-紫翼-
二章:星に願いを 60.ユラス・アティルド 物々しい雰囲気だと思った。 グラーシア学園の正門前にて、俺たちは無言で目配せを交し合う。エディオは道々に立つ銅像のような人々を睨み、怪訝そうに顔をしかめた。 「君たち、何処に行くのかね」 一歩踏み出した先から咎められる。銅像の一人は、――多分、警視院の人間ではない。そう直感的に思った。屈強な肢体を制服に隠した男は、観察の瞳をこちらに向けている。吐き気がするほどの威圧感。一瞬、俺を捕えにきたのかと思ったが、手をかけられることはなかった。 俺は鷹目堂に、エディオは病院に行くところだったのだ。決してやましいところがあるのではない。だからそう声を押し出すと、男は巨山のように立ちはだかった。 「私的な外出は禁じられている。戻りなさい」 「――」 肩ごしに見える大通りは、奇妙な緊張に満ちている。何が起きたんだろう――そう思いながらも足を下げずにはいられない。本能が、目の前の銅像のような男に近づくなと告げている。 「これはどういうことですか」 背後から硬い声が聞こえたのはそのときだった。振り向くと、見たことのある中年の男が表情に怒りを含ませて歩いてくるところだった。質の良い礼服に身を包み、普段から厳しい形の眉を更に吊り上げたその人は、ライラック理事長だ。しかし、対する銅像はぴくりとも動かなかった。 「こちらに断りなく外出を規制するとはどういう了見です。そもそも警視院の方はどうしたのですか」 「説明する必要はない」 糾弾が、冷たい刃で切り捨てられる。しかしライラック理事長はその背筋を一時も崩さず、先ほどよりも更に低い声で立ち向かった。このような駆け引きに慣れているのか、唇には皮肉な笑みすら浮かんでいる。 「ここを何処と心得られる。我ら学びの徒が理由もなく従うとでもお思いですか。それとも、まさかあなた方の祖先でありこの国の父である方が、自ら生み出した都市を力で支配せよ、と命じたのですかな」 その言葉で、俺はこの銅像のような人々が軍人なのだと悟った。この国の父――ウェリエル・ソルスィードは、国軍の父でもある。そして銅像の持つ醒め切った瞳や、違和感を覚えるほどに形式ばった動作。全て、相手を威圧するものに他ならない。 「誇りは住民の命に代えられない」 「それほどの重大な事態が起きていながら、何故語らぬのです。我々に聞かれては困る事柄のように聞こえますが?」 向き合う二人の視線が、冷えた火花を散らす。すると、ライラック理事長はちらりとこちらに目をやって、静かに囁いた。 「君たち。ひとまず校舎に戻りなさい」 これ以上の駆け引きを生徒に聞かせたくないのだろう。俺たちは緊迫から逃れるように、その場から離れた。 「な、なんかえらいことになったな」 「……」 エディオは鞄を片手に提げたまま、思案にふけるように眉を潜めている。傍からは恐ろしく不機嫌なように見えるのだが、実際はただ考え込んでいるだけだ。だから俺は、エディオの中で結論が出るまで待つことにした。こいつは無口だが、思考は鋭敏だ。 「あいつ」 「うん?」 「――灰色の髪の、小さい方」 ドミニク。小さく口の中で呟いて、俺は小さく頷く。 「あいつが何か起こしたんじゃねぇのか」 ちくりと、僅かに胸に刺さる。あの晩の焼け付くような瞳が思い出されて、眩暈がした。額から髪に指を差し込んで、小さく反論する。 「……でも、なんで軍まで出動するんだ? 今までだって、警視院沙汰で終わってたのに」 エディオは確かに、というように頷いて、折り曲げた指を顎にあてる。そして、その鮮やかな瞳を不意にこちらに向けた。 「テメエ」 もう慣れたとはいえ、エディオの視線には人の心を貫くものがある。胸が跳ねるのを悟られないように、俺はぎこちなく返事をした。 「……フェレイ先生と最近会ったか」 「え?」 