-紫翼-
二章:星に願いを

59.彼が失くしてしまったのは



 歩幅を大きく取ると、風が髪の合間をすり抜けて心地が良い。淀んで灰色に染まっていた筈のそこに切り込むように乗り込んだセライムは、妙に晴れ晴れとした気分だった。
「お嬢様! お待ち下さい」
 投げかけられる制止は、しかし少女の前では砂塵にも満たない。突然帰宅して荷物も降ろさずに屋敷の中を突き進む少女に迷いはなく、ただ貫徹の意志だけがある。そんな彼女を老婆は早足で追いかけるが、風のような少女には追いすがるのが精一杯だった。
 豪奢な絨毯も、絢爛な照明も。美しくとり飾った全てが、自分には似合わないのだとセライムは感じた。彼女が欲するのは世界を見下ろす窓辺でなく、自由に広がる荒野だった。囀るような甘やかな会話ではなく、人の暖かい掌だった。
 そう思うと、目尻が熱くなる。これから会いにいく人は、どう思っているのだろう。一度外の世界に飛び出して、けれど大切なものを失って自ら鳥籠に閉じこもってしまった人。未だその人との合間には、分厚い壁があった。新たな生活を受け入れたものと、受け入れられなかったもの。そうして無言の内に反目し、お互いにお互いから逃げ出したのだ。――血の繋がった、大好きな母だったのに。
 駅から一直線に歩いてきたためか、息が弾んでいた。汗ばんだ首筋に当たる冷たい風が、しかし逆に心地良い。セライムがその扉の前に立ったとき、老婆が声を張り上げた。
「おやめ下さい! いけません、奥様はお疲れなのです」
 そのとき、老婆は突然振り向いた少女の顔を見て息を詰めた。抜き放った剣を思わせるほどに鮮烈に輝く瞳が、引き縛られた唇が、爛々と光を散らしている。それらを波打ちながら取り巻く金髪は瑞々しく、それでいて燃え盛る炎のようだ。消え入りそうな表情で俯いていた少女の面影は、既にそこにはない。
 セライムは黙り込んだ老婆に一瞥を投げて、踵を返す。そして、見上げるような扉を正面に見据えた。呼吸が止まるような光景だ。この先にいるのはきっと、幼い頃に見た母ではない。変わってしまったのだ、何もかも。今もどこかで夢見ている、永久に続くと思えた理想は既にない。
 濁り始めた空気を振り払うように、セライムは一度だけ瞬きをして、取っ手に指を絡めた。断ち切らなくてはいけないものがある。その先に幸福などないことは知っていた。この家を捨てるつもりでいる己の行く手には、きっと罪の意識と歪みが付きまとうのだろう。けれど、それらに絡め取られて膝を抱えていれば、いつかは闇に呑まれる。だから――走りながら幸福を探して彷徨うしかないのだ、きっと。理想郷がないことを知っていても、求め続けなければならないのだ。
 それに気付いたことを、大切な人に伝えるために。セライムは一息に扉を開いた。

 光が弾け、解放された空気の奔流を感じて目を細める。知らない空気の只中に踏み込んだセライムは、窓辺に座る女性を視界に捉えた。その顔が、ゆるりとこちらに向いて――。
 胸から堰を切って溢れ出す想いを、そのまま喉からほとばしらせるように、セライムは大きく呼びかけた。


「――お母さん」


 ***


 錆ついた記憶の果て、はじまりの記憶は人の顔。仰臥した己を見下ろす、無数の瞳。狭い部屋だ。
 ルガにとって、人の顔は皆、同じように見える。
「どうですか」
「駄目だ。持ち直せない――値が低下している」
「――の投与を」
「諦めるしか」
「可能性としては――」
「しかし――人語を解すかどうかも」
 飛び交う知らない言葉。ぼんやりと目を開いたまま、それらを映しこんでいた。明るく暗い場所では、照明と人々の瞳、そして彼らの唇だけが、てらてらと輝いていた。

