-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

04.未来



 崩壊前の記憶は、ない。
 それが普遍であるのか稀有であるのか、フェレイ・ヴァレナスは考えるに至らない。どちらにしろ、事実は事実だ。何を思ったところで、変わる筈もない。
 しかし、客観的に見たとしても、それは稀なことではないだろう。幼少時の記憶とは、甘く、遠く、これ以上なく頼りないものである。実際にある物体に触発されて、確かな記憶が想起させられることも、ままあるが――。
 人は、記憶の多くを忘却する。同時に、そこにあった喜びも悲しみも。時の流れは、優しく全てを奪っていく。
 そういった虚無の良否は、今は脇に置くとして――。
 事実、フェレイ・ヴァレナスは、崩壊時以前の記憶を持たない。
 父がいなくなった。母が常軌を逸し始めた。

 それが、始まりの記憶であった。


 ***


「だからな、それが駄目だって言ってるだろうが。予言するぜ、お前は将来絶対太る」
「……別に今は増えてもないが」
「阿呆。年齢考えろよ。人間ってのは歳と共に代謝が衰えるんだぜ。とりあえず夜食はやめとけ」
「無理だ」
「腹がつっかえて店内歩けなくなっても知らねえぜ」
 憮然としたハーヴェイを見て、けらけらとボルドゥは笑う。白いカーテンが穏やかに揺れる、静かな昼下がりだった。
 備え付けの椅子に座ったハーヴェイ、窓際で背をもたれさせるボルドゥ、そしてベッドから外を眺める『彼』。ボルドゥの僅かな休憩時間は、このような様子で過ぎていく。
 そこにいるのは何処にでもいる若者たち――とはいえない。一人は体格の良すぎる図体を窮屈そうに椅子に収めており、一人は酷く不健康な顔色をしている。そしてもう一人は――そこだけ、時の流れが違う。
 いびつな者たちの集い。しかし彼らはそれで良いと思っていた。世間から僅かにはみ出した者たちは、偶然に導かれてそこに至った。そして、少しずつ、様々なことを語らうようになった。
 『彼』はまどろむ猫のように頬に風を受けている。会話を聞いているのか、いないのか。しかし、ハーヴェイに言わせると『以前とは違う』らしかった。硬質さが消え、今は海のように穏やかであると。
「お前こそ、不規則な生活をしている」
「医者ってのはそういうもんなんだよ」
「煙草は特に体に悪い」
 思いがけない反撃に、ボルドゥは答えに窮して頬を歪める。彼とて、煙草が百害あって一利なしということくらい知っている。それに非喫煙者は驚くだろうが、喫煙者だって煙草の臭いは嫌いなのだ。やめられるならとっくにやめている。うむ。
「仕方ないことだ、それは」
 まるで世界の真理を口にするかのごとく、厳かに言い放つ。ハーヴェイの呆れた視線を受け流しつつ、ボルドゥは白いベッドに逃げ場を求めた。
「なあ、フェレイさんよ」
「……」
 『彼』は呼びかけられたことを察知して、ゆるりと目を瞬く。一人、最果てにいる『彼』は、暫くの思案の後、紡ぐべき言葉を決めたようだった。

「なんだよ、そりゃ」

 ――ぶほっ。

 カップを口につけていたハーヴェイが盛大に水を噴出した。
 器官に入ったのか、苦しげに背を丸めて咳き込む彼を労わらないボルドゥは、決して酷薄なのではない。彼とて思考回路をショートさせて、それどころではなかったのだ。
「……?」
 そこまできて、自分の爆弾発言をやっと認知した『彼』は、不思議そうに首を傾げた。
「……違いましたか」
 呟くが、悶えるハーヴェイと放心中のボルドゥには無論、届くわけもなく。『彼』は、自身で考える以外になくなる。しかし、簡単に答えがでるものではない。
 二人が復帰するまでの数分間、部屋は咽こむ音だけが支配する空間となったのであった。


