-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

02.意地



 ――俺は、馬鹿だ。
 ボルドゥは自分の人生を振り返るとき、いつもそう思う。幼い時分に才能の限界を知らされて、それで諦めておけば良かったものを。なのに無理をして爪先で立ち、届かない高みを目指し続けて、気が付いたらこんな場所まで来てしまった。そう、まさに身の程というものを知らなかったのだ。だから、どうしたってボロがでる。――初めての患者、フェレイ・ヴァレナスと出会ったときだって。

「ちょっと待って下さい!」
 黙っておけば良かったのだ。
 彼が初めて担当を受け持った患者は、外因的な傷を治療したにも関わらず、本質的な回復には至らなかった。だから、必要と思われる処置が出来るように取り計らった。どれも医者として行うべき最低限の措置だ。そこまでは良かったのだ。否、自分は、それらをするだけで良かったのだ。
「精神科で受け入れ拒否って――床数が足りないってわけでもないんでしょう?」
 想定外の出来事に思わず声が荒ぶる。周囲からの視線を浴びて、気に障ったように教授は言った。
「この件について、これ以上君が憂うことはない。黙って職務を遂行したまえ」
 若い医師を、たかる蝿に向ける瞳で見やる。しかし――どうしてこういうときだけ察しが良いのだろう、ボルドゥは気付いてしまっていた。精神科の医師たちが、受け入れを跳ね除けた理由を。
 当時のグラーシア国立病院では、高齢の理事長が引退するに当たって熾烈な派閥争いが勃発していた。当初は病院内で最も地位の高かった外科部長が繰り上がりで後任に当たる予定だったが、目覚しい成果を上げ始めた精神科の教授が理事長候補に名乗りをあげ、別の科の教授までもがそれに同調し始めたのである。
 医者の世界は頭の切れる連中ばかりが揃っているために陰湿だ。反目しあう派閥が存在し、裏では薄暗い根回しが耐えない。
『ヒッヒッヒッ、こちらが我が故郷から取り寄せました、金の茶菓子で御座います』
『ふぉふぉふぉ、お主も悪よのう』
『いえいえ、教授先生ほどでは』
 こんな会話が秘密裏に飛び交っていたのである。心に取り憑いた虚栄心、自己保身。優秀さではなく、従順さによって計られる才能。何の得も生まぬ潰し合い。そんなもので得た名誉や富なら、ドブに捨てた方がマシだとボルドゥは思う。しかしそれらに呑まれなければ、一生地を這いずり廻る日陰者になることも知っていた。
 だがそうやって皺寄せがくるのは、いつだって患者なのだ。上の思惑によって受け入れられなかった『彼』は、正しい処置を必要としているのに――。
「……患者はどうなるんです」
 唸るような問いに、教授は冷淡だった。
「さあな。どうせ身寄りもないのだろう、どうなろうと――」
 その先は、もう耳を塞いでしまいたかった。
 ざわざわ。目の前の影法師が何かを言っている。悪夢を語る唇。否、現実を語る、肥え太った唇。
『現実、だと?』
 自分の才能はこんなものではないと、意地を張って、背伸びをし続けて。聖地を目指し続けて。
 そう。ここは、聖地だった。幼い頃一度振り払われて、それでも諦め切れなかった夢の都市。
 そこに行けば何もかもがうまくいくのだと思うほど幼稚ではなかったけれども。泥臭い職務をこなしながら、それでも何処かでそこに生きる糧を求めていた。なのに――。