 失敗作。生を受けたことですら奇跡的な己に向けられたのは、モノとしての価値を計る視線。論理で支配された彼らとの間に、愛情など介するはずもない。
 しかし、何よりも悲しかったのは、失敗であろうと初めて『目を覚ました』検体を生み出した彼らが、不可思議な興奮状態にあることだった。彼らは、ルガの誕生を喜んでいたのだ。研究の進展。彼らが求めた結果。そうして彼らは抑えられない欲望を抱え、次なる段階の研究へと没頭していくのだった。
 ルガは一人、取り残される。否。その体と心を蹂躙され続ける。昼も夜もない世界。薬で何日も昏睡状態にされたかと思えば、倒れるまで体を動かすことを強要された。
 心など壊れてしまえば良かったのに。彼らはそれ以上に残酷な甘言を囁くのだ。
「お前が生きるためだ」
 生きるため。もっと長く、世界に留まるため。
「お前が助かるためだ」
 助かるため。この闇から抜け出すため。
 一握りの希望を与えたのは、彼らを統べる闇の支配者。物静かで、機械的で、狂気に犯された者。その背中を視線で追って、いつか彼の目がこちらを向くことを祈っていた。
 それが絶望的な願いであることを知りながら、心を保つにはそれ以外に思い当たらずに。


 暗い。ここは一体何処だろう。
 五感の全てがその機能を停止している。本来そこは明るい場所なのかもしれないのに、目が光を認識しない。
 遠くで人の声がする。ここではない何処かで、いつだって囁かれた言葉の数々。自分の知らないところでばかり、世界は進んでいた。
 憎かった。
 救いを望みながら、全てを憎んでいた。
 ほとばしるような渇望は、憎悪の感情とよく似ている。己が激情に身を任せてしまいたくなるほどの、耐え難い衝動。
 生れ落ちた『成功品』を壊してしまいたいと思った。
 優しくない世界など、呪わしい我が身と共に潰えてしまえ。
 しかし、呟いたところで願いは叶わない。結局はそうなのだ。何を胸に抱こうが、取り巻く世界はそう簡単に変わらない。闘争。戦闘。それらを経ない限りは、得られるものなど存在しない。傷つかなければ、人は何も手にいれることが出来ない。
 だから、生きる理由を得て。
 戦った。

『例えあなたがどれほど苦しもうと、それが人を傷つけても良い理由にはならないのです』

 耳に染むは毒素。
 知った人の紡ぐ響きによく似ている。忌々しいことに。
 だから消してしまおう。今すぐに。戦わなくては。自己を確立させるために。意味を見出すために。
「――なあ。大丈夫なのか、あれは」
「さあな。やっこさんは早急に引き渡せってうるせえらしいが、あの部長も頑固だからなァ」
「でも、口閉じたまま死にそうだぜ、あれ。助けてやらなくていいのか」
「――忘れるな。あれのお陰でジェムスは死にかけたんだ」
「……」
「部長はあれの口から真相が話されるなんてこれっぽっちも期待してないさ。調査してはいるがな。こいつはただの証拠に過ぎない」
 ただの、もの。
 言葉は刃。心を引き裂く闇だ。
 戦わなければ、喰われる。
 たすけて。誰か。


 かの異形が収容された部屋には、特殊な処置が施されている。魔術を行使させないための強固な結界は、都市にかけられたそれより何倍も強い。異形が持つ特異な力のためだ。そして、それらの中に断続的に放り込まれるということは首を真綿で絞めるように生命から力を奪っていくのだが、当時の科学はまだそれを知らなかった。
 どれだけ異形が『人』としての異常な反応を示したところで、異形は異形なのだ。決して人と相容れることはなく、人はそれを闇の中に閉じ込めるしか術を持たない。世の理は排斥だ。異形たる彼らに居場所がなかったように。人の心が許容できる異物は、悲しいほどに小さい。あまりに多くを許容できるものがいるとすれば、それは自らの心を砕いてしまったものだけだ。
 そして檻の中の異形が命として最低限の尊厳を保たれているのが、何よりも残酷であった。異形は白いベッドに伏している。拘束具がないのは、既にそこから起き上がる力もないからだ。意識すらないに等しい。申し訳程度に命を保つチューブに繋がれて打ち捨てられている。人の形をもってしまったが為に、外界は彼を苦しめながら、再び絶望の中に瞬く希望を与えてしまうのだ。
 純粋な弱肉強食の世界に身を置けず、かといって等しい幸福を願う人の世にも居場所がない。灰色の心は、彷徨って、彷徨って――決まって憎悪に辿りつく。いつだって。