「――で」
 ボルドゥは眉間のしわを揉み解しながら、『彼』に苦言を呈す。
「どうしたのよ、お前」
 ベッドを挟んだ向こうでは、今後この部屋では二度と飲料を口にしないと誓ったハーヴェイが渋面を作っている。そして『彼』は、膝元で手を重ねて不思議そうにしていた。
「……あなたが前、そう言ったので」
「いや、言ったけどよ」
 声の調子が数段落ちたボルドゥは、今にも指が眉間にめり込みそうである。だが救われたことに、『彼』はその発言がまずかったことは察したらしい。「そうですか……」と呟いて黙りこんだ。
 この頃から、ボルドゥは気付き始める。『彼』の人への擬態が始まっていることに。
 白紙同然の『彼』。人の心を持たぬ『彼』。――否、持っていたものを一度壊してしまった、その残骸たる『彼』。
 さまよう魂は人の姿を求め始める。人としてあるべき姿を模索する。
 どのような言葉を発するべきか。どのような動きで振舞うべきか。
 思考の絡まない吸収。疑念を知らぬ発露。それが『彼』の基幹を成すものだ。
 周囲の者が白を黒と言えば、『彼』もまたそう信じるだろう。狂える者たちを見れば、彼は本気で狂うだろう。彼の行動はきっと全て、他人のトレースなのだから。
『……精神術の影響か?』
 ボルドゥは当たり障りのない会話の裏で考える。
「難しいのですね」
「別に難しくないだろ。感じたままに言いたことを言えばいい」
「……」
 指先を胸元に這わせて、『彼』は困惑を瞳に浮かべた。
「……感じるもの」
 ハーヴェイはこの会話の後、ボルドゥに漏らす。『彼』には、感情が理解出来ないのではないか、と。
 事実、それからも『彼』は回復するにつれて感情を呈し始めるが、それが本当に『彼』の心を体現しているかは疑問が残るところであった。『彼』は、喜ぶべきと判断した場面で喜び、悲しむべきと判断した場面で悲しむのだ。ボルドゥは、結局『彼』が本心から笑っているところを見なかった。そして同時に、ほとばしる激情も。
 絶対的な理性に裏打ちされた人間性。こうあるべきとする法則で支配された心。
 それが、壊れた『彼』がやっとのことで得られた、唯一のものであった。そして『彼』はそのような自分の在り様ですら、次第に理解を示し始めたのだ。


