-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

03.傷跡



 フェレイ・ヴァレナス? ああ、彼ね。知ってるよ。
 うーん。確かにちょっとおかしい奴だったよ。でもああいう人見知りならここには腐るほどいるからね。研究者ってのはそういうもんさ。
 うん、自殺未遂――か。まあ、何考えてるか分からん奴だったからなあ。有能だったけどね。
 ああ。すげえぜ、天才ってのは本当にいるもんだ。彼を見て、心からそう思ったよ。え? 彼の研究? うーん、あんまりそういうのは外部に言いたくないんだけどなあ。
 仕方ない。あんたの店にはよく世話になってるし。ああ。国立図書館にもない本が平気で置いてあったりするからさ、あんたの店。贔屓にしてるよ。それにあんた、口は固そうだし。
 うん、それで彼の仕事だけど。彼、その研究がやりたいと言ってここに来たんだよ。初めに聞いたとき、天才ってのは途方もないものを夢見ると思ったもんだ。え、――ああ、うん。彼がやってたのはね。


 人工生命体の研究だよ。


 ***


「……」
 ハーヴェイは、病室に備え付けられた椅子に腰掛け、ぼんやりと『彼』の横顔を眺めていた。
 あの運命の夜から、日を追うごとに『彼』には少しずつ変化が見えはじめていた。初めは体を起こすこともなく、天井を見上げているだけだったのに、次第に周囲に興味のようなものを示し、特に窓の外を見つめていることが多くなった。
 体に自由が戻ったのだろうか。ならば、あの夜の出来事が再来するのではないかとハーヴェイは危惧したが、『彼』がそのようなことをする気配は全くなかった。今の『彼』は、抜け殻のように熱量がない。あのとき、『彼』に流れる血は全て抜け落ちてしまったのだろうか?
 胸にわだかまる不安は尽きなかった。『彼』が一生このままだったら? もしも二度と口をきかないのだとしたら――。

 連綿と続く思考に沈むハーヴェイは、まだ気付かない。『彼』の瞳が、ただ光を弾くだけのものではないということを。


 病室の扉が開く音に気付いて、ハーヴェイは首を回す。ボルドゥがやってくるにはまだ早い時間、そのことをやや気に咎めながら。
 果たして、それは白衣を着た男であったがボルドゥではなかった。見知らぬ中年の医師は、機械のように冷たい視線でそこにいる『彼』とハーヴェイを見とめた。
 瞬間的に胸の内で警鐘が鳴り響くのを感じながら、ハーヴェイは体を強張らせた。といっても、元より感情の波が露出しない男である。傍から見れば、僅かに頬の筋肉が動いた程度にしか見えなかったろうが。
 中年の医師は、動じないハーヴェイに一瞬だけ不可解そうな視線を投げ、かと思うと突然、気分が悪くなるほどの友好的な表情を向けてきた。
 探るような感情を持った瞳が、ぎらぎらと光っている。
「やあ。君は――彼の友人かね?」
「……」
 ハーヴェイは会釈を返事とした。中年の医師は、つかつかとこちらにやってきて、『彼』の傍に立つ。対する『彼』の意識は窓の外を見つめるままだ。
 すると中年の医師は、優しく囁いた。
「私の声が聞こえるね? 君には出ていって貰わねばならない」
 思わず医師の背中を凝視したハーヴェイを他所に、淡々と続ける。
「ここは病室であって、君の静養所ではないのだよ。君の他に救わなければならない人はいくらでもいるんだ」
「――あの」
「古本屋の方。君に口を出す権利はない。君は彼の肉親ではなく、ただの友人なのだろう?」
 声をだした瞬間急所をつかれて、立ち上がりかけたハーヴェイは口ごもった。
 しかし、『彼』に反応はない。当たり前だ。『彼』の心は既に砕けてしまっている。
 中年の医師はそんな様子に苛立ちを覚えたらしい。穏やかな表情に僅かに亀裂が走る。かつかつと鷹揚な音をたてて、彼は窓辺に立つ。長い年月を生きた暗い色の眼差しが、『彼』に降り注ぐ。それだけで、何かを語るように。
「聞こえているんだろう。君は返事をせねばならない、分かるかね」
 だが、世界の位相にずれを生じさせた二人の視線が絡むことはない。
 黙殺は、時に人の矜持を傷つける刃とも為り得る。中年の医師は虚勢を張る。それは、『彼』の扉を叩くに等しい言葉であった。
「私を見なさい」

