-紫翼-
末章:レーヴェヴォール 06.論文の行方 赤光が窓から真っ直ぐに降り注ぐ夕刻であった。僅かな温度をもった光は、ガラスをつきぬけて車内を仄かに暖める。壁に頭をもたれさせて、セライムは窓の向こうの平原を茫洋と眺めていた。 それは、虚無を思わせる景色であった。車内には空席が目立つ。そして僅かな乗客たちも、世界が黄昏に染まる様をおぼろげな思いで過ごしているのだ。車輪がレールを噛む音だけが、秒針となって時を刻んでいる。 異世界じみた空間に投げ出されたセライムは、意識を遠くにたゆたわせることで我を保っている。早く会いたいと、遠い影を心に想った。会いたい人がいる。大好きな人たちがいる。失いたくないと心から思う。 「お父さん」 失ってしまった影の権化たる父は、記憶の中でいつも笑っている。紫の少年の命を奪おうとした父。けれど、少年が語るには、父は少年を見逃したのだという。父が人を撃てなかったというのは、父の性格を思えばよく分かる。 しかし――。 紫の少年は、父を見て、何を想ったのだろう。 銃口を向けられて、まさか黙っていたわけでもあるまいに。 「早く、会いたい」 会って話そう。真実を知って、泣いて、断ち切って。想いの整理はついた。今なら、何だって話せる気がする。こんなに身軽になったのだから。だから、今度こそ未来の話をしよう。早く会いたい。会いたい――。 かつん、と頭のどこかで反応するものがあった。砂粒が当たるような、僅かな違和感。 「……?」 セライムは瞳に光を取り戻し、ゆっくりと周囲を見回した。人気の少ない車内は、相変わらず静まり返っている。赤い絨毯が夕日と混じり、夢のような情景を生んでいる。 次の瞬間、窓の外が白に染まった。声をあげる暇もなく光は霧散し、代わりに大気を切り刻む刃が車体をもろに飲み込む。文明の結晶たる鉄の塊は成す術もなく大地から解き放たれ、飽きられた玩具がそうされるように、宙に放り出された。 轟音が響き、周囲のレールがひしゃげる。木々は粉々に砕け散り、土煙が赤い空を支配する。 瞬時、知っている光に包まれた気がしたが、それも定かではなく。視界が滅茶苦茶に回転したと思ったときには、セライムの意識は黒に閉ざされていた。 *** だから俺はツイてないっていってるんだ。 消灯した廊下の片隅、ボルドゥは闇に紛れてソファーに沈み、瞼を掌で覆っていた。吐き出される疲労の溜息は、体から最後の力を奪っていくよう。瞳の奥がじんじんと痛み、休息を強く求めかけてくる。 「だりー」 煙草が吸いたかったが、とても外まで歩いていく気力が起こらない。若い頃であったら、一日や二日寝なかったところで平気で動けたというのに。 「――くそ」 次に呟かれた苛立ちは、しかし別の事実に向けられている。つい先ほどまで治療していた患者のことだ。 『あの馬鹿』 夕刻に飛び込んだ疾風のような一報は、院内は無論のこと、ボルドゥの心をも震撼させた。世界に名を知らしめる学び舎の学園長が――。 舌打ちでその事実をかき消してしまえればいいのに。ボルドゥは、ソファーから尻がずり落ちそうになるのにも構わず、背もたれに頭を乗せて薄闇の天井を見上げた。 「――あの」 だしぬけに声をかけられたのはそんなときだ。こんな深夜に自分を訪ねてくる人間など、看護士程度しか思いつかない。だから、顔も向けずにひらひらと手を振った。 「あー、あと五分で戻る。ほっといてくれ」 「……」 気配は、しかし僅かな光源の方角から長い影を伸ばしたまま動かない。一人になりたかっただけに、猛烈な苛立ちが網膜を染めて、ボルドゥはぎらつく目線をそちらにやった。 「ああ? あんだ――」 よ、と続く前に声が切れる。眼光が急激に鋭利さを失い、頬を弛緩させ、口を半開きにし――とどのつまり、ボルドゥは間抜けな顔をした。 