 ***


「多分、これでは人とは言えないんですよね」
 立つ練習を始めた頃のことである。『彼』の矮躯は白に包まれた生活のせいで、更に頼りなくみえた。顔立ちも若干変わったように思う。そこには既に、老成された諦観が伺えた。そして『彼』は己の手のひらに視線を落とし、静かに絶望を紡ぐ。
「アホか」
 ボルドゥは椅子に座る『彼』を見下ろして、小さく罵倒した。
「テメエがそれを言ってどうすんだよ。いいから戻るぞ」
 しかし、台詞とは裏腹に、内心は穏やかではない。
 見ている限り、『彼』は、痛みを感じないようなのだ。行動に感情が伴わない原因もそこにあった。人とは、痛みを知るからこそ、笑い、涙し、分かち合うことが出来るのだから。
「……外形を模るだけでは、人間とはいえない」
 窓の外に揺れる緑を眺めながら、『彼』は口ずさむ。
 人間として最も外界の情報を取り込むべき時代を空白にしてしまった若者が思い悩む様には、深刻さすら見られない。むしろ学者が淡々と実験動物を処分していく冷徹さがそこにある。
 何故、そこまでして人たろうとするのか。否。何故、今になって、突然そう考えるようになったのか。ボルドゥは、掴みどころのない現実を前に舌打ちする。
「――」
 『彼』はボルドゥを見た。――観察した。人間が持つ、その苦悩を。疑問もなく、そういうものなのだという肯定と共に。
 そして、それは他人によって救われるべきなのだと純粋に考える。己の危うい命を、この者たちが繋ぎ止めたように。
 美徳も悪徳も超えた先、『彼』の回路は判断を下す。
「安心して下さい。それでも生きていけると思います」
 ボルドゥは、だしぬけの発言に目を剥いた。共同で使われる待合室は、陽光を受けてひと時の静寂に落ちている。窓は開いていない。外は――まだ肌寒いのだ。
 そしてボルドゥは、不審げに表情を険しくする。
「お前、本当にそう思ってるか」
「……」
 『彼』は動物めいた瞳で、無表情にボルドゥを見つめ返している。答えは、限りなく透明度が高い。
「……そう、考えました」
 ボルドゥは、溜息と共に首を振った。
「それじゃ駄目だ」
 外界を取り込み、他人の行動をなぞるだけでは、おおよそ人とは言えない。人とは矛盾。人とは反発。人とは自立。それらを持たぬ者は、ただの機械だ。
「そうなのですか」
 『彼』は否定すら知らない。歯痒さに、ボルドゥは苛立ちを覚える。
「いい加減なことを言うな。考えてるって言わねぇぜ、それ。もっと自分本位に生きろよ」
「――自分本位?」
「ああ、そうだ。嬉しかったら笑えよ。悔しかったら悩んでみろよ。他人の真似じゃなくてよ。それが人間ってもんだ」
「そうだと思います」
「……あのな」
「確かに、暖かかったですから」
 頭を抱えそうになったボルドゥは、その言葉が引っかかりとなって、行動を停止した。『彼』の顔を見る。『彼』は、己の左腕を眺めている。
「何も感じないと思っていました。母が亡くなったときも、何も思わなかった。きっと昔は、何かを思った筈だったのに」
「――おい」
 呼びかけを無視して、淡々と『彼』は語る。
「これでは人間ではありません。ならばこの冷たい体は何でしょう? 不思議だったので、切ってみました」
 首筋に悪寒が走る。あらゆる事態に対して理性を失わぬ瞳。それは――元から狂っているということではないか。
 けれど、『彼』はふんわりと睫を伏せる。まるで、そこに光を見たかのように。
「暖かかったんです」
 包帯が巻かれた左腕。しかし、そこにボルドゥは幻視する。ほとばしる鮮血。人の体温を宿したそれ。『彼』の表面からは伺えなかった、けれど確かな命の証。
「何故か暖かかったんですよ。だから、暖かいのは腕だけなのかと思って」
 首も、切ってみようかと。
 ボルドゥは足を絡めとられた気分で、俯く『彼』を見つめた。白い光を浴びた『彼』は酷く存在が曖昧で浮世離れしている。しかし『彼』は言う。己の血の温かみが、生の息吹を確かに伝えたのだと。そうして己が生きていることを知ったのだと。
「こんな体が、生きているなんて、とても驚きました。これが――人である、ということなのでしょうか」
 『彼』は、窓の外を意識する。光彩を弾いて、表情は迷夢にまどろむ。
「光」
 風が吹いたのか、庭の影がざわめく。まるで『彼』の心のように。
「あれが――光」
 たゆたい、移ろう。人の介入を許さず、ただ意志と惰性で取り込み続けた情報の渦の中。
 そうして、光を含んだ瞳を閉じる。
「随分と長い間、一体何をしていたんでしょう?」
「……さあな」
 ボルドゥは、『彼』を理解することが出来ない。いびつな『彼』。その心情を汲み取ることが出来ない。しかし、理解できることがある。それは、『彼』の心の悲痛な叫び。いびつな己の姿に耐え切れぬと、さざめくように泣いている。
「だがな、そんな命題に答えなんてねえぜ。俺だって今まで通ってきた過去に筋道立てろって言われてもできねえよ。お前みたいな奴に構ってる理由もな」
 鼻から息を抜いて笑う。挫折と屈辱と反発と諦観と。それでも諦めきれない心と。いくらいびつであろうとも、それは変わらぬものでないかとボルドゥは思う。
「そういうもんだよ。別に恥ずかしくも――あるけどよ、それでいいじゃねえか。それよりもテメエに必要なのは意志だな」
「意志」
「テメエはどうしたい。折角頭があるんだから、考えてみろよ。未来のこと」
「――未来?」
 まるで初めてその単語を聞いたように、『彼』は呆然と反復する。
「未来」
 ひとり、噛み含める。
「未来――そこで何をするのか」
 荒野で立ち止まって、顔をあげて。
「未来。そこに何があるのか」
 己で傷つけた左腕に触れて、生の鼓動を確かめて。