 ――。

 かちり、と何かの回路が繋がった。
 窓から吹き付ける一陣の風が、一度だけ『彼』の瞳を見開かせた。
 瞳の奥底で虹彩が揺らぎ、光と光が衝突する。
 『彼』は突如として何かに気付いたように顔をあげ、呆けた様子で、しかし初めて人を人として認識した。
「……」
 沈黙。中年の男も、黙っている。
 そうして、それまで彼岸をたゆたうままであった『彼』は――掠れた声を紡いだのだった。
「……あなたは?」
 医師は、当たり前のように名乗った。そして、ハーヴェイを指して付け加える。
「そちらがハーヴェイ。君の友人だ」
 ハーヴェイはそこまできて、初めて違和感に気付く。何故この医師は、自分の名を知っている?
 しかし、驚いたことに、『彼』はゆっくりと――そう、時の流れすら忘れたようにゆっくりと、こちらを向いて、不思議そうな顔をしたのだ。
「……ゆう、じん」
 酷く聞きとりづらい、かさついた声。そして、それを紡いでから『彼』は認知を始めた。混乱に硬直しているハーヴェイをじっと見つめて、『彼』は困ったように眉根を寄せる。
「彼――のことは、知っています。けれど、ハーヴェイが、友人と?」
「そうだ」
 満足げに中年の医師は頷く。
「人間だ、君と同じ」
「……人間」
 初めてその言葉を聴いたかのように、口に噛み含める。困惑した様子は、初めて見せる『彼』の表情であったかもしれない。
「ボルドゥ医師のことは分かるか?」
 中年の医師は、殊更ゆっくりと言葉を紡ぐ。未だ稚拙ともいえる『彼』の世界に合わせようとしているのだろう。
「君を救おうとしている医師だ。彼に頼まれて、私は来た」
 驚いたのはハーヴェイだった。対する『彼』は、思索の海にたゆたっているのか、目を伏せて黙り込んでいる。扉が開いて、当のボルドゥが現れたのは、そのときだった。
「んが?」
 くしゃくしゃの白衣を着て欠伸交じりに入ってきたボルドゥは、弛緩していた表情を瞬時に改めた。
「ん、んがっ」
 ――仮眠明けなのだろうか、呂律が回らずに舌を噛んだ様子だ。一方、精神科に所属する中年の医師は飄々としたものだった。
「ボルドゥ医師。時間になっても来ないものだから、先に始めさせてもらったよ」
「え、だって約束の時間はまだ――」
 ボルドゥは懐中時計を取り出して覗き込む。それと部屋にある時計を見比べて、真っ青になった。
「……」
「どうしたね?」
「申し訳御座いません。私の時計が止まっていたようで」
 震える弁解を聞いて、中年の医師はにこりと笑う。
「ふむ。構わんが、それでは君の出世と人望も時を止めそうだな?」
「……」
 人前でなければ、ボルドゥは頭を抱えていたことだろう。異端を覚悟で、何度もこの精神科の医師に治療を頼みに行ったのだから。
「まあいいだろう。ノキア教授を殴り飛ばしたというのは中々痛快な話だった」
「……申し訳ございませんでした」
 従順に頭を下げる。普段でこそ傲岸不遜な人間だが、実際のところ一人では何もできない新人医師なのである。
 すると中年の医師は腕を組んだまま珂々と笑い、『彼』に語りかけた。
「見なさい」
 低く耳朶を叩く命令形のそれは、機械的な動作に似て『彼』の心に触れる。『彼』はゆるりと視線を持ち上げ、ボルドゥを認識した。
「んな」
 ぎょっとしてボルドゥは一歩後ずさり、ニヤリと笑う中年の医師と『彼』を交互に見やる。
「今日はこのくらいにしておこう」
 中年の医師はそう言うと、ベッドの傍らに歩を進め、『彼』の顔を覗き込んだ。
「では、私は帰るよ」
「……はい」
「疲れただろうから、眠りなさい」
「……はい」
 人形のように頷いた『彼』は、沈み込むように体を倒し、意識を手放す。信じられない気持ちでそれを見つめたボルドゥは、中年の医師の指令に、俊敏に背筋を伸ばした。
「少し話をしよう。来たまえ、ボルドゥ医師。それから、そこのご友人も。――先ほどは失礼した」
 椅子から立ち上がったハーヴェイは、静かに頭を下げる。そして、部屋を辞す二人の後に続いた。
 最後に振り向いたハーヴェイの視線の先で、忘れ去られたように『彼』は眠る。
 白い部屋。白いベッド。白いカーテン。全てが無垢な世界。時の流れを超越した、小さな異世界。
 けれどそれが、舞い散る雪がいつしか解けて大地と同化するように、此岸に戻る日が来るのかもしれない。ハーヴェイはそんな予感を胸に抱いた。