「さっさと病室を空けてもらわねばな。私たちが治すべき患者は多く存在する」

 気がついたら、教授を殴り飛ばしていた。
 その瞬間、彼の輝かしい未来はがらがらと音を立てて崩れ落ちていった。


 ***


「……やっちまったぜ」
 ボルドゥは黄昏の夕日に焼かれながら、悄然と椅子に座っていた。目下には、瞳を空ろに開いたまま仰臥する『彼』。多分、自分はこの若者とよく似た顔をしているのだろう。正直なところ、色々と記憶が抜け落ちている。あれからどうやってここまで来たのだったか。
 培ってきた全てを教授もろとも殴り飛ばした胸中は、すっきりするどころか凍りついたまま時を止めてしまったようだった。若気の至りで済まされる事態ではない。このままではこの病院にいるどころか、医師であり続けられるかも怪しいものである。そう思うと、つい憎まれ口が出た。
「よぉ、あんた。感謝しろよ――俺が担当じゃなかったら、あんたは病院から放り出されてた」
 代わりに俺が放り出されそうだがよ。ボルドゥは皮肉げに笑い、窓を開いて煙草に火をつけた。病室で吸うなど言語道断だったが、教授を殴り飛ばした身だ、何を恐れるというのか。
 深く吸い込んで、タールが肺に染みるのを愉しむ。何をしているのだろう、本当に。あんなに意地を張って息切れも構わず走り続けて、やっと掴み取った立場を自ら壊してしまうなど。
「所詮、蛙の子は蛙か。柄じゃなかったかな」
 そう呟きながらも、どうしようもない悔しさに目元が滲むのを感じた。誰に笑われようと、目指していたのだ。聖なる高みを。誰に謗られようと、欲していたのだ。そこにいる誰かを救える力を。
 けれど、聖地は泥にまみれていた。歪みだらけだった。受け入れなくてはいけないものが、喉から溢れ出るほどに存在した。
 馬鹿だと思う。本当に馬鹿だ。目頭を押さえながら、ボルドゥは思う。この世界に尊いものなど多くはない。分かっていたはずなのに。割り切れたはずなのに。この震える心は、一体何だ。何故止めることが出来ないのだろう。
「フェレイさんよ」
 夕日色の点滴が一滴ずつ落ちていく。『彼』の命を繋ぎとめる液体だ。自分はどうしてこんなことをしたのだろう。この壊れた男を守るためか。
「勘違いしないでくれよ。俺はそんな崇高な人間じゃねえ」
 『彼』が黙っているのをいいことに、そう投げかける。惜しみなく降り注ぐ夕日に染まった橙の部屋は、ひとときの黄昏を思わせた。まるでこの瞬間だけ、現実から切り離されてしまったように――。
「全部、自分の為だ。そこに救いがあるんだって信じて、つまらない意地を張った。この地に理想郷を望んじまったんだ。だから――そのいびつさが許せなかった」
 灰の欠片が力なく足元に落ちる。ひとつ、ふたつ。
「なのに俺はあんたに責任を押し付けようとしてる。あんたを救いたくてこうしたんだってな。救いようのない人間だろう?」
 返事がないことを知っていて、問いかける。人形のように動かない人間。生の気配がない。時を止めてしまったようにすら見える。自分と同じだ。
 理想郷など、夢見なければ良かった。諦めて現実を見ることが出来たら良かった。けれど自分は、どうしようもなく不器用な人間だった。愚鈍なまでに純粋に、欲しいものを求めて走り続けて、そこにある歪みに耐えられなかったのだ。耐えられないなら、初めから走らなければ良かったのに。どうせ、自分の望む理想など大したものではなかった――。
 後悔だらけの人生を哂ったそのとき、ボルドゥはふと瞳を瞬いた。
 黄昏に染まった『彼』の唇が、僅かに動いたのだ。
「――」
 時間が止まってしまったように感じられた。視界が白い粒で覆い潰され、目を剥いて――ボルドゥはベッドにとりついた。
「おい!? お前――」
「――」
 それまで人形のように微動だにしなかった能面が、初めて人間らしい反応を見せる。『彼』はゆっくりと目蓋を伏せてまた開き、何かを紡ぐように喉を鳴らした。しかしそれは言葉にならず、奇跡は瞬時の夢でしかない。すぐに『彼』は元通りに動かなくなった。
 それを息を詰めて見守ったボルドゥは、暫く呆然と佇んでいた。足元で、指から落としてしまった煙草がゆらゆらと煙を棚引かせている。
 うるさい音がすると思ったら、それは己を体の内から叩く鼓動だった。