そこに立っていたのは、礼服に身を包んだ中年の男性であった。走ってきたのだろうか、僅かに服と髪が乱れている。暗がりでも分かるほど青ざめた表情には、切迫する想いを全力で封じ込めた余裕のなさがあった。しかしそれにしても――身分の高そうな人間である。 「え、あー」 だから俺はツイてないんだよ。 無礼極まりない態度で振り向いてしまったボルドゥは、やや現実逃避気味にそう考えた。 「ど、どうも。いや、面会時間はもう終わってますけど? それとも患者のことでしたら、どのような質問であってもお答えできかねますが」 こういうところで会話を逸らしてしまうから大物になりきれないのだ、自分は。たらたらと言い訳じみた弁を弄す舌に嫌気を覚えながら、ボルドゥは苦労して立ち上がった。足が棒のように頼りなく、血の巡りが悪くなっているのがよく分かる。柄にもなく余裕をなくしていたのだ。あの男が病院に運び込まれてきてからは。 しかし、目の前の男性は誰だろう。この時間帯にこんな場所まで来るなど、特別な許可を得ているに違いない。あの男に親族はいなかった筈だ。では警視院の者だろうか。にしては制服も着ていないし――。 「ボルドゥ医師でいらっしゃいますか。この辺りにいると聞いたもので」 「え――ああ、はい」 極度の疲労で即座の対応が出てこない。中年の男は、額の汗をハンカチで拭って、自らの身分を名乗った。 「――理事長?」 ああ。俺はきっと今、とんでもない阿呆面を晒しているに違いない。 そう思いつつも、身分証を見せられた頬の筋肉は簡単には動いてくれない。愛想笑いを浮かべようとして失敗した自分の顔は、多分見られたものではなかったろう。 『つーか、なんで俺んとこに通すんだよ』 確かに今回もあの男の担当はボルドゥが受け持ったし、グラーシア学園の理事長が来たとあれば、担当医に通すのが筋と考えたのだろう。しかしこっちも半死半生って感じなんだよ畜生、とボルドゥは見えない神に毒づいた。 「到着が遅れて申し訳ありませんでした。学園の方もごたついてしまって」 身なりの良い男は、ボルドゥ程ではなかったが憔悴した様子だ。学園長が消えた学園を取り仕切ってきたのだろうか。ならばこんな時間にやってきたのも頷ける。 「あの、――学園長の容態は」 ライラック理事長は、聡明な光を湛えた瞳で問いかけてくる。安易な気遣いはいらぬ手合いだ。そう認識したボルドゥは、正直なところを伝えることにした。 「危険な状態を脱したことは確かですが、意識も戻りませんし、楽観できない状態です」 「……」 静謐に瞬いていた光の色が歪み、苦悩に沈みこむ。薄暗い廊下の空気はひんやりと冷たく、現実を淡々と刻み続ける。だが、次に目を開いた理事長には、慰めなど必要ない毅然とした意志が宿っている。 「分かりました。ありがとうございます。――何卒、何卒よろしくお願いします」 頭を下げられて、ボルドゥは目をそばめた。なんて慕われていたのだろう、あの馬鹿は。 「学園の方は大丈夫なんですか」 「いえ――多少騒ぎになっています。元より臨時休校中でしたから、まだ良い方なのでしょうが。学園長が戻るまで、私たちで守るしかありません」 上に立つ人間は、いつでも最悪のシナリオを頭に思い浮かべているものだ。この理事長もまた、学園長にもしもの事態が訪れた場合についても考えているのだろう。しかし、覚悟を決めた表情には、切なる願いもまた垣間見える。心から学園長を案じているのは様子から明らかであった。 驚嘆せずにはいられない。このような感情を人に抱かせるまでに『成長』した、あの男の姿には。 「……しかし、何故このようなことが」 ボルドゥはすぐには答えず、薄暗い廊下の先を見やった。このずっと先に――彼は、昏々と眠っている。 