 かつかつと、廊下のどこかで足音がする。人の気配。どこかに人がいるのだ。
 ボルドゥは顔を巡らせ、そうして突然世界が壊れる音を聞いた。
「ボルドゥ医師」
 診察時間の過ぎた待合室は無人だった。そこに、薄暗い回廊から白衣姿が数名、花を踏みしだくような足取りで現れたのだった。
 先頭に立つ医師は、――ああ、反吐がでるほどに懐かしい。もう頬の怪我はいいんですか、とボルドゥは皮肉を言いたくなったが、やめた。今、挑発するのはまずい。
「――お疲れ様です」
 最低限の礼を保った態度で、ボルドゥは自ら挨拶をした。ただ、陰険な響きを完全に隠すことは出来ない。
「まだいたのかね」
 対する医師は、深海魚のような目で冷淡に言った。背後に控える若い医師たちは、輝かしいはずの世界で道を踏み外したボルドゥに様々な視線を投げる。ある者は弱者への侮蔑を。ある者は敗者への憐憫を。
 くそ食らえ、と内心で唾棄して、ボルドゥは時が過ぎるのを待った。
「私のやり方が気に食わぬのだろう? ならばさっさとここを去れば良い。君が力を揮える場所は他にいくらでもあるだろうに」
 口元だけで冷笑する。ボルドゥは顎を引いて、沈黙を守った。ここで激昂すれば相手の思う壷だ。今度こそ追い出される口実を作られかねない。
 しかしボルドゥは気付かなかった。『彼』が、そんな会話の様にじっと耳を傾けていることに。汗ばんだ空気を敏感に察知し、それらを心の内で思い巡らせているということに。
「なんなら私が紹介状を書いてもいい。いつでも来なさい。今はどこでも人手不足だから、君でも入れるところくらいはあるだろう」
 表層的には笑顔で、しかしその一重裏にタールのような闇を張り付かせて、医師は歩き出した。もう一発殴ってやりたい衝動を全力でこらえながら、ボルドゥは唇を引き縛る。
 とんでもない方向から声が発されたのは、そのときだった。
「あの」
 呼びかけに応じて、医師が振り無く。ボルドゥは振り向けなかった。あまりにも嫌な予感がしすぎて。
 しかし無視するわけにもいかず、恐る恐るそちらに首を向けると――『彼』が立ち上がっていた。まだ歩くのにも慣れていない為、『彼』は背もたれに手をかけて、今にも転んでしまいそうだった。だが、顔だけは確かに前を向いている。
 そして透徹な眼差しが、深海魚の瞳を貫いた。
「……なんだね」
 僅かに不快感を含んだ返答。周りにたむろする無数の視線が、同時に『彼』に襲い掛かる。しかし静謐な表情は、一片たりとも揺るぐことはなかった。当たり前だ。『彼』は感情を持たない。――否、己の胸に沸く感情を、理解していない。
「ボルドゥ医師は、患者を救う為にあなたを殴ったのです」
「――?」
 淡々と述べる『彼』は、その間も目線を外さない。
 きっとあれは読んでいるのだ。驚異的な客観性を以ってして、目の前の人間から最大限の情報を引き出しているのだ。『彼』は、肥えた男の傲慢な態度の裏に見える恐怖を、確かに感じ取って我が物としているのだ。
「しかし彼にも非はあります。暴力という手段に訴えたこと。文化的な知見からいって、申し開きのできない罪です」
「君は何を言いたいのだね?」
「その因となった患者が言いましょう。彼の行為は賞賛に値する。彼がいなければ、再び闇に沈むところであった。ボルドゥ医師は、確かに人を救ったのです」
「……」
 光を弾く瞳に気圧されたか、不快げに医師は目をそばめる。しかし『彼』は、手加減を知らなかった。まだこのときは、学んでいなかった。
「ならば、何故彼を邪険に扱うのです? それは果たして、あなたの個人的な矜持を保持する以上の効果を生むでしょうか」
「君――」
 取り巻きの一人が、流石に黙っていられなくなって足を踏み出した。しかし、『彼』の視線がそちらに向く。ぞっとしたように、彼は目を瞠る。そして『彼』は冷淡だった。
「人は一人では生きられない。しかし、群れているだけでは野の獣と何が違うのでしょう」
「なっ……」
 顔色を変える同僚を見て、我に返ったボルドゥは『彼』を制そうとした。このままではいけない。主に自分の未来が。
「おい、やめ」
「フェレイ・ヴァレナスさん。あなたはこの世界の決まりを知らないのです」