思いがけない名前を出されて、聞き返してしまう。するとエディオはその先を言い淀んで、視線を彷徨わせた。まるで、俺の反応を伺うように。 「いや、最近忙しそうだし、あんまり会ってないけど」 「先生に初めて会ったときのこと、覚えてるか」 言われるままに思い起こす。フェレイ先生に初めて会った日。春の光が降り注ぐ川辺――。 「……んー」 もう二年近く前のことだ。遥か彼方の記憶は掠れて、どうも頼りない。でも、あのときのフェレイ先生の笑みはよく覚えていた。記憶を失った俺に差し伸べられた手。淡い燐光を放つ、穏やかな記憶――。 「おかしい点はなかったか」 突然降り注いだ声に、俺は瞳を弾けさせた。 エディオが薄い唇を引き縛ってこちらを見つめていた。伝播する緊張に、頭がみるみる冷たくなっていくのを感じる。 どうしてだろう。背筋に汗が伝うのは。舌が乾くのは。指先が震えるのは。 優しい光。あそこには、それしかなかった筈だ。なのに、どうしてこんなに体が強張るのか。 「……わからない」 一体、どれほどの沈黙を置いたのだろう。俺は小さく、そう紡いだ。おかしなところは何もない、そう心では分かっているのに、疑念の火種を消すことができない。俺は小舟に乗っていた。先生とは偶然出会った。そして、俺は先生に連れられてこの都市に――。 その間に、何かが――何かが。 「わからない」 泣きたくなるほど胸が揺すぶられて、声が震える。エディオは鋭くその異変に気付いたようで、短く嘆息した。 「フェレイ先生を疑いたくないのは分かる。だが――」 そのとき、突然上方から呼びかけが降りかかった。 「エディオ!」 右手の校舎を仰ぐと、キルナが窓から身を乗り出しているのが見える。 「ちょっと来て。魔力測定器の様子がおかしいの」 エディオは億劫そうに目をそばめたが、俺はそれどころではなかった。胸に落ちた疑念が、もう少しで掴めそうなのに、未だ形を持たない――。じわりと現実が揺らめく。 「断続的に針が振れてるのよ。これって……」 降り注ぐ言葉がとても遠い。エディオは何かを察知したのか、そちらに行くことにしたようだ。 「おい」 促されたが、この頼りない糸を今手放してしまえば、ひらめきが霧散してしまう気がした。 「……ちょっと、ここで考えさせてくれ。なんか分かりそうなんだ」 そう告げると、エディオは当惑したように黙っていたが、逡巡の後に決断を下す。 「何か分かったら上にあがってこい」 「ああ」 目を合わせなかったから、どんな表情をしていたのかは分からない。エディオは校舎の中へと駆けていく。ぽつりと一人、取り残される。 石段に腰掛けて、さわさわと木々のざわめきに聞き入った。 セライムは朝一番の汽車で実家に戻ってしまって、もうここにはいない。それだけで、胸が欠けてしまったようにすら思える。何故だか、酷く心細い。 「うう」 鈍痛がする頭を抱えて、俺は胸に流れ込んだ異物の正体を問い続ける。 遠い昔の、春の目覚め。おかしいところなど何一つないはずなのに、心が締め付けられるように痛む。何か、とても大切なことを忘れてしまったように思う。 どれほどそうしていたのだろう。ふと、影が被ったのに気付いて俺は顔をあげた。そこには、知った顔があった。逆光のためか、瞳が暗い色を湛えている。とてもよく知った顔だ。けれど、俺は心を波打たせることなく、その事実を認識していた。 「……レンデバー」 「久しぶりだね。ユラス・アティルド君」 きっと俺は、迷い犬のような顔をしていたのだろう。久々に見るレンデバーは、俺に視線を合わせるようにしゃがんだまま、不思議な色の瞳をふっと滲ませる。 「助けてあげようか?」 だしぬけに紡がれて、俺は無防備に目を瞬いた。何故だろう。胸にそっと暖かい手を当てられたような、そんな感じがした。 