-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

05.告別



 そこは緑に囲まれた牢獄だった。
 愛する者を失った母は、壊れていた。
 崩壊の機微を敏感に感じ取った子供は、運命に恐怖する。
 母の手が伸びた。逃れようとした子供は、足をもつれさせて転倒する。
 元から逃げていれば良かったのかもしれない。しかし、普段の母は気丈な女なのだ。夫を失った悲しみなど、一片すらも見せない。
 だが、美しい硝子細工が次の瞬間砕けるように。ある時間、母は突如として別人となる。目を血走らせ、肩をいからせ、悪鬼のようになる。
「――」
 安定しない灯火に浮かぶ橙と黒。現実が揺らめく。不規則な風の音は、母の呼吸音。すすり泣くようでもある。
「外に出てはいけない」
 服を掴まれて引き起こされた苦痛に、嘘のような量の涙が溢れた。感情によるものではない。ただ、体がそう反応した。
「何処へ行ってもいけないの。私がここにいるから。守るから。私だけがあなたを認めるの」
 空洞となった瞳から、黒い臭気を撒き散らし。
「あなたは。あなたは――」

 わたしのものだから。

 髪を振り乱し、母は禍々しく笑う。覗く犬歯は、人を食らうそれ。やわらかな喉に指が食い込み、いよいよここまでか、と子供は考えた。
 しかし、諦めが子供の心を埋める寸前、母はぴくりと体を硬直させる。力が抜けた指から開放された子供は、糸が切れたように倒れる。そして母は、突然玉のような涙を流した。
「あ、あ――あぁ」
 蹲って激しく咳き込む子供を、母は壊れるほどに抱きしめる。髪に口付けをして、頬をすりつける。
「ごめんなさい、ごめんなさい――!」


 また今日も、消えてしまうことが出来なかった。
 子供は、扉を閉じる。机に伏してすすり泣いている母と、世界がひと時だけ切り離される。それは、痛いような、安心するような、不可思議な感慨を子供に与える。
 しかし、それについて考えることは、酷く億劫だった。

 闇の中で、子供は膝を抱える。
 父だ。父がいなくなってしまったから、世界はおかしくなった。
 この家には父が必要だったのだ。
 ひらめきは小さな火種。みるみるそれは形を成して、大蛇となる。憎悪という名の大蛇となる。
 悪いのは父親。父が全て悪い。
 その転嫁は、酷く心地よく胸に染みた。乾いた四肢は貪欲にそれを吸い込み――。
 自分が代わりに父になれば、母は元に戻るのだと思った。
 ならば、父になろう。父より完璧な父になろう。二度と、母を捨てないような。
 父になるには――父と同じ道を歩かなくてはならない。同じものを学ばなければ。同化しなければ。
 そう。自分は自分でなくてもいい。こんな苦しみを背負う自分はいらない。
 自分は、いらない――。

 胸に手を当てる。指先から、真珠色の光彩が生まれる。闇夜に浮かんだ子供の顔は、ぞっとするほどに冷たい。
 子供は瞑目する。生まれ持った類稀なる魔力を以ってして、儀式を完成させるために。
 正しい手段を踏まぬ魔術の行使は、術者と作用者の双方に苦痛を与える。その両方である子供は、痛みに歯をかみ締める。稚拙な様は、魔術とすらいえない。けれど、唱え続けた。自分はいらない。自分はいらない――。
 忘我の強制。ひとつ間違えれば死を免れぬそれを、子供は途方もない無知と純粋な意志によって完成させた。
 奇跡は一瞬。部屋には光が弾けたが、意識を手放した子供はもうそれを見ていない。