 ――生きている。

 そう思った。誰が? 自分が。そして、目の前の若者が。
 初めての患者だ。傷ついて、この白い部屋にやってきた。それを救うのが自分の使命だったのだと、当たり前のことをボルドゥは思い返した。
「――は」
 歯列の合間から、不意に笑いともつかぬ息が零れる。思い上がりだった。あたかも世界を変えるようなことでもしたかのように深刻に悩んでいたなど。成すべきことなどただ一つ。そして自分はそれに馬鹿正直に従ってきただけだった。
 ボルドゥは信じられない気分でそんな自分を認識し、人の気配に顔をあげた。
 扉が軽くノックされ、開かれる。自分にそういう敬意を示す人間はもう多くはない――ボルドゥは慌てて目元を拭った。鼻をすすった音は聞かれなかったと思う、たぶん。
 予想通り、そこには古本屋の息子が立っていた。外の騒ぎを見てきたのだろう、不安げな表情をしていた。
「なにシケた面してんだよ」
 無意識にそんな憎まれ口が出たが、本当は場を誤魔化したかっただけだ。こんなことをしておいて、取り繕う体面などあったものではないのに。そんな自分が可笑しく、そして胸にじんわりと染む熱を感じていた。
「おい、付き合えよ」
「……?」
 ハーヴェイは、白衣の裾をなびかせて擦れ違うボルドゥを怪訝そうに見やる。ボルドゥは、ニヤと笑って振り向きもせずに病室を後にした。廊下は、妙な静けさに包まれている。すると、とうとう我慢できなかったのか、後ろからハーヴェイが問いかけてきた。
「――あの騒ぎはどういう」
「あいつ、起きてるぜ」
 呟きに、ハーヴェイは言葉を飲み込んだ。
「耳を澄ませてる」
 ちらりとボルドゥが視線を流すと、奇異の目線とかちあう。若い医師は笑い出した。
「はは。俺もいよいよ頭おかしくなったかなぁ。チクショウ」
 顔の形を確かめるように指でなぞる。そのとき、前方から非友好的な声が向けられた。
「君。ボルドゥ医師」
 指をずらせば、見たくもない教授の顔。背後に護衛のように若手の医師を侍らせている。唾棄してやりたい衝動をこらえ、代わりにボルドゥは失笑ともつかぬ息を吐き出した。
 自分は何をしにこの地に来たのだろう。その答えを見失いかけていた。しかし、元から光はそこにあったのだ。――人を救う力が欲しいのだと。そうやって人を救って、誰かに認められたい。大それたことでもない、人が持つ当たり前の感情だ。馬鹿馬鹿しく愚かで、けれど――それは、確かに自分の生きる糧だった。
 浅はかで何が悪い。そう心中で呟くと、突然体が軽くなった。
「なんですか」
 短く返す。礼を脱した振る舞いに、教授の眉が持ち上がる。だが戦意を秘めた瞳を怯ませるには足りなかった。
「……来たまえ。君に大事な話がある」
 大事な話、ね。喉の奥で呟いて、ボルドゥはやれやれと肩をすくめた。だが、同時に思考は回転を始めている。どうにかこの病院に居座り続けなくてはならない。せめて――あの若者を救うまでは。
 挫折は慣れっこだ。何度だって立ち上がってやる。
 燃えるような意志と共に、ボルドゥは昂然と返事をした。


 ***


 この世の中は、絶対に間違っている。
 ハーヴェイが既婚であることを知ったとき、ボルドゥは心からそう思ったものである。ついでに彼の妻の写真(ハーヴェイ本人が肌身離さず携帯していた)を見てその美人ぶりにコイツいつか殺すと決意したボルドゥは、赤茶の髪をかきむしりながら廊下を歩いていた。
「ああ、くそ」
 往々にしてああいう人間は、そこまで顔が整っているわけでもない癖に良い女を捕まえるのだ。神は何を考えてこんな摂理を生み出したのだろうか、小一時間ばかり問い質したいところである。
 殺気を発しながらの行軍は、周辺の人々を慄かせる。看護士たちは思わず道をよけ、散歩中の患者は反射的に目を逸らした。現場投入早々教授を殴った男として名を馳せてしまった若い医師は、今や病院中にその存在感をとどろかせている。
 まあ病院を追い出されなかっただけでもマシだ、とボルドゥは考えていた。出世の道は完全に絶たれたが、代わりに与えられたのは追放ではなく窓際の仕事と過酷な任務だった。教授陣は、跳ね返りの新人を無視することであの事件を『なかったこと』にしたのだ。理事長選挙も近いため、事を荒立てたくなかったのだろう。
 愚かなのはお互い様。そう思うことにしたボルドゥは、勝手きままに職務をこなしていた。嫌がらせのつもりか、朝から晩まで病院内を走り回るような仕事を回されてしまったが、打たれ強い彼を屈させるものでもない。そして僅かでも時間が空くと、彼はきまってその部屋を訪れるのだった。