「君の瑕を、僕が教えてあげようか」 お互いの間が近い。視界が覆われている。手を伸ばせば簡単に触れられそうなほど。甘ったるく濁った空間は意識を酔わせて、憔悴した心を優しく包み込む。 「きず?」 「そう。君はもう、いくつかの記憶を思い出しているのかもしれない。でも、いくらそうしたところで君の胸は一向に晴れない。例え全てを思い出したところで、君の苦しみは終わらないんだよ。そうでしょう?」 その言葉は、頭の中にある知能では処理出来ない。こんなにも膨大な情報があるのに、理解出来ない。そして、胸の隙間にするりと入り込んで熱を放った。 俺の記憶が戻ったところで、俺の苦しみは終わらない――? 「ねえ、ユラス君。僕は、君に聞きたいことがあるんだ」 胸を締め付ける鎖が、軋んでいる。 「君は、本当に記憶を失ったの?」 巨大な剣が、耳元すれすれに突き刺さる感覚。みしみしと、音が聞こえる。けれどまだそれは致命傷ではない。俺は、まだ俺でいられている。 「――え」 けれど、反論する舌は動かなかった。レンデバーは、小首を傾げて少し考え込んだ。 「ううん、違うな」 自分の問いかけが的を外したことを理解したのだろう。すると、再び剣を携えるように、薄く笑う。 そうして、次こそ違わずに。 俺の胸を、鎖ごと貫いた。 「失うほどの記憶が、そもそも君にはあったの?」 世界が、真っ白になった。 *** 弾けるように駆け出した紫の少年の背中を眺めながら、レンデバーは無感情に呟いた。 「追え、グレイヘイズ」 「――は」 潜んでいた影が、揺らめくように動く。それを見送ると、体を嬲るような風に髪を遊ばせて、レンデバーは僅かに目を細めた。 「悲しいね、ユラス君」 哀れな少年だ。心の機微の大部分が壊れた彼の心にもそう感じられる。あらゆるものを背負わされた紫の少年は、いびつな心を無理矢理仕立て直されて陽光の元に投げ出された。 ――既に、その心は壊れていたのに。 「君は言ったね。自分が存在してはいけないものなら、撃ち殺されても構わない、と」 唇の端に、酷薄な笑みが浮かぶ。長い足を踏み出して、彼もまた、終焉に向けて歩き出した。己のすべきことの為に。 「違うんだよ。君はずっとその時を待ち望んでいた。――終わりを一番欲しがってたのは、君だったんだ」 *** 絶えず命の波を流す川。全てを焼き尽くす白い光。 ちかちかと瞬いて、脳裏を焼く。空白。存在することすら忘れていた、僅かな時。 小舟で目覚めて、川原に座りこんだ。そして、虚無に突き当たった。巨大な絶望。心に抱えていたものが、一気に溢れ出したのだ。それは、思惟だ。闇に囚われた時を埋め尽くしていた、切なる願い。 始まりの地では、幾度となく死の矛先を突きつけられて、けれど生を強制され続けた。 願い続けていたのに。終わりがやってくることを。誰かが消してくれることを。 そう。俺は願うことしか出来なかった。 明るくて暗い場所。そこで、俺は――目の前で起こる悲劇の嵐を、ずっと感じながら。 一人で、眠り続けていたのだから。 「――」 自分が、何を呟いたのか分からなかった。気が付いたら、俺はそこにいた。目の前に、フェレイ先生がいた。ここは何処だろう。もう、何処でも良い。頬を伝うものが何だろうが、既に意味を成すことではない。フェレイ先生は、言葉を失っていた。俺の表情のためか、それとも――来る時を悟ったためか。 そう。春の目覚めに紛れた、始まりの歪み。終わる筈だったものを引き継いだのは、この人だ。 「……どうして、ですか」 狂った歯車が、けたたましい音を立てて歯を弾け飛ばせる。心がぼろぼろと剥がれ落ちていくのを感じる。出来損ないの張りぼてが、たったの一撃で粉砕されるように。培ってきたものが瞬時に塵と化す。砕けた心から溢れ出すは煮えたぎる衝動。