-紫翼-
末章:レーヴェヴォール

01.迷子



 はじめに絶望があった。
 絶望から世界は始まった。
 それまでの私は何一つとして見てはいなかったのだ。
 光で溢れた世界を当たり前のように享受し、それが何であるのかを理解しようともしなかった。
 ――否。私は、世界に光があることすら気付いていなかったのだ。
 絶望は、私に光を与えた。
 暗闇の奥底から、私は初めて立ち止まり光を見上げ、認識した。
 見上げた光はまばゆく私を照らしつけ、私の瞳には世界が映った。
 全ては絶望から始まった。私は、だから生きていく。


 -紫翼-
 末章:レーヴェヴォール


 ***


 ハーヴェイはフェレイ・ヴァレナスについて、周囲が思っているほど陰鬱な人間ではないと思っていた。
 そう。彼は決して陰気ではない。彼を忌避する者たちが彼に抱く嫌悪感は、きっと、彼の飲み込まれてしまいそうなほどの透明度に起因するのだ。
 彼は話そうと思えば明瞭に話す。滅多に口を開かないのは、話すことがないだけに他ならない。しかし、それをもって余りある感情の乏しさが、――そしてあの瞳が。きっと他の者たちを遠ざけたのだろう。あの頃の彼は、人に興味を持つことがなかったのだ。
 気がつけば、店には彼がいた。傍目には、どこにでもいる学生にしか見えなかった。
 彼は、様々な種類の足音に紛れるようにして生きていた。普段から瞳は細工をした硝子のようにぼんやりとしており、何処を見ているのか分からなかった。
 だが、本を読んでいるときだけは何かが違った。古本屋という場所柄、立ち読みをする人間を幼少時から多く見てきたハーヴェイは、彼の姿に異様なものを覚えたのだ。
 爛々と瞳を光らせ、文字の世界に逃避するがごとく、彼は書に読みいっていた。それも、どのような本だろうが構いなしに。

 感情の起伏の乏しさが、そうさせたのだろうか。ハーヴェイがある本の感想を聞いたとき、彼は不思議そうな顔をしたまま答えなかった。本を薦めれば受け取り、礼まで言えるのに。彼は自分の内包するものを表現するのが、酷く苦手なようだった。後に妻となる少女は、そんな彼を気味悪く思っていたようだ。
 気持ちは分からないでもなかった。確かに普通の人間から見れば、彼の有り様は限りなくいびつだ。けれどハーヴェイは同時に見抜いていたのだ。これは本来の彼ではないのではないか、と。
 ハーヴェイ自身も、無邪気な子供時代を過ごせたのは、ほんの僅かの時でしかない。都市にいる子供は、ほぼ全てが聖なる学び舎の生徒たち。彼らは己が選ばれた人間だと信じており、外の者となど関わろうともしない。古本屋の息子でしかなかった自分は、むしろ後ろ指を指されることが多かった。遊ぶことしか知らない無能者。無限の未来を持たない、哀れで平凡な少年。それが、聖なる学び舎の生徒たちから貰った評価だった。
 だから、気持ちはいつだって内側を向いていた。外界から身を守るために。本当は大声で笑って走り回っていたかったけれど、出来なかった。悪意をぶつけられることを恐れて、唇を噛み締めているしかなった。屈した様を笑われることを、惨めな姿を見られることを、最も嫌った。故に自然と表情は硬化した。
 逃げ場は本の中にしかなかった。本はいつだって、荒んだ心を慰めてくれた。天賦の才など持ち合わせていない自分でも、本は何も言わずに知を与えてくれた。書物は全ての者に平等だ。そのページをめくる手を拒むこともしない。故にあぶれたものにとってそこはとても優しい世界で。
 ただ、自分と彼が違ったのは、どうも彼は読書を面白がっている様子がないということだ。ひたすら文字の羅列を追って情報を得ていく彼は、何を見ても笑いも怒りもしなかった。
 それは、そう。まるで、文字を眺めることで時が経つのをただ待っているような。あるいは――。
 無差別に知識を溜めることに、全ての精力を注いでいるような。