 その瞬間は、唐突に訪れた。
 きっかけも合図も音もなく、彼の心は崩れ去った。一時の衝撃には強い鋼鉄でも、長年の侵食には耐え切れないように。光と闇の合間で揺すぶられ続けた彼という存在は、ついに擦り切れて回路を失う。残ったのは、漠然とした感情。情動とも呼べる。
 それまでに抱えたあらゆる歪みが渾然一体となり、一つの願望を結ぶ。
 矛先は、自らを生み出した者。
 けれど、それがもうこの世界にないことを、異形は知っていた。
 けれど、似ているものならこの世界にあることも、異形は知っていた。
 刹那、彼に呼応するように『波』がやってくる。迎えにきたかのようなそれは、優しく空間を魔力で満たし、異形をも包み込んだ。
「あああ」
 体がしなり、跳ねる。普段であればその異変に職員が気付いたはずだったが、彼らは突如世界を覆うようにやってきた『波』に注意を奪われていた。魔術師でない者でも分かるほどの、強大な魔力。それは全身を粟立たせ、あるいは心の薄膜を剥ぎ取るような悪寒を与え、彼らは一様に顔を見合わせた。そして、その瞬間に異形に目を配らなかったのが、事を決した。

 めきめきと空気が膨張し、光の粒が飛び交う。職員の一人が振り向いたそのとき、鉄格子は砂細工のように弾け飛んで、職員たちは荒れ狂う鉄の破片を浴びることになった。

「――」
 誰かが何かを言っている。しかし既にそれは影の耳には届かない。一人、世界を逸脱した異形の影は、ゆらりと立ち上がって口元を醜悪に歪めた。
 行き先は決まっている。生きる理由を求めて彷徨った彼は、ついに迷いのない理由をもってして、闇から這いずり出したのだ。
 痛みは感じない。あるのは熱さ。衝動という熱量。
 最も憎んでいたものを、消してしまえ。存在を叩きつけろ。この痛みを理解させろ。
 異形の脳裏に僅かに残った記憶が垂れ流す、彼が手を下した者たち。どれも命乞いをして、醜く泣き叫んだ。己が味わった苦悩も知らず、絶望の味も知らずに。刻苦を味わうのは、いつだって闇の中に潜むものたちなのだ。光の中を行く者に、その苦しみは分からない。分からない。
 そう、この想いが誰に理解されてたまるものか。
 そして、それを叩きつけることに何の咎があるのだろう。
 あの者たちに下したように。
 罪人に、死を。


 その夜、警視院の一部は破壊され、厳重に勾留されていたはずのものが逃亡した。学園の方から都市外に向けて、空を白い光が走っていったという通報があったにも関わらず、職員が現場に急行できず、結果として紫の少年が持つ秘密が守られたのは、その為である。職員たちは、それどころではなかったのだ。
 だが、懸命な捜索にも関わらず、異形が生きたまま発見されることは二度となかった。


 ***


「君は真実から逃げることこそがユラス君の安寧だと言ったね?」
 まるで独り言のように呟くと、レンデバーは物憂げに目を伏せた。何日も陽光を浴びていないせいだろうか。その肌は以前よりも白く、体も一回り細くなったようだ。悪魔の巣窟に自ら身を寄せたセシリアは、そんな彼を直視するのも憚られて、横顔を向けたまま唇を開いた。
「ええ。だって、彼はとても脆い」
「人は誰でも脆い。セシリア、強い人間がいるのだと思っているのなら、それは幻想だよ。偶々、彼の急所が『真実』であっただけだ。別の面から見れば彼は途方もなく強い。たった二年であれだけ人の世界に順応したのだから」
 たった二年。その言葉に胸がざわついて、セシリアは顔をレンデバーに向けた。グレイヘイズを背後に侍らせたレンデバーは、ソファーにだらしなく背を預けて薄く笑っていた。
「セシリア。彼は二年前に全ての記憶を失ったという。しかし記憶とは何だろうね? 文字でもなく絵ですらない、人の頭に残るそれは夢と一体何が違うのだろう?」
 それは、セシリアの心の薄膜に爪を立てるような音色だ。セシリアは、無意識に指先に力を込めていた。記憶のみを新たな器に注ぎ込まれ続けたセシリアがセシリアである為には、その記憶に縋りつく他にない。そうでなければ、空っぽの彼女は何者でもなくなってしまう。
「そう、記憶とは決して確固たるものではなく、それで良いものなのだよ。記憶を失っていようが、大きな問題ではないんだ。僕たちとて、生まれてから全ての記憶を正しく語ることが出来ないように。過去なんて平気で書き換えてしまうのだからね、人間は。だから悪夢にうなされるように、誇張された過去に悩まされる。しかし、彼の苦しみは本当に――過去の記憶によるものだろうか」
 レンデバーは意見を求めるように、背後に視線を流した。窓の脇に立ち、腕組みをしながら油断なく外を監視するグレイヘイズは、ぴくりと太い眉を動かして肩を落とす。
「私にはさっぱり話が見えませんよ、レンデバー。どちらにしろ、彼が真実を思い出せば――」