押し出すような紡ぎは、瞬間、沸点に達して飛び散った。 「どうして、あそこで俺を見殺しにしなかったんですか!!」 あの地で、春と共に目覚めて。初めて目を開き、己の足で立ち、自由を手にして。 死への衝動を弾けさせ、己の手で己を消してしまう筈だった。 それが唯一の望みだったから。ただひとつの救いだったから。 壊れて、潰える筈だった。頭を抱えて悶えていた。心が壊れるはずだった。闇に帰れる筈だった。 なのに。 「どうして――助けたんですか」 その人は、俺を探し出した。駆け寄った。膝をついて、顔を覗き込んできた。 悶える俺の目の前で、石像のように冷徹な目をしたまま。 紡ぎ声。頭の中を木霊する。 ――私の声が聞こえますか? 耳から心に、直接流れ込んだ囁き。 全てを知る者のそれは、生れ落ちてままならぬ者にとって福音に等しい。 ――よく聞いてください。 ――あなたは記憶を失っているのです。あなたはとても悲しい経験をしましたが、それらの記憶を失ったのです。 ――そう、あなたは何も思い出せない。あなたは自分が誰なのかわからない。何処で生まれたのかも、何をしていたのかも、自分の名前さえ――。 ――あなたは忘れてしまったのです。悲しい記憶を忘れてしまったのです。 崩れていく心に楔を打ち込んだ、凄絶な刷り込み。全てを塗り替えて、俺という存在を安定させた。いびつなものを、この世に繋ぎとめてしまった。なくした記憶など一つもなかったのに。ただ、夢と現実を彷徨いながら、死を願い続けていただけなのに。もう何も聞きたくないと、――消えてしまいたいと願っていたのに。なのに、全ての歪みを記憶という言葉に閉じ込めてしまった。 「ユラス君」 僅かな焦りが、真実の肯定を示す。踏み出される足の動きに、心が崩落する思いを味わう。 「――っ!」 寄るな、と叫んだ。力任せに。あるときは支柱に、あるときは標になってくれたその人は、無力にこちらの名を呼ぶだけだった。 「――ユラス君、あなたは」 聞きたくない。世界が歪んだ理由など。真実は、確かなものとしてここにあったのだから。 そうだ――。 明るく暗い場所で、眠りという束縛に身を置いたまま、狂っていく人々の呼気を感じ続けて。壊れないわけがなかったのだ。だから、あそこで終わるべきだったのだ。 なのに、どうして光を与えた。取り繕われた出来合いの心を抱えて、何故、彷徨わなければならなかった? 変わらない。結局、変わっていないのだ、あそこから。俺は、別の思惑によって生かされ続けて、光と闇の境をたゆたい続けていたのだ。欺瞞によって偽りの平定を与えられ、いつまでも己の足で立つことなく。 残骸が、最後の嘆きを呟く。 どうして、望みを叶えてくれなかったんですか。 「どうして、騙し続けたんですか」 ――フェレイ先生。 分かっていたんでしょう、あなたは。 俺が、いつかは真実に気付くことくらい。 「どうして」 どうか、答えて下さい。 そうして、沈黙。唇から言葉は紡がれず、その人は俺をじっと見詰めている。それが最も残酷な答えであるというのに。絶望の楔が打ちつけられる。 たったの一瞬、波打つ金髪の影が遠くを揺らめいて、白い波間に消えていく。 何も見えない。残るは衝動。あのときと同じ。 再び世界が回転するのを感じた。 何処で果てようが変わりはないように思えても、体が動き続ける。終わりの地に向けて。 もう、崩壊は止まらない。 *** 男は、魂を失ったように佇んでいた。崩壊を迎えた心の破片を叩き付けられて、彼は呼吸すらしていないように見えた。ただ、紫の影が去った方向を見つめていた。幼子のように。 背後から迫るものがあった。普段であったら、十分に男はその危惧に気付いたろう。瞬時に必要な判断を下し、必要な行動に移っていただろう。 しかし、その指は懐の護符を破くどころか、動くことさえなかった。