 そして朝。
 目覚めた『彼』は、透徹な眼差しで様相を俯瞰し、取り込み。
 ひとり、立ち上がった。


 ***


 光が弾ける。点から線となったそれは空の輝き。風圧で、扉が少し重たい。それをこじ開けると、体を洗うような風が吹きつけ、そして――。

 そこには世界が、広がっていた。

「だー、さみー」
 白衣に手を突っ込んで肩を寄せるボルドゥの後ろで、『彼』は佇んでいる。ボルドゥは振り向いて、眉を潜めた。明るい場所を見たからか、屋内のそこは酷く暗く見えた。
「ほら、外だよ。好きなだけ拝め」
 促してやると、『彼』は目を合わせずに頷いて踏み出す。冷たい風は瑞々しく澄んで、肺腑を洗うようだ。
 ボルドゥの眼前を通り過ぎた『彼』は、光の袂に足を踏み入れる。白い服の裾がはためき、色素の薄い肌が光を吸い込んだ。
「――」
 フェンスに囲まれた空間には、雪の色をしたシーツが泳いでいる。鮮やかな空には、棚引く縮れた雲。大地の動きを思わせる風音はごうごうと耳朶を叩き、白亜に煌く都市が眼下にその巨躯を横たえる。
 碁盤の目のように走る道。白で統一された家並み、どこまでも硬質な建物。生の気配を奪うようでもあり、しかし――限りない人間の英知を思わせることもある。そこには、確かに人間がいるのだから。
 光の中心で一人立ち尽くす『彼』の後姿を日陰で眺めながら、ボルドゥは煙草に火をつけた。煙は立ち上る先から風にさらわれていく。まるで人の心のように。
 輝きの中の『彼』は、時を忘れたように空を見上げていた。その足を地に付けたまま。傷つけば血を流す、人の体を抱えたまま。長く長く、気が遠くなるほどに長く。
 何やってるんだよ、と痺れを切らせて声をかけようとしたそのとき、『彼』は口を開いた。
「生きている」
 言葉は一息に霧散する。しかしそれは確かに心を叩いて、ボルドゥは息を呑みこんだ。
「世界は、生きているんですね」
 風になぶられた髪が、複雑な渦を巻く。頬に張り付いたそれを振り払うこともなく、『彼』は空を見上げ続けている。
 刹那、本当に頭がおかしくなったかと思って、ボルドゥは肝を冷やした。だが、『彼』はこれ以上なく穏やかに佇んでいる。
「どれだけ暗いと思っても、こんなに明るい」
 伸びた背筋は恐れを知らず、軽く握られた手は幸福を知らない。何ひとつとして持たずに光の世に放り出された若者は、いびつなものの声で問いを紡ぐ。
「人であったら、これを見て何を思うのでしょうね」
 喜びか、苦痛か、安らぎか、嫌悪か。『彼』は知らない。だから――求める。
「心が欲しい。人と同じことを思いたい。もう――父になるのは終わりにしようと思うのです」
 言葉には、ボルドゥの理解を超えた単語も混じる。しかし、目を焼くような青空の下、縫いとめられたようにいる『彼』の存在だけは確かなもので。
「あなた方人間が持つ心は、とても複雑です。多くの矛盾と無駄を含んでいる。非効率で、愚鈍で、救いようがないほどに劣っている」
 酷い言い草も、刃とはならない。ボルドゥは思考を超えた先で、薄く口角を吊り上げた。そうだな、と、肯定の笑みを。
「けれど、尊い。そこには光がある。互いを照らしあって、人は生きている。他者の存在を以って、闇を光に組み替える。たとえ、そこに更に深い闇を生んだとしても」
 そして『彼』は風の中で振り向いて――。

「あなた方は、私を照らした」
 目を細めて、フェレイ・ヴァレナスは微笑んだ。

 燃え尽きた煙草が指から落ち、風に遊ばれる。
「私は笑えていますか?」
 彼は、ふんわりと首を傾げる。陽だまりのような穏やかさをそこに称えて。
「――ああ」
 ほぼ無意識に肯定すると、良かった、と彼は再び笑った。
「あなた方の様子を見て、再現してみました。少しは人に近付けたでしょうか」
「……それは」
 言いかけたボルドゥを、彼は首を振って遮った。
「分かっています。人に似せたところで、私は人ではないのでしょう。私は今、夢見る姿を再現したに過ぎない。だから」
 これから探そうと思うんです。
 どこかに忘れてきた、心の震えを。
 生きる衝動を。意志がなくとも生きていける、その力を。
 世界はこんなに明るいんですから。
 そんな世界を前に、いつか、いつか――。