「彼が本当に真実を知らなかったとしたら?」


 グレイヘイズとセシリアは、首筋を冷たい指でなぞられた思いで目を見開いた。
「ずっと考えてたんだ。どうして彼が自分の記憶に固執しないのか。真実から逃げ出す道を選び、新しく与えられた世界を受け入れることが出来たのか。もちろん、よほど酷い記憶だったら逃げ出すこともあるだろう。けれど人は己を何者か問わずにいられない生き物だ。なのに彼は『逃げ出せた』。――僕はね、彼が忘れたのは、記憶ではない気がするんだよ」
 色の違う両目は、一体何処を見ているのだろう。そして、胸にせりあがるこの予感は何だ。
 もう、すぐそこに真実があるのだとセシリアは感じた。しかし予想していたものとは形が違う。それは蓋を開いた瞬間、背後から鋭く首を捕みにかかる、たったひとつの隠れた真実だ。
「彼が失くしてしまったのは」
 レンデバーは、表情もなく悪夢を語る。人を人として見る目ではない。静まり返った泉を切り裂いて現れる冥府の王にも似た、凄惨な瞳だった。

「たぶん、ひとつの感情」

「レンデバー」
 不意にグレイヘイズが、低い声で囁いた。レンデバーはちらりとそちらに視線を流し、口角を吊り上げる。
「何人来た?」
「三名ほど。挨拶代わりのつもりでしょうか、多くはありません」
「やれやれ。見くびられたものだね」
 言いようのない不安を喚起させる会話に、セシリアが不思議そうに立ち上がる。するとレンデバーは、君だよ、と優しく言った。
「お迎えが来たんだ、セシリア。さあ、どうする? 現実によって体を暴かれる恐怖と、真実によって心を裂かれる恐怖。脆くも潔い君はどちらを選ぶ」
 その意味を瞬時に悟ったセシリアは、迷わずに顎を引いた。
「言うまでもないことです」
 満足げにレンデバーは笑って、音もなく立ち上がる。グレイヘイズは既に動いていた。
「失敬」
 それだけ告げて、屈強な片腕がセシリアを担ぎ上げる。セシリアは一瞬四肢を強張らせたが、文句は言わなかった。自分の逃げ足を考えれば、こうした方が良いに決まっている。代わりに、グレイヘイズの肩から問いかけた。
「どうするんですの」
「異形なるものは檻から逃げ出した。軍は本格的に動き始めた。多分、全ては全てを闇に葬りにかかるだろう」
 結界を解除する護符を破きながら言う。そんな行動にグレイヘイズが僅かに表情を曇らせたが、抱えられたセシリアの知るところではなかった。
「仕方ないな」
 そう呟くレンデバーを横目に、巨躯に見合わぬ素早さでグレイヘイズは隣の家屋まで繋がる隠し扉を開いた。つんと黴臭い臭いが鼻をついて、奇妙な感覚を胸に抱く。セシリアは、己が闇に絡め取られていくのを感じながら、彼の軽やかな声を聞いた。
 彼は微笑んでいた。それはまるでこの場に似つかわしくない、遠いものをみる瞳だった。

「時は来た、彼に会いに行こう。彼に崩壊を。絶望とは、時に生きる標となるのだから」




Back