ひたひたと近づいてくるグラーシアの異変に、ボルドゥもまた気付いていた。頻発する事件。奇妙な噂だけ残して消えていく怪奇。そして、国軍が突如として都市に雪崩れ込んできた矢先に起きた、今回の件。共通項は何もない。ただ、出来事だけが目の前を通り過ぎていく。言いようのない不安と違和感だけを残して。 「学園長は何故――」 「ええ。あれはあんな無防備に刺されるタマではありませんよ」 ポケットに手を突っ込んで、ボルドゥは理事長の言を遮った。とんでもない無礼であったが、理事長は別のところに興味を引かれたようだった。 「あなたは学園長と?」 「はい。腐れ縁です」 口元を歪め、ボルドゥは苦々しく笑った。 「でも、奴のことなら大抵知ってますよ。ええ、そうだ。あれは簡単に背後を許す人間じゃない。それだけは保障します」 一度口を開いてしまえば、疲労は無愛想な彼を殊更饒舌にする。ボルドゥは一報を聞いたとき、一瞬だけあの男が再び自らを傷つけたのではないかと疑った。しかし、それはありえないことだった。彼は既に定義していたのだ。自らに刃を当てるのは、『人』のすることではないと。ならば、誰よりも人であろうとした男が、そのような振る舞いに及ぶわけがない。 しかし隙のなさでも人間離れしていたあの男が他人の刃を受けるなどということも、同じくらいに考えられないのだ。ボルドゥは、理解出来ない出来事に苛立ちを覚える。だが、それを目の前の男性にぶつけても仕方のないことだ。 「……まあ、医者がこういうのもあれですが。奴が死ぬんだったら、空が落ちてきたっていう方がまだ理解出来ます。あれはそう簡単には死にませんよ」 他の職員に聞かれれば教授会への出頭は免れぬ暴言は、しかし陰のある猫背の医師にはよく似合った。 「そうだと良いのですが」 ライラック理事長は薄く笑う。長い年月を見つめ続けた双眸に、自嘲の光を宿しながら。 「完璧すぎる人でしたから。何か、一人で途方もないものを背負っていたのではないかと思うのです。あの人は、それが出来てしまう人だから」 今度はボルドゥが目を瞬く番であった。 「何か変わったことが?」 「いえ、――結局、私には分かりませんでした。お恥ずかしい話です。こんなに長い間、共に仕事をしていたのに、私はあの人のことを知らな過ぎたと今更ながらに思うのですよ」 呟く理事長を見て、当たり前だとボルドゥは思う。あれが全て作り物なのだと、看破できる人間がいるものか。あの穏やかな佇まいを見て、彼の苦悩を理解できる者がいるものか。自分のことですら目一杯の苦悩を抱えるというのに、他人のことに気など回る筈がない。他人を理解するには、途方もない労力を要するのだから。 彼らの背後にある嘆きなど。 届く筈もない。 「そういうもんですよ。だって奴は――」 「ボルドゥ先生!!」 甲高い悲鳴で、ボルドゥの言葉尻はかき消された。静まり返った院内を切り裂くように、声はわんわんと響き渡る。見れば、階段を下りてきた女性職員が駆け寄ってくるところだった。 「ちょ、何時だと思ってやがるッ」 周辺の病室では眠っている患者もいるのだ。あまりの行為にボルドゥは青筋を立てて怒りを露にした。だがそれも、彼女の口から次の事実が告げられるまでのことだった。 色をなくした唇が、震える声を紡ぐ。 「いないんです」 ふっと血液の温度が下がった気がして、ボルドゥはその場に立ち尽くした。 「は?」 理解の訪れぬ頭が白く焼け、黒に帰す。酩酊に近い眩暈。しかしこれ以上なく不快な――。 「いなくなってるんです」 口の形が、知った名を当該者として織り成す。待て、待て――そう念じても、時が止まることはない。 「学園長」 隣で誰かが呆然と呟いた。気がつけば、ボルドゥは駆け出していた。