し、研究を破滅させて世間にこれを暴露し、お前を社会的に救おうと』
 やめて!!
『騒ぐ必要はない。どちらにしろ、あれはしくじった。愚かな男だった』
 くつくつと、声は愉悦に揺れる。空気が揺れる。唇が、震える。
 どうして――。
『嘆く必要もない。どちらにしろ、お前は滅ぶ。あの男と同じ場所で』
 何故、私は生まれてしまった。
『さあ。人が考えることはよく分からない。けれど、彼に聞けば分かるかも』
 誰?
『我が翼で呼んでおいた。もうすぐ来るよ。俺はもう行く。導かなければならぬ者が、まだいるから』
 誰――あなたは。
『繋がりを絶とう。さようなら。我が一部であったもの』
 ふわりと目の前に落ちる、紫の羽根。瞼の奥で光が瞬き、潮のように気配が退いていく。満ちていたものが再び空虚に変わり、シェンナは呆然と羽根を網膜に映した。
 鮮やかな色の向こうで葉を踏みしだく足を見たのは、そのときだった。
「――」
 静寂を裂く、生の気配。
 がさり。がさり。
 息遣い。僅かに荒い。
 がさり、がさり。
 もう、何もかも遠かった筈なのに。
「シェンナ」
 呼びかけではない。それは、そこにあるものを、ただ唇に乗せたような音色。
「――シェンナ」
 だから彼は、再びそう言った。嘆きを込めて。
 ローブで隠された、今にも崩れ落ちそうな長身。体を庇うように腕を回している。しかしその瞳は朝の泉のように穏やかで、心から、憎い。
「ふ、――ふ」
 血の泡と共に零れる笑みは、消え行く者が最後に残す感情だ。僅かな力が戻るのをシェンナは自覚した。塵になりかけた指で地を掴み、睨み返す。
「よく見ておくといい」
 深い闇の中、そこだけが鮮明に映し出される。何故ここにきたのか。何故己がここにあるのか。何故、いびつなものは生まれてしまったのか。それら全てを忘れて、迸る激情をそのままに彼女は叩き付けた。