 だから。
 あの姿を見たとき。
 彼が、己の手で己の腕を切ったとき。
 まさか、と思うと同時に。
 ああ、やはり、と。
 酷く納得をした自分を、嫌悪した。


 ***


 見慣れない白い通路、白い部屋。息が詰まるような妙な空気は、全く馴染みのないもので。そういえば人生で病院に世話になることはほとんどなかったと気付いて、内心で両親に感謝した。
 慣れない手続きをして、面会の許可をとる。『彼』を見るのが恐ろしくて緊張していたため、『彼』がまだ眠っていると聞いて、密かに胸を撫で下ろしていた。ハーヴェイは、『彼』が眠る部屋へと足を運び、そうして対面した。
 『彼』は確かに眠っていた。思っていたよりも、穏やかな顔だった。己で傷つけた部分には包帯が巻かれ、点滴のチューブが伸びていたが、それさえなければ普段と全く変わらない様子で。――逆に、そのくらい普段から体温の感じられない男だったのだと、そのとき初めて気付いた。
「ええと……ご友人で? あれ、どっかで見たことあるな」
 担当医は、ハーヴェイとそう変わらない年齢の若い男であった。新人だったのかもしれない。だが医者とは思えないほど目つきが悪く猫背で――自分を棚に上げて言ってしまえば、人相が悪かった。白衣の袖を中途半端にまくりあげた彼は、弱りきった顔でこちらに声をかけてきたのだ。ハーヴェイが名乗ると、ああ鷹目堂の、と納得したように頷いた。どうやら客であったらしい。
「実はね、身元引受人がいなくて困ってたんですよ。ご両親は亡くなってるし、兄弟もなし。親戚は連絡しても別をあたってくれって言うだけで」
 本人もこれだし、とボルドゥと名乗った担当医は頭をかいた。『彼』は、あれから一晩経っても意識が戻らない。
 ハーヴェイは白いベッドで眠る『彼』を見つめた。自殺未遂者ということで、『彼』には個室が与えられている。紙のように白い肌にかかる銀に近い水色の髪は、珍しさも相俟ってこの世のものではないようだ。

 『彼』のどこかが歪んでいることは、知っていたつもりだった。しかし、それでいて何もしなかった事実が、胸につかえてとれなかった。危惧は抱いていたのだ。いつかこうなるのではないかと。それなのに、ただ見ているだけであった。自分に出来ることなど多くないと決め付けたそれを、怠慢と呼ばずに何と言おう。
 だから、担当医に自分が身元引受人になると告げた。担当医は愚痴を零したかっただけで、まさかそう言われると思っていないようだった。怪訝そうな目でこちらを見ていた。

 息子が結婚したことだし、そろそろ引退して隠居する、と言い始めていた両親を説得して、ハーヴェイは病院に通うことになった。二日経って、三日経って、しかし『彼』は目を覚まさなかった。もしかしたらと思うと息苦しかったが、妻は酷くショックを受けたようであったし、とても相談などできなかった。故に、気がつけば年の近い担当医とよく話すようになっていた。陰険な目つきをした若い医師と無口な古本屋の息子は何故だか馬があい、共にいることが多くなった。
「初めての担当患者なんだよ」
 やはり彼は新米医師だったようで、げっそりとやつれた顔で零したものだった。医者という職業に憧れがあったかは知らないが、気の毒に思っていると、グラーシアの医者でそういうのは珍しくないという話をされた。学問の聖域であると共に煉獄でもあるこの地では、残念ながら精神を病んで自ら命を絶つ者が国の中でもずば抜けて多い。
 そうして五日目、ハーヴェイの元に『彼』の意識が回復したと連絡が入った。だが駆けつけたハーヴェイを迎えたのは、担当医の険しい顔であった。
「――俺の管轄から離れるかもしれねえ」
 恐れていたことが、現実になっていた。