刃が迫る数拍前になって、やっと彼は異変に気付いたのだ。 男が振り向いた瞬間、彼は腹の辺りに異物があたるのを感じた。理解の訪れぬ瞳はただ瞬いて、襲来したものが自らの懐に吸い込まれるのを見つめていた。 薄汚れた灰色の髪が、遅れて異形の首筋に納まる。その様を見て、それが誰であるのか気付いた男は、不思議そうに唇を動かす。腹の辺りが妙に暖かい。異形が顔をあげ、こちらを見た。焼け付くような憎悪。歪みを引き継いだ者に対する正当な復讐なのだと、その灰色の瞳は告げていた。終わらせなかった罪。己が為に突き進んだ者への罰。 男は、崩れていく異形を見下ろしながら、静かに微笑む。 「夢見た理想郷は、たぶん、手に入らない。知っていましたよ、とっくの昔から」 父が息子の頭を撫でるように、異形に触れる。そこからぼろぼろと組織が散っていく。異形は、それでも男を見上げ続けている。 「けれど、人は想うことを止められない。何故でしょうね?」 既に言葉を解さぬ異形は、目尻から光の粒を散らした。それが最後、異形は灰となって崩れ去った。 地味な色のローブが、紅に染まっていく。異形が消え去った虚無に残されるは、突きたてられた刃。男はそれを他人のもののように眺めた。 生ぬるい感覚が、血の体温を伝えてくる。それは、己の体から流れたものだ。壊れた心を抱えようが、熱を持つ。そんな様が滑稽で、哀れで、何よりも嬉しく思ったことがあった。 「――」 男は、ふっと笑った。焦点を結ばぬその先に、一片の夢を見たか。 それとも、己が願いを何かに託したのか。 唐突に彼は、己の血溜まりの中に倒れこんだ。 *** もう、束縛するものは何もない。己の望みに忠実に、ある一点を目指す。力を用いて、足を用いて、一直線に求めた。 全ての感情が、一つの願いに塗り潰されている。思考の純度が限りなく高い。 記憶は失われてはいなかった。ただ、そう思い込まされていただけだ。 覚えていた。はじまりの地への道。到達する。それを視界に納める。 ごうごうと。かの地は、動き始めていた。あの日、崩壊が訪れた嵐の日――全ては止まった筈なのに。まるで、こちらを受け入れるように。 入り口には、人がいた。それは、こちらを見て、目を剥いて去っていった。変わりに、別の固体が現れた。それは、こちらを見て、驚き、忌々しげな恐怖と怒りをくれた。 「現れたな、化け物め」 胸に心地良い言葉。 「お前がいたから、全て壊れたんだ」 幾度となく聞いた、向けられる悪意。あるべき姿。あるべきかたち。 向けられる銃口。引き金にかけられた指。けれど引かれなかった指。 それが、ようやく――。 「何、笑ってやがる」 「……ただいま」 口の中で呟いたけれども、相手には届かなかった。 ああ、終わる。ようやく終わる――。 「くそ、消えやがれ!」 ついに、弾ける音。 体が吹き飛ぶのを感じる。 その刹那、僅かに瞳が様相を知覚した。深い森の中を切り裂いて生みだされた、歪みの色。無骨な作りの建物は、まるで滑稽な砂の城を思わせる。そこに立ち尽くす、一人の男。夢見た記憶に、 その名は定かでない。だが、感情の色と揺れは覚えていた。今にも消え入りそうな切望。男を支配する憤怒。どれも、どれも懐かしい。 次第に視界は青い空。目を焼くような白い光。得ようとして、手放したもの。この手にあったはずなのに、塗りつぶされてしまった――。 でも、元から得られるものでなかったのだから。 悲しくない、悲しくない。 心なんて初めからなかった。死への衝動だけで生きてきたのだから。その場合わせで作られた心など、心ではなかったのだ。 だから、この瞳が涙を零す意味など、何もなくて。 空の高みを、何かが舞うのが見えた。 それが、俺が見た最後の景色だった。 <二章:星に願いを 了> Back |