「これが、あなたの父の――セトルド・ヴァレナスのしたことだ!!」


 やはり、そのときも。
 決して、フェレイ・ヴァレナスの心がざわめくことはなかった。


「……ええ」
 長身の男は、塵にも等しき灰色の女を膝をついて抱き起こそうとする。酷く、緩慢な動きで。
 それが何を意味しているのかわからないシェンナは、牙を剥いて抗った。
「触れるな」
「そうですよ。全て、私の父の罪です。あの男の罪は、海よりも深い」
 シェンナは、引き上げられたそこから見えた彼の瞳の冷たさに、息を詰めて言葉を見失う。
「母を捨て、私を捨て、理想郷を夢見続けた。歪んだ狂人の夢です。狂った夢は、いびつなものを生み出し続けた。歪みはそうして連鎖した。命をもって償おうと許しがたい」
 糾弾の言霊はしかし、空虚な物悲しさがある。男の瞳に熱がない為か。
「ならば、何故歪みを引き継いだ?」
 全て消してしまえば良かったのに。なのに彼は闇に帰すことをせず、紫の少年を救った。
 問いに、はじめて彼の瞳に揺らぎが生まれた。こんなに近くなければ分からなかっただろう、それほどに、ほんの僅か。
「――悲しいではないですか」
 抱きかかえられたシェンナは、彼の傷に気付かない。こうして今、言葉を紡いでいることですら奇跡であるということも。
 ならば、人はその生の内、どれだけの奇跡を見過ごすことになるのだろう。
 シェンナは、どれだけの奇跡を見過ごしてきたのだろう――。
「闇の内でたゆたったまま生を終えるというなら、それは幸福なのでしょう。しかし、僅かでも光を知った者に、手を伸ばすことをも許さないのは」
 それは、人として、とても悲しく思うべきことだ。
 私がそうであったように。
 優しく無感動な所作で、男はシェンナの頬に指を添える。互いにそこに温もりはない。
「しかし得られるものはない」
「ええ」
「苦しみながら死んでゆけと?」
「苦しまないのなら、それは死んでいるということです。狂った者が、苦痛と共に生の尊さを忘れるように」
「――」
 シェンナは薄く笑う。
「私には、何も出来なかった」
 否。無知でありすぎたのだ。
「アランも、ドミニクも。守ることも、与えることも出来なかった」
「いいえ」
 男はふんわりと否定する。陽光を被った細い髪が、さらさらと揺れる。
「人はそこにいる限り、誰かに何かを与えずにはいられないのです。どんなにいびつなものであっても、――それが光になることもある」
 灰色の娘を闇から救おうとしたのだ、と語った誰かの声を、シェンナは記憶の中に聞く。
 涙が浮いた。指先が砕ける。
「あなたは、どうして」
 焦点を失った銀板は、既に男を見ていない。そこに映るのは、波打つ金髪を犬の尾のように束ねた若者であり、あるいは彼女を失敗作と断じた狂者であった。または冷徹な瞳をした灰色の男であり、感情をさらけ出すことを厭わなかった少年であった。
 それらを全て受け入れた上で、男は微笑む。己という存在を、彼は酷く粗雑に扱う。だから彼は、女がうわ言で誰の名を呼ぼうが、眉一つ動かさなかった。そこに己の名がないとしても。
「シェンナ。私はこれから、私の願いを叶えに行きます」
「わたしは……どうして」
 さらさらと端から崩れていく。風化した塵の灰が、ローブの裾を汚し、地に落ちる。
「はじめから救われないことなど知っていた。その潔さが、父に業を成させたのでしょう」
「嫌」
「けれど、救われないのだとしても」
「そんなのは嫌」
「歩かなければ、光はないのです」
「ぃや――!」
 悲鳴に近い慟哭の余韻を男は静かに聞いて、耳元で囁く。
「いいのです。あなたは歩き続けた。正否なく、あなたは目を閉じることをしなかった。だから」
 空気に蝕まれ霧散していく体は、最後に福音を聞く。

「あなたは悪くない」

 何かを掴もうとした指先は既になく、喘ぐように女は口を開いた。しかし、もうその喉が機能を果たすことはなく。
 灰色の女は男の腕に抱かれて無に帰した。


 ***


 闇のゆりかごで、心が揺れる。誰かに呼ばれた気がして意識をもたげる。
 見渡す限りの黒。そこに父の影があった。広い背中に、束ねた金髪が揺れている。なのに、暗がりの中では顔を伺うことが出来ない。そして、呼ぼうにも口すら動かないことに気付いて慄然とする。
 ――お父さん。
 唐突に、影の輪郭がぐにゃりと歪む。みるみる収縮したそれは、一人の少年の姿を成した。だが、やはり表情は定かでない。足から首までは、はっきりと見えているのに。
 言い知れぬ不安が闇を揺らせて、彼の影すら歪ませる。このままでは彼が父のように消えてしまう。
 もう嫌だ。大切な人を失うのは。
 慟哭の絶叫に、しかし彼の姿は霞んでいく。行かないで、行かないで。一人にしないで。そう、何度も叫んでいるのに――。
 虚無の泉に波紋を呼んだそれは、意識を覚醒に導く。