「よ」
 扉を開くと、逃げ場を見つけた風が脇をすり抜けていく。窓が開いていたのだ。
 白い光を浴びたカーテンがひらひらとなびき、光はベッドまで指先を伸ばす。そしてそこに体を起こした『彼』の髪も、たおやかになびいていた。
 ボルドゥは一瞬だけ目に観察の色を宿し、『彼』の様子を一撫でする。『彼』は上体こそ起こせるようになったが、今だに言葉が戻らない。そしてこちらに見向きもせず、ただ窓の外を見つめるばかりだった。
 そこに足を踏み入れるには、水の中に入るような抵抗感がある。白い光の世界は、どこまでも現実と乖離している。それは『彼』の生み出す世界であった。何も語らず、ただあるがままの白紙のような『彼』は、清浄で無垢な空間を作り出す。俗世にまみれすぎた自分がいるには、少し眩しい。
 白い服を着た『彼』は、まるでこの世のものではないようだ。全身の色素の薄さが、大地から解き放たれてしまったような印象をもたらす。温もりはなく、かといって凍えるようでもない。痩せ細った長身が白布に包まれている様は、あたかも絵画に住む聖人を見ているかのようだ。
「何か見えんのか?」
 ボルドゥは窓辺に近寄って、外を眺めた。共同病室と違って要人などが入ることもある個室は、見晴らしが良い方面に窓を向けて作られている。すぐ脇で揺れる木々を額縁にしたそこからは、都市の白い町並みが一望できた。
 吹き込むは、疲れた体に染み入るような清涼とした風。ボルドゥは柄にもなく心が洗われる気持ちで振り向いた。
「綺麗だな」
「――」
 『彼』は彫像のように表情を崩さない。その腕の傷は既に癒えているが、心は残滓をさらすように空虚なままだ。本来なら、棟を移して治療を施すべきだった。しかし馬鹿げた思惑の重なり合いで、それは叶わない。『なかったこと』にされた事件の裏で、『彼』の存在も捨て置かれたのだ。ボルドゥに出来ることといえば、一日でも早く治療が行えるよう、精神科にいる友人に連絡をとることだけだった。
 『彼』は、ボルドゥの存在に気付いていないのか、相変わらず瞳の表面に光景を映し出している。まるで迷い子が、途方にくれて空を見上げるように。
 それを見つめながら、何があったのだろう、と今更ながらにボルドゥは考えた。古本屋の息子に聞いたところでは、『彼』は学生時代から何処かおかしかったのだという。しかしその一方では学園で主席を取るほどの怜悧な頭脳を持ち、学者というグラーシアで学んだ者なら順当すぎる道を選んだ。所属した研究所では、特に目立つこともなく黙々と研究を続けていたらしい。専門は、生物学。
 経歴だけを見れば傷など見当たらず、しかし事実傷だらけであった『彼』にとっての引き金は。
『――母親の死、か』
 心で呟いて、ボルドゥは目を眇めた。今ある情報では、それしか考えられない。海を隔てた先にいた母。もしかしたら、『彼』の支えだったのかもしれない。もしそうなら、それを失ったとき、同時に心が砕けても不思議ではない。人は、何を心の拠り所にしているかわからないものだ。
「なあ、フェレイさんよ。聞こえてるかい?」
 窓辺に背を預け、肘をついたままボルドゥは薄く笑った。世俗を知らぬ『彼』の過去を思ったからだ。
「聞こえてるなら、返事くらいしてくれよ。俺だけ喋っててもつまんねえ」
 所詮表面的な傷しか癒せない己がもどかしかった。ボルドゥは『彼』の救い方を知らない。
 泡沫の静寂に放たれた声は、まるで縋るようで。
「お前のこと、まだ何も知らねえんだよ」
 出口のない部屋に己の意志で入ったというのに、みっともなく泣き出しそうになる自分がいる。医者のくせに、人を救うのが仕事のくせに、人一人を闇から引き出すことも出来ない。
「見えてるんだろ」
 そんなことが口をついて出た。『彼』は窓の外を俯瞰している。その先に何があるのか見極めようとしているようにも見える。
 『彼』はきっと、そこにボルドゥを認識していない。
 けれど、何も見ていないのでもない。
 それが唯一の救いで。ボルドゥは、己の喉が勝手に紡ぐに任せた。
「ろくでもない世界だがよ、こんなに明るいんだぜ」

 つと、『彼』の瞳がボルドゥを捉えた。

 たった一瞬の出来事だった。体どころか、頬すら動かすこともなく、突然『彼』はボルドゥを見たのだ。
「――」
 瞳を交差させたまま、ボルドゥは光の線に頭を貫かれる思いを味わった。瞳には、人を縫いとめて放さない光彩。午後の風に誘われて、ちらちらと揺れる。
 そうさせる力は、努力で培ったものではない。生まれ持った才能だ。知らずと人を畏怖させる瞳。それは、ボルドゥに底のない透明な湖を覗き込んだような酩酊をもたらす。
 呼吸が止まっていたことに気付いたのは、数秒の交差の後に『彼』が目を伏せてからだった。
 解放された体からどっと汗が噴出し、ボルドゥは再びまどろみに入ったとおぼしき『彼』を凝視した。
 何かを言おうとしたが、ひからびた喉は掠れた音すら紡がない。
 人形であり、彼岸の人であり、絵画の住人であった筈のそこに生まれた、峻烈な生の匂い。
「……お前」
 唇だけで呟いて、ボルドゥは眩暈を覚えた。
 俺は、馬鹿だ。彼は、自らの過去を反芻するたびにいつもそう思う。妙なところで意地を張り、諦めているようで諦められない心を抱く。そして――何故だか、数奇な運命に出会うことも、ある。
『何者だ?』
 空虚な『彼』の心の奥には、何かがある。燃え滾るような何かが。
 目蓋の裏を焼く事実に、ボルドゥは胸が騒ぐのを感じていた。




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