職員に何事か指示したが、その内容ですら自覚せぬままに。 階段を段飛ばしで蹴散らし、開かれた扉の先に飛び込む。異常を知らせる機械音が、そこでは現実を剥ぎ取るような無機質さで鳴っていた。 「……」 『私の望みは変わりませんよ。今も、昔も』 夜の帳が落ちた空間に、温もりはない。中央に置かれた寝具。生命を維持するために取り付けられた、数多の器具。それらはまるで王を取り巻く装身具のよう。しかし、既に王は――いない。 まさか。あの傷で、起き上がれる筈が。一体何処へ。あの体で。あの心で。 単語だけが意味をなさずに心に溢れ、ボルドゥは呻き声を漏らした。 「――んの、馬鹿」 次の瞬間には、弾かれたように踵を返して病室を飛び出している。 ツイていない。今日は――否。俺の人生は、とことんツイていない。あんな面倒な男に出会ってしまった、あの日から。 彼の影を探すべく、ボルドゥは深夜の廊下を走った。 ――もう彼を見つけることなど出来ないのだと、心の何処かで悟りながら。 *** 鼓動のような機械音。永遠の悪夢を思わせるその歌声は地中に埋もれ、幾重にも反響する。 人の夢が息づいたは遥かなる過去。今や無数の骸を抱えて眠る、ひとつの胎。 息を吹き返した始まりの地は、新たなる歪みを排出し続ける。 ガン、と荒々しく壁を叩いてヘリオートは舌打ちした。 「老いぼれめ、何処へやった――!!」 彼が立つ部屋は、ぶちまけられた紙束によって混沌の様相を呈している。椅子の足はひしゃげ、机は全ての引き出しの中身を吐き出して、彼の汚行を雄弁に物語る。 彼が探しているのは、この胎の支配者であった男が記した論文であった。そこには生命の秘密と――闇の底に眠る、あるものの研究がまとめられている。40年。そう、40年もの時を経て積み重ねられた知の集大成。――それが、何処にも見当たらない。 あれは、執筆者が自身で管理していた筈なのだ。しかし、かの金庫は既に空の中身を晒していた。彼の執務室。実験室。全てを手当たり次第に探索したが、徒労に終わるだけだった。 「――」 ぎりぎりと歯軋りをしながら、論文の行方を考える。二年前の崩壊の日、誰かに手渡されたに違いない。 では、誰に渡されたのだ。灰色の失敗作たちではないだろう。もしも彼らに渡れば、己が生を呪う彼らは迷いなくそれを闇に葬るからだ。あの狂った男が、自らの生きた証でもあるそれを彼らに渡すはずがない。 紫の少年という可能性もない。眠り続けていた彼は――真に、何も知らなかったのだから。 そして選択肢は、ひとつに絞られる。 「――」 唯一の成功検体を飼い馴らし、灰色の失敗作たちを制した、心から憎き一人の男。いつかの夜の顔がまざまざと網膜の裏に映り、ヘリオートは椅子を蹴り飛ばした。 「奴か!!」 いつだって全てはそこに行き着く。今や、真実の中枢は一人の男の手に移っているのだ。 「いつもこうだ――機会なんかきやしない、全てを賭けたというのに、全てを失ったというのに――!」 荒ぶる怒りから、何度も椅子や机を蹴り続ける。 「奴のせいだ、全て奴のせい――」 沸騰した湯のように臭気を吐き出す心の行き着く先は、純粋な衝動だ。 「殺してやる」 ぽつりと呟いて、踵を返した。あの論文がないのでは手探りでやるしかないが、出来るはずだ。たかが都市ひとつ消滅させることなど、造作でもないはず。その場合を考えて、あれを温存しておいたのだから。 沈黙した筈の胎は動き出し、目覚めた闇は不安定な力を幾度か無造作に吐き出している。力となり魔となって振りまいた刃を、ヘリオートは歯牙にもかけない。そこに起こる新たな歪みなど、気付くはずもない。 「ルーシャ」 愛した者の名を呼んで。 「仇は討つ」 ごうごうと鳴り響く機械音の闇に、彼は消えていった。 Back |