 そうして目覚めた瞬間、身を裂くような鈍痛に襲われて、セライムは思わず呻き声を漏らした。
「ぅ――つ」
 瞳を硬く閉じて体を抱き、痛みが過ぎるのを待つ。肩に杭でも打ち込まれたような痛みがある。起き上がることも出来ない激痛に、ただ歯を噛み締めているしかない。
 しかしそれも、ある時を境に失せていった。薄く瞳を開いた先で光が舞った気がしたが、定かではない。
「ん……」
 自分が草の生えた地面に伏していることに気付いて、セライムは靄がかかった思考をはっきりさせようとする。
 そうだ。確か実家からグラーシアに戻る途中だった。列車に乗って窓の外を眺めていて。
 それで――?
 思い出せない。ふつりと記憶が途切れてしまっている。眉根を寄せて、セライムは体を起こす。熱のない橙の光が注ぐ、夕暮れの時間帯だった。丸一日寝ていたのでもなければ、そう時間は経っていない筈だ。
「あれ」
 無意識に唇から言葉が漏れて、セライムは愕然とした。自分の周囲にあるものは、そこから現実感を剥ぎ取るには十分過ぎるものばかりだった。
 荒野の砂に混じって硝子と金属片が散乱している。平野を一直線に伸びていた筈の線路が――ない。代わりにあるのは、空に向かって捻じ曲がった黒いオブジェ。見えない巨大な手で掴んで折られたような金属のそれが、嘘のように打ち捨てられている。その剥こうにあるは、断崖――。
「……え」
 精神の許容量を超えた情景に、セライムは暫く目を見開いたまま砂っぽい風に吹かれていた。立ち枯れた木々が細々と生える乾季の平原は黄昏を思わせて、ぞっとするような寒気を伝えてくる。
 立ち上がることも出来ずに、四つん這いのままそろそろと崖の方に向かう。風に乱れる長い髪を肩の後ろに払って、その向こうを見下ろすと、汽車が捨てられた玩具のように遥か谷底に転がっていた。
 それは酷く現実感のない光景で、夢の続きなのではないかとセライムは考える。だって、やっと母と話し合って、学園に戻る途中で――。

 刹那、突然背後にけたたましい鳴き声を聞いて、セライムは危うく自分も崖から落ちるところであった。
 ぞっとして絶壁から飛び退り、振り向く。そこには、一羽の鳥がぴんと尾羽を立ててセライムを見上げているのだった。
「……セト」
 見る者の目を惹きつけてやまぬ、鮮やかな紫色。少年と同じ色をした、そして少年と共にあった紫の翼を持つ鳥。その瞳が、獣とは思えぬ知性を湛えて少女を映している。
 何かの予感に、セライムの胸は震えた。何かが始まろうとしているのだと、理由もないのに、はっきりとセライムは感じた。
「ひ、人を呼ばなくてはいけない。ここは、ここは何処だろう?」
 何故自分だけが外に投げ出されていたのか。また、あの高さから落ちれば生存者の存在など絶望的ではないか。それらを考える前に、セライムは問うていた。高さからして、崖を下りるなど到底無理だ。鳥に救いを求めるなど普段はありえなかったが、鳥にはそうさせるだけの威風がある。
 そうしている内に、セライムはやけに肌がぴりつくことに気付いた。この感覚には覚えがある。――そう、魔力による干渉だ。耳元で僅かな唸りが聞こえる。言葉になりそうでならないノイズに顔をしかめたセライムは、それが目の前の鳥の力なのだと気付いたとき、驚愕に凍りついた。
「お前」
 ふわり、と紫色の翼が広がり、夕焼けの光彩を受けて輝き、あるいは長い影を落とす。息を詰めた次の瞬間、セトの体は大地から解き放たれている。それが木の葉のように身を翻したため、セライムは声を張り上げた。
「ま、待ってくれ! あそこの人たちを助けないと――」
 セトは嘲笑うように高みに上り、弧を描きながら遠ざかっていく。
「待って……」
 反射的に立ち上がったセライムは、途方に暮れて周囲を見渡した。平原には町どころか、人の住む気配もない。国から一歩も出ていないというのに、異世界に迷い込んだかのようだった。古にリ・ルーと呼ばれた橙の黄昏、死の荒野。空の果てで弧を描く鳥の影。死のイメージが重なる。先ほどの悪夢に見た、少年の影がぐにゃりと形を変えて――。
「……や」
 無意識にかぶりを振っていたセライムは、弾けるように駆け出していた。
「待って! 待ってくれ――!」
 とろけた黄金の髪が尾を引いて、大きくはためく。
 遥か先で高みを舞う鳥は、まるでそんな少女を哂うかのように弧を描いて飛んだ。




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