 ***


「お前さん、そんなに外が好きかよ」
「……え?」
 『彼』が口を開き始めて数日。ボルドゥは定位置となった窓際で、壁に背を預けていた。
 癖なのだろうか。『彼』は相変わらず、時の合間を縫うようにして窓の外を眺め続けている。
 呆けた顔に、美貌のようなものは備わっていない。いまいち特徴のない顔立ちだ。その瞳に宿る光を除いては。
 『彼』の眼光には、子供の持つ鮮烈さも、大人の持つ狡猾さも含まれない。しかし、目が合えば、澄んだ湖の底を見つめたときのような畏怖を思わせた。これがカリスマというものなのだろうかとボルドゥは考える。
 外が好きかという問いかけに対して、『彼』は考え込むように視線を手元に落とした。言葉を紡ぐようにはなったが、感情の起伏はないに等しい。
「外に出てみるか」
「……」
 『彼』との対話には忍耐が必要であった。返事がないことも多い。あっても、返答には長い時間を要する。
 しかし、そのときは返答があった。かぶりを振るという返答が。
「外には、出てはいけない」
 ふと、虚空を見つめたまま『彼』は呟く。ボルドゥは一語一句聞き逃さぬよう、耳をそば立てる。
「……出てはいけない」
「誰にそう言われた?」
「……母に」
 己の手を首元にやりながら、抑揚もなく紡がれた次の言葉に、ボルドゥは息を飲んだ。
「首を、絞められて」
 純白のカーテンが光を反射して、四角い部屋に淡い陰影を作る。しんと静まり返っているのは、余計な物音がしないため。ここは、――否、この都市は、人々の息遣いですら希薄なのだ。


『彼には精神術で干渉された形跡がある』
 中年の医師は、『彼』を診た後、そう所感を告げた。精神術とは、その名の通り魔力を持ってして精神を操る魔術である。高位なものになると瞬時に人を催眠状態に出来るというが、その難しさも、そして生まれる結果も、人の手には余るものとして忌避されている。
 しかし、『彼』の母親はグラーシア学園を主席で卒業していた。それも、魔術師として一流の腕前であり、教師たちは彼女の進路に心から落胆したと聞く。彼女は落ちこぼれの生徒と結婚すると言い出して、田舎に引き篭もってしまったのだ。
 高位な魔術師は、精神に破綻をきたしやすい傾向にある。更に、子供の精神は卵のように脆く、精神術での干渉も容易い。
『……虐待、ということですか』
『安易な推測に流されるな、ボルドゥ医師。判断を誤れば、二度と対話できなくなる可能性すらある』
 既に『彼』の自傷の原因を母親の死の為と安易に決めかかっていたボルドゥは、素直に自らの思考を恥じた。『彼』の心は、ボルドゥが思うよりもずっと深く、昏いのだ。
 心の治療は、体の治療とまるでやり方が違う。そしてボルドゥが頼み込んだ精神科の医師も、非公式に診察を行ったのだ。これから毎日診てもらうわけにはいかない。
『彼が己から語るまで、待つしかないだろう』
 自分に何が出来るだとうかと問うたボルドゥに、中年の医師はそう告げた。しかし、翳るボルドゥに向けて、こうも言ったのだ。
『回復する見込みはある。あの目は――既に、解き放たれた者の目だ』


「……そうか」
 ボルドゥは、一度深呼吸をしてから、注意深く言った。『彼』の呟きは、内心の吐露としてはあまりに熱がない。けれど、心に深々と突き刺さった棘に違いはなかった。
 『彼』は再び窓の外を見る。
「そんなに好きか、この景色」
「……明るいと」
 頬にかかる淡い色彩の髪を揺らせて、こちらを向く。
「明るいのだと、あなたが……言いました」
 一度呆気にとられたボルドゥは、口元をひきつらせて笑った。
「――まあ、言ったけどよ」
「これが『明るい』……?」
 『彼』は真綿のように、事実を吸い込む。
「なんだよ。じゃあ、今まで何が明るいと思ってた?」
 すると、無表情のまま考え込む。そして返ってきたのは、グラーシア学園の主席とは思えぬ発言だった。
「……明るい。そのような言葉なのだと思っていました」
「はあ?」
 素で聞き返してしまったボルドゥは、暫く『彼』と睨み合い、そして片手で顔を覆った。
「……なんだよ、そりゃ」
 口を閉ざした『彼』は、瞑目する。色素が薄い為か、瞑想しているようにも映る。目の前の出来事を処理しているのだろうか。
「明るい」
 歌うように口ずさむ。たゆたう時を、揺り動かすように。
「もしも、これが『明るい』なら」
 指をずらして、ボルドゥは独り言に耳を傾けた。『彼』は、白い指を己の左腕に這わせている。あたかも傷跡を探るように。
 そうして、ぽつりと小さく呟いた。

「今までは、とても暗かった」




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