 ***


 外科が専門である担当医に連れられて、『彼』を見た。そして応接間に移動した後、担当医ボルドゥは淡々と語った。
「見たとおり、意識はあっても外からの刺激に全く反応しねえんだ。ここから先は俺の専門外なんだよ。明日には精神科の棟に移されるだろう」
 外科を専門とする男に、『彼』の傷を塞ぐことは出来ない。『彼』は、瞳を開いたまま時を止めていたのだ。手首の傷は癒えても、その心は未だ血を垂れ流すままであった。
「ウチはそういうの得意な連中がいるからよ、大丈夫だとは思うが」
 煙草が恋しいのか、人差し指と中指で虚空を弄びながらボルドゥは目を眇めた。己の力ではどうしようもないことを悟り、しかしそれを淀みなく受け入れることも出来ない。若さ故の苦悩を湛えた瞳は、ぶつけどころのない苛立ちに歪められた。
「――フェレイ・ヴァレナス。つい最近、母親を亡くしていたそうだ」
 ハーヴェイは顔をあげる。その話は初耳だった。迷子のように途方に暮れていた佇まいを思い出す。『彼』はこの地に何を求めていたのだろうか?
「その衝撃で……自殺を?」
「分からねえけどよ。てめえ、奴に母親の話を聞いたことがあるか?」
「……いや。私生活の話はしたことがない」
 それでよく身元引き受けたもんだな、と皮肉を言って、とうとう我慢できなくなったのか、ボルドゥは立ち上がると窓を開いて煙草を吸い始めた。
 くたびれた後姿には、若さに見合わない人生の疲労が色濃く溜まっている。聞くところによると、彼は北の地方都市からグラーシアに来て医師免許を取得したらしい。彼のように地方から出てくる人間は珍しかった。グラーシア国立病院の育成機関で免許をとるのは、ほとんどがグラーシア学園の卒業生で占められているのだ。いつだったかそう言うと、ボルドゥは濃い皮肉を唇に乗せて、そうしたくてしたんじゃないと暗く呟いた。
『落ちたんだよ、学園の方は』
 グラーシア学園の入試は大陸中の子供が才を試しにくるため、比例して倍率も高い。彼は受験に失敗し、一度は地方の学舎で学んだ後、再びグラーシアの地を踏んだのだ。グラーシア学園の中でさえ一握りの生徒しか行くことの出来ない、グラーシア国立病院の医師教育機関へと。
『たぶん医者になったのも、あのとき落ちたのがきっかけだ。ガキなりに悔しかったからよ、死ぬもの狂いで勉強した』
 覚えていろ、と。憤怒と切望を湛えた少年の心は、かの学問の聖地を目指して走り続けた。けれど、そう語る若い医師の目は、まるで虚無を眺めるように醒めていた。
『なんでこんな地獄に来ちまったんだかなあ』
 そんなぼやきを胸に落としながら、しかしハーヴェイは同時に胃の底で古傷の痛みが首をもたげる心境を味わっていた。
 薄い哂いを浮かべる彼は、国でも最先端の医療機関に身を置いて昼夜問わず走り回っている。そこには都市のみならず大陸中から僅かな希望に縋る患者がやってくるのだ。ハーヴェイとの会話も、僅かな休憩の合間に限られた。その度に愚痴を零しながら、彼は仕事を貪るようにこなしていく。
 一度の挫折を味わって、それでも屈せずに立ち向かう強さが、彼にはあって自分にはなかったのだとハーヴェイは思う。強靭な心を持たぬ自分は、本に逃げることしかしなかった。だからそんな若い医師が妬ましく、同時にそう感じる自分の浅ましさを思い知らされた。誰にも言えないほどに餓鬼じみた感情だ。腹の中でわだまらせておく他ない。
 そんなハーヴェイの鬱屈を他所に、ボルドゥは初めて担当に回された患者を救えぬことに酷く苛立ちを覚えているようだった。ひねているように見えて、自分の矜持が傷つけられることに黙っていられないのだ。しかし、彼の技能にも限度がある。生身の傷を治すことは出来ても――。
「――くそ」
 小さく、しかし堪えきれずに漏れた嘆きを、ハーヴェイは確かに聞いて。
「誰があんなにしたんだよ、ただの人間を」
 目を伏せた先に、瞳を開いたまま諾々と世界を映しこむ壊れた若者の残骸を思い出し、そのベッドの白さにハーヴェイは眩暈を覚えた。
 そして翌日、事件が起きた。




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