 誰かにとっての光になることが出来たなら。

 空の両手に光を抱き、彼は暗がりと告別する。そこにある光を抱き続けるために。
「外に出ます。二度とここには戻ってきません。私がしたことは――人として、しても良いことではないのでしょう?」
「……ああ、そうだな」
 なんて奴だ――。
 ボルドゥは目頭を押さえる。薄い溜息が合間から漏れた。光の中の若者が動じることはなかったけれども。
「知らないことが沢山あるのです。知るべきことがありすぎる、この世界には」
「アホ。全部分かるわけがねえよ」
「しかしその僅かな部分でさえ私は知らない」
 空っぽの胸に触れて、彼は苦笑する。人間じみた所作。ややぎこちなく、しかし限りなく本物に近く、それでいて――いびつだ。
「いつか、願ったことがあるのです。当たり前のようにある日常。父がいて、母がいて、陽は昇り、また沈む――。それを取り戻そうとして、私は壊れたのです。気がつけば夢を忘れてしまっていた。そこにある光から目を逸らしてしまった。しかしもう、私には何もありません。そしてそれは、自由であるということなのですね。ボルドゥ医師。この考えは、人として間違っていますか?」
「……お前」
 降り注ぐ陽光を取り込み、人間に似せて形成されていく擬似的な心。論理的に答えは出ども、快も不快もない。
「私は間違っていますか」
 燦然とした瞳は、この瞬間もボルドゥを観察している。人の振る舞いを覚える為に。
「お前な」
 心が弱りきっているのを自覚して、ボルドゥは小さく舌打ちした。自分はもしかしたら、とんでもない人間の目を開かせてしまったのではないか。そんな予感が、胸中を畏怖とも歓喜ともとれぬ具合に震わせていた。
「……答えがないことも、また答えです」
 赦しを紡ぐ音色は、全能を思わせる。彼はゆったりと聖なる学術都市を見下ろした。ここは、今日から彼にとっての戦場となるのだ。
「研究所は辞めようと思います」
「あそこじゃ限られた人間しか見ることが出来ねえからか?」
 彼はふんわりと頷く。
「この地で最も多くの人が集まる場所は何処でしょう」
「そんなん決まってるじゃねえか」
 ボルドゥは言ってから、ややためらった。これを口にしたとして、彼は一体、何処へ向かうのだろう。人の流れを見続けることで、彼が本当に元の心を取り戻せるとでも? 更にそのいびつさを広げることにはならないか?
 だが、次の瞬間には口元は笑っている。何を迷うことがあるのか。自分は医者だ。患者に救いを授けるために存在している。だから彼の行く先を見守っていればいい。彼の心を理解出来ないのだとしても。そこに光がないのだとしても。彼がそれで救われるなら。
「テメエがいたところだよ」
 風が、唸る。
 空の高みを鳥が舞う。
 彼は一度目を見開いて、そしてそこに理解を宿した。
「聖なる学び舎ですか」
 学者でもあった国の父ウェリエル・ソルスィードの悲願。選ばれた天才たちが集う、世界の最高学府。しかし、そこにいるのは紛れもなく人間だ。嬉しさに笑い、悲しみに身悶え、虚無を前に立ち尽くす――。
 かの高殿は、今いる場所からも見てとれた。数多の建物を牽制し、堂々と両翼を広げる白亜の学園。
 ボルドゥは、新しい煙草に火をつけた。何を目覚めさせてしまったのか、はっきりとはしない。しかし、地に足をつけた若者の横顔は、静かな決意に燃えている。もう、それは彼岸の住人とは呼べないだろう。彼はここに、光を見つけたのだ。
 踏み出す者の餞には良い風だった。大気の匂いを含んで、強く、濃い。
「――行きましょう」
 初めて彼は、己の意思で歩き出す。
 それは出発の合図であり、甘い闇との告別であった。


 紫の少年の目覚めより遥か、在りし日の出来事である。




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