 覆いかぶさった教授の声は、ボルドゥが青くなるほどに穏やかだった。
「ボルドゥ医師はその決まりを破った。我々もこの排斥を残念に思っていますよ」
 『彼』の瞳が瞬く。観察で得られた情報が、瞬時に己の血となり肉となる。
「――」
 穏やかに静まり返る表情。目の前の中年の医師に限りなく近いそれ。己と同じ顔を見せられた医師は、何を思ったろう? 『彼』は淡々と語りだす。
「光の存在を知って尚、闇に没し続けるのなら、それはただの怠慢です。甘い闇に囚われて光を見ることをやめてしまうのは、とても楽なことでしょうが」
 中年の医師は頬をひきつらせ、背を向けた。憎々しげな皮肉と共に。
「心得ました。ご高説、痛み入ります」
「高説?」
 『彼』は心底不思議そうに聞き返す。
「――このようなこと、子供でも分かる道理です。私ですら理解できたのですから」
「ノキア教授」
 ボルドゥは一歩前に出て、教授の背中に語りかけた。うまくやり過ごそうと思っていたが、『彼』の言葉を聞く内に、気がつけば口を開いていた。己の意志は、はっきりと告げておかなければならない。
「先日の非礼はお詫びします。しかし、私からも一言言わせて頂きたい。私は甘言を語るつもりはありません。この地が聖地でないことなど知っています。ここは確かにあなたが言うような見えない糸に縛られている。人を救うという理想を掲げ、そうやって気がつけば泥に塗れるのが人なのでしょう」
 無視されるかと思ったが、思いのほか教授は黙って若い医師の声を聞いていた。
「私とて、己が高潔足りえないことを自覚しています。歪みを受け入れなければ生きられないのなら、喜んで受け入れましょう。しかしそれは、患者を救う為です。患者を見捨てる歪みなら、私はそれを許さない」
 自分の言葉が、回廊の奥まで響いていくのをボルドゥは感じた。そして、このような生き方しか出来ない自分を哂った。きっと自分はこうして死ぬまで戦う運命なのだろう。厄介なことに。
「……そうか」
 教授は、暫くの沈黙の後、そう返した。鼻で笑いもせず、かといって神妙な様子もなかった。
「せいぜい頑張ることだな」
 薄く笑い、取り巻きを連れて歩いていく。それを見えなくなるまで見送って、ボルドゥは肩から力を抜いた。そうして、引きつった顔で振り向いた。
「お前さんね」
「……はい?」
 なんでしょう、と。気軽に『彼』は聞き返す。そんな無表情を見ると、がっくりと力が抜けて、ボルドゥは心の底から溜息をついた。
「心臓がいくつあっても足りねえ……」
「しかしあの人は、怯えている様子でしたよ」
「馬鹿。テメエのその目ぇ見て平然としてられる奴がいるか」
「いえ――」
 『彼』は透徹な眼差しで回廊の向こうを見る。
「あなたが語りだしたとき。あの人の心は、確かに揺らいでいました」
 その眼差しは、人の深層を見定めるというのか。
 ボルドゥは底知れぬ何かに触れた思いで、汗ばんだ額に指をやる。しかし、はっきりと自分の想いを伝えることは出来たと思う。打算を孕まない意志を相手に突きつけたのは、これが始めてかもしれない。
「……まあ、感謝するぜ」
「え?」
 『彼』は、不思議そうにこちらを見る。困惑したように、動きを停止する。処理できない言葉を受けると、『彼』は決まってそうなるのだ。
「今、感謝、と」
「阿呆。繰り返すなよ、小っ恥ずかしい奴だな」
「……何故、感謝するのです」
「自分で考えろよ」
「……」
 窓の外を見て、『彼』は思考にふける。何もない表情で、ただ、穏やかに。
「出てみるか?」
 つと、そんな誘いが口をついて出た。
 『彼』がこちらを向く。何もかもを情報として取り込む瞳。感情を忘れ、しかし人たろうとする瞳は、光を静かに弾いている。
「どうする。行くか?」
 このままにしておいては、『彼』は知らない言葉の渦に磨耗するばかりだ。『彼』は受け入れることを知っているが、求めることを知らない。
 すると、『彼』は暫くの沈黙の後、何かを決断して頷いた。
「お願いします」
 ボルドゥは透明な人間を連れて、屋上へと向かった。




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